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9月1日(木) 山古志・長岡・魚沼の旅-その2 [旅]

昨日の続きです。シンポジウム当日の午前中と終了後、翌日の訪問について書くことにします。

 山古志の民宿「たなか」で宿泊した翌朝、少し早起きして散歩しました。近くには氏神様だと思われる「白髯神社」があります。
 階段を上った神社の前には、目通り幹囲5mくらいの見事な杉の巨木がありました。良く倒れなかったものです。
 宿に戻って女将さんに聞いたら、中越地震の被害は、この神社から上の方にはあまり及ばなかったそうです。

 朝食を摂った後、村上君の車で長岡に向かいました。途中、小千谷市と長岡市を結ぶ信濃川沿いの県道を通りました。
 中越地震の時、崖崩れが発生して生き埋めになったワゴン車に乗ったままの母子3人が発見された場所です。東京消防庁などのハイパーレスキュー隊が子供を助け出しました。
 山側に新しい道が通っていて、崖崩れが発生した道は立ち入り禁止になっていました。あの時助け出された子供も、今では大きくなったことでしょう。

 その後、信濃川を渡って上越線の小千谷駅前を通過。山本山山頂の展望台に行きましたが、ここからの眺めも絶景です。
 昨日上った金倉山が、向こう側に見えました。その間には、色づき始めた水田の平野が横たわっています。
 山を下り、高速道路を走って長岡に向かいました。まだ時間がありましたので、立ち寄ったのが丘陵地帯に建つ新潟県立歴史博物館です。

 これは大変立派な施設で、以前から来たいと思っていたところです。「越後の大名」という夏季企画の特別展をやっていました。
 江戸時代の越後は、小さな大名が割拠する状況だったようですが、この時代の状況についてはあまり知りませんでした。火炎土器などの常設展示も見ましたが、なかでも興味深かったのは、1644年(正保元年)に幕府が諸大名に作らせた地図です。
 そのうちの34巻目が越後で、高田藩がまとめて幕府に提出したものを見ましたが、そこには、米岡、松橋、榎井など、今も残る故郷の集落の地名が載っています。私が生まれ育ったのは「下米岡」ですが、江戸時代の「米岡」に、その後どうして「下」が付いたのか、新たな謎が生まれました。

 博物館の中で昼食を摂った後、シンポジウムが開かれる長岡商工会議所に向かいました。入り口には書籍販売や山古志の物産を販売する店なども並んでいます。
 このシンポジウムには約300人が参加して盛況だったことはすでに書いたとおりです。そのほぼ全ての様子が放映されるということで、地元のケーブルテレビが準備をしていました。長岡周辺の方は、私の報告や質疑の様子などを、テレビでご覧いただくことができるでしょう。
 残念ながら、放送されるのは地元だけのようです。収録したDVDなどを送ってくれるよう頼んでおけば良かったのですが、忘れてしまいました。

 シンポジウムが終わってから、一旦ホテルに戻って荷物を置き、再び市内に出ました。まだ、時間がありましたので、長岡戦災資料館に行こうと思ったからです。
 公共の施設は、たいてい月曜日が休みになります。日曜日に仕事があって宿泊する場合、これが困ります。
 何とかならないものでしょうか。この日午前に訪問した新潟県立歴史博物館も、長岡戦災資料館も、月曜日は休みになっていました。

 戦災資料館は長岡駅前の一等地にあり、市の施設だそうです。運営などはボランティアの手によるということで、2人の方がおられました。
 長岡での空襲は、終戦間近の1945年8月1日夜10時半から翌2日の零時10分までの間になされました。この空襲で1476人が犠牲となり、1万1986棟の家屋が焼失したそうです。
 この日の空襲は、長岡だけでなく、水戸、富山、八王子でも実施されたといいます。私が住む八王子が空襲されたことは知っていましたが、その同じ日に長岡も空襲されたことは全く知りませんでした。

