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11月4日(月) 冨塚三夫元国労書記長・総評事務局長からお話をうかがった [日常]

 法政大学市ヶ谷キャンパスは、大学祭の出店と大勢の人で混雑していました。昨日、その一角の80年館で、元国労書記長・総評事務局長の冨塚三夫さんからお話をうかがいました。
 「83歳になって耳が遠くなってしまった」と仰っていましたが、お元気そうでした。精力的な話しぶりと記憶力の良さが印象に残っています。

 これは私が代表になっている大原社会問題研究所の研究プロジェクト「社会党・総評史研究会」による聞き取りです。このプロジェクトは、戦後の社会党と総評の活動の実態を記録し、その成果と問題点を明らかにして教訓を探るという目的で2年前から始められました。
 これまで、加藤宣幸、船橋成幸、初岡昌一郎、曽我祐次、伊藤茂、園田原三、前田哲男さんから、お話をうかがってきました。ここでの聞き取りと質疑の内容は『大原社会問題研究所雑誌』に掲載される予定で、すでに加藤さんと船橋さんの証言は公開されています。
 今回は、冨塚さんにご足労を願いました。今後も、このような形で、社会党や総評の関係者からの聞き取りを実施していくつもりです。

 さて、今回のゲストである冨塚さんは、国労の書記長として1975年の8日間にわたる「スト権スト」を指導され、その後は総評事務局長として槙枝議長と「官官コンビ」を組んで国民春闘を展開され、社会党の衆議院議員としての経歴もお持ちの著名人です。
 そのお話は、生い立ち、社会党と総評との関わり、スト権ストの背景、総評での活動、ポーランド民主化闘争の支援、労働戦線統一問題などにわたり、大変、興味深いものでした。
 詳しくは、いずれ公開される『大原社会問題研究所雑誌』に譲るとして、私の印象に残った3点についてだけ、ここでご紹介させていただきましょう。

 その一つは、社会党衰退の要因についてです。冨塚さんは、ご自身の議員としての経験も踏まえて、地域での活動拠点の重要性を強調されました。
 きちんとした政治活動の拠点がないから、その時々の「風」に左右されると仰るのです。これは、今の民主党も同様で、今回の参院選での敗北はそのためではないか、と。
 社会党独自の組織的基盤や集金力がなかったために、それを総評に依存せざるを得ず、その総評が連合に加わって消滅したために社会党は衰退したという捉え方です。拙著『政党政治と労働組合運動』(御茶の水書房、1998年)で私が主張した「組織・活動説」(社会党衰退の要因を「政党としての組織や活動のあり方の問題」として捉える)を裏付けるような証言で、これについては私も同意見です。

 第2は、国鉄分割・民営化の問題です。このところ、JR北海道での事故が相次ぎ大きな問題になっていますが、それは基本的には国鉄分割と1047人の解雇問題に端を発しているというわけです。
 このとき、民営化はやむを得なかったとしても分割するべきではなかったというのが冨塚さんの意見でした。北海道、九州、四国は単独では赤字は避けられず、本州での黒字によって補填できるような体制を維持するべきで、JR発足時に採用されなかったのは北海道が最も多く、組合活動もやり仕事もできる中堅が狙い撃ちされたために技能や経験の継承が上手くいかなかったというわけです。
 このような問題が主ずることは分かっていたはずで、今こそ国鉄分割・民営化の再検証が必要ではないかと強調されていました。私もそう思います。

 第3は、ポーランドの民主化闘争支援の取り組みです。とりわけ、民主化闘争の指導者であったワレサとの交わりと友情について、懐かしそうに話をされていました。
 個人的にワレサと意気投合したこと、ワレサが大統領になって以降も交友が続いたことなど、エピソードも交えた話には興味深いものがありました、総評としてもポーランド民主化闘争に強く関わり、大きな支援を行ったそうです。
 ポーランドの民主化運動はソ連・東欧の「社会主義体制」崩壊の発端になったもので、この運動が成功していなければ、その後の東西冷戦体制の終結があったかどうかは分かりません。その意味では、冨塚さんとワレサとの出逢いと友情は、世界史を変えるほどの大きな意味を持っていたと言えるのではないでしょうか。

 研究会が終わると近くの居酒屋で一杯やるというのが通例ですが、この日、冨塚さんは「ちょっと今日は」ということで帰られました。「実は、孫の誕生日で招待されているものですから」と、仰りながら……。
 その時の冨塚さんは、好々爺の顔に戻っていました。かつての「闘士」も、今では普通のお祖父さんになられたようです。

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