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11月1日(日)  書評:上西充子著『呪いの言葉の解きかた』晶文社、2019年(その1) [論攷]

〔以下の論攷は、社会政策学会の学術誌『社会政策』第12巻第2号、2020年11月号、に掲載されたものです。2回に分けてアップさせていただきます。〕

 はじめに

 本書の著者は、日本労働研究機構を経て法政大学キャリアデザイン学部教授となった日本の労働研究者である。しかし、それ以上に、「ご飯論法」や「国会パブリックビューイング(PV)」という新しい社会運動の手法の開発者としてよく知られている。その言論活動は、アカデミズムにおける研究の範囲には収まらない。本書も、そのような著者の斬新な発想や積極的な行動力、社会的なネットワークの幅広さを示すものとなっている。
 「ご飯論法」は2018年度新語・流行語大賞トップテンに選出され、一躍注目を集めた。この用語を用いたのは著者が最初というわけではなかったようだが、国会での不誠実な言い逃れの答弁を批判するために「#ご飯論法」というハッシュタグをつけて積極的に拡散したのは著者の功績である。
 「ご飯論法」とは、「朝ご飯は食べたか」という問いに、「ご飯」を故意に狭くとらえて「(パンは食べたけれど)ご飯(米)は食べていない」と答えるようなことを言う。追及をかわすために、嘘ではないが論点をずらしたりごまかそうとしたりする。「働き方改革」関連法案の議論において、加藤勝信厚生労働大臣の国会答弁での意図的な論点のすり替えや言い逃れを鋭く衝く的確で絶妙な言葉だったために多くの注目を集めた。
 もう一つの「国会PV」は国会での審議の動画を街頭で上映し、論点ずらしやはぐらかしのような不真面目で不誠実な答弁を「可視化」するものだ。新橋駅前SL広場での上映が初めてで、その後、有楽町・新宿・渋谷・恵比寿など都内各地の駅前などに、スクリーンとスピーカーを設置して国会審議の様子を映し出した。これが有志の協力を得て実現するに至った経緯については、本書の第4章「政治をめぐる呪いの言葉」の第4節「国会パブリックビューイング―可視化が持つ力」に詳しく紹介されている。
 このような、学者というより社会運動家としてよく知られるようになった著者が、常識だと思い込まされている言葉による「呪い」を解き、「あっ、そうか!」と納得して身を守り、反撃することのできる技を伝授するのが本書である。それは単に「言葉」の問題にとどまらず、その背後にある「ものの見方、考え方」や社会の構造にまで及んでいる。
 「私たちの思考と行動は、無意識のうちに『呪いの言葉』に縛られている。
そのことに気づき、意識的に『呪いの言葉』の呪縛の外に出よう。思考の枠組みを縛ろうとする、そのような呪縛の外に出よう。のびやかに呼吸ができる場所に、たどりつこう。
それが、本書で伝えたいことだ。」(14頁)

 構成と概要

 最初に、全体の目次を掲げておこう。

 第1章 呪いの言葉に縛られない
 第2章 労働をめぐる呪いの言葉
 第3章 ジェンダーをめぐる呪いの言葉
 第4章 政治をめぐる呪いの言葉
 第5章 灯火の言葉
 第6章 湧き水の言葉

