SSブログ

11月17日(火) 大原社会問題研究所の思い出―『日本労働年鑑』の編集業務を中心に(その2) [論攷]

〔以下の論攷は『大原社会問題研究所雑誌』第745号、2020年11月号、に掲載されたものです。3回に分けてアップさせていただきます。なお、注は全て割愛させていただきます。〕

2、 専任研究員としての採用と『日本労働年鑑』の編集

(1)『大原社会問題研究所雑誌』の編集業務

 『大年表』刊行の大事業が終了した1987年、私は経済学部に移った佐藤博樹さんの後任として専任研究員の助教授に採用された。当初の業務は『大原雑誌』の編集であった。それまでの『研究資料月報』を『大原雑誌』として市販される「商品」とするために 、まずイメージチェンジを図ろうということで表紙をピンクに変えた。私と三宅さんの提案を二村所長が採用したのである。
 その後もいくつかの改善が図られた。体裁をきちんとするために専門の割付担当者を採用すること 、一般の雑誌のように発行時期を一カ月早めること、誤植などをなくすために所外に専門の校正者を依頼すること 、原稿料の支払いと雑誌の購読料を相殺するような仕組みを作ることなどである。
 この時期に作られた雑誌編集の枠組みはその後も継承され、今日に至っている。そのうちのどれが私の編集担当の時代に実現したのかは、今となってはよく覚えていない。少なくとも、私が雑誌編集を早川先生に引き継ぐころまでには、このような枠組みは基本的にできあがっていたように思う。その後、専門的な学術研究誌としての評価を高め定着することになるのは早川編集長時代だが、その基礎はこの時代にはできていたように思う。
 ただし,月刊雑誌の編集は、積んでは崩す「賽の河原の石積み」のようなところがある。毎月、原稿を集めて編集し、初校・再校と手を入れて刊行したと思ったら、すぐ次の号の編集が待っている。特集の企画も考えなければならず、原稿の依頼や点検、校正などの作業は並行して進められ、息を抜くことができない。『大原雑誌』の編集担当から『年鑑』担当に業務が変わったとき、何となくホッとしたことを覚えている。

(2)『日本労働年鑑』の編集を担当

 私が前任の早川先生と交代する形で『年鑑』編集の担当になったのは1990年秋のことだったと思う。以来、91年版から退職する年の2013年版までの22年間にわたって『年鑑』の編集に携わった。私の研究所での仕事の大半は、この『年鑑』の編集作業を中心に回っていたことになる。
 『年鑑』は1987年刊行の第57集から、①労働経済と労働者の生活、②経営労務と労使関係、③労働組合の組織と運動、④労働組合と政治・社会運動、⑤労働・社会政策という5部構成となった。この5部構成と特集という基本的な枠組みは今も維持されている。
 特集と章別の編成、執筆者についてはその都度検討され、修正や変更の必要があれば対応しなければならない。留学などで執筆できないという連絡が入ることもある。特集のテーマや章別の編成を確定し、適当な執筆者を探して依頼が完了するのは師走に入ってからのことになる。
 年が明けてからの最初の作業は、各執筆者に対して改めて執筆に向けてのお願いをすることだった。『年鑑』は毎年刊行されるので、はっきりとした期限がある。6月の刊行を遅らせるわけにはいかない。かといって、その年が終わらないことにはデータがそろわない。年が明けてから、できるだけ早く執筆をはじめ、2月から3月にかけての締め切りに間に合わせてもらう必要がある。
 各章の締め切りは同じではない。内容や資料が発表される時期、筆者などによって多少の差をつけた。第1次の締め切りは2月中旬、2次は下旬、3次は3月上旬という具合だった 。いっぺんに集まってきても原稿の点検や編集が間に合わないからで、その後は第2次までになった。
 執筆する対象によっては資料の収集が難しかったり、データの発表が遅かったりするものもある。筆者による執筆の遅速の差もあり、原稿集めには大変苦労した。それでも、ワープロやパソコンで入力し、メール添付で送ってもらい、直接手を入れられるようになってからは、編集作業も入稿のスピードも格段に改善された。

