4月11日(土) 金子ゼミと塩田ゼミの合宿での思い出 [日常]
都立大学時代のことを書きましたら、色々なことを思いだし、懐かしさがこみ上げてきました。何といっても、私の青春真っ盛りの時代だったのですから……。
ということで、昨日に続いて、都立大学時代の思い出について書かせていただきます。亡くなられた塩田先生への供養にもなると思いますので……。
まず、金子ゼミの思い出です。夏休みの合宿のことは忘れられません。といっても、勉強したことではなく、その合間に尾瀬沼に行ったことです。
新潟の田舎で育ち、東京に出てきてからも学生運動に明け暮れて旅行などには関心がなかった私は、有名な湿原である「尾瀬」について何も知りませんでした。「尾瀬沼」というからには、その辺にある小さな沼地だと思っていたのです。
しかも、留年して5年目の4年生になり、先輩風を吹かせていた私は、後輩に聞くこともできません。「一緒に行きますか」と聞かれ、何食わぬ顔をして、「おお、行こうじゃないか」と答えたのです。
後輩が、わざわざ私に聞いたのには理由があったということが、その後分かりました。私は、合宿に下駄を履いていったからです。
そのまま尾瀬沼まで行けるのかと、後輩は私のことを気遣ってくれたんだろうと思います。その辺の沼だと思っていた私は、気楽に行くと答えました。それが山道を歩いて峠を越えなければ行けない難路の先にある場所だとも知らずに……。
しかも、ルートは比較的歩きやすい鳩待峠からではなく、大清水から三平峠を通るものでした。山道に入る登り口に着いたとき、私はようやく事の重大さに気がついたのです。
入り口の看板には、「装備は良いか」と書かれていました。「装備」も何も、手ぶらに下駄履きですから……。
途中、行き交う人々が皆、チラチラと私の足もとに視線を落としているような気がしました。大きな石も転がっている山道ですから、下駄履きでは歩きづらいことこの上なし、です。
やっとの思いで尾瀬沼が遠くに見え始めた頃、なにやらポツポツと当たるものがあります。何と、雨が降り出してきたのです。
慌てて、沼のほとりにあった売店に駆け込んで、ビニールの雨合羽を買い込みました。幸い、雨は本降りにならず、しばらくして上がったように記憶しています。
しかし、皆さんもご存知のように、尾瀬沼の周辺は木道の上しか歩けません。濡れた木道の上を下駄で歩き始めた私は、すぐに滑って転んでしまいました。
とても、歩けたものではありません。私は一人、沼のほとりで友人たちの帰りを待つほかありませんでした。
大変だったのは、帰り道の方だったかもしれません。来た道を引き返しましたが、雨で濡れた山道は滑って歩きづらく、一緒に行ったゼミの仲間に大変な迷惑をかけてしまいました。
今から考えれば、「無謀」というほかありません。無事、帰り着いたのが、不思議なくらいです。
この「尾瀬沼」行きに、金子先生がご一緒されたかどうか、まったく記憶がありません。ゼミ生だけで行った可能性もあります。苦労しただけに、行き帰りの記憶は今も鮮明に残っています。
ちなみに、3年生の時の塩田ゼミでの合宿も思い出深いものでした。ゼミ生が数人しかいなかったため、穂高にある塩田先生の別荘で合宿したからです。
先生は、別荘を購入したばかりだったようで、入り口に大きな木の切り株がありました。出入りに邪魔になるため、合宿中にこれを掘り起こそうということになったのです。
しかし、意外に切り株はしぶとく、大変な手間がかかって勉強どころではなくなってしまいました。昼は穴掘り、夜は夜で先生と酒を酌み交わしてお話を伺うということで、まことに楽しい合宿でした。
昼食の時、先生に車に乗せていただいて、近くのそば屋にも行きました。そう言えば、八方尾根にも連れて行っていただきました。
ロープウェイとリフトを乗り継いで山の中腹まで行き、そこから眺めた白馬三山の雄大な景色は忘れられません。このとき、たまたまお嬢さんの洋子さんもご一緒だったと記憶しています。
その洋子さんとは、今回の件で先日、先生のご自宅でお目にかかりました。このときから、38年ぶりの再会です。
この夏休みが終わり、後期の授業が始まる直前、すでに書いたように、私は右目を失明することになります。それだけに、あの時の穂高での楽しかった合宿と美しい安曇野の風景は、私にとっては終生、忘れ得ぬ思い出になりました。
