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10月31日(土) 松川事件60周年全国集会に当たっての挨拶 [挨拶]

 これから生協労連・第2回生協政策研究集会での講演のために、渋谷に向かいます。その後、大急ぎで品川から新幹線に飛び乗り、社会政策学会が開かれている名古屋の金城学院大学に行く予定です。

 このところ、フォーラムや展示会でのあいさつが続いております。その前に、10月17~18日の松川事件60周年記念全国集会でもあいさつしました。
 この集会の模様は新聞で報じられ、このブログでも紹介しています。当初の予想を数倍上回る1200人もの方が詰めかけ、大成功を収めました。
 私のあいさつは、初日の最後に行われたものです。何故かプログラムに記載されていませんでしたので、私の方から申し出て行ったあいさつです。

 少し遅くなりましたが、ここにアップさせていただきます。

松川事件60周年全国集会に当たっての挨拶

 松川事件60周年全国集会に当たり、法政大学大原社会問題研究所を代表して、ひと言ご挨拶させていただきます。
 最後に登壇しましたが、「真打ち」というわけではありません。私がここに登場いたしましたのは、私どもの研究所が松川事件の裁判資料を所蔵しているからでございます。この集会に、5人の被告の方が参加されているということですが、ぜひ、時間を取って、一度研究所の資料をご覧になっていただきたいと思います。
 松川事件は、同じ頃発生しました下山事件・三鷹事件とならんで、戦後の社会・労働運動史におきましてもきわめて注目すべき、謀略色の濃い事件でした。伊部先生が書かれた『松川裁判から、いま何を学ぶか』というご本の副題にありますように、戦後最大のえん罪事件でもありました。
 しかし、14年間にわたる裁判と救援活動の結果、被疑者全員の無実が確定するという、戦後の裁判運動史上、画期的な成果を上げました。これは、被疑者の無罪を信じ、その救援のために力を尽くされた多くの名もなき人々の努力のたまものであり、正義と人道、基本的人権の擁護と民主主義のために戦い続けてきた戦後社会運動における金字塔の一つであります。
 大原社会問題研究所は、この松川裁判関係の資料を所蔵・保存して閲覧に供し、事件に関心を持たれる多くの運動関係者や研究者の便宜を図ってまいりました。これらの資料は、これも伊部先生のご著書でのご指摘通り、「いわば既存の資料(集積済みの)資料の移管と保存を特徴」としておりまして、松川事件の責任追及のための全国連絡会議代表世話人会議が所有していた裁判資料を、1971年4月23日に結ばれました契約によって、当研究所の所有するところとなったものです。
 このような当研究所の資料とは異なって、福島大学松川資料室によって収集・保存されている松川関係資料は、松川運動の力によって探索され、収集されたものであり、資料収集自体が一つの運動であったと言うべきでしょう。
 このような形で収集された福島大学松川資料室の資料は、当研究所所蔵の資料と双璧をなすものであり、互いに補い合うものであると思います。今後とも力を合わせて、松川事件の風化を防ぐと共にその真相を伝え、二度と再び、このようないまわしい事件が起きないよう、基本的人権と民主主義が守られる社会の実現のために力を尽くす所存でございます。
 かかる決意を表明いたしまして、松川事件60周年全国集会に当たってのあいさつに代えさせていただきます。

10月30日(金) 展示会「水俣病と向き合った労働者たち」のオープニングへのあいさつ [挨拶]

 明日から、金城学院大学で社会政策学会が始まります。本来であれば、今日から名古屋に向かっているはずなのですが、まだ東京におります。
 というのは、明日の午後、生協労連・第2回生協政策研究集会での講演を頼まれてしまったからです。学会へは、それが終わってから行くつもりですので、懇親会に間に合うかどうかというところでしょう。

 今日、東京にいたために、京都から上京する法律文化社の編集者と、研究所で打ち合わせをすることになりました。政権交代を踏まえて、新しい日本政治の入門書を書き、来年、法律文化社から出版することになっているからです。
 ところが、今日からは展示会「水俣病と向き合った労働者たち」も始まります。急遽、このオープニング・セレモニーに顔を出して欲しいという要請を受けました。
 共催団体を代表してあいさつして欲しいというわけです。記者会見も予定されているといいます。

 ということで、今日は、朝から法政大学市ヶ谷キャンパスのボアソナード・タワー14階「博物館展示室」での展示会のオープニングであいさつし、その後の記者会見に同席して若干の発言を行い、多摩キャンパスの研究所に向かいました。そこで、ファクスで送られてきていた『国公労調査時報』12月号の校正ゲラに赤を入れ、新しい拙著についての打ち合わせを行い、明日の講演の準備をし、来週の11月6日(金)に予定されている「働き方ネット大阪第9回つどい」の講演レジュメを送付しました。
 これで、明日から東京を離れることができます。ついでに、中央線の旅をしてくるつもりですので、多少はゆっくりできるかもしれません。

 ところで、展示会「水俣病と向き合った労働者たち」には、新日本窒素労働組合の原資料が80点ほど展示されています。なかには、レッドパージで解雇された人の名簿、第2組合による切り崩しに関する資料、闘争中に警察が行っていた無線傍受の記録など、珍しいものも含まれているということです。
 記者会見には、共同通信、熊本日日新聞、西日本新聞、週刊金曜日などの記者が顔を見せていました。そのうち、関連する記事が出るものと期待しています。
 東京での展示会は、今日から11月8日(日)までです。多くの方に足を運んでいただきますよう願っています。