(3)『年鑑』編集のスケジュールと具体的作業

 『年鑑』編集のための会議は、原稿が集まってくる2月中旬頃から始まり、4月上旬にかけてほぼ毎週水曜日に開催された。出席するのは専任研究員全員と編集担当の兼任研究員2人、それに発行元である労働旬報社(後、旬報社)の編集担当である。編集会議での議題は、原稿の集まりや進行状況の確認、集まった原稿を読む分担、原稿読みと編集作業を進めてきて生じた問題点の解決などである。
 以上に加えて、二つの大きな作業がある。その一つは「序章」の検討で、もう一つは「年表」の作成だった。この二つについては、それぞれの担当者を決めたうえで集団的に検討し、それを踏まえて完成させたものを最終的に調整して仕上げる 。年表の原案は外部の作成者にお願いしたが、各欄の重複や欠落の補充などはこちらで行わなければならない。6つの欄の重なりなどは、最終的に並べてみなければ分からないことも多かった。
 『年鑑』には、冒頭にグラビアのページがあり、その作成は編集委員会の仕事になる。また、各章の扉には内容を簡潔に示すキャッチ・コピーとグラフや写真などの図版が付いている。基本的にはこれらの原案も原稿筆者に依頼するが、記載されていなければこちらで作成しなければならない。キャッチ・コピーには字数と行数に制限があり、毎度、苦労したものだ。
 この一連の過程における私の役割は、編集スケジュールの作成、編集会議の招集と進行、原稿の発注と集まってきた原稿の素読み、各担当者への原稿読みの割り振り、戻ってきた原稿の点検と入稿、序章と年表の完成と入稿などである。遅れている原稿があれば催促し、記述すべき内容で足りない部分があれば筆者に補充してもらい、それが間に合わないようなら編集委員に補充執筆をお願いしなければならない。これらは今も繰り返されていると思うが、気苦労の多い大変な作業であった。
 4月初め頃には一通り入稿が終わり、順番に初校ゲラが出てくる。これについては筆者、編集担当者、私が目を通し、赤を入れたものを転記して出版社に返す。大型連休明けにはこの作業もほぼ終了し、その後、再校ゲラが出てくる。この段階でも多くの赤が入るのが普通で、研究所に待機して出版社の担当者からの問い合わせに答えなければならない。
 こうしてほぼ完成原稿がそろった段階で、最後の作業が待っている。それは索引語の指定と、関連する記述があるページの「年表」欄へ記入である。いずれの作業も、ページ数が確定しなければできない。ページ数を入れたために年表欄の字数が増え、再度の調整が必要になるなどということもあった。索引語を統一するという面倒な作業もあるが、これについては編集担当者に任せた。
 こうして、前年の9月頃から始まった『年鑑』編集の作業は大団円を迎える。最終的に校了となって研究所の手を離れるのは5月末で、それから3週間ほどして『年鑑』が刷り上がってくる。刊行は6月下旬で反省会は7月の初めだからほぼ10ヵ月が費やされ、夏休みを除く通年の作業ということになる。この間、原稿やゲラ読みを始めとした編集作業の多くは研究所の勤務時間内だけでは不可能で、自宅に持ち帰っての仕事は当たり前だった。
 特に、編集作業にワープロやパソコンを使うようになってからは、研究所と自宅での作業に大きな差はなくなったように思う。まさに、「フロッピー残業」の典型のような働き方だった。毎年、5月が過ぎると腰痛に悩まされたのは、パソコン画面をのぞき込んでいたせいかもしれない。退職してからは、腰の痛みに悩まされるようなこともなくなった。
 『年鑑』編集の始まりから終わりまで、細かな字を読み続ける過酷な作業が続いた。学生時代に右目を失明し、左目しか見えない私には大変つらい仕事でもあった。残された左目を守るためにも、できるだけ早い時期に研究所を退職した方が良いのではないかと思うようになった。これが、63歳という年齢で早期退職を選択した理由の一つだったのである。