 以上のうち、第1章は本書の内容や構成を略述しており、本来なら「序章」とされるような位置にある。ここでは「嫌なら辞めればいい」という言葉を例に、「呪いの言葉」の「ねらい」を明らかしたうえで、「呪いの言葉」そのものについて説明されている。それは「相手の思考の枠組みを縛り、相手を心理的な葛藤の中に押し込め、問題のある状況に閉じ込めておくために、悪意を持って発せられる言葉」や「相手を出口のないところに追い込んで発せられる……『答えのない問い』」のことである。
 「本書では、『呪いの言葉』とその呪縛の『解きかた』を、労働をめぐる呪いの言葉、ジェンダーをめぐる呪いの言葉、政治をめぐる呪いの言葉の三つに分けて」(26頁)記述されている。このそれぞれが、第2章から第4章に相当する。以下、もう少し詳しくその内容を見てみよう。
 第2章が扱う「労働をめぐる呪いの言葉」は、目的から見て二つに分けられる。「ひとつは声を上げることを抑圧するもの」であり、「もうひとつは、分断を目的としたもの」(30頁)である。その目的は「文句を言わずに、懸命に働け。団結して対抗するな」ということだという。その実例として示されるのが、「ダンダリン 労働基準監督官」というドラマであり、『サンドラの週末』という映画である。これらを通じて、呪いの言葉の「内面化」を拒み、正当な要求を発して職場環境を改善する必要性、当事者が自ら進んで取り組むことや正攻法で対抗することの大切さが示される。
 さらに、より巧妙に仕掛けられる「分断」の例として、「だらだら残業」という「呪いの言葉」を取り上げ、「働き方改革関連法」によって導入された「高度プロフェッショナル制度」の「嘘」を暴く。あたかも成果によって評価されるかのような印象操作によって自ら選び取るように仕向けられる危険性を指摘しつつ、著者は次のように述べて、この章を結んでいる。「呪ったり、誘ったり。それらの言葉に、うっかり釣られないようにしたい。」(78頁)
 第3章の「ジェンダーをめぐる呪いの言葉」は、家族と職場における役割をめぐって「女性と男性を縛っている呪い」や財務省のセクハラ問題とそれに対抗する動きを扱っている。コミック『しんきらり』を例に家事・育児の大半を女性が担っている状況の鬱屈が指摘され、『逃げるは恥だが役に立つ』(逃げ恥)を手掛かりに家事労働は無償かと問いかけられる。次いで、杉山春のルポから過剰な「生真面目さ」が虐待を生む「『母親』という『呪い』」(98頁)や「男性を縛る『呪い』」(106頁)が明らかにされ、「他人のケアに責任を持つことなど想定外の労働者」である「ケアレス・マン」(109頁)の問題性が示され、「溜め」と「支援を受ける権利」の重要性が指摘されている。
 「財務省のセクハラ問題」については、「はめられて訴えられているのではないか」「セクハラ罪っていう罪はない」などの「呪いの言葉」の数々が示される。と同時に、これに対する記者クラブ、労働組合、野党などの動きや集会などの「光が見える動き」(127頁)が紹介されている。その集会でのスピーチは、次のような言葉で締めくくられていた。この言葉は、セクハラについてだけのものではない。
 「あなたが自分の可能性に向き合うことを、それをあきらめなければ、あなたはきっと呪いに打ち勝つことができる」(134頁)。
 第4章の「政治をめぐる呪いの言葉」は、内容的にも分量的にも本書の中心をなしている。そもそも、著者は「一つひとつの論点」だけでなく「政権のありようそのものにも対峙しなければならない」と思うようになって、「『数』と同時に『言葉』が力を与えるのだと気づいた」(257頁)という。「政治」が中心になるのも当然だろう。
 ここでは反原発のデモや異議申し立ての記者会見、国会PVなど著者が参加した個人的な体験を中心に記述され、「呪いの言葉」よりも、その「解き方」に焦点が当てられている。デモは権利で「国民主権の象徴的な行動」(146頁)であること、それは「異議申し立てを可視化させる」(152頁)ことなどの指摘も重要だが、何といってもメデイアの注目を集めた裁量労働制のデータ偽装問題の顛末が本書の白眉だと言える。
 著者は安倍首相が国会答弁で言及した裁量労働制のデータがおかしいとWEB記事で指摘し、安倍首相はこの答弁を撤回するに至った。その後も、これが「政権の意図に合うように『捏造』されたものと考えられる」(165頁)との連載記事とそれに対する自民党厚生労働部会長である橋本岳衆院議員の妨害行為に対するやりとりが紹介されている。この部分を読んで、「良く『捏造』を見破ったものだなー」と感心した。また、「学問の自由」の侵害への異議申し立てを行った勇気にも、国会PVによって政府側の不誠実な態度を可視化する知恵と行動力にも学ばされた。
 以上の3つの章に続く第5章と第6章が扱うのは「呪いの言葉」とは対照的な二つの言葉である。第5章は「灯火の言葉」、第6章は「湧き水の言葉」となっている。
 「灯火の言葉」は「相手に力を与え、力を引き出し、主体的な言動を促す言葉」(194頁)である。それを「灯火の言葉」という「表現でイメージする」のは、「心のなかに静かに燃える火」であり「体をあたため、気力を起こさせ、しっかりと立とうとする自分を支える灯」(195頁)だからである。
 同様に、第6章も「呪いの言葉」とは対照的な「湧き水の言葉」を扱う。「灯火の言葉」とは異なって、これは他者から届くものではなく「自らの身体から湧き出てきて、みずからの生き方を肯定する言葉」(236頁)のことである。これらについても、豊富な実例を示して論述されているが、詳しくは本書をご覧いただきたい。

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