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10月4日(月) 統一を妨げているものは何か 歴史認識と「反共主義」の克服―いま「連合」を考える(その1) [論攷]

〔以下の論攷は、日本民主法律家協会の機関誌『法と民主主義』第561号、2021年8・9月号、に掲載されたものです。3回に分けてアップさせていただきます。〕

 はじめに

 来る総選挙では、立憲民主党(立憲)・日本共産党(共産)・国民民主党(国民)・社会民主党(社民)などの野党が共闘すれば勝利できる可能性が生まれている。なかでも立憲と共産との「立共合作」こそが「勝利の方程式」である。これが4月の3補選・再選挙、7月の東京都議選の教訓であった。
 ところが、野党間での統一に向けての動きは微妙だ。大きな障害になっているのが、立憲と国民の支援団体である労働組合ナショナルセンター「連合」の対応である。連合は立憲・国民との政策協定に「左右の全体主義を排し」と書き、先の3選挙や都議選でも立憲と共産との共闘にストップをかけた。
 共産党は「左の全体主義」だとする認識の背後にあるのが、独特の「反共主義」である。これは共産主義に対する根拠のない反発や敵視であり、具体的な根拠を示しての批判とは異なる。根拠が示されれば、それなりの対話が成り立つからである。
 ここで言う「全体主義」は、ファシズムを指している。「左の全体主義」批判は、社会主義や共産主義をファシズムや軍国主義と同一視し、共に「全体主義」だとして否定する議論である。
 連合の共闘反対論には、共産党に対する偏見や無理解がある。その克服なしに共闘は前進できない。そこで、国の内外における統一の歴史、当面の政策と将来の政策ビジョン、共闘の実績という3点から事実関係を検証したい。

1, 歴史が教える教訓

 反ファシズム統一戦線

 まず初めに指摘しなければならないのは、共産主義者が参加する統一戦線の力によってファシズムに勝利したという事実である。第2次世界大戦はファシズム勢力対反ファシズム勢力の対決であり、その中核にあったのは反ファシズム統一戦線だった。ソ連や中国共産党は米英中などと共に、ナチスや日本軍国主義と戦って勝利した。この連合国(United Nations )が戦後の国際連合(United Nations )となったことは良く知られている。
 このような反ファシズム統一戦線の発端は、1935年のコミンテルン(Communist International)第7回世界大会での方針転換だった。33年にドイツでヒトラーが政権を握り、戦争の脅威が高まった。これを阻止するためにすべての階級・階層を広く結集する「人民戦線」をめざした新たな方針が打ち出され、各国共産党はその具体化に取り組んだ。
 とりわけフランスとスペインでは36年に人民戦線内閣の樹立に成功し、フランスではファッショ団体の解散、賃下げなしでの週40時間労働制と有給休暇(今日のバカンスの始まり)など一連の民主的政策が実施された。スペインで成立した人民戦線政府はフランコ軍の反乱に直面し、ソ連政府や「国際旅団」などの支援を得て戦ったものの39年に敗北した。

 日本での統一の経験

 コミンテルンの方針転換は、第7回世界大会に出席し、その前後にアメリに潜入していた野坂参三によって『国際通信』などの非合法文書で間接的に、訪米した加藤勘十には直接伝えられた。共産主義者と左翼社会民主主義者の統一の動きは加藤勘十・鈴木茂三郎・大内兵衛らによって試みられたが、いずれも「人民戦線事件」などとして弾圧され、終息した。
 第2次世界大戦後、このような統一の動きは復活する。多様な勢力が結集した野坂参三帰国歓迎国民大会や民主人民連盟準備会、統一戦線運動の初期形態であった民主主義擁護同盟(民擁同)、産別会議や総同盟が加わった全国労働組合連絡協議会(全労連)の結成などが続いた。その頂点となったのが安保条約改定阻止国民会議であり、共産党もオブザーバーとして参加したこの団体の存在なしに60年安保闘争の高揚はあり得なかった。
 さらに1967年には、美濃部亮吉都知事による革新都政が誕生するが、その中心になったのは戦前の人民戦線運動に関わった大内兵衛である。このような動きは全国に波及し、革新自治体の時代を生み出すが、これに危機感を高めた支配層の分断攻撃によって、1980年に社会党と公明党との間で共産党を排除する「社公合意」が結ばれ、長い混迷の時代に入ることになった。

 歴史は何を教えているか

 以上の経過から確認できることは、以下の通りである。
 第1に、共通の目標を達成するためには立場の違う人々が行動を統一することが不可欠だということである。共産主義者もそうでない人々も、神を信ずる者も信じない者も、戦争に反対して平和と民主主義を守るために手を結び、ファシズムや軍国主義と戦うことで歴史を動かすことができた。このような統一がなければ、世界史は変わっていたにちがいない。
 第2に、そのためには双方での誤解や偏見を克服することが必要だったということである。一方では「反共主義」や「アカ」呼ばわりによって共産主義者を毛嫌いしたり排除したりする態度を改めなければならず、他方では社会民主主義をファシズムと同列に置いて敵視する「社会ファシズム論」や主要な打撃を集中するべきだという「社民主要打撃論」など、スターリンによって唱えられた誤った理論を克服しなければならなかった。
 そして第3に、このような闘いのなかで、最も大きな犠牲を払ったのは共産主義者だったということである。ドイツでナチスは国会放火事件をでっち上げて共産党を徹底的に弾圧し、日本共産党も治安維持法と特高警察によって壊滅させられた。
 共産党の先輩こそが平和と民主主義、人権を守るために天皇制と戦った。軍部と妥協して侵略戦争を支持し、産業報国会に協力して大政翼賛会に合流していったのは連合に所属する右派労組幹部の先輩たちだった。これが歴史の真実である。その連合が共産党に対して「全体主義」だと批判するのは「天に唾する愚行」だと言わざるを得ない。

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