 なお、この展示会のオープニング・セレモニーで、私は次のようなあいさつを行いました。参考までに、以下に掲載させていただきます。

展示会「水俣病と向き合った労働者たち」のオープニングに当たってのあいさつ

 展示会「水俣病と向き合った労働者たち」のオープニングに当たり、共催団体としての法政大学大原社会問題研究所を代表して、ひと言ごあいさつ申し上げます。
 水俣病と言えば、工場排水による悲惨かつ大量の人的被害をもたらした恐るべき公害として、今日では世界中に知られております。この加害企業であるチッソの労働組合としては、会社寄りの第2組合で連合傘下の化学総連に加盟しているチッソ労働組合が良く知られております。しかし、もう一つの労働組合があったこと、公害企業の労働組合でありながら、チッソの社会的責任を内部から追及し、水俣病の被害者を支えた労働組合が存在したことは、残念ながら、十分に知られているわけではありません。
 今回の展示会は、この「もう一つの労働組合」である新日本窒素労働組合に光を当て、公害発生企業で働いた労働者としての贖罪のために異例の「恥宣言」まで行った労働組合の存在を明らかにするうえで、大きな意義を持っています。同時に、会社側の言いなりにならず、水俣病の患者の側に身を寄せた人々の存在を明らかにすることによって、チッソで働いた労働者の名誉を回復するという点でも、大きな意義があると言ってよいのではないでしょうか。
 現在、『沈まぬ太陽』という映画が公開され、大きな話題を呼んでおります。この主人公である恩地元のモデルは、日本航空の第1組合の委員長であった小倉寛太郎氏であると言われております。主人公が9年7ヵ月もの長期にわたって海外の辺地をたらい回しにされたのは実話であります。
 この小倉氏と同様に、会社の誘いを拒み、切り崩しに抗い、働く者の誇りと矜持を持ち、人間としての最後の一線を守り続けた人々こそ、新日本窒素労働組合を担った労働者たちでありました。ここに展示されている資料の数々は、もう一つの「沈まぬ太陽」の存在を示す“歴史の証言者たち”にほかなりません。
 これらの生の資料を直接眼にすることによって、今日の厳しい経済・雇用情勢の下にあえぐ多くの労働者が、励まされ、勇気づけられることを願いまして、展示会「水俣病と向き合った労働者たち」のオープニングに際してのあいさつに代えさせていただきます。

10月29日(木) 大原社会問題研究所創立90周年記念フォーラムへのあいさつ [挨拶]

 一昨日の27日(火)、大原社会問題研究所の創立90周年を記念して、フォーラムが開催されました。120人もの方に出席していただき、無事に終了してホッとしております。

 フォーラム前日の26日(月)、台風が関東近海を通過し、一日中、雨が降り続きました。その中を、国公労連の本部で開かれた行財政総合研究所公務員制度研究会に出席し、労働組合運動の立場から鳩山新政権をどう見るかについて、報告させていただきました。
 研究会が始まる前、「僕を覚えている?」と仰る方がおられます。見覚えはありますが、名前は思い出せません。
 名前をうかがって驚きました。都立大学時代にお目にかかった法学部のF大先輩です。大学1年生だったときにお会いして以来ですから、40年ぶりの再会でした。

 研究会が終わってからは、大学院時代の先輩にもお目にかかりました。といっても、こちらの方は、8月の私大教連教研集会でお世話になったM先輩です。
 研究会の参加者は30人ほどでしたが、気がつきませんでした。勤務校は鹿児島の大学ですから、まさかお出でになっているとは思っていませんでしたから……。
 そう言えば、国公労連はM先輩の古巣ですから、ここに登場しても何の不思議もありません。フォーラムの準備などもあってすぐに研究所に帰らなければならず、ほとんどお話しできなかったのは残念でしたが……。

 ということで、雨の中、法政大学の多摩キャンパスに向かいました。大学に着く頃、雨はほとんど上がっていましたが、台風の影響がどうなるか、気が気ではありませんでした。何しろ、私は自他共に認める「雨男」で、先日は台風による強風のために電車に閉じこめられたばかりでしたから……。
 この日は、フォーラムの会場である百周年記念館に泊まり込みです。翌日の天気を気にしながら、晴れることを天に祈って眠りにつきました。

 カーテンを閉めずに寝たので、眼醒めたら明るくなり始めた窓の外が見えます。雨は降っていないようでした。
 急いで窓際まで行って外を見上げたら、青空が見えます。嬉しかったですね。台風一過の好天でした。
 ということで、秋の爽やかな日差しが降り注ぐ中、120人もの方にお出でいただき、フォーラムは大成功しました。フォーラムの内容も素晴らしいもので、改めて研究所の90年の歴史を振り返り、創立者であった大原孫三郎氏の偉業と大原社会問題研究所の重要な役割を確認することができたと思います。

 遠くアメリカからやって来られたハーバード大学のゴードン先生とは、私がアメリカを発った2001年以来の再会でした。また、ずっと前に一度お目にかかったことのある大原美術館の大原謙一郎理事長にも、お話いただくことができました。
 研究所の先輩や懐かしい方々にもお目にかかり、旧交を暖めることができました。レセプションに予定していた以上の多くの方の参加があり、料理がなくなって早めにお開きとなってしまったのは予想外でしたが‥……。
 ということで、フォーラムの成功のためにご協力いただいた全ての方々に、この場を借りて厚くお礼申し上げます。ありがとうございました。

