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11月16日(月) 大原社会問題研究所の思い出―『日本労働年鑑』の編集業務を中心に(その1) [論攷]

〔以下の論攷は『大原社会問題研究所雑誌』第745号、2020年11月号に掲載されたものです。3回に分けてアップさせていただきます。なお、注は全て割愛させていただきます。〕

 はじめに

 大原社会問題研究所(以下、大原社研)が毎年刊行している『日本労働年鑑』(以下、『年鑑』)が、2020年度に第90集を数えた。この「第90集刊行記念として、歴代の編集責任者に、これまでの歴史や編集記録として残すべきと考えることをご執筆いただき掲載したい」とのお誘いを、『大原社会問題研究所雑誌』(以下、『大原雑誌』)の編集担当からいただいた。これを喜んで引き受けることにしたい。
 『大原雑誌』の紙上を借りて、私のささやかな経験と思い出を語ることができるのは幸せなことだと思う。そもそも大原社研に職を得ることができたのは生涯の喜びであり、現在の伴侶を得られたのも大原社研に就職できたお陰だった。研究所には「足を向けて寝られない」ほどの大恩がある。
 2019年で創立から100年を越えた歴史 を持ち錚々たる研究員によって数多くの業績を積み重ねてきた伝統ある研究所の活動に、どれほどの貢献ができたかは心もとない限りである。とはいえ、私のつたない経験も、後に続く人々にとって何らかの参考になるかもしれない。そう思い、この機会に『年鑑』の編集業務を中心としながら、私の大原社研での活動についての思い出を記すことにしたい 。

1、 前史―大原社研の所員としての採用

(1) 大原社研との出会い

 私が、大原社研の名を知ったのは、東京都立大学に学んでいた学生時代のことになる。経済学部に在籍していたが、ほとんど「自治会学部タテカン学科」で、1年生で自治会副委員長、2年生で委員長となるなど学生運動に明け暮れていた。そのような中で、先輩の一人が「大原社研に就職したいなあ」とつぶやくのを耳にしたのが最初だった。「おおはらしゃけん」て何だろうと思ったが、記憶には残った。
 ほどなくして、その正体はゼミの指導教員だった塩田庄兵衛先生を通じて知ることになる。その後、塩田先生の友人で大原社研の所員でもあった中林賢二郎 先生を頼って法政大学の大学院に進学したため、大原社研と私との縁は急速に深まっていった。直接的なつながりは、中林先生の紹介で資料整理のアルバイトに採用されたことに始まる。当時、麻布にあった分室に通い、日本農民組合(日農)の原資料を分類してファイルに整理する仕事に従事したからである 。
 その後、中林先生の指導でコミンテルン(共産主義インターナショナル)の統一戦線政策を研究テーマにするに至り、大原社研との研究者としてのつながりが生まれる。研究所所蔵のコミンテルン関係資料や定期刊行物がなければ、私の研究は不可能だった。修士論文「コミンテルン初期における統一戦線政策の研究」は一定の評価を受け、日本武道館で開かれた卒業式で社会科学研究科修士課程代表として中村哲総長から学位記を授与された。論文は手を加えて縮小した後、社会学部の学会誌『社会労働研究』に掲載されている 。
 中林先生には、ゼミ指導のほかにも公私にわたって大変お世話になった。資料整理のほかにも、都職労・都労連の第3次ヨーロッパ調査団の随員としてイギリス・フランス・ドイツ・スイス・イタリア5カ国の公務労働の調査に同行して報告書を作成する仕事や、当時の日本共産党の野坂参三名誉議長の回顧録執筆のための資料調査 なども、中林先生の紹介だった。先生が突然亡くなられた後、2年ほどの間、奥様のご厚意でお宅に下宿させていただいたこともある。

(2) 所員としての採用

 博士課程に進学した後も、中林ゼミでのコミンテルンと統一戦線政策の研究は続いたが、このころから高橋彦博先生の誘いを受けて増島宏先生を中心とする政治研究会に加わり、私の関心は政治学や日本政治の研究へと傾斜していった 。学部で経済学部に在籍し、大学院では社会学専攻であったのに、大原社研に就職した後は政治学者 を名乗ることになった背景はここにある。
 法政大学大学院には1974年に入学し、修士課程4年、博士課程5年の9年間在学した。1983年3月に満期退学した後、翌4月に三宅明正さんと2人で所員待遇の兼任研究員に採用された。これも中林先生の紹介だったように思う。このころはまだ半専任扱いだったため日本育英会の免除職に該当し、学部時代に貸与されていた特別奨学金の返還が免除されたのは大いに助かった。
  大学院棟の5階にあった研究所は新しくできた80年館に移っており、研究所の研究員会議もその一室で開かれていた。週に一度開催される研究員会議に出席して驚いたのは、休憩時間に職員が紅茶を入れて現れ、本棚から取り出したブック型のビンからウィスキーを垂らして呑んだことである。馥郁たる芳醇な香りが漂うなか、舟橋尚道所長、中林賢二郎、岡本秀昭、二村一夫、早川征一郎、佐藤博樹などの諸先生の陰で、新参者の私と三宅さんは小さくなっていた。
 
(3)『大年表』第3巻を担当
 私が研究員会議に参加したころ、研究所は市ヶ谷から多摩キャンパスに移転する準備を進めていた。これを機に財団法人を解散して大学の付置研究所に改める方針は、「研究員会議を中心に慎重な検討が重ねられた 」たと『100年史』に記されている。この研究員会議での議論についてはほとんど記憶がない。
 新たに採用された私と三宅さんの主たる業務は、研究所創立60周年記念事業として計画された『社会・労働運動大年表』(以下、『大年表』)の執筆・編集作業であった。これは1858年以降約130年間の歴史を、労働運動と社会運動を中心に、政治・法律、経済・経営、社会・文化、国際の6欄構成で記録した年表で、全項目に出典を明記し、重要項目には簡潔な解説を付していた 。
 編集委員会には、二村・早川・高橋・佐藤先生に明治大学の栗田健先生が加わっていた。毎月一回開かれていた編集会議が終わってから、担当編集者だった労働旬報社の佐方信一 さんも交えて食べた「うな重」の美味さは忘れられない。
 86年に付置研究所になるとともに組織替えが行われた。新たに有給で非常勤の兼任研究員が拡充され、私と三宅さんのほかに、荒川章二、梅田俊英、大野節子、佐伯哲郎、相馬保夫、平井陽一、吉田健二の各氏が加わった。研究所の理事会は、専任研究員と学部教員の兼担研究員とで構成される運営委員会となった。
 兼任研究員の大量採用は『大年表』の執筆・編集のためであり、これは研究所の総力を挙げての取り組みとなった 。私は1965年以降をカバーする第3巻を担当し、多摩キャンパスに移ってからは仮泊研修施設の「百周年記念館」にしばしば泊まり込んだ。ほとんど時間管理なしの過酷ともいえるような勤務状態で、報酬の引き上げを求めて二村所長に掛け合うなど緊迫した一幕もあった。同時に、編集実務を担った若手研究者の間には、「戦友」とも言える濃密な仲間意識も生じた。今となっては懐かしい思い出である。

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