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9月5日(木) 「平成の政商」宮内義彦と牛尾治朗の暗躍 [論攷]

 昨日のブログで、『日本経済新聞』の「私の履歴書」に書かれている規制改革に関わった宮内義彦さんの述懐を紹介しました。その宮内さんについて、私は拙著『労働再規制-反転の構図を読みとく』(ちくま新書、2008年)で取り上げたことがあります。
 以下、そこでの記述を紹介しておきましょう。牛尾さんと安倍さんや竹中さんとの関わりについても、注目していただきたいと思います(75~80頁)。

2 「平成の政商」宮内義彦と牛尾治朗の暗躍

■ 改革利権
 それでは、「つまみ食いしたのは誰か」ということが、次に問題になります。それは誰だったのでしょうか。すぐに名前が挙がってくるのが、「平成の政商」と言われる宮内義彦さんと牛尾治朗さんの二人です。
 宮内さんはオリックス株式会社取締役兼代表執行役会長・グループCEOで、プロ野球オリックス・バッファローズのオーナーでもあります。政界と強力なコネクションを持ち、規制改革論者としても知られています。

 宮内は公人と私人(企業人)の立場を実に巧みに使い分ける。公人としては参入障壁が高い分野の扉をこじ開け、企業人としては先頭に立ってその分野に新規参入する。政治家や政府高官との結びつきを利用して経済活動上の利権を得たり、政策を事故に有利な方向に誘導したりする起業家を政商と言う。
 宮内は平成の政商にほかならない。(有森隆+グループK『「小泉規制改革」を利権にした男 宮内義彦』二〇頁)

 このように「平成の政商」とされる宮内さんは、「上からの改革を主導してビジネスチャンスをつくり出し、経済活動の利権を得た」(同前、三一頁)とされています。これを「改革利権」と言います。
 ノンフィクション作家の森功さんは、リート(不動産投資信託)への「オリックス不動産投資法人」の上場や不動産事業への参入、「オリックス債権回収」設立によるサービサー(債権回収)事業への参入、高知県での病院経営や兵庫県での住宅型有料老人ホームの開設、株式会社による美容整形クリニック、医療ベンチャー企業「バイオマスター」への出資、車両リースによるタクシー業界への参入などの例を挙げながら、次のように指摘しています。

 かつて単なるリースを生業とするノンバンクに過ぎなかったオリックスは、規制緩和に合わせて業務を拡大させ続けてきた。いまやオリックスグループの基幹事業に発展している不動産事業の成長は、とどまるところを知らない。債権の買い取り総額が四兆三〇〇〇億円に達したサービサー事業では、前年比五〇〇〇万円増という驚異的な伸びを示している。(森功『サラリーマン政商』二三六頁)

 その結果、宮内さんがどれほどの「改革利権」を手に入れたかは定かではありませんが、少なくとも政府関係の審議会の委員や責任者を歴任してきたのは事実です。それは遠く、一九九一年の海部俊樹内閣にまでさかのぼります。このとき、第三次行政改革推進審議会の「豊かなくらし部会」の委員に就任したからです。
 一九九四年には細川護煕内閣の下で規制緩和小委員会の委員になっています。その後、村山富市内閣で規制緩和検討委員会の委員、行政改革委員会規制緩和小委員会の参与になりました。
 一九九六年には規制緩和小委員会の座長となり、以後、規制緩和委員会委員長、規制改革委員会委員長、総合規制改革会議議長、規制改革・民間開放推進会議議長を歴任します。つまり、宮内さんは、一九九六年から二〇〇六年までの一〇年間、規制緩和を進める政府関係審議会のトップであり続けたということになります。政府の施策に、宮内さんの主張が色濃く反映されるのも当然でしょう。

■ 「裏諮問会議」のキーマン
「平成の政商」と言われるもう一人の人物は、ウシオ電機株式会社代表取締役会長である牛尾治朗さんです。牛尾さんも日本青年会議所会頭、経済同友会代表幹事を務め、土光敏夫率いる第二次臨時行政調査会では部会長として会長を補佐するなど、企業の一経営者の枠を超えて幅広く活動してきました。
 また、牛尾さんは、小泉内閣の発足から小泉首相の退陣まで、経済財政諮問会議の四人の民間議員の一人として構造改革を推進しています。つまり、総合規制改革会議と経済財政諮問会議という構造改革を進める「二つのエンジン」のうち、前者では宮内さんがトップの座を占め、後者には牛尾さんが陣取っていたというわけです。財界人では、この二人が構造改革を進める車の両輪の役割を果たしていました。
 そのうえ、牛尾さんは竹中平蔵さんの後ろ盾でもありました。「小泉構造改革の始まりは、二〇〇〇年からの『裏官邸』だった」そうですが、この「裏官邸」というのは「政策を提言する経済人と学者のタスクフォース」のことで、「牛尾が竹中に声をかけ、前年九月から毎週末、官邸近くのホテルに集ま」り、「政府側からは官房長官の中川秀直を中心に、月一回は森も出席した」といいます(「変転経済 証言でたどる同時代史 48」『朝日新聞』二〇〇八年五月三〇日付)。つまり、小泉さんが政権に付く一年も前から、竹中さんは牛尾さんの手引きで「裏官邸」に参加していたのです。
 それだけではありません。牛尾さんは竹中さんが経済財政担当相から総務相に変わってからも支援し、安倍内閣の発足にあたっては竹中総務相の続投に向けて動いています。
 また、政府税調の石弘光会長の「交代を安倍官邸に進言し、水面下で根回しに動いたのはここでも牛尾治朗だった」(清水真人、前掲書、三六九頁)そうです。本間正明政府税調会長が女性スキャンダルで辞任するに当たって相談し、辞表を預けたのも牛尾さんでした。

 安倍が官房長官としてポスト小泉に照準を合わせた一年、牛尾は成長重視の路線で共闘する竹中や中川と安倍をつなぎ、四人で集まる「裏諮問会議」で腹合わせを進めてきた。隠然たる影響力を保持し、新政権の船出にも舞台裏で重要な役割を果たそうとしていた。畏怖と揶揄をない交ぜにして「平成の後白川法王」などと呼ぶ官僚もいた。(清水真人、前掲書、三五一頁)

 牛尾さんの長女の幸子さんは安倍さんの実兄である安倍寛信さんに嫁いでおり、姻戚関係にあります。「平成の後白川法王」などと呼ばれたのは、このような関係もあって安倍さんに大きな影響力を持っていたからでした。
 安倍内閣では大田弘子さんが経済財政担当相に起用されますが、「安倍に大田を強力に推薦し、躊躇する大田を『新しい民間議員のリード役を務めて欲しい』とひざ詰めで口説き落とした」のも、実は牛尾さんだったといいます(清水真人、前掲書、三五八頁)。

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