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4月10日(金) 「戦争立法」ではなく対話と交渉による紛争解決こそ憲法の要請 [集団的自衛権]

 「かぶき者慶次」というドラマが始まりました。NHKの木曜時代劇です。
 そこで、主人公の前田慶次が、こう言いました。「これからは人を殺す剣はいらん。妻子と仲間を守る剣があればよい。大切なものは命。命だ」と……。
 自衛隊は、いわば「妻子と仲間を守る剣」でした。それを国の外にまで送りだして「人を殺す剣」にしても良いのかが、今、問われています。

 国会では今年度予算が成立し、いよいよ消費税10%への路線が引かれました。連休明けには集団的自衛権の行使容認などを含む「安全保障法制の整備」に向けての法案が国会に提出されます。
 あわせて、「残業代ゼロ法案」と言われる労働基準法改定案や「生涯ハケン」を強いる労働者派遣法改定案などの対決法案も本格的に審議入りすることになります。安倍首相は「今がチャンス」とばかりに、外交・防衛政策から内政に至るまで、戦後日本の枠組みを全面的に作り替えるための総攻撃を始めようとしています。
 今、私たちは戦後最大の分岐点にさしかかっているということを自覚しなければなりません。これまでの平和と安全を維持してきた憲法の内実が掘り崩され、米軍とともに海外で戦争に加わって自衛隊員の血が流される危険が現実のものになろうとしています。

 「安全保障法制の整備」については、多くの嘘がちりばめられています。その嘘を見抜くことが、何よりもまず必要になっています。
 第1に、「安全保障法制」と言うからには、日本の「安全」を高めるための法的整備であるかのように見えますが、それは違います。3月20日の与党協議会での合意にも明らかなように、それは「海外で戦争する国」になるための法整備であり、「戦争立法」にほかなりません。
 恒久法によっていつでも、「周辺」概念の削除によってどこでも、「現に」戦闘行為が行われていなければ戦闘地域であっても、自衛隊を派兵するための立法が目的とされています。米軍の「ポチ」として戦争の手伝いをさせられ、自衛隊員のリスクが今以上に、格段に増すことは明らかです。

 第2に、集団的自衛権の行使容認を可能にするためとされていますが、それは「戦争立法」の一部にすぎません。今回の法整備の根拠とされているのは昨年5月15日に出された「安保法制懇」の答申ですが、その正式名称は「安全保障の法的基盤の再構築」というもので、「集団的自衛権の法的整備」ではありません。
 今回の与党協議会の合意も「安全保障法制の整備」であって、その具体的な内容は以下のようになっています。

① グレーゾーン(武力攻撃に至らない侵害への対処)
② 後方支援(我が国の平和と安全に資する活動を行う他国軍隊に対する支援活動)
③ 国際的な平和協力活動(国際社会の平和と安全への一層の貢献)
④ 集団的自衛権(憲法9条の下で許容される自衛の措置)
⑤ その他(その他関連する法改正事項)

 つまり、集団的自衛権にかかわるのは④だけなのです。自衛隊の海外派兵と軍事活動の拡大、米軍などとの軍事協力のための法的整備を行うことが目的なのであって、日本の防衛や安全を直接の目的としない「国際的な平和協力活動(国際社会の平和と安全への一層の貢献)」なども含むものとなっています。

 第3に、集団的自衛権の行使容認に当たっては新「3要件」が判断基準とされています。その一番目には「我が国と密接な関係にある他国に対する武力攻撃が発生」とありますが、「他国」というのは嘘で、正しくは「他国軍」のことです。
 「我が国と密接な関係にある他国」の最たるものはアメリカですが、米国への武力攻撃が発生することは考えられません。実際にあり得るのは米軍に対する武力攻撃です。
 しかし、ベトナム戦争やイラク戦争などでも明らかなように、実際に攻撃を始めるのは米軍の方です。そのような「先制攻撃」に対しても自衛隊が協力することは排除されないと、安倍首相は国会で答弁しています。

 このように、「安全保障法制の整備」というのは大きな嘘です。いま、行われようとしているのは「安全」を保障するための法律の整備ではなく、米軍が始める戦争への軍事協力をしやすくするための法律を作ることです。
 それは直接的には自衛隊員の安全を損ない、同時に日本と日本国民の安全を脅かすことになりますから、「安全保障」の役には立ちません。「安倍よ、悪夢を始めよう」とISがテロ宣言をしているとき、世界中での米軍との軍事協力を可能にして軍事同盟を強めることが、賢明な選択だと言えるのでしょうか。
 このような形で国際紛争への軍事的関与を増大させることは、憲法の精神に真っ向から反する愚行です。また、日本の軍事協力の強化によって軍事介入を容易にすれば、ベトナム戦争やイラク戦争のような間違いを繰り返すリスクを増すだけであり、アメリカのためにもなりません。

 しかも、世界の現実は、力による制圧や軍事的な介入によってテロや紛争を解決することはできず、かえって問題を拡大し解決を困難にするということを教えています。安倍政権が目指している「積極的平和主義」は、このような世界の現実に学ばない時代遅れの逆行政策です。
 イランの核問題をめぐる米欧など6カ国とイランとの交渉が、包括的解決に向けた枠組みでようやく合意に達して平和的な解決の道が見えつつあるときに、安倍首相はホルムズ海峡の機雷封鎖を想定した政策転換を行おうとしています。中国の習近平国家主席とベトナムのグエン・フー・チョン共産党書記長との会談で「南シナ海の平和と安定を守らなければならない」という認識で一致し、紛争の平和的な解決に向けての動きが始まっているときに、安倍首相は南シナ海における米軍との共同の警戒監視を可能にしようとしています。
 何という外交音痴。何というチグハグぶりでしょうか。

