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3月27日(火) 我が「戦友」、西宮常雅君のご冥福を祈る [日常]

 西宮常雅君、というよりは「バカボン」と呼んだ方がしっくりきます。学生時代の呼び方です。
 25日(日)の朝、彼は亡くなりました。私より10日ほど早く生まれていますから、享年は61歳になると思います。
 彼は、私にとってかけがえのない、頼りになる「戦友」でした。その彼が、こんなに早くこの世を去ってしまうなんて、今も信じられない気持ちでいっぱいです。

 1969年、東大の入試が中止となった年の4月、私たちは一緒に、東京都立大学に入学しました。彼は法学部で、私は経済学部です。
 入学式は、暴力学生が壇上を占拠するなど大荒れになり、その後、約2年に渡って、集会への襲撃や封鎖など、都立大学には暴力が荒れ狂い、授業もまともに受けられないような状況でした。
 そのような中で、私は彼に出逢いました。その当初から、彼は暴力に反対する戦闘的な民主主義者でした。教室の片隅で、投石を防ぐためのタテを一生懸命に作っていた彼の姿が思い出されます。

 体が大きく頑健で、バイタリティがあって行動力抜群、人なつこくて童顔だった彼は誰からも好かれ、当時、人気のあった赤塚ふじおの漫画に出てくる「バカボン」に似ているということで、そのあだ名を付けられました。
 最初にそう呼んだのは、私だったかもしれません。私も、いつしか「オニ」というあだ名を付けられましたが、その名付け親は間違いなく彼でした。
 当時の私は自治会の副委員長で、指導が厳しかったからです。私の点検に音を上げて、「お前はオニだ。オニの五十嵐だ」とふざけて叫んだ彼の声が、今も私の耳に残っています。

 その後、都立大学の封鎖や解除があり、暴力事件なども起きました。私は自治会の委員長になり、彼は都学連の役員となって、私を支えてくれました。私が暴力学生によって竹竿で右目を突かれて失明したときは、誰よりも激しく憤り、私を励ましてくれたものです。
 演説がうまく、ガリ切りやカットも上手で、リーダシップがある彼は、学生運動の中でも頼りにされ、全学連の副委員長まで務めました。その後、生まれ故郷の世田谷に帰り、区職労の書記長になって労働運動でも大きな役割を演じたと聞いています。
 ある時、自治労連都職労の講演会に呼ばれて伊豆に行ったとき、そこでバッタリ彼に会いました。お互いに道は違っても、政治と社会を変えようという運動の中での邂逅を喜びあったものです。

 いずれ、都職労の幹部として、首都東京の労働運動で活躍するものと思っていました。その彼が、ガンで病床に横たわっていたなんて。昨年の暮れ、その知らせを聞いて急遽お見舞いに駆けつけた時が、最後の機会となりました。
 「元気になって、また一緒にラーメン二郎のラーメンを食べに行きたいね」と言っていたのに、その機会もないまま、彼はあの世へと旅立ってしまいました。せめては、彼の志を我がものとし、その事業を受け継ぐこと、彼に笑われぬような生き方を貫くことを誓いながら、お別れを言いたいと思います。

 さようなら、バカボン。その肉体は潰えても、君は永遠に私たちの心の中に生き続けているよ。

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