 なお、このフォーラムの開会に当たり、私は研究所を代表してあいさつしました。参考のために、以下に掲げさせていただきます。

 本日は、朝早くから、都心から離れた多摩キャンパスにお出でいただきましてありがとうございます。「90周年記念フォーラム」の開会に当たりまして、ひと言、ご挨拶申し上げます。
 大原社会問題研究所は、今を去ること90年の昔、1919年(大正8)年2月9日に大原孫三郎氏によって設立されました。社会科学分野の研究所としては、日本で最も古い歴史を持つ研究所でございます。研究所が研究するのは当たり前ですが、研究される研究所でもあるのは大原社会問題研究所くらいではないでしょうか。
 大阪の天王寺で産声を上げた研究所は、1937年に東京に移転し、戦中・戦後の厳しい時代を経て1949年には法政大学の付置研究所となって市ヶ谷キャンパスに移りました。今年、2009年は、研究所が法政大学と合併してから60年という記念の年でもあります。その後、社会学部・経済学部の移転にともない、1986年に研究所は、ここ多摩キャンパスの図書館・研究所棟に移り、今日に至っております。
 このように、大原社会問題研究所が、戦前、戦中、戦後の混乱期を乗り切り、現在に至るまで90年もの歴史を刻むことができましたのは、奇跡とも言うべき数々の僥倖に恵まれたからであります。
 なかでも、初代所長の高野岩三郎氏をはじめ、大内兵衛、森戸辰男、櫛田民蔵、権田保之助、細川嘉六、宇野弘蔵、笠信太郎、久留間鮫造、宇佐美誠次郎、舟橋尚道、大島清、中林賢二郎、田沼肇など、優れた識見を持つ優秀で献身的な研究員、所員、職員など、多くの人材に恵まれたことは、特筆に値することであります。この機会に、これまで大原社会問題研究所の活動を担い、業務を支え、ご協力下さいました全てのスタッフや関係者に、心より感謝の言葉を述べさせていただきます。
 大原社会問題研究所は、①社会・労働問題に関する調査・研究を行う機関、②専門図書館・資料館、③社会・労働問題の資料・文献情報センターという機能を兼ね備えているという特色を有しております。とりわけ、戦前からの労働組合運動関係の原資料の収集・保存という点では、他の研究所や資料館の追随を許さぬものと自負しております。また、昨今の厳しい経済・雇用情勢の下で、労働問題や労働運動についての研究の意義も高まってきております。
 所蔵資料を生かした歴史研究という点でも、新たな現代的な課題についての研究という点でも、研究所が担うべき役割は大きく、社会的な期待と責任も増大しつつあると言わなければなりません。今後とも、研究所の実績と特色を生かしつつ、現代社会に生起する労働問題の解明を中心にしながら、幅広い社会問題の研究にも力を入れる所存でございます。このような未来に向けての跳躍点となるべく、本日のフォーラムが成功いたしますよう、皆様のご協力をお願いする次第です。
 なお、このフォーラムに対しまして、大原関係諸機関によるご後援、関連研究諸団体や自治体からの協賛をいただきました。また、案内ビラの印刷には間に合いませんでしたが、大阪歴史博物館と株式会社「クラレ」からも後援と協賛をいただいております。11月3日には大阪歴史博物館でも創立90周年を記念してのシンポジウムが開催されます。ご紹介し、感謝の意を表する次第です。
 最後に、これまでのご支援・ご鞭撻に重ねてお礼申し上げますと共に、今後とも研究所の活動へのご支援・ご協力を賜りますよう、心からお願いいたしまして、開会に当たりましての挨拶に代えさせていただきます。

10月25日(日) しばらくの間はイヴェントや講演が目白押し [日常]

 いよいよ「大原社会問題研究所創立90周年記念フォーラム」http://oohara.mt.tama.hosei.ac.jp/notice/90forum.pdfが迫ってきました。今週の火曜日、27日に法政大学の多摩キャンパスで行われます。
 まだ、席に多少の余裕があるようです。是非、多くの方にご参加いただければ、と思います。

 今週から、この90周年フォーラムをはじめとして、多くのイヴェントや講演が予定されています。しばらくの間、その準備と取り組みで忙殺されそうです。
 明日の月曜日(26日)、日大の永山利和先生からの依頼で、行財政総合研究所公務員制度研究会で報告します。鳩山新政権の発足と公務労働問題については、国公労連発行の理論・政策・資料誌『国公労調査時報』の12月号にも短い原稿を書きました。また、銀行労働研究会の刊行物にも「視点」という欄に一文を書きましたので、ご笑覧いただければ幸いです。
 国公労連の本部での講演が終わったら、多摩キャンパスに直行して翌日のフォーラムの準備状況を点検しなければなりません。この日は、会場の「百周年記念館」に泊まり込みです。

 フォーラムの翌日の水曜日(28日)には研究員会議と月例研究会があり、金曜日(30日)からは、「水俣病とむきあった労働者」の展示会http://oohara.mt.tama.hosei.ac.jp/notice/minamata.pdfが始まります。11月8日までの東京展は、法政大学市ヶ谷キャンパスのボアソナード・タワー14階の博物館展示室で開催されます。
 30日の午前10時からオープンしますが、大原社会問題研究所も共催している関係で、このオープンには私も立ち会う予定です。この展示会にも、多くの方が足を運ばれることを願っています。
 11月3日(火)にはドキュメンタリー映画の上映とミニ・シンポジウムが行われ、最終日の8日(日)には、外濠校舎5階のS505教室でシンポジウムも行われます。11月8日(日)には亡き義母の納骨が予定されており、私は参加できませんが、こちらの方にもご参加いただければ幸いです。

 本来であれば、31日から金城学院大学で開かれる社会政策学会に参加するために名古屋に向かうはずですが、30日も東京におります。というのは、10月31日(金)の午後、生協労連・第2回生協政策研究集会で講演することになっているからです。
 これが終わったら、すぐに新幹線で名古屋に向かうつもりですが、懇親会に間に合うかどうか、というところでしょう。この日の共通論題の議論を聞くことができないのは残念です。

