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9月26日(月) 戦後民主教育を破壊してしまったために生じた国家の困難 [教育]

 最近、つくづく思うんです。日本という国は、どうしてこんなに酷くなっちゃったんだと……。
 なかでも、一番酷いのが政治と政治家。でも、それを選んでいるのは、われわれ有権者なのですから……。

 小泉首相以後、安倍、福田、麻生と自民党の首相3人が1年ずつ続きました。その後、政権が交代して、鳩山、菅と、また1年ずつの首相が続いてきました。
 何とか長続きして欲しいものだという期待の下に出発した野田新首相ですが、どうもいけません。来年の秋まで持つかどうか。
 野田さん自身は「安全運転」を心がけ、なるべくしっぽを捕まれないようにしているようです。でも、最も政治のリーダーシップが求められている「危機の時代」に、そのようなことでトップリーダーとしての責任が果たせるのでしょうか。

 問題は首相だけではありません。大臣や議員にも「こんな人が」と言いたくなるような人が沢山います。
 「法務大臣は二つの言葉だけ覚えていれば良い」と言って辞任に追い込まれた柳田法相、上から目線での傲慢な発言で辞任させられた松本復興相、「死のまち」発言と「放射能つけじゃうぞ」というおふざけで辞任に追い込まれた鉢呂経産相などが相次ぎました。その他にも、「これが大臣か」と思われるような人も見受けられます。
 このような政治家がどうして生まれたのでしょうか。どうして、このような政治家が選ばれるようになってしまったのでしょうか。

 これについては様々な背景があるでしょう。小選挙区制の罪については、すでに書きました。
 もう一つ、大きな背景として指摘したいのが、教育とマスコミの罪です。これこそが、政治家と有権者の劣化を進めてきた責任を追うべき二つの領域であるように思われます。
 長期的に言えば、自民党と文部省(文科省)が一貫して進めてきた「教育改革」が戦後民主教育を破壊し、かつて狙われた「期待される人間像」を現実のものとしてきました。短期的に言えば、マスコミのセンセーショナリズムと右傾化が、これを抑制する力を奪い、国民の愚民化に輪をかけてきたのではないでしょうか。

 芸人を鍛えるのが観客の目であるように、政治家を鍛えるのは有権者の眼です。観客の芸を見る目が衰えれば芸人は育たず、有権者の政治を見る目が充分でなければ政治は劣化します。
 このような政治を見る目を鍛え育てるのは、教育とマスコミの役割にほかなりません。しかし、日本の教育とマスコミは、逆の機能を果たしてきたのではないでしょうか。
 その結果、東京では石原慎太郎都知事、大阪では橋下徹府知事、名古屋では河村たかし市長が、行政のトップに選ばれています。有権者の政治家を見る目がどのようなものであったかは、これらの事実に示されています。

 マスコミでも、日本で最も読まれている新聞は、改憲論を主張している『読売新聞』です。極端な右よりの主張で知られている『産経新聞』も、経営が成り立つほどの読者を得ています。
 中立と見られている『日経新聞』も、9月19日の6万人が集まった脱原発集会をほとんどまともに報じませんでした。国民の受信料で成り立っているNHKも同様です。
 6万人もの人が、焦眉の問題である原発について自らの主張を掲げて行動に立ち上がった事実を、きちんと報道する姿勢を持てなくなっているということです。これで、どうして民主主義を励まし、政治を活性化することができるでしょうか。

 週刊誌には、もっと酷い例もあります。日本の世論を右寄りに引っ張ってきた『週刊新潮』と『週刊文春』の役割は犯罪的であると言うべきでしょう。
 たとえば、『週刊新潮』9月1日号では、「露出度が4倍になって山本太郎 反原発は儲かるか!」という記事が掲載されています。実際には、ドラマなどから干されたため、情報番組への出番が増えても収入は十分の一に減ったそうです。
 でも、問題は収入が増えたか減ったかではありません。このレベルでしか反原発問題をとらえられない記者の低水準、このような意地悪な記事を書こうという発想の愚劣さ、人格の低劣さ、そしてそれを記事として報道してしまう雑誌の下劣さ、全てがマスコミの劣化を象徴しています。

