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8月31日(水) 山古志・長岡・魚沼の旅-その1 [旅]

 8月27日(土)から29日(月)の3日間、新潟県の山古志・長岡・魚沼をめぐってきました。今回もまた、「木り香」のご主人で旧友の村上雲雄君に私の面倒を見ていただいたというわけです。

 今回の旅の主たる目的は、長岡市で開かれる原発問題を考えるシンポジウムでの講演でした。これは6月に開かれた新潟でのシンポジウムの続編として企画されたものです。
 この企画自体、村上君の尽力によるものでしたが、この機会に旧山古志村に案内するから、中越地震からの復興の様子を見たらどうかと提案されました。私に異存あろうはずがありません。
 山古志は棚田でも有名で、日本の原風景と言われている景色の美しいところです。喜び勇んで、前日からの新潟入りとなりました。

 ところが、出発直後、早くもヒヤッとする体験をしました。路線情報で調べたら、都合の良いことに八王子から大宮直通の「むさしの号」が出るようです。
 西八王子から電車に乗り、八王子で乗り換えます。でも、出発するホームが分かりません。
 下りたホームで、阪神勝利のニュースを伝えるスポーツ新聞『デイリー』を読んでいて、ヒョッと顔を上げたら、「大宮行き」という表示が目に入りました。線路の向かい側のホームに止まっている電車ではありませんか。

 あわてて腕時計を見たら発車2分前です。大急ぎで階段を駆け上がり、駆け下りて電車に飛び込みました。
 もう少しで、危うく乗り遅れるところでした。これに乗れなかったら、大宮での新幹線に間に合いません。
 村上君とは長岡駅で待ち合わせていました。もう少しで、全ての予定が大きく狂うところです。危ない危ない。

 昼食は、山古志の田舎料理の「多菜田」というお店に案内されました。中越地震の復興資金で開店した食堂で、近所のおばさん達がやっているそうです。
 隣の直売所ではピーマンに似た地場野菜の「かぐらなんばん」も売られていました。民宿での夕食にも出ましたが、後からピリッと来ました。
 土曜日の午後でしたのでかなり込んでいて、注文したのは早くできるという定食の煮物のコースと天ぷらです。大きな麩やゼンマイの煮物などにはざかけの地元産コシヒカリのご飯を美味しくいただきました。

 この後、今は長岡市役所山古志支所となっている旧山古志村役場に行き、中越地震と復興への道のりを記録したDVDを鑑賞させていただきました。「山古志に帰ろう」という言葉が強く印象に残ったものです。
 東日本大震災の被害を受け、故郷を離れて仮設住宅での避難生活を余儀なくされている東北の人々も、「故郷に帰ろう」という強い思いを抱いて、復旧・復興に取り組まれていることでしょう。でも、放射能の被害に遭われた人々は、どうなるのでしょうか。
 汚染が除去されれば、帰ることもできるでしょう。しかし、原発から近い汚染度の高い地域では地震からの復興もままならず、ふる里に帰りたくても帰れないのではないでしょうか。

 山古志では錦鯉も有名です。かつては冬の間、農閑期の副業だったようですが、今では夏も鯉を飼っているようです。
 稲が植えられず、水が張られている棚田を、所々で目にしました。一軒の養鯉場で錦鯉を見せていただきましたが、白地に赤や黒、金色のような模様が浮き上がって美事なものです。
 今では、日本国内はもとより、外国からの引き合いも多いといいます。ドイツなどヨーロッパからの注文が多く、最近では中国も増えていると仰っていました。

 棚田の絶景がよく見える場所にも案内されました。ここから見える景色が気に入って移住し、個人の写真館を開いたというお宅があります。
 残念ながら、住人が不在で入れず、展示されているという棚田の写真も見ることができませんでした。しかし、ここからの景色は流石に素晴らしいものです。
 吹き渡って来る風も爽やかで、秋の終わりを告げているようです。切り株のベンチに腰を下ろそうとしたら、15センチくらいのトカゲが日向ぼっこをしていました。

 この後、金倉山山頂に行きましたが、展望台からの眺めも素晴らしいものでした。360度の展望が開け、西に魚沼の平野が見えます。
 黄色に色づき始めた平野の中心を、大きく蛇行しながら信濃川が悠然と流れています。澄み渡っていれば、遠く、八海山や妙高、米山、日本海に佐渡まで見えるそうですが、残念ながら霞がかかっていました。
 それでも弥彦や角田山、東側の山古志の山々は良く見え、そのわずかな窪みに集落が点在し、山の上の方まで開墾されています。恐らく何百年にもわたったにちがいありません。

 牛の角付きで知られている山古志闘牛場を覗いた後、地震の被害が大きかった木篭(こごも)地区に案内されました。土砂崩れで芋川がせき止められて集落が完全に水没したそうです。
 他の場所では地震被害の跡は目に付きませんでしたが、ここでは何軒かの家が土砂に埋もれたまま傾いています。その脇には新しい橋が架けられ、傍らには碑が建てられていました。
 東竹沢のせき止め湖も、この近くにあります。地震の被害は今もなお、このような形で痕跡をとどめているのです。

 そこから東に行ったところにあるのが、住民の手堀りによって開通した中山隧道です。全長は875mで、手掘りの道路トンネルとしては日本最長です。
 1933年から49年にかけて小松倉集落の住民によって掘られたもので、横には新しいトンネルが通っていました。この隧道堀りの記録は、ドキュメンタリー映画『掘るまいか-手掘り中山隧道の記録』になっています。
 トンネルの中に入るとヒンヤリとしました。壁には、ツルハシの跡のようなものがそのまま残っています。

 山古志から山をひとつ隔てたところにある小千谷市塩谷地区にも行きました。中越地震で、3人の子供が亡くなった所です。
 この子ども達の死を悼んで慰霊碑が立てられていました。聖観音菩薩像が1人の子どもを抱き、その足下には2人の子どもの像があります。
 近くには、災害救助と復興ボランテイアの拠点になったという家も残されていました。今では、集落の集会所などとして利用されているそうです。

 ということで、盛りだくさんの日程をこなして、ようやく今宵の宿である民宿「たなか」に到着しました。とにかく、村上君はこの辺の状況について詳しく、くまなく案内してくれたものですから宿に到着した時には薄暗くなっていました。
 この民宿も地震被害で半壊し、新たに立て直したものだそうです。避難所から帰ってきて家に入ったとき、屋根が壊れて雨漏りがしたためか畳に大きなキノコが生えていて、それを目にしたときの気持ちは今も忘れられないと、女将さんは話していました。
 夕食でお酒を頼んだら、何と「雪中梅」が出てきました。ふる里に近い三和村のお酒で私が愛飲しているものですが、サービスしてもらいましたので余計に美味しく感じたものです。

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