 11月6日(金)には、名古屋を通り過ぎて大阪に行く予定です。この日、「働き方ネット大阪」の主催による「第9回つどい」http://hatarakikata.net/で、講演することになっているからです。
 午後6時半から、「エルおおさか南館」5階のホールで「働 き 方 を ど う 変 え る か―民主党政権に注文する」という演題で講演します。「エルおおさか」には、昨秋の労働資料協の総会、今春の職場の人権研究会での講演と、このところ良くお邪魔しています。
 こちらの方は、参加自由です。お近くの方、関心のある方にお出でいただければ、嬉しい限りです。

 このほか、11月12日(木)~13日(金)に労働資料協の総会、11月14日(土)に早稲田大学で開かれる歴史科学協議会第43回大会・総会http://wwwsoc.nii.ac.jp/rekihyo/information.htmlでの総合テーマ「世界史認識と世界史の構想Ⅲ」についてのコメント、12月4日(金)には社会的労働運動研究会での報告、12月5日(土)には第3次産業労組懇談会での講演、12月7日(月)には北海道の札幌学院大学での講義など、講演、報告、講義が目白押しです。
 とまあ、書いているだけで、乗り切れるかどうか、心配になるほどです。どうなりますことやら……。

 ということで、このブログも、これまでのようには頻繁に更新できなくなる可能性大ですが、お許し下さい。その代わりと言っては何ですが、私の話を直接、聞きにお出でいただければ幸いです。

10月23日(金) 格差は政治の責任 [論攷]

〔以下のものは、厚生労働省による「相対的貧困率」の発表に対して寄せた談話です。『産経新聞』2009年10月21日付に掲載されました。〕

格差は政治の責任

 「やはり」というのが率直な感想だ。これまで言われていた貧困の拡大、格差の増大が初めて具体的な数字で示された。平成4年、宮沢内閣の生活大国5ヵ年計画の理念は「物質的な豊かさから精神的な豊かさへ」だったが、十数年で日本はここまで“転落”した。14年から今回の調査年の19年まで続いた戦後最長の景気拡大で大企業は潤ったが、利益が一般国民に行き渡らなかった。これは富の再分配政策を取らず、むしろ規制緩和で非正規労働、ワーキングプア(働く貧困層)を増やした政治の責任だ。政権交代もその結果といえるが、政府は貧困世帯の生活再建へ緊急に取り組まなければならない。


10月22日(木) 中小企業も支援すべき [論攷]

〔以下のものは、労働者派遣法改正への中小企業の対応についての談話です。『朝日新聞』西部本社版2009年10月9日付に掲載されました。〕

中小企業も支援すべき

 問題の多い派遣労働の規制強化は避けられない。それを見越して、製造業大手では派遣社員から期間従業員への切り替えがすすんでいる。いずれ正社員との均等待遇や最低賃金の引き上げも必要だが、不況下の中小企業にとってはどれも厳しい。国は非正規労働者の待遇改善だけでなく、彼らを雇用する中小企業も支援すべきだ。雇用調整助成金を拡充した上で、意欲的な技術開発や従業員の適正処遇を条件に助成するような法制度を設け、支援の姿勢を明確にしてほしい。大手が中小に負担を押し付ける構造も問題。中小が苦しいままだと非正規の待遇改善は進まない。地域社会の衰退を止めるためにも中小企業の経営安定が必要だ。

10月20日(火) 福島の旅 [旅]

 福島から帰ってきて、旅行中にたまっていた新聞に目を通しました。すると、『東京新聞』10月17日付の「こちら特報部」欄に、かなりのスペースをとって「松川資料室 存続の危機」「事件から60年 スタッフ確保難しく」「福島大で今日から集会」という記事が出ていました。

 昨日のブログで、「どうしてこんなに集まったのか」という「ミラクル」について書きましたが、それへの回答の一つがここにあるのかもしれません。新聞などのマスコミ報道の影響です。
 それに、栃木の足利事件での菅家利和さんのえん罪事件や裁判員制度の開始などによって、裁判やえん罪事件、救援活動などへの関心が高まっていたという背景もあったでしょう。無実の者が罪をでっち上げられ、人生を狂わせられてしまう権力犯罪に対する懸念と怒りが、広がっているということでしょうか。

 ところが、この『東京新聞』の記事を、私は帰宅するまで目にすることができませんでした。というのは、その前日である16日(金)の夜から、福島に出かけていたからです。
 もともとは、そのような予定はありませんでした。しかし、10月10日(土)の政治学会で、事情がガラリと変わってしまったのです。
 この日の共通論題の会場である大教室に入ろうとした、その時でした。入り口で「五十嵐」と呼ぶ声がします。そこでバッタリ顔を合わせたのが、法政大学大学院の先輩で福島大学におられるM教授だったのです。

 これはまさしく「神様のお導き」だったにちがいありません。会場に入ってしまえば会える可能性は少なく、長い間お会いしていず遠くで見かけても分からなかったかもしれないのですから……。
 この先輩の強い勧めもあって、迷った末に、一日早く福島に行くことにしました。こうして、先輩の車で案内していただき、紅葉狩りと温泉の旅を楽しむことができたというわけです。
 福島市内はまだ紅葉には早かったですが、磐梯吾妻スカイラインの入り口辺から次第に葉の色が変わり始め、絶好の展望ポイントである「つばくろ谷」から吾妻小富士までは錦織なすとの形容がピッタリの絶景が続きました。好天にも恵まれ、青い空に木々の黄色や赤、緑色が映え、黄色の草紅葉と緑の榛松がパッチワークのように広がっています。

