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8月28日(木) 自らの言葉によって明らかになった安倍首相の本音 [首相]

 「8月は、6日9日15日」という句があるそうです。これに、御巣鷹山への日航機墜落事故が起きた8月12日を加えても良いでしょう。
 8月は、追悼と鎮魂の月であると言えるかもしれません。原爆と戦争に思いを致し、核の廃絶と不戦の決意を固める月でもあったはずです。

 その8月に、安倍首相は政府を代表して3回の式辞を述べました。6日の広島と9日の長崎での平和祈念式典、15日の戦没者追悼式での式辞です。
 広島と長崎での平和祈念式典での式辞は、大きな批判を浴びました。その大半が前年と同じ内容の「コピペ」だったからです。
 全国戦没者追悼式での式辞も批判を受けました。前年と同様、歴代首相が表明してきたアジア諸国への「加害」の反省や「不戦の誓い」を削っていたからです。

 広島と長崎での式辞からは、安倍首相が核の問題には関心がないことが分かります。世界に向けて核廃絶を訴える熱意に欠けていることも明らかです。
 今日の『毎日新聞』で秋山信将一橋大教授が「核の非人道性をめぐる議論が高まり、核をめぐる政治の潮目が変わるかもしれないとみる人が増えるなか、唯一の被爆国の首相が核についてどのような考えを示すのか、その発言は世界から注目されていた。それがコピペである。これでは共感を得ることはできない」と書かれていますが、その通りだと思います。
 また、戦没者追悼式での式辞からは、安倍首相が過去の侵略の歴史について全く反省していないこと、侵略戦争と植民地支配について謝罪する意思を持っていないことも分かります。村山談話を継承すると言っていますが、それは口先だけに過ぎません。

 このことを、さらに明瞭にする事例が27日に明らかになりました。それは、安倍首相が4月29日に高野山奥の院で開かれた、A級、BC級戦犯として処刑された旧日本軍人の追悼法要に「自民党総裁」名で追悼文を送っていたことです。
 しかも、その内容は「自らの魂を賭して祖国の礎となられた昭和殉難者の御霊(みたま)に謹んで哀悼の誠を捧(ささ)げる」とするもので、連合国軍の戦犯処罰を「歴史上世界に例を見ない過酷な裁判」と記していると報じられています。
 これについて、菅義偉官房長官は記者会見で「私人としてのメッセージだと思っている。政府としてのコメントは差し控えたい」とし、「我が国はサンフランシスコ平和条約において裁判を受諾している。このことは再三申し上げている」と述べ、東京裁判に関する政府の立場に変更はないと強調したそうです。

 「私人としてのメッセージ」であればこそ、心の奥底にしまわれていた本音が赤裸々に示されているということでしょうか。「私人」としての安倍晋三は、「東京裁判に関する政府の立場」とは異なった思いを抱いているということになります。
 さらに、A級戦犯などは「犯罪人」ではなく、「殉難者」であって悪いことをしたとは思っていないこと、それを処罰した東京裁判を「歴史上世界に例を見ない過酷な裁判」だとして受け入れていないことも分かります。これが安倍首相の本心なのです。
 安倍首相の言う「積極的平和主義」とは武力による「平和」の確保であり、そのために最大の武力であり「抑止力」である核兵器は必要だと考えているのでしょう。A級戦犯として裁かれた人々は受難者であり、裁いた東京裁判は間違いだから、侵略戦争というのは当たらず、植民地支配でもなかったと言いたいのでしょう。

 まさに、「右翼の軍国主義者」そのものではありませんか。このような歪んだ歴史観を持つ人物によって集団的自衛権の行使が可能とされ、「戦争する国」への扉が開かれようとしているのです。
 長年の間、それを求めてきたアメリカでさえ警戒心を持たざるを得ないのも当然でしょう。「安倍にやらせて大丈夫なのか」と……。

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