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8月13日(月) 国際政治の歴史的転換と日本の選択―いよいよ「活憲の時代」が始まる(その3) [論攷]

 〔以下の論攷は、憲法会議発行の『月刊 憲法運動』通巻473号、2018年8月号、に掲載されました。3回に分けて、アップさせていただきます。〕

三、憲法運動の課題

 *力によらない国際関係の再構築

 今後の朝鮮半島での緊張緩和、ミサイルと核問題の解決に当たっては、戦争や軍事力に訴えるのではなく、非軍事的な手段によって非核化への道を具体化していくのが日本の取るべき唯一の道です。そのための展望とビジョンの提示こそ、これからの日本の役割であり、憲法運動の課題にほかなりません。
 これについて、『朝日新聞』6月28日付の「論壇時評」に示唆的な論攷が掲載されていました。小熊英二さんの「ゲーム依存と核 関係性の歪み 北朝鮮にも」という記事です。小熊さんはゲーム依存も北朝鮮の核問題も同様だとして、「猜疑心や敵対心、相互不信がつのると、核兵器が増加する。逆にいえば、猜疑心や相互不信に満ちた関係を作り変えることなしに、核兵器をなくすのは難しいのだ」と指摘し、「力で恫喝すれば何でも解決すると考えるのは非現実的であり、幼稚である。外交とはすなわち、国際関係を再構築する努力にほかならないはずだ」と主張しています。
 力による「恫喝」ではなく、「国際関係を再構築する努力」が必要であり、それこそが「外交」だというのです。それには「猜疑心や相互不信に満ちた関係を作り変える」知恵も忍耐力も必要で、相手を納得させるような道理に立脚した説得力も不可欠でしょう。
 憲法前文にある「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼」することによってこそ、このような道理や説得力を手にすることができるはずです。それを安倍首相は投げ捨て、相手の猜疑心や不信を高めてきたというのが、「戦争する国」に向けての好戦的政策実施のプロセスでした。「平和憲法」を持つ国であるからこそ実現できたはずの紛争解決への道を閉ざし、国際社会で享受できたはずの「名誉ある地位」も踏み外してしまったのです。
 『毎日新聞』6月28日付一面下のコラム「余録」にも、注目すべき文章が書かれていました。「武器効果」という用語についての指摘です。「ストレスを与えられた人に銃を見せると攻撃的になるという心理実験があるそうだ。銃などの武器が人の心にひそむ攻撃のイメージや記憶を呼び覚まし、欲求不満などによる怒りを攻撃衝動へと結びつけてしまうのだといわれている」と。
 武器の存在こそが、人々のイライラや欲求不満、ストレスを攻撃衝動に変えてしまうのだというのです。逆に言えば、イライラや欲求不満などによる怒りなどがあっても、武器がなければ簡単には攻撃衝動に結びつかないということになります。国家や指導者についても、同じことが言えるのではないでしょうか。核やミサイルなどの武器があるからこそ、攻撃衝動に結びつくのだと。
 憲法9条が「国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する」と宣言したことの深い含意を、ここから読み取ることができるように思われます。安倍首相がめざしてきた軍事力依存の「積極的平和主義」や軍事大国化路線こそが攻撃衝動を高める極めて危険な道だったということも、同じように学び取ることができるのではないでしょうか。
 力によらない非軍事的な外交努力にこそ、これからの日本の進むべき道があります。そのための地図は、すでに70年以上も前に与えられていました。日本国憲法という地図が。