 下る途中、新野地温泉相模屋という立ち寄り湯に入りました。ここは完全な野天風呂で、白く濁った湯船の側に簡単な脱衣所があるだけです。
 近くには煙が立ち上る源泉があり、かすかに硫黄のにおいが漂ってきます。遮るもののない湯船に浸かりましたが、残念ながらこの辺の紅葉はもう終わりで、周辺の木々は葉を落としていました。
 そこからの帰り道、下るに連れて紅葉が復活していきます。色づいた葉がヒラヒラと散る中でのドライブを、心ゆくまで楽しむことができました。

 前日の夜も、湯船の下からお湯が自噴している土湯温泉の日帰り湯に入りました。その後、「水平」というお店で地魚と地酒を楽しみましたが、福島の銘酒「飛露喜」が2合で千円という安さです。
 土曜日の昼、「原郷のこけし群西田記念館」を見学した後、「魚菜草」という山野草を食材にした隠れ家的なお店に連れて行っていただき、キノコの天ぷらなど季節の山野草料理をいただきました。知る人ぞ知るお店で、電話予約をしないと入れないそうです。

 というわけで、松川事件60周年記念全国集会が始まる前に、思いもかけず「福島の旅」を楽しむことができたというわけです。泊めていただいたうえに、車で案内してくださったM先輩に、この場を借りてお礼申し上げます。

10月19日(月) 松川事件60周年全国集会、POSSE3周年シンポジウムに参加してきた [社会運動]

 すごい数の人です。「どうしてこんなに集まったのか」と、不思議になるほどの数でした。
 実行委員会では300人程を予想していたものの、どうもそれでは間に合わないということで資料を900部用意したそうですが、結果的に1200人もの参加者であふれました。福島大学で開かれた松川事件60周年記念全国集会です。

 松川事件というのは、戦後最大のえん罪事件です。戦前の最大のえん罪事件である大逆事件に匹敵するもので、同じ頃に起きた下山事件や三鷹事件と同様、謀略色の濃い事件でした。
 1949年8月17日、福島県松川町を通過中だった東北本線上り列車が突如、脱線転覆しました。死亡者の3人は、列車を牽引していた蒸気機関車の乗務員で、発足したばかりの国鉄の職員です。
 事件の現場は東北本線松川駅-金谷川駅間のカーブの曲がり鼻で、検証の結果、何者かによる意図的な列車妨害であったことが判明しました。これを共産党の仕業であるかのような談話を発表したのが、吉田内閣の増田官房長官です。

 こうして、当時、解雇反対や工場閉鎖反対で闘争中だった国労福島支部幹部の10人、東芝松川労組幹部等の10人、計20人が犯人にでっち上げられ、逮捕されます。その結果、労働運動は大きな打撃を受けました。
 被告となった労働者は無罪を訴え、この人々を救おうと、作家の広津和郎氏などをはじめとして「松川運動」「大衆的裁判闘争」と呼ばれる全国的な運動が展開されました。それがどれほどの底力を持っていたかを、今回の全国集会で改めて再認識させられた次第です。
 このような裁判闘争や救援活動の結果、1963年9月に最高裁で全員が無罪になりました。しかし、事件の真相は未だに不明であり、真犯人は捕まっていません。

 現場の近くにある福島大学での全国集会の様子については、昨日付の『しんぶん赤旗』の4面に詳しい記事が出ていますので、そちらをご覧下さい。そこにも書かれていますが、初日の集会の最後に私もあいさつをさせていただきました。
 というのは、大原社会問題研究所には、松川事件関係の裁判資料が保管されているからです。どなたでも閲覧できますので、興味のある方はお出で下さい。
 福島大学には大きな教室がないということで、3つの教室を使ってモニターで中継するほどでした。階段教室の通路まで、人、人、人でいっぱいです。

 地元、松川の人々が大挙してやってきたそうです。全国からも多くの方が集まりましたが、福島大学にある松川事件関係の資料を収集・保存している資料室の存続が危ないということで危機感が高まり、この集会が最後かもしれないという思いに駆られたのかもしれません。
 グループでの申し込みが多かったそうですから、若い頃に「松川運動」に参加した人々が仲間と一緒にやってきたのかもしれません。なかには、この機会に福島の温泉と紅葉を楽しもうという人もいたかもしれません。
 色々な理由が考えられますが、それにしても、当初の予想を4倍も上回る人々が、どうしてこれほど集まったのでしょうか。社会運動の「ミラクル」であり、これ自体が一つの研究課題であるように思いました。

 私も、思いがけない方々にお会いしました。集会であいさつをされた元共産党衆院議員の松本善明さん、学生時代に三鷹事件に遭遇して被害者の救助に当たったことがある元『朝日新聞』東京編集局次長の堀越作治さん、『朝日新聞』記者で夕刊で大逆事件についての連載を行った早野透さん、元下関市立大学学長の下山房雄先生などです。
 松本善明さんは、遠い昔、電話で問い合わせを受けてお話したことがありましたが、ご本人は覚えておられませんでした。83歳ということでしたが、大変、お元気そうでした。
 宿舎の土湯温泉「向瀧旅館」で同宿となった本田昇さんは、一審と二審の控訴審で死刑判決を受けた被告の1人でした。この方も83歳ということでしたが、お元気でした。

 60周年の集会で83歳ということは、事件が起きた1949年には23歳だったということになります。被告の中には、10代の青年もいたそうです。
 このような若い、前途有為の青年を20人も犯人にでっち上げ、その青春を奪い人生を狂わすことになった捜査当局の責任は重大であり、激しい怒りを覚えます。その人々全員の無罪を勝ち取って獄窓から救い出した「松川運動」こそは、戦後日本社会の正義と良心を示すものだったと言うべきでしょう。