 軍事ではなく外交で問題を解決するべきです。現に、世界はそのような方向に動き始めています。
 軍事力の行使や威嚇によってではなく対話と交渉によって紛争を解決するためにこそ、日本は貢献するべきでしょう。それこそが憲法の要請するところであり、紛争解決と平和構築のための現実的で効果的な唯一の解決策にほかなりません。

拙著『対決 安倍政権―暴走阻止のために』(学習の友社、定価1300円+税)刊行中。
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3月23日(月) 「海外で戦争する国」にストップをかけるのは「今でしょ」 [集団的自衛権]

 誰が読んでみても、これまで以上に危険になるということは直ぐに分かるのではないでしょうか。今まではできなかったことができるようになり、今まで以上に自衛隊は海外に出ていきやすくなり、戦闘現場に近づくことになり、武器を使用しやすくなるのですから……。

 3月20日の与党協議会で最終的に合意された文書のことです。安保法制の整備という名で進められようとしている「戦争立法」の概要を示しているのがこの文書です。
 その構成は、総論に当たる「1 全般」と、各論に当たる「2 武力攻撃に至らない侵害への対処」「3 我が国の平和と安全に資する活動を行う他国軍隊に対する支援活動(周辺事態安全確保法関連)」「4 国際社会の平和と安全への一層の貢献」「5 憲法9条の下で許容される自衛の措置(自衛隊法、事態対処法等事態対処法制関連)」「6 その他関連する法改正事項」となっています。つまり、各論は5つに分かれています。
 当初、与党協議会で示されたのは、①グレーゾーン事態(3事例)、②国際協力(4事例)、③集団的自衛権(8事例)の3つでした。これが最終的には2つ増えていること、その増えた部分は「我が国の平和と安全に資する活動を行う他国軍隊に対する支援活動(周辺事態安全確保法関連)」の分野と「その他関連する法改正事項」であるということが、両者を比べてみれば直ぐに分かります。

 つまり、今回の「戦争立法」で対象とされている分野は、集団的自衛権の行使にかかわるものだけでなく、それを中心としながらも多方面に及んでいます。具体的には、以下のようになっています。

① グレーゾーン(武力攻撃に至らない侵害への対処)
 訓練中の米軍や他国の軍隊の「武器等防護」を可能にすること
② 後方支援(我が国の平和と安全に資する活動を行う他国軍隊に対する支援活動)
 周辺事態安全確保法から「周辺」を削除し、世界のどこででも給油や輸送などの後方支援を可能にすること
 「他国軍隊に対する支援活動」のための「新法」(海外派兵恒久法)を制定し、いつでもどこでも派兵できるようにすること
③ 国際的な平和協力活動(国際社会の平和と安全への一層の貢献)
 PKO法を改定して国連が統括しない復興支援や治安維持活動へも参加し、任務遂行のための武器使用も可能にすること
④ 集団的自衛権(憲法9条の下で許容される自衛の措置)
 武力攻撃事態法と自衛隊法の改定によって「新事態」を明記し、集団的自衛権の行使を可能にすること
 「新3要件」に合致すると判断されれば第三国に反撃できるようにすること
 ペルシャ湾での機雷掃海などシーレーン防護のための他国軍との共同対処を可能にすること
⑤ その他(その他関連する法改正事項)
 「領域国の受け入れ同意」がある場合に武器を使って在外邦人を救出できるようにすること
 船舶検査法を改定し、どこでも船舶検査ができるようにすること

 これらについて、「参加する自衛隊員の安全の確保のための必要な措置を定めること」とされていますが、その「措置」がどのようなものとなるかは明示されていません。少なくとも、このような活動に「参加する」方が、しない場合よりも「自衛隊員の安全」が格段に低下することは明白です。
 「国会の事前承認」についても明記されていますが、それはあくまでも「原則」であったり「基本」とされたりする限りでのものです。つまり、「事前承認」がすべての場合に必ず必要だというわけではなく、事後となる例外もあり得るということになります。
 国連決議についても、「関連する国連決議等があること」とされ、周到に「等」が付けられています。つまり、「国連決議」がなくてもそれに類するものがありさえすれば、実施が可能になるという抜け道が用意されているわけです。

 以上の結果、いつでも、どこでも、どのような戦争に対しても、自衛隊が参戦できるようになります。そのための法整備だから「戦争立法」だというのです。
 このような法律の整備は、たとえ参戦していなくても、日米軍事同盟と軍事協力の強化をもたらし、基地の維持費と軍事費を増大させ、周辺諸国の警戒感を高めて軍拡競争を煽り、日本周辺の安全保障環境をさらに悪化させるにちがいありません。その反面、力に頼らない、非軍事的な外交交渉による戦争要因の除去という本来行うべき国際紛争の解決努力を放棄することに繋がるでしょう。

 日本を戦争に巻き込み、自衛隊員の犠牲を生み出す危険性を高める誤った政策転換に対して、公明党の支持母体である創価学会の関係者は声を上げるべきではないでしょうか。宗教者としての矜持と良心をまだ失っていないのであれば……。
 自衛隊の関係者も仲間の命を守るために反対の意思を表明するべきでしょう。犠牲者が出てからでは遅いのですから……。