(4)「特集」テーマ・筆者の決定と痛恨の失敗

 私が担当した時期の特集のテーマ

1991年版(第61集) 労働組合組織化の新たな動向
1992年版(第62集) ユニオンリーダーの属性と意識
1993年版(第63集) 現代日本の女性労働
1994年版(第64集) 日本における外国人労働者の現状
1995年版(第65集) ILOと日本
1996年版(第66集) データ・ファイル=戦後50年の労働問題
1997年版(第67集) 高齢者就業・雇用の現状と課題
1998年版(第68集) 現代日本の社会福祉労働
1999年版(第69集) 国際労働組合運動の50年
2000年版(第70集) 現代日本の雇用変動と雇用・失業問題
2001年版(第71集) 人事評価と労働組合
2002年版(第72集) 労働時間の法制の改編と運用の実態
2003年版(第73集) メンタルヘルス問題と職場の健康
2004年版(第74集) 若年労働者の就業をめぐる諸問題
2005年版(第75集) プロ野球選手会のストライキ/介護保険制度の現状と改革課題
2006年版(第76集) JR福知山線脱線事故とJRの労使関係/日経連「新時代の日本的経営」から10年
2007年版(第77集) 業務請負と労働問題/アスベスト(石綿)問題の過去と現在
2008年版(第78集) 介護労働と介護問題/国際労働組合総連合(ITUC)の結成
2009年版(第79集) 今日のワーキングプアと非正規雇用問題/M&Aと労働問題
2010年版(第80集) ユニオン運動の形成と現状/構造改革と社会保障改革
2011年版(第81集) JR不採用問題の和解と今後の課題/外国人技能実習生問題の現状と課題
2012年版(第82集) 東日本大震災と労働組合/原子力問題と労働運動・政党
2013年版(第83集) 変貌する正社員の雇用と労働/東日本大震災と公務労働
2014年版(第84集) 非正規労働をめぐる政策と運動/社会保障制度改革の現状と課題

 『年鑑』は1991年刊行の第51集から「特集」を掲載している。『年鑑』がカバーする単年度の記録としてではなく、中・長期的な視野からそのときどきの重要なテーマについて整理、分析するためである。私が担当した1991年から2014年までの「特集」は別表のとおりである。それを見れば、そのときどきにおいて何が重視され焦点となっていたかを知ることができる。 
 特集は、2004年版の第74集までは一本だったが、翌年からは2本になっている。『年鑑』の魅力を高めて販売部数の低下に歯止めをかけようとしたためである。しかし、顕著な効果はなく、販売部数は増減を繰り返しながら緩やかに減少していった。
 「特集」テーマの検討は、『年鑑』刊行後の7月初めの反省会から始まる。夏休み明けの9月から10月にかけての研究員会議や運営委員会でも意見を聞いた。執筆者についても知恵を出してもらった。私一人では、手に負えないことも多かったからだ。
 私は原案を出したが、それは参考程度で全く違ったテーマに決まることもある。最終的な決定は10月の社会政策学会の研究大会前になされることが多かった。学会で筆者の候補を探したり、直接交渉したりするためであった。
 何を特集のテーマとするかも難しかったが、それ以上に誰に書いてもらうかが重要だった。『年鑑』の通常の章はほぼ筆者が決まっており、内容も見当がついたが、特集は毎回テーマも筆者も異なっている。どんなに良いテーマでも書いてもらえる筆者を見つけなければならず、引き受けてもらえなければ掲載できない。1本でも大変なのに、毎年2本となると苦労は倍加する。今でも2本の「特集」を維持するのは大変なのではないかと思う。
 この「特集」について、あまり書きたくはないが、今も反省すべき痛恨の失敗があった。筆者名を間違えてしまったのである。『年鑑』は客観的記述を旨とし集団的に検討してかなり手を入れることもあって、各章の筆者を明らかにしていない。しかし、「特集」については個人的な見解や評価も記述され、研究業績として扱われることもあり、希望者については文末に筆者名を入れることにした。その筆者名を間違えてしまったのである。
 問題は2006年版の第76集「JR福知山線脱線事故とJRの労使関係」で生じた。この前半の筆者は「安田浩一」であったのを、「安田和也」としてしまったのである。姓が同じ「安田」であったために、巻末の「社会・労働運動年表」の社会運動欄の作成者と取り違えてしまった。
 翌年の『年鑑』では「旬報社編集部」名で「訂正とお詫び」の紙片を挟んで配本することになった。安田浩一さんにもお目にかかってお詫びしたが、このような失敗は、後にも先にもこれ一回きりのことである。安田さんはその後フリージャーナリストとして大活躍されておられる 。全く不注意の極みであり、この場を借りて改めてお詫び申し上げたい。
 