 この日の空襲は、とりわけ大規模なものだったそうです。というのも、8月1日は米陸軍航空軍の創立記念日で、その司令官だったカーチス・ルメイ少将の栄転を祝う意味もあったのだそうです。
 このルメイ少将は、それまでの高々度から軍需工場などを爆撃するやり方を変え、低高度から市街地の民家を絨毯爆撃する新しい方法を導入し、木造家屋向けに燃焼力を増したM69ナパーム型焼夷弾を開発したとんでもない人物で、東京大空襲の責任者でもありました。それなのに、戦後、航空自衛隊の発足と育成に功績があったということで、勲一等旭日章を授与されています。何と言うことでしょうか。
 敗戦の翌年に、この8月1日の空襲による犠牲者を慰霊するため、戦災復興祭が開催されました。これが、山下清の貼り絵で知られ、尺玉という大きな花火が打ち上げられることでも有名な長岡まつりの始まりだといいます。

 翌日の午前中、河合継之助記念館、山本五十六記念館、小林虎次郎の「米百俵の碑」を見学した後、再びホテルで村上君と待ち合わせて、魚沼市の旧守門村に案内してもらいました。ここには、共通の知人で高校時代にお世話になった大塚中さんがおられたからです。
 スキーが大好きでスポーツマンだった大塚さんは、守門村の自然を気に入り、ここに移住されました。雄大な守門岳を望む、須原スキー場の近くに大塚山荘があり、その横には絵本の家「ゆきぼうし」があります。
 奥さんも元学校の先生で、「ゆきぼうし」にある9700冊を超える絵本を子供たちに貸し出したり、読み聞かせの会を開いたり、コンサートを開いたりしているそうです。山荘の裏には「フーの木の森」と名付けられた雑木林が広がり、薄紫色のギボウシが群生していました。

 この大塚さんが高田におられた頃、高校3年の夏休みに大いにお世話になりました。頭髪自由化運動をやっていて学校に睨まれ、家から逃げ出したときのことです。
 1週間ほど牧村の下宿にやっかいになって、毎日、大学受験のための勉強をしていました。その時の猛勉強の甲斐あって、東大の入試中止という異常事態にもかかわらず現役で都立大学に合格できたのだと、私は勝手にそう思っています。
 それ以来の再会ですから、42年ぶりということになります。でも、お会いして、すぐに分かりました。髪は白く薄くなっていたものの、相変わらず若々しかったからです。

 これは、実は驚異的なことなのです。というのは、20年ほど前に重病を発病され、医者からは10年で寝たきりになると言われていたそうですから……。
 大塚さんは『フーのきの森から』という著書もあり、病気のことはこの本に書かれています。本を読んでそのことを知っていた私は、お会いしても話ができるのだろうかと心配していました。
 しかし、話ができたのはもとより、杖を片手にスタスタと歩き回ってアップダウンのある「フーの木の森」を案内してくださるではありませんか。「こうして毎日リハビリしているんだよ」と大塚さんは仰っていましたが、しっかりとした足どりはその言葉を裏付けていました。 

 「絵本の家」の入り口にある切り株の椅子に腰かけ、お茶を飲みながら昔話に花を咲かせました。見上げれば、先日の豪雨で崩落したというスキー場のゲレンデの茶色い地肌が目に入ります。
 時折、涼しい爽やかな風が吹き渡っていきます。目の前の藤棚の葉が、ユラユラと揺れていました。
 冬には4メートル以上もの雪が積もるそうです。「ここで生活するのは大変だよ」と仰りながらも、その目は優しく笑っていました。

 楽しい時間でした。お互い若かったあの頃が、一瞬、よみがえってきたかのように感じた時間でした。
 お暇を告げて帰るとき、お土産に地酒「越乃雪蔵」の純米吟醸酒をいただきました。私が酒好きであることを、誰かから聞いたのでしょうか。
 上越新幹線の浦佐の駅までは40分くらいです。幸運にも、大宮から再び「むさしの号」に乗ることができました。約1時間で八王子到着です。

 今回も、中身の濃い充実した旅になりました。全ては、「木り香」主人の村上君のお陰です。
 長岡の皆さんにも、お世話になりました。この場を借りて、厚く御礼申し上げます。
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