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3月21日(土) 「安全保障法制の整備」=「戦争立法」によって生み出されるのは「海外で戦争する国」 [集団的自衛権]

 いよいよ、戦争の足音が高まってきた。自民党と公明党による安全保障法制についての正式合意というニュースに接した多くの人が、そう感じたのではないでしょうか。

 「もう、二度と戦争はしない」というのが国民の誓いであり、国際社会への誓約であったはずです。戦後の出発点において明確にしたこの誓いは、戦後政治の大原則でした。
 それは右であれ左であれ、保守であれ革新であれ、神を信じる人も信じない人も、戦後の政治にかかわったすべての政党と政治家が立脚し、守るべき国是でした。「専守防衛」に徹し、再び日本の軍事的部隊を海外に送って戦闘行動に参加させないということは……。
 その誓いが今、破られようとしています。迷彩服姿でルメットをかぶり戦車に乗って手を振っていた愚かな極右政治家の狂信的な妄想と野望によって……。

 「海外で戦争する国」に変えるという戦後日本政治の大転換が、「安全保障法制の整備」という名で進められている作業の本質です。それは自衛隊という軍事的部隊を海外に送って戦闘行動に参加させることを可能にするための「戦争立法」にほかなりません。
 いつでも、どこでも、どのような戦争でも、自衛隊が関与できるようにしようというわけです。できないことは、初めから戦争に加わることを目的にした海外派兵と現に戦闘行動が行われている現場への派遣くらいしかありません。
 これによって自衛隊は「普通の国」の「普通の軍隊」になるでしょう。「世界の警察官」であるアメリカの忠実なる「副官」として、日本は東シナ海から中東までのあらゆる紛争と戦争に進んで加わっていくことになるでしょう。

 これによって確実に変わるのは、自衛隊という軍事組織の性格です。それはもはや「自衛」のための実力部隊であるなどという誤魔化しが効かなくなります。
 「普通の軍隊」として、「殺し、殺される」リスクが格段に高まることでしょう。このような大転換に直面して、最も大きな不安と戸惑いを感じているのは自衛隊員とその家族ではないでしょうか。
 安倍首相は率直に語るべきです。これによって日本は「海外で戦争する国」となり、やがて自衛隊員は軍人として人を殺傷し、自らも血を流すことになるのだと……。

 憲法の精神が踏みにじられ、戦後70年間にわたって守り続けてきた「平和国家」としてのあり方が大きく転換させられようとしています。日本は歴史上の岐路に立っているのだということを、私たちはしっかりと自覚しなければなりません。
 「もう、二度と戦争はしない」という誓いを守り、「平和国家」としての国の形を受け継いでいくことは、この時代に生きている私たちにしかできないことです。やがて、戦争に巻き込まれて日本人の血が流され、「あの時、お前は何をしていたのか」と後世の人々によって問われるようなことは何としても避けたいものです。

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3月10日(火) 昔は「事変」で今は「事態」というのが国民を騙すためのテクニック [集団的自衛権]

 「満州事変」という出来事を覚えていますか。1931年9月18日に中国東北部(旧満州)での柳条湖事件を契機に始まった侵略戦争です。
 それは関東軍の列車爆破という謀略事件による戦争の始まりでした。しかし、当時は「満州戦争」とは言われずに「満州事変」として発表されたのです。

 「戦争」なのに「事変」と言われました。言葉の言いかえによって、戦争に巻き込まれることを心配する国民の不安や警戒心を薄めようとしたからです。
 同じような言葉の言いかえによる騙しのテクニックは、その後も様々な形で用いられました。戦争に敗北して「退却」することを「転進」と表現し、部隊の「全滅」は「玉砕」という美しい言葉によって誤魔化されたのです。
 今また、同じような騙しのテクニックが用いられるようになってきています。「武器」は「防衛装備品」、「輸出」は「移転」と言い換えられ、「武器輸出三原則」による原則禁輸は「防衛装備品移転三原則」によって原則自由とされました。

 そして今、「事態」という言葉の氾濫によって、「戦争」であることが誤魔化されようとしています。国民を騙して煙に巻くための新たなテクニックの登場です。
 武力攻撃事態や武力攻撃予測事態、緊急対処事態、周辺事態などという言葉はこれまでもありました。現在進行中の集団的自衛権行使容認のための安保法制整備に関する与党協議の中で、これに加えて存立事態や重要影響事態などという言葉が登場し、存立事態という名称はわかりにくいからということで白紙に戻して「新事態」という言葉に変えるなど、「事態」「事態」の大売出しです。
 これで国民に理解されるのでしょうか。国民の理解を得ることよりも、このような言いかえの氾濫によって国民を騙そうとしているのではないでしょうか。

 政府は昨年7月の閣議決定で、憲法9条の解釈を変更しました。日本が直接攻撃を受けていなくても、「密接な関係にある他国に対する武力攻撃が発生し、我が国の存立が脅かされ、国民の生命、自由などの権利が根底から覆される明白な危険がある場合」などの新3要件を満たせば、「自衛の措置」としての集団的自衛権の行使が可能だという方針を打ち出したからです。
 政府は与党協議会でこの3要件を満たす「新事態」を新たに規定し、自衛隊法と武力攻撃事態法に盛り込む方針を伝えています。武力攻撃事態とは別に「新事態」を設ける理由について「新事態と武力攻撃事態は重なることがあるが、(日本への武力攻撃があるかないかの)評価の軸が異なる」と説明されています。
 ここに言う「武力攻撃事態」は日本が「武力攻撃」を受けた場合で、それに反撃すれば戦争になります。「新事態」は日本が攻撃されていなくても、新「3要件」を満たせば反撃できますから、やはり戦争に加わることになります。

