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9月3日(月) 珍寿(95歳)をお祝いした畑田重夫先生は私を世に出してくださった大の恩人 [日常]

 昨日、「まだまだ元気 畑田重夫先生の『珍寿(95歳)』を祝う集い」に出席しました。日曜なのに予定はなく、空いていてラッキーでした。

 この会の通知を見て、95歳を「珍寿」というのだということを初めて知りました。グーグルで調べたら、「珍寿は、賀寿(年祝)の一つで、数え年で95歳のこと、またその祝い(儀礼)をいいます。これは、「珍」の左側の偏部(王)を「一」「十」「一」に分解し、右側の旁部を「八三」とすると、「1+10+1+83=95」となることから、95歳を意味するようになったそうです」と書かれていました。
 「へー、そうだったのか」と思いました。一つ、利口になりました。
 会では、牧野富夫日大名誉教授・全国革新懇代表世話人が呼びかけ人あいさつ、内藤功元参院議員・日本平和委員会代表理事が祝辞、乾杯の音頭が山田敬男労働者教育協会会長、お祝いの演奏がきたがわてつさん、お祝いの言葉が小森陽一東大教授・九条の会事務局長など6人、それに伊波洋一参院議員からのメッセージが紹介されるなど、畑田先生の長きにわたる活動と親交を反映して豪華なメンバーでした。100歳の方も珍しくなくなっている「高齢社会」の今日、95歳が「珍しいほどの長寿」と言えるかどうかは議論のあるところかもしれませんが、畑田先生のようにかくしゃくとされ今も短い講演などをこなされているのが「珍しい」ことは確かで、私など爪の垢でも煎じて飲ませていただきたいところです。

 実は私も、この会の呼びかけ人の一人でした。会場に着くと、一番前の中央で先生と同じテーブルに案内されました。私の左側に日本民主主義文学会の田島一会長、右側に牧野先生、その隣が内藤さん、その隣に畑田先生がお座りです。
 呼びかけ人となってこのような席に着いたのは、全国革新懇・東京革新懇の代表世話人だからでしょう。研究者出身で先生が会長を務められたこともある労働者教育協会の理事をしているという点でも、畑田先生と似たようなキャリアを経てきました。
 おまけに、畑田先生は2度、東京都知事選に立候補され、私も八王子市長選に立候補しています。残念ながら、当選できなかったというところまで同じです。

 しかし、それ以外にも先生と私には大きなご縁があります。畑田重夫先生は私にとっての大恩人ですが、このことはあまり知られていませんし、先生ご自身もそれほど自覚されていないかもしれません。
 先生と私が出会ったのは、私が法政大学の大学院を出て非常勤講師をしていた32年前にさかのぼります。このとき、私は畑田先生にお世話になり、先生のお陰で世に出ることができました。
 当時、私は35歳で非常勤講師として糊口をしのぎ、大原社会問題研究所の兼任研究員や法政大学社会学部・法学部、東京農工大学一般教育部などで労働問題や政治学の研究と講義に携わっていました。大学院は出たけれどまだ専任の職に就くことができず、最初の妻とも別れることになり、将来への大きな不安を抱えていたころのことです。

 そのとき、学習の友社から本を出すので手伝ったほしいという話が舞い込んできました。これは浜林正夫・辻岡靖仁監修の「現代の社会科学」全5巻の一冊で、畑田重夫編『現代の政治論』として出版されています。
 この話を紹介して下さったのは、法政大学大学院時代に政治学の手ほどきを受けた高橋彦博先生だったと思います。農工大での非常勤講師も高橋先生の紹介で、そこでの講義のために政治学のノートを作成していたのが大いに役立ちました。
 この本は畑田編で、執筆者は先生と私だけです。畑田先生は序章「現代と政治」、第3章「国際政治の基礎理論」、終章「戦後国際政治と核兵器廃絶」を書かれ、私は第1章「政治の基本的要素と政治制度」、第2章「現代日本の政治」を分担執筆しています。分量では約半分が私の執筆によるものでした。

 この本を執筆するために、私は畑田先生と2人だけで打ち合わせをする機会が何回かありました。その打ち合わせの際に、これまで書いてきた論文をまとめて出版したい旨、先生に相談しました。
 すると、知り合いの出版社を紹介して下さると仰るではありませんか。こうして、共著だけでなく単著も出版することができたのです。
 これが私の最初の単著として「ゆぴてる社」から刊行された『戦後保守政治の転換―「86年体制」とは何か』という本です。奥付を見ると、この本の刊行日は「1987年1月15日」で、畑田重夫編の共著の方は「1987年1月30日」となっています。

 2冊の本の刊行に向けての作業が、同時並行的に進められていたことが分かります。その結果、共著ではなく単著の方が15日早く出ることになりました。
 単著の「あとがき」に「本書を出版するにあたっては、畑田重夫先生にお世話になった。ここに記して、謝意を表したい」と書かれているのは、以上に述べたような事情があったからです。畑田先生との共著の執筆と、それをきっかけにした出版社の紹介がなければ、本書を刊行することはできなかったでしょう。
 そして、これらの共著や単著がなければ、大原社会問題研究所に専任研究員として採用されることはなかったかもしれません。幸いにも時を同じくして専任職の募集があり、86年5月1日付で助教授として大原社会問題研究所に採用されることになったからです。

 人生には、決定的な意味を持つ「出会い」があるように思います。私が35歳の時の畑田重夫先生との出会いは、そのようなものの一つだったにちがいありません。
 そして、大学をリタイアした後、偶然にも私は畑田先生と同じような足跡をたどることになりました。「後はお任せください」というような気持もあって、革新懇や労働者教育運動に関わってきました。
 しかし、畑田先生はまだまだお元気で長生きされておられますから、こちらの方が先に召されてしまうかもしれません。もしそうなったら、こう言わせていただこうと思います。
 「先生、後はお任せします」と。

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