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6月9日(日) 労働資料館の役割を考える(その1) [論攷]

〔以下のインタビュー記事は、日本鉄道福祉事業協会・労働資料館が発行する『労働資料館ニュース』No.2、2019年6月号、に掲載されたものです。2回に分けてアップさせていただきます。〕

●資料は歴史を確定する手段

 社会問題や労働問題の資料を収集・整理し公開していくことは大切な事業です。そのことがどういう意味を持つのかについて、まずお話しします。
 歴史というのは過去の事実が積み重なったものです。それを確定する上で重要なのは「記憶」と「記録」です。記憶に基づいて歴史を語る「オーラル・ヒストリー」は最近よく目にするようになりましたが、人間の記憶は曖昧なものです。加えて、嫌なことや苦しかったこと、不利になるようなことは忘れてしまうという機能が働きます。
 こういう「主観的」なバイアスだけでなく、「客観的」なバイアスもあります。自分が見たり聞いたりしたこと、経験したことしか記憶していません。近くで起きても、見聞しなかったために記憶に留まらないということもあります。
 したがって、記憶だけで歴史を確定するわけにはいきません。それが正しいいものであるかを確定するために、客観的に確認できる「資料」が必要になります。
 資料にもいろいろありますが、基本となるのは文書資料です。人によって書かれたもの、文字として残されているものです。この文書資料にも、出版物として大量に出ているものと、個人のメモや日記のように一つしかないもの(一点物)があります。
 大量に出まわっているものは比較的簡単に入手できますが、一点物は入手が難しく無くなったら取り返しがつきません。まして、資料を書き換えて、あったことが無かったことにされてしまうなどというのはとんでもないことです。森友・加計学園疑惑などで問題になっているような、隠すとか書き換えるというようなことが起こると、歴史が消されたり歪められたりすることになります。
 とりわけ、公的な文書は国民の財産です。権力が何をやってきたのかを検証するための手段となり、国民の知る権利を担保するものです。したがって、文書資料、書かれた資料は、歴史を確定する際の根幹をなす極めて重要なものなのです。

●何でもかんでも残していくこと

 もちろん、文書以外の資料もあります。書かれていないものは、大原社会問題研究所では「現物資料」と呼んでおり、海外では「三次元資料」と呼ばれています。
 現物資料には、労働運動で言えば、旗、バッジ、鉢巻き、ゼッケン、プラカード、横断幕、看板、ポスター等々、あるいは音声・映像などが含まれます。これらは、事実を確定し、実際に何が起きたのかを知る上で重要な意味を持ちます。
 とりわけ社会運動、労働運動の場合、参加した人たちにとっては「生きた証」ともいえるものです。単に歴史を明らかにすることに留まらない、一人ひとりの思い入れがそれらには込められています。
 ただし、この「思い入れ」は当事者にしかわからないことが多く、個人に関わるものは私蔵される場合がほとんどです。その当事者が亡くなると、「お祖父ちゃん、変なものをたくさん残していったわね」ということで、「ゴミ」として処分されたりしがちです。そういう事情も踏まえて、資料館は意識的に残す努力をしなければなりません。
 この場合、何をどのように残していくのかが重要になります。資料を収集する立場からすると、何でもかんでもできるだけ多く残していくというのが基本です。その時点で価値がよくわからなくても、時間が経ってから、これは重要なものだということが明らかになったり、位置づけられたりすることがあるからです。だから、できるだけたくさん、そのまま残した方がいいと思いますが、スペースやお金の面で制約がありますから難しいところです。
 もう一つ忘れてならないのは、一点物は価値がはっきりしますが、世の中に大量に出回ったものはそうであるがために残りにくいということです。ポスターやパンフレット、ビラなどがそうです。
 「本」であれば国会図書館に残りますし、大会資料や機関誌紙はそれぞれの組織が自分たちで保存します。パンフレットやビラは運動を広めるために大量に発行されますが、あっという間になくなってしまいます。誰もとっておかないのが普通です。
 しかし、皆さんも経験があると思いますが、運動を振り返るうえでは、これらが重要な意味をもつこともあります。ですから、大会資料などの機関会議の資料、機関誌紙のように定期的に発行されている資料を残すことはもちろん大切ですが、一点物である役員や幹部のメモや日記、ポスター、ビラやパンフレットなども、できるだけ残して後世に伝えていってもらいたいものです。

●資料を大切にする欧米の精神

 とりわけ、公職に就いている人は、こういうことを意識的にやらなければなりません。たとえ個人の物として作成されたものであっても、公職についている限りは公的な役割を担って作成されていることが多いのです。職務や仕事、決定などが正当なものであったかどうかを、後々検証できるようにするのが公職に就いた人の義務です。
 アメリカでは、大統領が引退したら大統領個人の図書館を作ります。ケネディであれば出身地のボストンにケネディ・ライブラリーを作り、大統領在職中の関連資料をすべてそこに残すのです。また、大統領経験者は回想録を書くことが義務のようになっています。
 日本でも、総理大臣は自らに関わる資料をきちんと保存し、回想録を書くようにすべきだと思います。総理大臣に関係する公文書や記録が残されていなかったり、書き換えられたりするのは、まったく論外のことです。
 また、後世に残る資料は多くの場合「勝者」のもので、「敗者」の記録は残らないのが普通です。そうすると歴史は「勝者の歴史」として書かれ、自らの業績を美化したり、正当化したりして歴史が歪められてしまいます。歴史の歪曲を許さないためには、敗者の側の資料も残さなければなりません。
 しかも、敗者というのは実は「多数派」です。支配する者より支配される者の方が数は多い。被支配者の側の記録こそ、総体としての歴史の真実を示すものです。そして、支配される者、虐げられた者、さらにその中の少数者の記録も残すことによって、多様性を持った全体としての「歴史の実像」が正しく伝えられ、いろいろな側面から見た歴史の真実が伝えられていくと思います。
 そういう点で、敗北した者や少数者のものであっても資料的価値はあります。大量に出回っていても、それを誰かが残していくわけではありません。やがて消えて行ってしまいます。ですから、できる範囲で可能な限り、文書に限らずいろいろな形の資料を、映像や音声を含めて残しておくことが重要だと思います。

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