 どちらの「事態」も戦争の始まりを意味しています。前者は武力攻撃を受けた場合、後者は武力攻撃を受けていない場合で「密接な関係にある他国に対する武力攻撃が発生し、我が国の存立が脅かされ、国民の生命、自由などの権利が根底から覆される明白な危険がある場合」などの新3要件を満たした場合です。
 つまり、ここに言う「事態」とは戦争の始まりです。しかも、後者の場合には、日本が攻撃されていなくても、一定の条件が満足されたと判断されれば戦争に加わることができるようになります。
 その条件を判断するのは政府です。国会での承認が条件とされていますが、緊急の場合には事後承認となるでしょうし、現在のような「一強多弱」国会では事前承認であっても何の歯止めにもならないでしょう。

 言葉の言いかえによって国民を欺くというやり方で、戦前の軍部は国民を騙して戦争へと引きずり込んでいきました。今また、言葉の言いかえによって国民を欺くというやり方で、安倍政権は与党の公明党や国民を騙して戦争に引きずり込もうとしています。
 「日本を取り戻す」と言っていた安倍首相は、かつての軍部が駆使した「騙しのテクニック」をすでに「取り戻した」ようです。今日の政治指導者は、この点でかつての軍事指導者と同様の誤りを犯そうとしています。
 騙されてはなりません。もしそうなれば、またもや「騙されたことの責任」を私たちも問われることになるでしょうから……。

拙著『対決 安倍政権―暴走阻止のために』(学習の友社、定価1300円+税)、3月1日刊行。
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2月26日(木) 安保法制の目的は「戦争する国」にするための法的整備にほかならない [集団的自衛権]

 「イスラム国」(IS)による斬首という惨事は許されざるものであり、日本国民だけでなく世界中の憤激を招いています。だからと言って、安倍首相や政府の取り組みへの批判手控えたり、その責任を不問に付したりすることは許されません。
 戦火にさらされている子供たちを救おうとした後藤健二さんの志を受け継ぐためにも、憎悪と報復の連鎖を断ち切って戦火の拡大を防ぐとともに、その根本原因を除去するための努力が欠かせません。そのためにも、この惨事を利用して改憲・安保法制の整備を進めて「戦争する国」に変えようとしている安倍首相の目論みを打ち砕くことが急務になっています。

 これに関連して、最近の外国の報道では安倍首相の対応に疑問を投げ掛ける声が相次いでいるという注目すべき指摘を目にしました。これは中村泰士さんのブログhttp://saigaijyouhou.com/blog-entry-5479.htmlです。
 それによれば、ニューヨーク・タイムズ紙は「日本の与野党が人質事件を政争の道具にしている」と批判し、憲法改正と自衛隊規制緩和について懸念を示しているそうです。ドイツのドイチェ・ヴェレ紙も「安倍首相は人質事件を自分の目標を達成するために利用している」と指摘しているといいます。
 また、イタリアのメディアも「後藤さん殺害、すべてのエラーは安倍総理のせい」と報じ、イギリスの大手メディアでも「実績のないヨルダンに交渉を頼ったのはなぜか」と安倍政権の対応を酷評しているそうです。これらの報道は日本国内のものとはかなり異なっていますが、当然の指摘であり傾聴すべきものでしょう。

 このような国際的な論調とは反対に、安倍首相の責任を問う声は小さく、内閣支持率はかえって上昇しました。安保法制の整備など、日本国内での「戦争する国」づくりも着々と進められようとしています。
 その一環として、安保法制をめぐる自民党と公明党の間での与党協議が再開されました。次々と繰り出されてくる政府・自民党の提案は、全て「戦争する国」づくりという一つの方向を目指していると言って良いでしょう。

 すでに、これまでも国家安全保障会議設置法によって戦争指導の体制ができあがり、特定秘密保護法によって軍事機密など軍事情報の秘匿に向けての準備ができています。軍事技術の開発と武器機能の向上やコストの削減のための武器輸出を振興する政策転換もなされました。
 外国軍隊への影響力の行使と連携強化のために非軍事領域であることを名目とした他国軍隊への資金援助も解禁されています。自衛隊における文官優位の規定を変えて制服組の発言力を強化し、文民統制(シビリアンコントロール)を弱めて現場の独走を可能にするための法改正も行われようとしています。
 これらの実績の延長線上に、現在の与党協議における政府・自民党の安保法制に関する提案がなされていることを忘れてはなりません。そのすべては、これまで自衛隊の活動を制約していた様々な「限定」を解除することにあります。

 それは、いつでも、どこでも、どのような形でも、自衛隊が活動できるようにすることを目指しています。自衛隊の活動への制約をできるだけ取り払い、活動範囲を広げようというのが狙いなのです。
 たとえ国連の決議がなくても、たとえ日本の領土・領海・領空に対する攻撃がなされていなくても、たとえ石油輸送路での機雷封鎖など経済的な混乱を引き起こす場合でも、たとえ日本周辺を遠く離れた中東などの地域であっても、たとえアメリカ以外の艦船や部隊への警護であっても、たとえ戦闘がなされた場所で、これからなされる可能性があっても、自衛隊を派遣して行動することができるようにしたいというわけです。
 できないとされているのは、現に戦闘が行われている地域での武力行使を目的とした戦闘行為への参加だけです。ただし、駆けつけ警護での武器使用基準も緩和されようとしていますから、武力行使を目的としていなかったにもかかわらず、警護の途中で攻撃され、結果的に戦闘行為に発展することが想定されていることは明らかでしょう。

