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8月17日(月) 麻生首相が通っていたのは「オーダーメード」の「麻生塾小学校」だった [首相]

 この人の頭の中は、一体どうなっているのでしょうか。これだけKY(漢字読めない)と言われているのに、相も変わらず、読み間違い、言い間違いが続いています。

 8月9日の長崎原爆犠牲者慰霊平和祈念式典のあいさつで、麻生首相は「一命をとりとめた方も、いやすことのできない傷跡を残すこととなられました」と述べたとき、「傷跡(きずあと)」と読むべきところを「しょうせき」と読みました。またもや、「消すことのできない傷跡(きずあと)」を残したというわけです。
 8月15日には、全国戦没者追悼式の式辞で「国際平和を誠実に希求する国家として、世界から一層高い信頼を得られるよう、全力を尽くしてまいります」と読んだとき、「希求(ききゅう)」とすべきところを「ききょう」と読み間違えました。まことに、奇矯(ききょう)な振る舞いと言うべきでしょうか。
 さらに8月16日、山梨県昭和町での演説会で山梨1区から立候補を予定している「赤池誠章(あかいけまさあき)」さんの名前を「あかいけりょうせい」と言い間違えました。わざわざ応援に来たにもかかわらず、その応援すべき相手の名前を間違えてしまった麻生さんの演説を、当の赤池さんはどのような気持ちで聞いていたでしょうか。

 「読み間違えたり言い間違えたりなどというのは、取るに足らない小さな問題だ。指導者としてきちんと政治運営を行っていれば問題はない」と仰る方がおられるかもしれません。それは、政治指導者としての信頼があればの話です。
 残念ながら、麻生さんは、国民だけでなく自民党内での信頼さえ得られていません。解散前の「麻生降ろし」は、その象徴です。
 そのような方が、この程度のおつむだというのですから、皆が心配するのも当然でしょう。「これで大丈夫なのか。漢字もきちんと読めず、言い間違いをするような人に、トップリーダーがつとまるのか」と……。

 まともに漢字も読めない麻生首相は、どのような教育を受けてきたのかと思っていましたら、驚きました。最近読んだ上杉隆さんの『世襲議員のからくり』(文春新書)という本に、次のように書いてあったからです。

 麻生は完全な東京育ちではない。よって小学校3年まで地元の福岡・飯塚の小学校に通っていたから、地方を知っているという反論もできる。だが、その実態は東京育ち以上の“特別扱い”だった。
 麻生の地元事務所の元秘書で、「麻生」社史資料室顧問の深町純亮は、1947(昭和22)年、太郎が小学校に上がるのに合わせて「麻生塾小学校」が作られたと語る。
 戦前に「麻生商店」の中枢をになう社員を育成するために作られた、学費ゼロの「麻生塾」という学校があった。それを発展させたものという触れ込みで作られたのが「麻生塾小学校」だ。実際は、麻生が就学年齢に達するのに合わせて作られた「学校」で生徒は太郎を含めて4人。全員が「麻生」の幹部社員の子どもだった、と深町は証言する。
 都心の名門校に通うどころか、自分のために学校まで作ってもらったのだ。
 これは、麻生の人生において象徴的な出来事だ。常に周囲が麻生に合わせてくれる「オーダーメード」の人生は、この後もずっと続いていく(39頁)。

 どうです。驚いたでしょう。麻生さんは、自分のために、たった4人しか生徒のいない小学校を作ってもらったというのですから……。
 麻生さんの「上から目線」と学力不足の原因は、このようなところに求められそうです。「オーダーメード」で作られた学校に、同級生は「幹部社員のこども」だったというわけですから……。
 これでは、厳しく教えられることもなく、心から許し合い鍛え合えるような友達もできないでしょう。このような教育環境では、人格形成に問題が生じ、十分な学力が見につかないのも当然ではないでしょうか。

 都議選の応援演説では、「惜敗を期して」と口走った麻生さんです。明日は総選挙の公示日ですが、麻生さんは第一声で何と仰るのでしょうか。
 やはり、「負けっぷりを良くしよう」とでも言うのでしょうか。このような形で注目を集めるのは麻生さんにしかできない「芸当」ではありますが、回りの人は気が気じゃないでしょうね。