 *北東アジアにおける非核・平和体制の実現

 米朝共同声明の誠実な履行と力によらない国際関係の再構築を目指して、北東アジアにおける非核・平和体制を実現しなければなりません。南北首脳会談と米朝首脳会談での合意によって開始された平和プロセスが成功するよう、外交的なイニシアチブを発揮することが日本の役割なのです。
 第1に、米朝共同宣言で約束された朝鮮半島の完全な非核化の実現を求めることです。もちろんこれは検証可能で不可逆的なものでなければなりません。すでに核実験場の一部の爆破が実施され報道陣に公開されましたが、できるだけ早い段階で非核化に向けての具体的な措置を取り決める必要があります。
 北朝鮮に対して非核化を求めると同時に日本も「核の傘」について再考し、核兵器禁止条約に参加し批准するべきです。北朝鮮に対して「核に頼るな」と言いながら、自らは「核に頼る」というのでは筋が通りません。完全なダブルスタンダードであり、説得力もありません。日本政府に対して、唯一の戦争被爆国として世界中の核兵器廃絶の先頭に立つよう求めることが必要です。
 第2に、北東アジアにおける平和構築のために取り組むことも重要です。そのためには、紛争解決と緊張緩和のための多国間による安全保障体制を構築しなければなりません。東南アジア諸国連合(ASEAN)や東南アジア友好協力条約(TAC )のような多国間協力体制の実現です。
 すでに生じている南北間の緊張緩和と信頼醸成措置を支援することが必要であり、決して足を引っ張るような態度を取ってはなりません。南北間の平和統一をも展望した紛争解決と平和構築の枠組みができれば、やがては日米安保条約と在日米軍の必要性が根本から問われることになります。そうなれば、沖縄米軍基地の縮小・撤去や辺野古での新基地建設阻止に向けての新たな展望が生まれることになるでしょう。
 第3に、安倍政権による軍事大国をめざした好戦的政策の廃止・転換を実現することです。特定秘密保護法、安保法制(戦争法)、「共謀罪」法などの「戦争する国」をめざした法整備は、北東アジアにおける情勢の劇的な転換によってその根拠を失い、必要ないものになりました。民衆運動の取り締まりや弾圧にも利用される可能性が高いこれらの法律は廃止されなければなりません。
 もちろん、北朝鮮危機を口実に強行されてきた防衛費の増大や防衛装備品の購入などの大軍拡をやめ、長距離巡航ミサイルなどの他国攻撃型兵器の導入、ヘリコプター空母の改修や陸上イージスの設置計画などは直ちに中止するべきです。これらの経費を軍事ではなく国民の福祉や民生に振り向けるように政策を転換しなければなりません。
 第4に、ヘイトスピーチやレイシズムなどの排外主義や民族差別を一掃し、周辺諸国との友好を深めることです。朝鮮半島の非核化と平和体制構築のために韓国や中国との協力は不可欠であり、その障害となる嫌韓・反中の排外主義や民族差別をなくすことによって多国間協力のための社会的土壌を整えなければなりません。
 他民族を差別したり敵視したりしないような国民や社会になることは、これからの東北アジアで日本が周辺諸国と平和的に共存していくために必要な最低限の条件です。とりわけ、侵略戦争と植民地支配によって多大な損害を与えた諸国との関係を改善し、負の歴史への責任と反省を明らかにすることなしには、これらの国々からの信頼を得ることはできません。