 海外派兵の恒久法が制定されれば、いつでも自衛隊を海外に送ることが可能になります。国会での事前承認は原則であって、事後承認とする場合も認められるでしょう。
 このような形で、「歯止め」の一つ一つが外されていった先には何があるのか、なぜそのような形で「歯止め」を外さなければならないのか。その答えは明らかでしょう。
 そんなに戦争がしたいのか、と言いたくなります。戦後において、これほど軍事に前のめりとなった政権はかつて存在したことがありません。

 憲法9条には「国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する」とし、「国の交戦権は、これを認めない」と書かれています。このような憲法があるにもかかわらず、「戦争」「武力の行使」「武力による威嚇」「交戦権」の発動に向けての法整備が進められようとしているのを黙って見ていて良いのでしょうか。
 現在進められようとしている「戦争する国」に向けての法整備が具体化されれば、憲法9条は空文化してしまいます。自民党が改憲戦略を変更して9条改憲を後回しにしようとするのも、その内実が掘り崩されてしまえば急いで9条を変える必要がなくなるからかもしれません。

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2月17日(火) 集団的自衛権行使容認の閣議決定で公明党は騙されたことに気が付いているのだろうか [集団的自衛権]

 昨年7月1日に、集団的自衛権の行使容認についての閣議決定がなされました。そのために、与党であった自民党と公明党との間で協議が行われたことはみなさんご存じのとおりです。
 この協議で合意できなければ閣議決定は不可能でした。集団的自衛権の行使容認に慎重だった公明党は最終的に自民党の提案を受け入れましたが、その前提は憲法9条の範囲を逸脱しない「限定的」なものであるということでした。
 しかし、これは真っ赤な嘘でした。このことに公明党は気が付いているのでしょうか。

 もっとはっきりとした自民党の嘘もあります。合意の期限についての嘘です。
 自民党は集団的自衛権についての閣議決定を急いでいました。その理由は、日米防衛協力についての指針(ガイドライン)の改定に間に合わせる必要があるというものでした。
 しかし、このガイドライン改定の期限は日本側から持ち出したもので、14年中にという期限も絶対的なものではありませんでした。その証拠に、昨年中にガイドラインはまとまらず、今年の春まで先送りされています。

 ガイドラインに間に合わせなければならないというのは、閣議決定に腰が引けていた公明党をせかせるための方便にすぎなかったのです。この嘘にまんまとのせられた公明党は渋々ながら集団的自衛権の行使容認を認める閣議決定を了承しました。
 自民党は公党に嘘を言ってたぶらかしたのです。そのことを知ってか知らずか、公明党は立法化に向けてのさらなる与党協議に引きずり込まれています。
 そして、その協議の中で、期限についてだけでなく内容についても、自民党が嘘を言って公明党をたぶらかしていたことがはっきりとしてきました。もともと「限定的」な行使容認などは考えていなかったということが明瞭になってきたからです。

 昨日の衆院本会議での代表質問への答弁で、安倍首相は集団的自衛権行使容認の具体的事例として中東からの原油輸送路に当たるホルムズ海峡への機雷敷設を挙げ、「石油ショックを上回り、世界経済は大混乱に陥る。わが国に深刻なエネルギー危機が発生する」とし、昨年7月に閣議決定した自衛権発動の新3要件に該当する可能性があるとの認識を示しました。また、邦人輸送に当たる米艦防護も例示し、「米国艦船が武力行使を受ける明確な危険がある場合」も、同様に新3要件に該当し得ると指摘しています。
 さらに、首相は米軍の後方支援などを目的とした自衛隊の海外派遣について「将来、具体的なニーズが発生してから改めて立法措置を行うという考えは取らない」と述べ、恒久法制定を目指す考えを示しました。いずれも、閣議決定の内容を踏み越えるものです。
 このようなことは閣議決定には書かれていません。「限定」するつもりであれば、このような答弁がなされるはずがなく、公明党との違いが生ずる余地もなかったはずです。

 しかし、自民党と公明党との間には、重大な見解の相違があることがはっきりしてきました。自民党は、集団的自衛権の行使容認ということで、日本周辺だけではなく中東地域でも、軍事的な脅威だけでなく経済的な混乱に対しても、機雷の封鎖解除についても、行使容認を図りたいというわけです。
 さらに、邦人輸送の米艦防護や米国以外の艦船の防護、海外派遣のための恒久法の制定、日本人人質救出のための自衛隊の派遣に至るまで、一挙に実現させようとしています。これが「限定的」な行使容認ということになるのでしょうか。
 一体、どこが「限定」されているのかと、公明党は自民党に対して正すべきでしょう。もともと「限定」などする気はなかったのではないかとも……。

 ここまで嘘をつかれ騙されても、公明党は自民党との連立を続けるつもりなのでしょうか。集団的自衛権の行使容認について懸念を表明したことのある創価学会とその会員は、このような公明党の姿をどう見ているのでしょうか。
 このような形で足蹴にされてもまだ自民党についていくというのであれば、まさに「下駄の雪」だと言うしかありません。踏まれれば踏まれるほど、強く固く張り付いてしまうというのですから……。