ということで、昨日に続いて、都立大学時代の思い出について書かせていただきます。亡くなられた塩田先生への供養にもなると思いますので……。
まず、金子ゼミの思い出です。夏休みの合宿のことは忘れられません。といっても、勉強したことではなく、その合間に尾瀬沼に行ったことです。
新潟の田舎で育ち、東京に出てきてからも学生運動に明け暮れて旅行などには関心がなかった私は、有名な湿原である「尾瀬」について何も知りませんでした。「尾瀬沼」というからには、その辺にある小さな沼地だと思っていたのです。
しかも、留年して5年目の4年生になり、先輩風を吹かせていた私は、後輩に聞くこともできません。「一緒に行きますか」と聞かれ、何食わぬ顔をして、「おお、行こうじゃないか」と答えたのです。
後輩が、わざわざ私に聞いたのには理由があったということが、その後分かりました。私は、合宿に下駄を履いていったからです。
そのまま尾瀬沼まで行けるのかと、後輩は私のことを気遣ってくれたんだろうと思います。その辺の沼だと思っていた私は、気楽に行くと答えました。それが山道を歩いて峠を越えなければ行けない難路の先にある場所だとも知らずに……。
しかも、ルートは比較的歩きやすい鳩待峠からではなく、大清水から三平峠を通るものでした。山道に入る登り口に着いたとき、私はようやく事の重大さに気がついたのです。
入り口の看板には、「装備は良いか」と書かれていました。「装備」も何も、手ぶらに下駄履きですから……。
途中、行き交う人々が皆、チラチラと私の足もとに視線を落としているような気がしました。大きな石も転がっている山道ですから、下駄履きでは歩きづらいことこの上なし、です。
やっとの思いで尾瀬沼が遠くに見え始めた頃、なにやらポツポツと当たるものがあります。何と、雨が降り出してきたのです。
慌てて、沼のほとりにあった売店に駆け込んで、ビニールの雨合羽を買い込みました。幸い、雨は本降りにならず、しばらくして上がったように記憶しています。
しかし、皆さんもご存知のように、尾瀬沼の周辺は木道の上しか歩けません。濡れた木道の上を下駄で歩き始めた私は、すぐに滑って転んでしまいました。
とても、歩けたものではありません。私は一人、沼のほとりで友人たちの帰りを待つほかありませんでした。
大変だったのは、帰り道の方だったかもしれません。来た道を引き返しましたが、雨で濡れた山道は滑って歩きづらく、一緒に行ったゼミの仲間に大変な迷惑をかけてしまいました。
今から考えれば、「無謀」というほかありません。無事、帰り着いたのが、不思議なくらいです。
この「尾瀬沼」行きに、金子先生がご一緒されたかどうか、まったく記憶がありません。ゼミ生だけで行った可能性もあります。苦労しただけに、行き帰りの記憶は今も鮮明に残っています。
ちなみに、3年生の時の塩田ゼミでの合宿も思い出深いものでした。ゼミ生が数人しかいなかったため、穂高にある塩田先生の別荘で合宿したからです。
先生は、別荘を購入したばかりだったようで、入り口に大きな木の切り株がありました。出入りに邪魔になるため、合宿中にこれを掘り起こそうということになったのです。
しかし、意外に切り株はしぶとく、大変な手間がかかって勉強どころではなくなってしまいました。昼は穴掘り、夜は夜で先生と酒を酌み交わしてお話を伺うということで、まことに楽しい合宿でした。
昼食の時、先生に車に乗せていただいて、近くのそば屋にも行きました。そう言えば、八方尾根にも連れて行っていただきました。
ロープウェイとリフトを乗り継いで山の中腹まで行き、そこから眺めた白馬三山の雄大な景色は忘れられません。このとき、たまたまお嬢さんの洋子さんもご一緒だったと記憶しています。
その洋子さんとは、今回の件で先日、先生のご自宅でお目にかかりました。このときから、38年ぶりの再会です。
この夏休みが終わり、後期の授業が始まる直前、すでに書いたように、私は右目を失明することになります。それだけに、あの時の穂高での楽しかった合宿と美しい安曇野の風景は、私にとっては終生、忘れ得ぬ思い出になりました。
2009-04-11 15:56
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