SSブログ

3月21日(月) 桜の花が咲き始める時期に偲び追悼する悲しい日々が続いた [日常]

 東京の桜が開花したそうです。いよいよ春本番の季節を迎えることになります。
 このような時期ですが、私にとっては故人を偲び追悼する悲しい日々が続きました。

 すでにこのブログでも書きましたが、3月14日早朝、法政大学大学院の先輩だった丸谷肇元鹿児島国際大学教授が亡くなりました。17日に通夜が行われ、翌18日の午前中に告別式がありました。
 通夜では、大学院時代の先輩や仲間の皆さんにお会いしました。全労連の小田川議長も来られていましたが、丸谷さんは国公労連時代の上司だったと仰っていました。
 荼毘に付されたのは市川斎場でしたが、ここに来るのは2度目です。私の母の実家は市川真間で、祖母の葬儀の時に来ていたからです。

 丸谷さんが亡くなる前の3月12日、王子駅前の「北とぴあ さくらホール」で「三上満さんのバトンを受け継ぐつどい」が行われました。会場いっぱいの700人ほどの方が集まられたようです。
 三上さんとは数回お会いした程度でしたが、いつもニコニコとされておられました。その生涯と活動の軌跡をたどる数々の証言を通じて、「愛とロマン」に満ちた生きざまを学ばせていただきました。
 「バトンを受け継ぐ」とは、このような生き方に学び、その思いをわがものとして引き継ぐことではないでしょうか。私なりのやり方で、その事業を受け継ぎ力を尽くしたいと思っています。

 そして昨日、御茶ノ水の全労連会館で開かれた「犬丸義一さんを偲ぶ会」にも出席しました。私も呼びかけ人に名を連ねさせていただきましたが、それは法政大学大原社会問題研究所の研究プロジェクトでお世話になったからです。
 私が犬丸先生と初めてお会いしたのは今からおよそ40年前の、法政大学大学院に在籍していたころになります。資料をお借りするために上石神井のお宅に伺った際、牛丼を作ってご馳走していただいたことを覚えています。
 大原社研で戦争直後の『赤旗・アカハタ』復刻の計画があり、これが頓挫した後、戦後社会運動史研究会を立ち上げて参加していただくようになってから、親しいお付き合いが始まりました。研究会の成果は私が編集した『「戦後革新勢力」の源流』(大月書店、2007年)、『「戦後革新勢力」の奔流』(大月書店、2011年)という2冊の叢書にまとまりましたが、犬丸先生も「戦後日本共産党の公然化・合法化」(前者所収)と「日本共産党第6回大会の歴史的意義」(後者所収)という原稿を執筆されています。

 偲ぶ会では、畑田重夫先生が献杯の音頭を取られました。畑田先生は「三上満さんのバトンを受け継ぐつどい」でもあいさつをされました。
 93歳になられると言いますが、今も講演などをやられています。お住まいの清水からお1人で来られ、三上さんのつどいでも犬丸先生の偲ぶ会でも原稿なしで思い出を語られたので驚いてしまいました。
 矍鑠たるものです。さすが、健康法についての本を書かれるだけのことはありますが、それにしてもお元気で羨ましく思いました。

 畑田重夫先生と私は28歳違いで、親子ほども年が離れています。その先生とは、1988年に学習の友社から畑田重夫編『現代の政治理論』という本を出させていただきましたが、執筆者は畑田先生と私だけです。
 本の内容について相談している過程で、先生に出版社を紹介していただいて単著を出すことができました。それは、私にとっては初めての単著となる『戦後保守政治の転換―「86年体制」とは何か』(ゆぴてる社、1987年)です。
 これらの本を書くことによって、私は労働運動史研究とともに日本政治についての研究を本格化することになりました。その意味では、畑田先生は私の研究領域を拡大して世に出して下さった大恩人です。

 思えば、多くの方に教えられ助けられてきた半生でした。その恩人や先輩も、だんだんとこの世を去られるようになってきています。
 淋しい限りですが、それも人の世の常と申せましょう。私ができることは、今は亡き人々の教えや思いをいつまでも忘れることなく、引き継いでいくことだけです。
 先だった人々に笑われることのないような人生を生き抜いていきたいと思っています。それが、これまで受けてきたご恩に応える道であり、バトンを託された者としての義務だと思いますから……。

nice!(0)  トラックバック(0) 

nice! 0

トラックバック 0