 その裁判資料を保存している研究所の所長となったのは、私にとっては偶然です。しかし、恩師の塩田庄兵衛先生が『松川運動全史』や『松川15年』に一文を寄せられているように、必ずしも、偶然ということではないのかもしれません。
 塩田先生のご遺志を継ぐような形で、今回、全国集会であいさつし、この運動に関われたのは、私にとっても幸いでした。今後とも、「研究所にある松川関係の資料を大切に保管していかなければ」という使命感のようなものを強く感じた次第です。

 集会で私は、「当研究所の資料とは異なって、福島大学松川資料室によって収集・保存されている松川関係資料は、松川運動の力によって探索され、収集されたものであり、資料収集自体が一つの運動であったと言うべきでしょう。このような形で収集された福島大学松川資料室の資料は、当研究所所蔵の資料と双璧をなすものであり、互いに補い合うものであると思います。今後とも力を合わせて、松川事件の風化を防ぐと共にその真相を伝え、二度と再び、このようないまわしい事件が起きないよう、基本的人権と民主主義が守られる社会の実現のために力を尽くす所存でございます」とあいさつしました。
 大学法人化によって福島大学も財政的人的に困難な条件を抱えているようですが、引き続き資料の収集と保存に尽力されることを、関係者の1人として、強く望みたいと思います。

 この全国集会の2日目には、参加できませんでした。午前中に東京に戻り、午後からNPO法人POSSE3周年記念シンポジウム「どう変わる? 新政権のセーフティネット」に出席しなければならなかったからです。
 こちらの集会には、70人ほどの方が参加されました。報告したのは、私と、ガテン系連帯代表の池田一慶さん、朝日新聞編集員の竹信三恵子さんの3人です。
 意外だった、というのは少々失礼かもしれませんが、参加者のほとんどが若い人たちで、私がいつも話をする集まりとは世代構成がほぼ逆転していたことです。シンポジウムが終わった後の交流会にも30人以上の若者が参加するなど、社会・労働問題に関心を持つ新たな運動の流れを実感することができました。

 このように、松川全国集会ではかつての運動の底力を再確認し、POSSEのシンポジウムでは新たな運動の息吹に触れることができました。このような動きが政権交代という政治的な変化とどのように連動しているのかは分かりませんが、社会運動における新たな変化の始まりであることを期待したいものです。

 なお、土曜日(10月17日)の『朝日新聞』夕刊の文化欄に、10月27日の「大原社会問題研究所創立90周年記念シンポジウム」についての告知記事が出ました。このフォーラムについて、詳しくは、http://oohara.mt.tama.hosei.ac.jp/notice/90forum.pdfをご覧下さい。
 申込期限を過ぎていますが、まだ大丈夫です。参加をご希望の方は、研究所(tel:042-783-2306、fax:042-783-2311、e-mail:oharains@s-adm.hosei.ac.jp)まで、ご一報いただければ幸いです。

10月15日(木) 外交・安全保障政策でも根本的な転換を [国際]

 鳩山新政権の新基軸が続いています。「変わること」は、これまでの政権を拒絶した国民の望むところであり、基本的に、新政権の方向性はこのような望みに添うものだと言えるでしょう。
 もちろんそれは、「基本的に」ということであって、具体的な施策の進め方では問題が生じたり、ギクシャクすることもあるようですが……。

 このようななかで注目されているのが、外交・安全保障政策です。とりわけ、来月12~13日、オバマ大統領が初めて日本にやってきますから、ここでの鳩山新政権の対米交渉が重要な意味を持つことになるでしょう。
 一方で、「日米同盟の強化」というこれまでの枠組みを維持する選択肢はありません。自公政権が総選挙で敗れた時点で、このような選択肢は国民によって拒否されました。
 他方で、日米間の関係の悪化を招くような選択肢も避けなければなりません。アメリカとの友好関係の維持は、日本の外交・安全保障にとって大きな意味を持つことは否定できないからです。

 鳩山新政権の外交・安全保障政策の基本線は、この両方の選択肢の間に引かれる必要があります。これまでの枠組みにとらわれず、同時に、日米関係の悪化を招かないような選択です。
 そのためには、妥協や譲歩が必要になることもあるでしょう。しかし、だからといって、最初から譲歩していたのでは交渉になりません。
 これまでの自公政権は、この点で大きな過ちを犯していました。「ご無理ごもっとも」と相手の言うがままに受け入れ付き従っていくことが外交であり、同盟関係だと勘違いしていたからです。

 外交とは、独自の対外政策を持つ国同士が、それぞれの国の立場に立って交渉することです。そのためには、まず、独自の政策を持たなければなりません。
 その政策を相手に伝えるところから交渉が始まります。独自の方針がなければ、交渉にはなりません。
 これまでの自公政権には、このような意味での独自政策がありませんでした。したがって、交渉することもなく、外交は不在だったといって良いでしょう。

 オバマ大統領との会談に向けて、鳩山首相は日本独自の対外政策を確立しなければなりません。とりわけ懸案となっているのは、核問題、インド洋での給油、沖縄の普天間基地移転問題です。
 これらの問題について、どのような方針を打ち出すべきなのでしょうか。私の意見を述べさせていただきます。

