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11月18日(水) 大原社会問題研究所の思い出―『日本労働年鑑』の編集業務を中心に(その3) [論攷]

〔以下の論攷は『大原社会問題研究所雑誌』第745号、2020年11月号、に掲載されたものです。3回に分けてアップさせていただきます。なお、注は全て割愛させていただきます。〕

3、 大原社研でのその他の業務

(1) 戦後社会運動資料の復刻

 『雑誌』の編集担当を交代した時、早川先生から受け継いだのは『年鑑』の編集だけではなかった。もう一つ重要な業務があった。それは戦後社会運動資料の復刻作業である。これは戦後占領期の政党や社会運動団体などの機関紙誌を復刻するもので、兼任研究員の吉田健二さんが中心となって進めていた。私はこの業務を通じて吉田さんとコンビを組むことになる。
 私が担当を受け継いだ時、『民報・東京民報』の本体の刊行準備はほとんど済んでおり 、「別巻」の索引の作成から引き継いだ。この時点ではコンピュータによる索引づくりなどはまだ思いもよらず、印刷されたゲラを点検するのに苦労したものだ。しかも、吉田さんと違って戦争直後の政治や社会運動について専門的な知識などなかった私にとって、これに始まる復刻事業は大きな試練となった。
 この後、復刻事業は日本社会党の機関誌『社会思潮』全8巻、社会主義政治経済研究所の機関誌『社会主義』全3巻、同機関紙『政治経済通信』全1巻と続いた。その後も、民主評論社の雑誌『民主評論』全5巻を復刻することになる。日本共産党の機関誌『前衛』と新聞の『赤旗』を復刻する計画もあった。『前衛』の解題は増島宏先生、『赤旗』の解題は塩田庄兵衛・犬丸義一・梅田欽次の3先生にお願いしたが、結局、復刻には至らなかった。
 このような関係で戦後占領期のことは良く知らないなどとは言っていられなくなり、個人的にも研究を深めるようになっていった。次第に占領期の政治・社会運動に対する興味や知識が増え、やがてそれは戦後社会運動史研究会の発足と私が編集した2冊の研究所 叢書の刊行へと結びついていく 。
 占領期の政治・社会運動にまで私の研究分野が広がったのは、研究所業務における分担の変更があったからである。『年鑑』編集の業務とともに、戦後社会運動資料の復刻作業を業務として担当しなければ、このような形で研究分野が拡大することはなっただろう。このことも、結果的に私にとっては大きなプラスとなった。
 戦後社会運動史研究会は2冊目の叢書を刊行した2011年まで続き、その後は改組・再編されて社会党・総評史研究会に引き継がれた。その研究成果として刊行されたのが研究所叢書『日本社会党・総評の軌跡と内実』であった 。また、このような形で戦後の政治史についてそれなりに俯瞰することができるようになった成果の一つが、小学館から刊行した拙著『戦後政治の実像』である 。