(5)『年鑑』章別編成の変遷

 『年鑑』の5部構成という枠組みに変化はなかったが、各部を構成する章やその中の節については、労働・社会問題の変化に応じて変わってきた。その変遷の後を辿れば、おのずと各時代の変化を知ることもできる。以下、章や節の変化を振り返ってみることにしたい。
 91年版では、第2部第5章の「産業動向と合理化」の節として、新たに「金融」と「建設」が加えられた。また、第4部第2章の「労働者福祉運動」から労働者住宅を除き、新たに労働者生産協同組合運動が加えられている。
 92年版では、第1部第2章「労働者生活の実態」で家計を主とする消費生活だけでなく単身赴任問題やセクシュアル・ハラスメント(セクハラ)などの職場の状況や労働のあり方も視野に入れるようにした。それまで第2部に収めていた「労働災害・職業病」は第1部に移し、第2部の「労使交渉と労働争議」も第3部に入れて表題を「労働組合の組織現状と労働争議」と改めた。第3部第3章の「賃金要求と賃金闘争」を「賃金・時短闘争」として労働時間短縮(時短)闘争も加え、第3部第5章の「合理化と労働組合」も、合理化だけでなく新たな取り組みを幅広くフォローできるように「単産・単組の運動事例」と改めている。
 私は91年版から編集を引き継いだが、その時、すでに次年度の章別編成の大枠は決まっていた。計画段階から編集に関わったのは92年版からであった。この時の編成替えが大幅なものになったのは、私が担当者になって、その考えが反映されたという面もあったように思う。もちろん、それは私だけでなく編集会議での集団的な検討によるもので、当時の二村所長のリーダーシップが大きかったように思う。
 翌93年版では大きな変更は加えられていないが、94年版にはいくつかの変更があった。前年版で特集として扱った「女性労働」を新たに第1部第3章とし、「労働災害・職業病」を第4章とした。また、第1部第2章「労働者生活の実態」を「労働者の生活と意識」とし、意識調査の結果も紹介することとした。
 95年版でも大きな変化はなく???、96年版では第2部第1章「労働経済の動向」で、家内労働従事者と外国人労働者についての記述を新設した。97年版と98年版では変更はなかった。
 99年版では、第2部第3章「主要産業の動向」で新たに「医療・福祉」「公務」「教育」の節を新設し、一段と広く産業の動向をカバーできるようにした。「主要産業」としては、これ以外にも触れるべきものがあったように思うが、全体の分量などの関係もあって、その後も増やされていない。
 2000年版は変更なく、01年版で第1部第4章として「外国人労働者」を新設し、「労働災害・職業病」を第5章とした??のが、章別編成としての大きな変更だった。その後、これらの章はそのまま引き継がれ、02年版から14年版まで大きな変更が加えられることはなかった。