 まず、核政策です。オバマ大統領のプラハ演説と国連安保理首脳会合での「核全廃決議」に従い、核廃絶に向けての具体的な道筋について提案し、合意する必要があるでしょう。
 一方で、核廃絶枝を目指そうとする日本が、他方で、アメリカと核問題での密約をむすび「核の傘」に守られているというのでは、全く説得力がありません。日本は、これまでの「核の傘」を閉じて、代わりに「非核の傘」を提唱するべきです。
 そのためには、アメリカの核兵器の持ち込みをきっぱりと拒絶し、改めて「非核3原則」の堅持を確認する必要があります。同時に、北朝鮮の核開発をストップさせ、中国に対しても核兵器の放棄を迫り、東アジアの非核地帯化を目指すべきです。

 次に、インド洋での給油問題です。訪米中の長島昭久防衛政務官はジョーンズ米大統領補佐官(国家安全保障問題担当)やマレン統合参謀本部議長らに海上自衛隊の艦船を来年一月に撤収させる方針を伝え、ジョーンズ補佐官らは「基本的には日本政府が判断する問題だ」との態度を示しています。当然でしょう。
 アフガンは「オバマのベトナム」「オバマのイラク」になる可能性があります。軍事的介入を止めてアフガニスタンから米軍を引き上げ、民生支援に重点を移すよう、鳩山さんはオバマさんに忠告するべきでしょう。
 「日本は海上自衛隊の部隊を引き上げるから、アメリカもアフガニスタンから軍隊を引き上げたらどうか」と、オバマさんに言ったらどうでしょうか。このような忠告によってアフガンの窮地からオバマさんを救い出すことこそ、本当の「友人」なのではないでしょうか。

 第3に、沖縄の普天間基地の移転問題があります。辺野古沖への移転の是非が問題になっていますが、私は大反対です。
 このような移転によって貴重な自然が破壊されるだけでなく、工事が終了して新しい滑走路ができる頃には、そのような基地そのものが不必要になっている可能性が高いからです。不要なもののために、かけがえのない自然を破壊するような愚を犯してはなりません。
 というよりも、日本の安全保障を考えた場合、沖縄の基地や在日米軍基地が不必要になるような国際環境を生み出すことこそ、新政権が目指すべき方向でしょう。一方で、基地が必要なくなるような国際環境を目指し、他方で、新しい基地を作るなどという政策が、合理的な選択であるとは思われません。

 それではどうするのか。基地を撤去し、閉鎖すればよいのです。
 県内での移設や統合では、沖縄における基地の密集という問題は解決しません。沖縄の基地を少しでも減らすような解決策こそが、目指されるべきものです。県外移設と言った場合、それではどこに持っていくのか、という新たな問題が生じます。沖縄の基地負担を他の県に押し付けることになり、在日米軍基地の整理・縮小という方向にも反することになりますから、このような方針も取るべきではありません。
 唯一の解決策は、普天間基地を閉鎖することです。そこに駐屯している部隊は、アメリカ国内に引き上げてもらえばよいのです。

 そもそも、クリントン政権時代にトランスフォーメーションという世界的な規模での米軍基地の整理・縮小方針が出されたのは、国際情勢の変化、軍事技術や輸送手段の能力の向上などによって、紛争地に近い海外の基地に部隊を配置しておく必要がなくなったからです。韓国からも米軍部隊の一部は引き上げ、日本の基地も縮小される方向にあります。
 自公政権は、これに抵抗しました。アメリカ軍に「引き上げるのではなく、居て欲しい」というのが自公政権の態度だったのです。
 ことし4月初旬、米軍三沢基地に配備しているF16戦闘機約40機すべてを早ければ年内から撤収させ、米軍嘉手納基地のF15戦闘機50機余りの一部を削減する構想が日本側に打診されました、しかし、自公政府が難色を示したため、この構想は保留になっているそうです。

 鳩山さんはオバマさんに、「米軍基地を撤去して欲しい」「日米地位協定を改定したい」「『思いやり予算』は止めたい」というべきでしょう。それがスンナリ受け入れられる可能性は低いかもしれませんが、そのような国民の思いを、日本の政府としてアメリカに伝えることから、交渉は始まるのです。
 お互いの率直な思いを伝え合うところから、互いの譲歩や妥協が生まれます。日本は独立国なのですから、そのような思いを伝えることに何の遠慮もいらないと思うのですが、いかがでしょうか。

 なお、昨日、UNハウス(国連大学校)のエリザベスローズ・ホールで開かれた第22回国際労働問題シンポジウム「経済金融危機と雇用問題:世界雇用危機にどう立ち向かうのか?」には、100人を超える沢山の方にご出席いただき、充実した報告と討論がなされました。ご出席下さった皆さん、パネラーの方々に感謝いたします。
 今週末の10月17日(土)、18日(日)の2日間、松川資料室のある福島大学を会場に「松川事件60周年記念全国集会」http://matukawa60.com/annai.htmlが開催されます。大原社会問題研究所に松川事件の裁判資料が保存されている関係で、私もこの集会に参加します。
 とは言いましても、翌18日(日)の午後には、POSSE主催のシンポジウムも予定されていますので、東京に戻って来なければなりません。二日目の催しに出られないのは残念です。
 NPO法人POSSE設立3周年記念シンポジウム「若者の労働とセーフティネットを考える」は、東京ウイメンズプラザで午後2時半から開催され、初めに私の講演、次に「ガテン系連帯」共同代表の池田一慶さん、朝日新聞記者の竹信三恵子さんが講演されます。興味・関心のある方にご参加いただければ幸いです。

10月12日(月) 広島・長崎でのオリンピック招致構想には賛成できない [文化・スポーツ]