 *憲法12条の重要性

 米朝首脳会談による劇的な情勢転換によって、安倍政権が進めてきた「戦争する国」づくり政策とのミスマッチは極大化されることになりました。このような政治の暴走を許してしまった責任は、「他よりよさそう」ということで一定の支持率を与え安倍政権を甘やかしてきた世論にもあります。
 同時に、暴走をストップさせ、自由と人権、平和を守るための「不断の努力」が欠けていたのではないでしょうか。これは憲法が国民に要請していることであり、ここで改めて「この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によつて、これを保持しなければならない」と規定する憲法12条の重要性について確認する必要があるように思います。
 憲法は権力者に対する命令書であって、憲法尊重擁護義務からも国民は除外されています。憲法は権力の恣意的な行使を制限し、権力者の暴走を抑えるための「檻」のようなものだとされています。
 しかし、この12条は他の条文とは異なり、国民に対する直接的な要請が書かれています。この憲法が「保障する自由及び権利」は、国民自身による「不断の努力」によって「これを保持しなければならない」という要請が。
 この規定は、憲法が保障する「自由と権利」を守るために国民が「不断の努力」を行うこと、それらが侵されそうになったら抵抗すべきことを求めているのです。このような国民一人一人の努力が積み重なり集まることになれば、それは集団的な行動となり政治的社会的な運動となります。
 したがって、政府や自治体などの行政機関もこのような国民の努力を支える義務を負っていると理解できます。自由と権利のために運動することはもとより、そのために努力する個人や集団を支援することは憲法上の要請なのです。
 自由と権利を守るという点で国民も政治・行政・司法も中立ではなく、それを「保持」するために「不断の努力」を行わなければならず、それは憲法上の義務なのだということを忘れてはなりません。具体的には、国民にとっては自由と権利を守るためにある程度の不自由や迷惑を耐えるという「努力」が必要であり、政府や自治体などの行政機関は自由と権利を守るための活動を保障し、支援しなければならないということになります。
 市民が自由と権利を守るために声を上げたり運動したりするのは、国民として憲法の要請を果たしている当然の行為にすぎません。政治・司法・行政はこのような国民の努力を鼓舞し、擁護し、推進し、支援しなければならない憲法上の義務を負っているのです。
 憲法9条は平和を守るべきことを、憲法12条は自由と権利を保持するために努力すべきことを求め、憲法99条はこのような規定を尊重し擁護することを、天皇、国務大臣、国会議員、裁判官、公務員に義務づけています。安倍首相はじめ、これらの関係者には憲法を熟読し、自らが負っている憲法上の責務を十分に自覚していただきたいものです。

 むすび―真に国民の生命と生活を守れる政治への転換を

 西日本を中心とする豪雨被害は、犠牲者が200人を越える大災害となりました。その渦中に、政府・自民党の幹部が宴会「赤坂自民亭」に興じており、大きな批判を浴びました。災害への軽視、初動の遅れ、危機対応能力の欠如などの問題が浮き彫りになっています。
 安倍政権は北朝鮮危機をあおり、6年連続で防衛予算を増やしてきました。過去最大の5兆2000億円超に膨らんだ防衛費の一部でも防災・減災に回していれば、豪雨被害はここまで拡大しなかったはずです。
 このような問題が生ずるのは、安倍首相にとって危機とは安全保障上のもので自然災害によるものだという認識が欠けているからです。災害への危機対応を軽視し、軍事的な危機対応ばかりを重視するという危機認識の歪みが、多くの問題を生み出してきました。
 そこにある現実的な危機に目をつぶり、ありもしない空想的な危機に踊らされて国民の安全・安心よりも国家の安全保障を優先してきたからです。常にあり得る現実的な危機にきちんと対応できるような政権に変えなければなりません。そうしなければ、政治のエネルギーや国費が無駄遣いされ、国民の生命と生活、生業が守られないという教訓を、今回の豪雨災害から学ぶべきではないでしょうか。
 結局、安倍首相は政治家ではなかったということになります。「戦争になったらどうするか」を考えるのが軍人だとすれば、「戦争にならないためにどうするか」を考えるのかが政治家なのですから。
 軍人の頭脳ではなく政治家の心を持つ本当の政治家を政権のトップに据える必要があります。国民の生命と生活、生業を守ることのできる政治を実現するために、政策を変えるか政権を変えるしかないのです。政策を変えられないのであれば、政権を変えるしかありません。
 このような転換によって初めて、国際政治の劇的な変化に対応した国政の刷新も可能になります。憲法を護り活かすことによって、「活憲の時代」における新しい日本の外交・安全保障政策と内政を具体化できる展望とビジョンを持った政党や政治家にこそ、次の時代を託さなければなりません。そのための条件と根拠が、いま新たに生まれつつあるのですから。


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