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12月8日(月) アジア・太平洋戦争開戦の日に集団的自衛権について考える [集団的自衛権]

 今日、12月8日はハワイの真珠湾への奇襲攻撃によって日米戦争が始まった日です。この戦争はかつて「太平洋戦争」と呼ばれていましたが、すでに1931年には「満州事変」、37年には「盧溝橋事件」などによって中国への侵略戦争が始まっていましたから、一緒にして「アジア・太平洋戦争」とも呼ばれます。
 またそれは、2年前の1939年にドイツによるポーランド侵攻からヨーロッパで始まっていた侵略戦争と一体となり、第2次世界大戦の一部となりました。こうして、世界的規模でファシズム陣営対民主主義陣営の戦いが始まったのです。

 どうして、このような間違った戦争を起こしてしまったのか。そこからくみ取るべき教訓は多々あります。
 とりわけ、集団的自衛権の行使容認が閣議決定され、日本が攻められてもいないのに海外での戦争に参加できるようにしようという企てが進んでいる現在、再び戦争に加担しないという決意を固めることは、今まで以上に重要になっています。そのためにも、戦前における戦争の歴史をきちんと振り返っておくことには、大きな意味があるでしょう。
 ということで、拙著『18歳から考える日本の政治(第2版)』(法律文化社、2014年8月)の第2部第8章「戦前の政治と戦争―歪んだ日本の近代化」の「2 戦前における光と影―近代化と軍国化」「3 『ハンドル』と『ブレーキ』がなければ事故を起こすのは当然」「4 負の遺産を克服するために」の部分(同書32~35頁)を、以下に紹介させていただきます。その前後についても関心を持たれた方は、本書を手に取って読んでいただければ幸いです。

2 戦前における光と影-近代化と軍国化

 戦前の日本は明治維新によって世界への窓を開き、「富国強兵」を目標にして急速な近代化を進めました。政治の面では、内閣制度を確立し、憲法を制定して国会を開設しました。どれも、アジア諸国の中では最も早いものです。
 これらの近代的な政治制度の確立は、日本産業の近代化と国力の増強のために役立ちました。学校制度と教育の普及によって日本という国に対する自覚と愛着が生まれ、民族意識を持つ「国民」が形成されました。一定の知識を持ち文字が読める国民は優秀な労働力としても勇敢な兵士としても役に立ち、「富国強兵」の推進力になりました。
 戦前の日本は、天皇専制という絶対主義的な側面を持ちながらも、大日本帝国憲法という法に基づいていたという意味では立憲主義的な面もありました。このため、立憲君主制の一種というとらえ方も可能です。しかし、天皇の「大権」は強力で、その下での「民主主義」は大きく制約された「天皇制民主主義」にすぎませんでした。
 また、日本は資源と領土を求めて対外的な膨張を目指し、戦争の準備を進めて軍事的な傾向を強めていきました。日清戦争で清国(中国)に勝利して領土を手に入れ、日露戦争でもロシアに負けませんでした。第一次世界大戦にも日英同盟の縁で連合国側として参戦しますが、日本にとっては本格的な戦争ではありませんでした。
 このように、第二次世界大戦まで、日本は戦争に次ぐ戦争という歴史をたどりますが、ここに大きな問題がありました。
 その一つは、このときまでは負けることがなく、戦争によって利益を得ていたということです。そのために国民は、「戦争になれば勝てる」「戦争は儲かる」「領土が手に入る」などと思い込んでしまったのです。当時の人々にとって、基本的に、戦争は「悪いもの」ではなく、「良いもの」として受け止められていたのです。
 もう一つは、戦争の悲惨さ、特に、戦場となることの酷さや怖さを知らなかったということです。第一次世界大戦は総力戦として闘われ、戦場となったヨーロッパでは市民が戦争に巻き込まれました。戦争は、前線で軍人が闘うものから、前線も銃後もなく、全ての人々が巻き込まれるものへと性格を変えました。しかし、アジアにあって本格的に戦争をしなかった日本は、このような変化についてよく分かっていませんでした。
 太平洋戦争の始まりとなった真珠湾攻撃への国民的な熱狂の背景には、このような事情があったのです。無謀な戦争への突入は、当時の政治家や軍人などの戦争指導者、とりわけ天皇の責任によるものですが、それを支え、付き従ったのは当時の国民でした。このような指導者と国民を産み出した背景には、軍事に頼った日本の近代化と、制約が多く不十分な「天皇制民主主義」の存在があったのです。