(2)研究プロジェクトと大型出版

 戦後社会運動史研究会以外にも、多くの研究プロジェクトや出版活動に参加した。研究プロジェクトとして最初に取り組んだのは「ユニオンリーダー研究会」だった。ユニオンリーダーの属性や意識についての調査を行い、『大原雑誌』や『年鑑』の特集として発表し、労働省で記者会見を開き新聞でも報道された 。
 次に取り組んだのは、「労働組合の再編・統一に関する調査研究(連合研究会)」だった。これは当時の総評解散から連合と全労連の結成に至る労働戦線再編に焦点をあてた研究プロジェクトである。その成果は、研究所叢書『《連合時代》の労働運動』にまとめられた 。
 さらに、「人事評価と労働組合研究会」や「労働政策研究会」も力を入れて取り組んだプロジェクトだった 。高知短大の元学長代理で大原社研の客員研究員としてこられた芹澤 寿良先生の協力を得て経営者団体の関係者からの聴き取りを行い、高知県経営者協会専務理事の松本秀正さんや、旧経団連の常務理事・専務理事を歴任し日本年金機構の初代理事長となった紀陸孝さんなどの知己を得た。この研究プロジェクトの成果はワーキングペーパーにまとめられている 。
 これらの研究会は、いずれも私が責任者としてかかわったものである。それ以外にも、参加者として加わった研究会には、「現代労使関係・労働組合研究会」「労働運動の再活性化の国際比較研究会」「社会問題史研究会」などがある。
 前述のように、戦後社会運動史研究会を立ち上げて2冊の研究所叢書を編集したが、その後、この研究会は社会党・総評史研究会に受け継がれ、加藤宣幸さんなどの元社会党書記や富塚三夫元総評事務局長などからの聞き取りを行なった。これは嘱託研究員の木下真志さんの尽力によるもので、その成果は木下さんとの共編による研究所叢書となり、昨年刊行された。大原社研との関連で私が行った最後の仕事がこれである。
 このような研究プロジェクトとは別に、大原社研と旧労働旬報社とのコラボによる大型出版の企画にも取り組んで来た。その始まりは、すでに触れた『戦後社会・労働運動大年表』の刊行だった。これを皮切りに、『日本の労働組合100年 』『日本労働運動資料集成 』『社会労働大事典 』などが次々と刊行されていく。
 そのいずれもが、旬報社とのコンビを組んでの大型出版だった。編集を担当したのは『年鑑』編集でもコンビを組んでいた佐方信一さんで、こちらの方でも大いに助けられた。その後社長となった木内洋育さんとは編集者時代に私の著作 を担当していただいた縁もあり、長い付き合いになった。
 特に、最後の大型出版となった『社会労働大事典』は私の所長時代に出版されたために、最終的な文章の調整と編集を一手に引き受けることになり、2年ほどの間、寝る間も惜しんでの作業となった。左目に大きな負担がかかったようで、ある日の朝、目覚めると墨が流れているように見える。眼科の病院で診察してもらったら毛細血管が切れて血が出ているという。緊急にレーザーで手術してもらうということもあった。

(3)海外との交流と調査

 研究所業務との関連で、海外との交流と調査に関わったことも忘れがたい。大原社研に就職していなければ、以下に記すような外国旅行はほとんど実現しなかったに違いない。海外に目を開いて国際的なつながりを作ってもらえたのも、大原社研のお陰だったと言える。
 私の最初の海外旅行は、記述した都職労調査団の随員としての欧州5カ国訪問だった。この時知り合った2人とは、今も付き合いがある。これは大原社研の業務ではなかったが、公務員労働組合の調査という点では全く無関係というわけではなかった。
 次の外国訪問は韓国である。大原社研と仁川の仁荷大学との共同研究プロジェクトや講演、研究交流協定の締結などのために韓国訪問は7回を数えた 。これほど訪韓することになるとは夢にも思っていなかったが、盧武鉉政権で労働部長官(労働大臣)となる金大煥先生など多くの研究者と知り合い交流することができた。
 3番目の外国訪問は中国の上海外語学院への2カ月間の短期留学である。これは法政大学との相互交換留学制度によるもので、「抗日戦争と中国共産党」というテーマを掲げて約1カ月間かけて中国各地をめぐった。その調査旅行の詳細は『労働法律旬報』に連載している 。
 そして、私の海外経験のハイライトともいえるものがハーバード大学ライシャワー日本研究所への留学である。そのきっかけは大原社研に客員研究員として滞在していたアンドリュー・ゴードンさんと知り合ったことだった。「留学する時は頼みますよ」とお願いしていたところ、ゴードンさんがデューク大学からハーバード大学に移ったため、私の留学先もそれに連れて変わったのである。
 ハーバード大学には1年間在籍し、2001年8月31日にボストンのローガン空港からヨーロッパに向けて出発した。半年かけて世界の労働組合と労働資料館を調査するためである。その直後に、9.11同時多発テロが勃発するという偶然もあった。地球を一周して私が訪問したのはアメリカを含めて33ヵ国で、都市と場所は約90ヵ所に及んだ。この調査旅行については研究所叢書にまとめてあるので、詳しくはそちらをご覧いただきたい 。
 この他、個人的な外国訪問としては、ハワイへの1週間の旅、中国東北部(旧満州地域)への旅行、中国の西域(敦煌など)がある。このような形で数多くの国や都市を訪問できたのも、大原社研に在籍していたたまものだった。大原社研がIALHI(労働史研究機関国際協会、The International Association of Labour History Institutions)に加盟していなければ外国の資料館の訪問は実現できなかったにちがいない 。中国東北部への個人旅行も、中国からやって来た客員研究員に案内してもらってのものだった 。

