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8月2日(金) 戦後史における自民党政治―その罪と罰を考える(その2) [論攷]

〔以下の論攷は『学習の友 別冊 2024』「自民党政治を根本から変えよう」に掲載されたものです。3回に分けてアップさせていただきます〕

 保守政治の転換点としての中曽根政権

 自民党内の3つの潮流は同じような力関係で推移したわけではありません。とりわけ、保守本流と傍流右派の力関係は1980年代中葉に大きく変化します。1982年から87年までの中曽根政権時代に、保守本流と傍流右派の力関係が逆転し始めるからです。
 中曽根首相は憲法改正を含む占領政策の是正という改進党の政策大綱を1952年に起草し、56年には「この憲法のある限り無条件降伏続くなり」という「憲法改正の歌」を作詞していました。政治家となった最初から、一貫して明確な明文改憲論者だったのです。首相時代にも自分の内閣ではタイムテーブルに載せないと断りつつ、憲法改正の必要性を主張していました。
 対外政策では、「国際国家論」を掲げて対米忖度従属路線を選択し、就任早々に訪韓して悪化していた軍事政権との関係を修復しました。「日米両国は運命共同体」だとして日本列島不沈空母論、3海峡封鎖、シーレーン防衛などを唱え、GNP比1%枠の突破など軍事力強化の方向を打ち出し、戦後の首相として初めて靖国神社を参拝するなど復古的な言動も目立ちました。このような憲法の平和主義に反する軍事大国化の方向は後継政権に引き継がれ、岸田政権の大軍拡路線で全面開花することになります。
 中曽根首相は「戦後政治の総決算」を掲げましたが、その真意は保守本流路線への挑戦にありました。実際には戦後(保守本流)政治の総決算であり、これによって国の富を軍事ではなく経済や産業の育成、福祉などの民生に振り向ける「9条の経済効果」は薄れていきます。80年代をピークに、バブル経済がはじけるとともに高度経済成長は幕を閉じ、90年代以降、国力を衰退させる下り坂を歩み始めることになります。

 新自由主義の全盛期としての小泉政権

 1986年の「死んだふり解散」によって中曽根首相は大勝し、総裁任期を延長して「86年体制」を豪語しました(これについて、詳しくは拙著『戦後保守政治の転換―「86年体制」とは何か』ゆぴてる社、1987年、を参照)。この時、戦後保守政治は反憲法政治へと転換し、保守本流と傍流右派との力関係は逆転し始めます。憲法を敵視し蹂躙する右派的な政治路線は旧田中派の一部の離党などもあって勢力を拡大し、右傾化を完成させることになるのです。
 また、中曽根政権は第二次臨時行政調査会(第二臨調)を設置して臨調・行革路線を打ち出し、国鉄の分割・民営化などを断行しました。修正資本主義的な福祉国家路線と全面的に対峙する新自由主義の始まりです。政治手法としても、野党や党内の抵抗を回避するために国会審議を経ずに政策決定を行う審議会多用のブレーン政治を活用しました。これは安倍政権や岸田政権による有識者会議などの利用、閣議決定による官邸主導の政策決定に受け継がれます。
 新自由主義は新保守主義経済学の一流派で、ケインズ主義的な福祉国家政策に対して「小さな政府」を主張しました。具体的には、国鉄・電電・専売の3公社など国有企業の民営化、公的規制の緩和、民間活力の発揮を打ち出します。その嚆矢は中曽根政権でしたが、全盛期は小泉政権の郵政民営化などの「聖域なき構造改革」でした。
 郵政民営化には自民党内からも反対が出て関連法案は参院で否決されます。小泉首相は衆院を解散して反対する議員を排除し、「刺客」を送って落選させるなど官邸主導で強引な党運営を行いました。コンセンサスを重視する保守本流の合意漸進路線とは正反対の政治手法です。
 しかし、ポピュリスト的な言動とテレビなどを活用したパフォーマンスによって小泉内閣は高い支持率を獲得し、総合規制改革会議などを設置して労働の規制緩和などの構造改革を推し進めます。契約社員や派遣社員などの非正規労働者が激増し、実質賃金の低下と労働条件の悪化も進みました。貧困化と格差の拡大、社会保障の削減と「平成の大合併」や地方交付税の削減などの「三位一体の改革」によって地方は疲弊し、日本は持続困難な社会へと変質していきます。

 罰としての政権交代

 政権担当者が犯した罪に対する最大の罰は、政権から追い出されることです。自民党もこのような形で罰を受ける危機に瀕したことがあります。保守本流政治が定着した70年代以降、自民党が政権を失うかもしれない瀬戸際に立たされたことは4回ありました。
 1回目は、田中角栄政権末期から三木政権にかけてです。『日本列島改造論』と狂乱物価、金脈問題の暴露によって田中首相は辞任に追い込まれ、その後、ロッキード事件が発覚して元首相の逮捕という驚天動地の事態が起きました。しかし、自民党は「ダーテイー田中」から「クリーン三木」へという「振り子の論理」による「疑似政権交代」で国民の目を欺き、政権維持に成功します。
 2回目は、宮沢喜一政権から細川護熙政権にかけてです。自民党の金権体質は改善されず、リクルート事件、東京佐川急便事件、ゼネコン汚職や金丸信副総裁の巨額脱税事件などによって政治改革が大きな課題になりました。宮沢首相は衆院を解散し、自民党が分裂して新生党や新党さきがけが結成され、日本新党など8党・政派による細川連立政権が樹立されます。その結果、「55年体制」は崩壊しました。
 3回目は、森喜朗政権から小泉純一郎政権にかけてです。森首相は「日本の国、まさに天皇を中心としている神の国」と述べ、衆院選挙中に無党派層は「投票日には寝ていてくれればいいのだが」と発言し、支持率が急落して辞任します。このとき、「自民党をぶっ壊す」と言って登場したのが小泉純一郎でした。結局、自民党は息を吹き返し、「疑似政権交代」を取り繕うことで生き延びたのです。
 4回目は、麻生太郎政権から鳩山由紀夫政権にかけてです。麻生政権は閣僚などの失態や漢字の読み間違いなどで顰蹙を買い、支持率が急落して都議選で大敗します。追い込まれた麻生首相は任期満了直前になって解散・総選挙に踏み切りましたが自民党は大敗して過半数を割り、民主・社民・国民新3党の連立で鳩山政権が成立します。これは戦後初めての本格的な政権交代でしたが、中心となった民主党の不手際や準備不足もあって3年という短さで幕を閉じ、自民党政権の復活を許すことになります。

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