3 「ハンドル」と「ブレーキ」がなければ事故を起こすのは当然

 今から振り返れば、どうしてあのような無謀な戦争を行ったのかと、皆さんは不思議に思うかもしれません。日本とアメリカの国力の差は当初から明らかで、鉄鋼生産量で約12倍もの差があったと言われています。
 太平洋戦争を闘った中心部隊である連合艦隊の山本五十六司令長官は、近衛文麿首相に日米戦争の見込みを問われ、「それは是非やれと言われれば初め半年や1年の間は随分暴れてご覧に入れる。然しながら、2年3年となれば全く確信は持てぬ。三国条約が出来たのは致方ないが、かくなりし上は日米戦争を回避する様極力御努力願ひたい」と述べています。
 一部の国民は、アメリカとの戦争に勝ち目がないことを薄々知っていました。それでも、戦争に突入してしまったのは何故でしょうか。山本長官が言っていたように、日本が優位に立っていたのは「初め半年」くらいで、1942年6月のミッドウェー会戦での敗北以来、次第に日本軍は戦略的守勢に追い込まれていきました。それでも、戦争を続けたのは「ハンドル」が上手く作動せず、「ブレーキ」が効かないまま、全速力で突っ走ったようなものだったからです。これでは、重大事故を起こすのも当然でしょう。
 戦前の日本は、天皇専制の下、富国強兵を目標に全国民が一丸となって国力増進と軍事力の拡大に邁進しました。アジアの中では最も早く近代化し、急速な国力増強によって世界の強国の仲間入りを果たしたのです。これは、開国と明治維新以来、日本という「車」が全速力で走り続けてきた成果でした。
 しかし、この「車」の「ハンドル」には問題がありました。集団的な英知を集めて日本の進路を相談する仕組みが無かったからです。議会はありましたが、天皇を補佐する役割しか与えられていませんでした。実権を握っていた軍人や宮中グループ、官僚たちは、世界の趨勢について無知でした。彼らは日本の進路を託すに足るだけの能力を持っていなかったのです。中国や朝鮮などを侵略し、日米戦争に突入するという誤った選択をしたのも当然でしょう。
 「ブレーキ」がきちんと作動していれば、このような過ちは避けられたかもしれません。しかし、天皇制に対する批判や反対は許されず、軍人は横暴を極め、勝手気ままに振る舞っていました。政友会や民政党などの既成政党は無力で、共産党などの左翼政党や労働運動は治安維持法や特高警察などによって弾圧されました。やがて戦争が始まると、国民は虚偽報道に熱狂し、政党も労働組合も戦争に協力するようになりました。これでは、「ブレーキ」が効くわけがありません。いったん走り出した日本という「車」は、道路から飛び出して転覆するまで止まることができなかったのです。

4 負の遺産を克服するために

 このような戦前の過ちを繰り返してはなりません。そのためには、どうしたらよいのでしょうか。ここで、いくつかの提案をさせていただきます。
 第1に、歴史を検証し、教訓をくみ取ることが必要です。あの戦争は何だったのかということを、今もなお問い続ける必要があります。戦争の実態、目的や意味について、国民全体での共通認識を得るための努力を、これからも続けなければなりません。
 第2に、日本軍が行った戦争の実態から目を背けないという態度が必要です。日本軍は、南京大虐殺、殺しつくす・焼きつくす・奪いつくす日本版ホロコーストとも言うべき「三光作戦」、「731部隊」による生体解剖や人体実験、毒ガス・細菌戦、「従軍慰安婦」の創設・運用など、通常の軍隊ではあり得ないような戦争犯罪を犯しました。これを「自虐的だ」として無視したり、美化したりするのではなく、きちんと反省することが必要でしょう。
 第3に、「ハンドル」の利きを良くすることが必要です。集団的な英知を集めて正しい選択を行うことができるようしなければなりません。そのためには民主主義が不可欠です。政党や政治家の能力を高めるだけでなく、教育とマスコミによる賢い有権者=市民の育成も重要でしょう。政治学を学ぶことは、その一環でもあります。
 第4に、いつでも「ブレーキ」が作動するように、日頃から整備しておくことも必要です。そのためには、異論や異質なものを大切にする、少数者や少数意見を尊重する、周りの意見に付和雷同せず、立ち止まって考え、自分の意見を持つなどの生活態度を身につけたいものです。
 第5に、世界に存在する様々な民族や人種、多様な文化を尊重し、同等の権利と尊厳を認め合うことも必要でしょう。とりわけ、中国や韓国・朝鮮の人々を蔑視したり敵視したりしないように心がけたいものです。かつて唱えられた「脱亜入欧」ではなく、「入亜入欧」という共生の精神こそ、先の戦争から学ぶべき最大の教訓ではないでしょうか。

 以上が、拙著『18歳から考える日本の政治』からの引用です。この本の初版は2010年に出ていますが、基本的な論旨は変わっていません。
 特に、「『ハンドル』と『ブレーキ』がなければ事故を起こすのは当然」という指摘や「負の遺産を克服するために」提案した5つの点は、安倍首相の「暴走政治」の下で古くなるどころかますます重要になってきていると言えるでしょう。安倍首相に300議席も与えることは、暴走中のドライバーに「危険ドラッグ」を吸わせるようなものですから……。
 今度の総選挙は、このような「ハンドル」の効きを良くし、「ブレーキ」を作動させる絶好のチャンスです。そのチャンスを生かし、戦前のような過ちを繰り返さないようにすることが、今を生きる私たちの責務でしょう。

 
 なお、本日の夕方6時から、千葉県憲法会議の主催で「12・8に戦争と平和を考える―安倍内閣とこの国の危険な進路」という演題で講演します。会場は千葉市文化センター・セミナールームですので、お近くにお住まいで関心のある方に足を運んでいただければ幸いです。

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10月15日(水) ガイドライン「中間報告」で明らかになった集団的自衛権行使容認の狙い [集団的自衛権]