 かつて、自民党と文部省の教育政策は日教組攻撃を主眼とするものでした。その結果、教職員組合への加入率はどんどん低下し、1960年前には8割を超えていた日教組の組織率は27.1%となってしまいました。
 日教組から分かれた全教も組織率は6%で、これらを含めた教職員団体全体の加入率は42.3%です(いずれも、2009年10月1日現在の数字)。つまり、先生の半分以上は労働組合などの教職員団体に入っていません。
 これでどうして、労働組合の意義や役割を子供たちに教えることができるのでしょうか。自分自身が、そのような団体に入っていないのに……。

 そればかりではありません。教育の現場では、先生への管理強化を狙って校長などの権限を強め、上意下達の体制を採り入れてきました。
 その結果、職員会議は形骸化し、民主的な討論の場ではなくなりました。必要事項を伝達する場にすぎないというのです。
 これでどうして、民主主義や討論の重要性を子供たちに教えることができるのでしょうか。自分自身が、そのような場を保障されていないのに……。

 政治は教育に介入して意のままにしようとし、文科省は教科書検定を通じて教育内容を歪め、ついには、「日本は悪くない」とする歴史教科書も現れ、その採択率が高まっています。「日の丸・君が代」を強制しないという約束は反故にされ、どのような教育がなされているかよりも、「君が代」斉唱で起立しているかどうかの方が、より大きな問題とされるようになりました。
 「君が代」を歌っているときに起立しなかったという理由で処分され、再雇用を拒まれた先生も出てきました。独自の性教育を行っていることを目の敵とする都議まで現れ、裁判で争われました。
 大阪では、君が代起立斉唱を想定した職務命令違反の教員の分限免職や首長が設定した目標を実現する責務を果たさない教育委員を罷免できるなどの「教育基本条例案」が提案されています。とうとう、こんな馬鹿げた憲法違反の条例案が、堂々と議会に提案されるような時代になったということです。

 このようななかで、先生は萎縮し、苦悩し、精神を病み、やる気を失い、情熱を持って子供たちに接することが難しくなってきました。今日の『朝日新聞』に、教員の感じる働きがいはベテランになるほど落ちているという調査結果が報じられています。
 それによれば、男性だと、年齢が高いほど「職場の仲間がいるから楽しい」「児童・生徒たちから必要とされている」の設問に「そう思う」と答える率が低下し、職場や教室で関係が結びにくくなっている傾向がうかがえたそうです。
 先生の危機は、教育の危機を意味します。「失われた20年」とともに、日本の教育も失われつつあります。

 このように、日本の教育は政治や行政の誤った介入によって、破壊され続けてきました。戦後民主教育を目の敵にし、「期待される人間像」を具体化するために精を出してきた自民党や文部省(文科省)による「教育改革」の「成果」が、このような形で結実しつつあると言うべきかもしれません。
 その結果、日本の教育は大きく歪んでしまいました。時代の要請に反する人間類型が続々と生み出されてきています。
 政治と政治家の劣化をもたらしている背景の一つがここにあります。それは、このような政治家を選ぶ有権者が増えている要因の一つでもあるでしょう。

 こうして、自主性を持たず自分の頭で考えない、たとえ理不尽な支持や要求でも従う、使いやすい「指示待ち」人間が増えてきました。ビジネス社会では、創造力豊かな「問題解決型」のビジネスマンが求められているというのに……。
 また、自分の意見や主体性を持たず、政治への関わりを避けようとする消極的な人間が増えてきました。現代社会では、政治への発言力を持った民主的な人格が求められているというのに……。
 さらに、日本の戦争責任や植民地支配の過ちを認めず、周辺諸国を貶み、民族的な差別に鈍感な「愛国者」が増えてきました。国際社会では、アジアの周辺諸国との友好を前提に、マイノリティに共感して民族の共生を尊重する地球市民こそが求められているというのに……。

 教育は国家の基礎であるといわれます。その教育が、このような形で破壊され、「期待されざる人間像」が排出されるようになってきたところに、日本がこのような酷いことになってしまった根本的な原因があるのではないかと、しみじみ考えてしまう今日このごろです。


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