 広島市と長崎市でオリンピックを開こうというわけです。石原の野望の害悪が、こんな形で飛び火するなんて、思ってもみませんでした。

 昨日、広島市の秋葉忠利市長と長崎市の田上富久市長は広島市役所で記者会見し、2020年の夏季五輪招致を検討する「オリンピック招致検討委員会」を共同で設置すると発表しました。検討委員会は当面、両市長を中心に両市関係者で構成し、被爆地である両市への共同五輪招致が可能かどうかを検討して来春をめどに結論を出すそうです。
 まだ、やるかどうか分かっていないということでしょうか。「結論を出す」のは、「来春をめど」ということですから……。
 十分、検討してもらいたいものです。この構想には、税金の無駄使いにとどまらない問題が孕まれているように思われますから……。

 広島と長崎の両市長がオリンピックを招致しようと考えたのは、核廃絶と平和の実現に向けての気運を高めようとしているからです。その意図は理解できます。
 オリンピックの招致活動を通じて、広島と長崎の知名度は上がり、両市での被爆の実相は今以上に広く世界の人々に知られることになるでしょうから……。
 記者会見で秋葉広島市長が語った「世界の恒久平和のシンボル」としての意味や田上長崎市長が指摘する「核廃絶運動との相乗効果」も、一概には否定できません。ですから、世界平和と核廃絶をめざす運動にとってプラスになると歓迎する声も大きいようです。

 しかし、私としては、この構想に賛成できません。その意図は了解し、運動へのプラス効果がある可能性を認めても、なお、この構想には大きな問題があるように思われるからです。

 その第1は、世界平和や核廃絶を目指す運動とスポーツの祭典であるオリンピックとは、本来、別物ではないかと思うからです。無理に結びつけようとすれば、大きなきしみが生ずるかもしれません。
 たとえ、オリンピック招致に成功しなくても、名乗りを上げるだけでも運動の拡大にプラスだという意見があるかもしれません。しかし、それは、ある意味で、オリンピックの政治利用(反核・平和運動への利用)ということになり、本気でオリンピックの開催を願い、そこでの活躍を期して精力を傾けようとしているアスリートたちを侮辱することにならないでしょうか。
 他方で、被爆地であることはオリンピックの招致に有利な条件だという考えもあるかもしれません。しかし、被爆地であることをオリンピック招致のために利用しようという発想は、被爆地の人々や原爆の犠牲者を冒涜することになりかねないのではないでしょうか。

 第2に、今では商業化し巨大化したオリンピックに、どこまで核廃絶の運動の契機になることや平和のシンボルとなることが期待できるでしょうか。「沖縄の基地問題解決のために」ということで開催地に選ばれた沖縄サミットが基地問題の解決に何の役にも立たなかったように、オリンピックの招致が決まってしまえば反核・平和の理念や哲学は忘れ去られてしまうにちがいありません。
 「核廃絶運動との相乗効果」どころか、オリンピック開催のための準備活動に資金も人手も取られてしまう可能性の方が高いように思われます。オリンピックの成功が優先され、核廃絶運動が後回しになってしまうかもしれません。
 スポーツの祭典としてのお祭り騒ぎが盛り上がれば盛り上がるほど、核廃絶という本来の目的が薄らいでしまうのではないでしょうか。そうなっては、何のためのオリンピックか、ということになります。

 第3に、広島と長崎での開催には、あまりにも解決されなければならない課題が多すぎます。この両市長は、どこまで本気で開催を考えているのでしょうか。
 オリンピックは一つの都市での開催が基本です。2都市での分割開催が認められるのでしょうか。
 その場合、選手村や2都市間の移動、競技施設の整備、宿泊のためのホテルなどは大丈夫なのでしょうか。実際に開くとなると、施設や財政、要員の確保など、地方都市であるが故に解決しなければならない課題が山積しています。

 そして第4に、決定的なのは、オリンピック開催の可能性はほとんどなく、招致活動費が無駄になるだろうと思われることです。ここには、最初から無理だと分かっていたのに石原知事の陰謀のダシに使われてしまった東京の招致活動と同様の問題があります。
 今回の東京の落選が初めから予想できたことは、すでに3年前のブログで私が書いたとおりです。「南米初の開催」という、オリンピックの理念に添った選択には勝てません。
 同様に、もし、2020年の開催地としてアフリカ諸国の中から一都市でも立候補すれば、「アフリカ初の開催」という理念に負けるでしょう。ロシアのモスクワが立候補するという噂もありますが、そうなれば、以前のオリンピック開催が「片肺」に終わっているモスクワにも負ける可能性があります。

 こう見てくると、広島・長崎での開催は、名乗りを上げても当選可能性は限りなく低く、もし決まったら、開催の困難性はかつてなく高いものになるだろうと思われます。
 それが核廃絶や平和の実現に資する可能性も、それほど大きくはないと言わざるを得ません。是非、来年の春まで、オリンピックの招致に立候補するかどうか、慎重かつ真剣に検討していただきたいものです。
 これまで、オリンピックの招致については、名古屋、大阪、東京と失敗が続いてきました。アジアでは、オリンピックは、日本、韓国、中国でしか開かれていず、日本は東京(夏)、札幌(冬)、長野(冬)と3回も開かれています。
 それなのに、4回目を目指しているというわけです。日本の前には、私たちが考えている以上に大きなハードルが横たわっていると言うべきでしょう。

 もう、3回連続で、招致活動のための費用を無駄にしてしまいました。それなのに、さらにお金を無駄にしようというのでしょうか。
 そのようなお金があるなら、その全額を直接、核廃絶・平和実現のための活動に注ぎ込むべきです。見果てることのない「オリンピックの夢」からは、そろそろ醒めても良いのではないかと思いますが、いかがでしょうか。