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3月11日(日) あの日から1年 [災害]

 あの日から1年になります。日本中が大きな衝撃と哀しみに沈んだあのときから……。
 2万人近い人々が犠牲になりました。今でも、多くの人が避難を余儀なくされ、将来の見通しを持てないでいます。

 東日本大地震が発生したとき、私は研究所におりました。例年通り、『日本労働年鑑』の編集作業に従事するため、編集室のパソコンの前に座っていました。
 カミさんは自宅の居間で、テレビの前にいたそうです。春休み中だった娘も、たまたま在宅していました。
 そのときです。大きなゆっくりとした揺れが、研究所にも八王子の自宅にも伝わってきたのは……。

 急いで自宅に電話したら、一瞬だけ繋がり、皆の無事が確認できました。幸い、私どもにはほとんど被害はありませんでした。
 しかし、急いでスイッチを入れたテレビに映し出された光景には息を呑みました。大きな舌のようになった、どす黒い水の固まりが仙台平野を呑み込んでいく姿が映し出され、押しつぶされたビニールハウスや家、自動車などが流されていく様子が見えたからです。
 電車が止まり、都心は大混乱していましたが、研究所周辺のバスは通常に走っていたため、私は普段よりも早く家に帰り着いたほどです。この時、あれほど大きな悲劇が日本を襲っていたとは、私は全く気がつきませんでした。

 これが、昨年の東日本大震災が発生したときの私でした。ほとんど被害らしい被害はありませんでしたが、それでも一年後のこの日を普通に自宅で過ごすわけにはいかないと考え、我が家から一番近い井の頭公園での集会に出ることにしました。
 大勢の皆さんと一緒に大震災の犠牲者を弔い、原発事故に苦しむ人々の心に寄り添いながら脱原発に向けての意思を表明したいと思ったからです。このような思いを持った人々8000人が集会に集まりました。
 ただ、午後2時46分の黙祷が、演説の途中になってしまったのは残念でした。時間は始めから分かっていたのですから、もっと集会の運営をきちんとやって、黙祷が中途半端にならないように配慮するべきだったでしょう。

 久しぶりに、デモ(パレード)にも加わりました。「法政大学同窓生9条の会」というオレンジ色の旗が目に入りましたので、そちらに向かったら、旧知の加藤さん達がおられました。
 その後ろに加えてもらい、吉祥寺まで歩きました。これはほんのささやかな意思表示にすぎませんが、それでも私なりの追悼と抗議の一日でした。

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