 むすび

 私は32歳で兼任研究員として採用され、63歳で早期退職するまでの31年間、大原社研に在職した。そのうちの大半は『年鑑』の執筆と編集に従事していたことになる。この私の半生を改めて振り返ってみて、「何と恵まれていたことか」との思いを強くしている。
 第1に、大原社研という場ないしは器の有難さである。歴史と伝統があり、研究所としての実績は十分で、海外でも知名度抜群だった。外国の資料館への訪問では、相手がアーキビストだということもあって、法政大学は知らなくても大原社研の名前は知っていた。原資料を含む研究環境の素晴らしさは言うまでもない。ただし、私自身はこれらの資料を充分に活用できず、「宝の山」にいながら、その「宝」を充分に生かすことができなかったのは悔やまれる。
 それだけではない。多摩キャンパスへの移転に伴う研究所施設の充実、組織改編による若手の登用、二村・早川元所長はじめ嶺学・相田利雄・原伸子の歴代所長による上下関係のない自由で民主的な研究所運営、女性も臨時職員も分け隔てなく処遇する公平さなどは特筆される。懇親会も活発で、私にとってはまことに居心地の良い労働環境だったというほかない。
 第2に、研究所での業務ないしは仕事に恵まれた点である。『大原雑誌』編集の担当に始まり、『年鑑』編集と戦後社会運動資料の復刻、研究プロジェクトや大型出版企画への参加などをはじめ、個人的な著作の刊行や講演活動など大変充実した仕事をさせていただいた 。
 これらについては、すでに書いたので詳しくは触れない。やるべき仕事が、やって面白く身に付き、さらにやりたくなるような性格のものだった。そのためにいささか無理をしたきらいもなかったわけではない。椅子に座り続けた不健康な生活がたたってギックリ腰や腰痛になったり、左目の出血があったり何度も痛風の発作に襲われたりするなど、不健康で過労とも言える勤務実態であったことは否めない。
 同時に、それによって自己の限界を超え、大きく成長できたように思える。早期退職して以降は意識的に体力と健康の回復につとめ、ウォーキングとダイエットによって現役時代の最大時から25キロの減量に成功し、体調も大いに改善された。
 第3に、研究所内を中心とする先輩・同僚・後輩など、人とのつながりにも恵まれたことである。『年鑑』編集をはじめとして過酷ともいえる勤務を苦にしなかったのは、それを支え励ましてくれる仲間がいたからだ。仕事や研究活動を通じて得られた人間的なつながりは、私にとって一生の「宝物」である。
 ここで、今まで挙げていない恩人の名前を追加しておきたい。都立大学で塩田先生が大学を去った後、ゼミ生としてお世話になった金子ハルオ先生、大学院で中林先生とともに面倒を見ていただいた田沼肇 先生、最初の単著出版で助けていただいた畑田重夫先生 、退職後の研究会でお世話になり、私が立候補した八王子市長選挙で応援演説に来て下さった下山房雄先生などである。
 大原社研で過ごした日々をふりかえれば、懐かしい思い出の数々が走馬灯のように浮かんでは消えていく。「大原ファミリー」の一員として充実した毎日だった。研究所というより切磋琢磨する道場のような試練の場であったが、今となってはただ感謝しかない。

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