(6) 『年鑑』編集に関するいくつかのエピソード

 『年鑑』編集に関連しては、数多くのエピソードが思い出される。その全てに触れるわけにはいかない。主なものをいくつか紹介しておくことにしよう。
 第1に、『年鑑』の改革についての論議である。年々、出版物全体の販売数が低下傾向にあり、『年鑑』も例外ではなかった。刊行部数の一応の目安は1000部で、これを割るたびにテコ入れ策が検討され実施された。全国の図書館や大学などに『年鑑』の所蔵状態のアンケートを送ったり、継続しての購入のお願いを出したりした。
 『年鑑』そのものについても、抜本的な改善策が検討された。その一つは版型を変えるというものだった。現在よりも大きな判にして読みやすくしたらどうかというものだったが、途中から大きさが変われば本棚に収納するのに困るのではないか、継続性が薄れるのではないかなどの意見が出され、沙汰止みとなった。
 また、現在の縦組みを横組みとした方が良いという意見もあった。『年鑑』に多くの数字が記載されるが、漢数字よりも算用数字の方が読みやすいというのである。これは版型を大きくすることと併せて実施しなければ、かえって読みにくくなる可能性があり、上記の案が消えた段階で横組み案も消えることになった。
 さらには、電子情報と結合するという案もあった。『年鑑』の付録としてCDを付け、豊富なデータを入手できるようにしようというものだ。しかし、文字版の編集だけでもやっとの思いで間に合わせているのに、それ以上のことは無理ではないか、技術的にも難しいのではないかということで、これも実現されなかった。
 結局、特集などを紹介する帯を付けたくらいで、版型や内容の点では大きな変更なしに現在に至っている。世界でも稀な継続性を特徴とする『年鑑』である以上、基本的に変わらないことにも一定の価値があると言えるかもしれない。
 第2に、『年鑑』編集と研究所のコンピュータ化との関連である。1983年に私が兼任研究員となって『年鑑』編集を手伝った時は、まだ手書きの原稿を集めて編集していた。このころには手書きで文章に手を入れたり校正したりしていたが、コンピュータの画面で行う時代に比べれば、ずっと困難で手間がかかった。
 1984年7月にパソコンが導入され、それ以降、研究所のコンピュータ化は急速に進む。資料の整理や索引の作成のために積極的な導入が図られていったからである。それに引きずられるようにして、私もワープロやパソコンの操作に慣れていった。それが『年鑑』編集の上で大きな威力を発揮したことは、すでに書いたとおりである。
 そのことは、私自身の研究活動にとっても大きな意味をもった。この面で一歩先んじておられた二村所長の強い勧めと技術指導によって、個人のホームページを立ち上げたからだ。米ハーバード大学への留学と世界をめぐっての労働組合・労働資料館の調査旅行の間も発信を続け、一冊の本にまとめることができた 。1998年から書いて発信し始めたホームページは、これまでの累計で1000万アクセスを遥かに越えている 。
 第3に、『年鑑』の編集作業を担当することによって得られたメリットについても触れておきたい。『年鑑』の編集は苦労が多く辛い仕事だったが、同時にそれは私にとって日本の労働問題の教科書であった。これによって労働問題や労働運動だけでなく、日本の政治と社会への理解を深めることができたからである。
 毎年、原稿を受け取ったとき、入稿するとき、初校ゲラを点検するときと、最低3回は原稿を読む。出来上がってからもざっと目を通す。依頼した字数を越えている時は削り、間違っているデータは修正し、文章表現についても手を入れた。受け取った原稿をそのまま入稿するのではなく、正確で読みやすくするための作業を行う。厚くなりすぎないよう、毎年のページ数が大きく変動しないよう、特に注意を払った。こうして、所定の字数内に収める技術が身についていった。
 これらの作業が終わるころ、前年の日本の政治と社会、労働の現場がどうであったかというイメージができあがる。「序章」の執筆では、前述のように国際政治の動向と国内政治の動向を担当し、経済や労働についても編集会議で議論する。「年表」の作成では、日付や集会の名称、参加人数、場所、人名などにも気を配る。自然に、前年の世界と日本についての「土地勘」のようなものが身に付いたように思う。
 これは私にとって大きな財産となった。それぞれの年の政治・経済・労働の全体像が自然に浮かび上がってくるのである。無理やり叩き込まれたような形で記録され記憶しているイメージを手掛かりに『年鑑』で調べれば、さらに詳しく知りたい事実やデータに行き当たる。
 すべてを網羅しているのが『年鑑』の強みである。それはそのまま私自身の強みとなり、大きな自信となった。私は『年鑑』の編集を担当し、毎年の大半を費やして悪戦苦闘するなかで、研究者として鍛えられ成長させてもらったと思っている。『年鑑』の編集担当という業務に従事していなければ、今日の私はない 。

nice!(0) 

nice! 0