 ガイドラインというのは、「日米防衛協力の指針」のことです。これは東西冷戦を背景に1978年に初めて作成され、北朝鮮の核開発疑惑や弾道ミサイル発射実験を背景に97年に改定されています。
 今回は3度目の改定で、集団的自衛権の行使容認が閣議決定されたために必要とされ、先ほど「中間報告」が出されました。これを見て、「なるほど、集団的自衛権の行使容認はこのためだったのか」と思った方は少なくなかったはずです。

 今回の改定は、これまでと違って日本から米国に持ちかけたものです。これが12月に迫っているから7月1日に決めなければならないと公明党のしりをたたいて閣議決定を急いだわけですが、それは米国側ではなく日本側の都合だったのです。
 この改定は中国の脅威に対処するためとされ、漁民を装った武装集団が日本の離島に上陸した場合などを想定した「グレーゾーン事態」への対応を重視しています。これは米軍にも一緒に対抗してもらうことを期待してのことだとされています。
 しかし、そうであれば尖閣諸島には安保条約第5条が適用されますから、集団的自衛権ではなく個別的自衛権で対応できます。また、そこは日本の領土ですから「周辺事態」を廃止する必要は全くありません。

 それにもかかわらず、「周辺事態」という言葉をなくしたのが、この「中間報告」の最大の特徴となっています。それは日米間の防衛協力が日本「周辺」に限られるわけではなく、グローバルな規模で実行されることを意味しています。
 ということは、今回の改定は日本に対する直接の攻撃とは無関係に日米間の軍事協力を行えるようにするためだったということです。中国の軍拡や尖閣諸島での「グレーンゾーン事態」などは、集団的自衛権の行使容認によって日本の「周辺」という制約や限界を突破するための口実にすぎませんでした。
 また、このグレーゾーン事態での協力については「切れ目のない形で、日本の安全が損なわれることを防ぐための措置をとる」とされ、日本の自衛隊は「周辺事態」とは無関係に、いつでも、どこでも、米軍とともに行動できるようになります。日本の領域外である海外での作戦行動が可能になり、それには「非戦闘地域」などの制約が課されることもありません。

 これについて、自民党の中谷元安全保障法制整備推進本部長は「地球規模の課題に切れ目なく対処することで日米協力は非常に幅広くなっている」と称賛しているそうです。「語るに落ちる」とは、このことでしょう。
 「離島防衛」がいつの間にか「地球規模の課題」にすり替わっています。中東地域やホルムズ海峡の機雷封鎖解除まで含むグローバルな規模での日米共同作戦が意図されているということになります。
 そうだとすれば、「日米協力は非常に幅広くなっている」と言うのも当然です。しかし、このような無限定な拡大は公明党などの認めるところではなく、今後の集団的自衛権行使を具体化するための安全保障法制の整備本格化に向けて大きな火種となるにちがいありません。

 今回の「中間報告」では、「周辺事態」の取り消し以外については課題が列挙されているだけで具体的な記述は見送られました。集団的自衛権行使容認の具体化が難しかったからでしょう。
 アメリカの理解と承認を得るという点で、一定の困難があったのかもしれません。オバマ米大統領は集団的自衛権の行使容認と日本側による負担の肩代わりについては歓迎していますが、それが戦後の国際秩序の変更や中国との関係悪化につながることを懸念しているからです。
 また、アメリカとの合意が得られれば今後の法制の整備に反映させなければなりませんが、その際、内閣法制局の承認が得られるかどうかも微妙です。これまでの憲法解釈を前提に答弁してきたのは内閣法制局であり、それを全面的に転換するような関連法の改定を簡単には受け入れないかもしれないからです。

 いずれにしても、ガイドラインの「中間報告」が示している方向が「専守防衛」だなどと言えるわけがありません。「地球規模の課題に切れ目なく対処する」ために日本を離れて海外に出かけて行きながら、それを「専守」だというのは明確なごまかしだからです。
 国民に対して嘘を言い国際社会をたぶらかす不誠実な言い逃れを許してはなりません。このようなごまかしによって日本を戦争に巻き込むことが、「平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めてゐる国際社会において、名誉ある地位を占め」ることになるはずがないのですから……。

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7月21日(月) 集団的自衛権行使容認についての元外務次官経験者の屁理屈 [集団的自衛権]

 なるほど、こういう屁理屈もあるのか。昨日の『朝日新聞』に掲載された竹内行夫元外務次官のインタビュー記事を読んで、そう思いました。
 今回の集団的自衛権の行使容認を背後からけしかけてきたのは外務官僚だと見られています。このような考え方で彼らはそのような行動をとったのだということが、よくわかるようなインタビューです。

 この記事には、「閣議決定は9条の枠超えたのでは?」「理念守り 許される範囲の変更」、「米の要請で日本が参戦する危険は?」「憲法くつがえされるなら断ればいい」という見出しが出ています。記者の質問と竹内元外務次官の回答を見出しにしたものです。
 これを見れば、すぐに疑問がわいてくるでしょう。「許される範囲」とはどのような「範囲」なのか? 誰が「許す」というのか、という疑問が……。
 また、「断ればいい」と答えていますが、そのようなことができるのか? 断った場合、日米関係が悪化するというようなことはないのか、という疑問も……。

 竹内さんは「客観的な議論を求めたい」と述べていたそうですが、この見出しになった二つの答えを見ても、極めて主観的なものだと言わざるを得ません。いずれも、竹内さん自身の判断と希望を述べたにすぎないものです。
 もうすこし詳しく、その主張を見てみましょう。竹内さんの主張の核心は、集団的自衛権を「自国が武力攻撃を受けていないが、他国が受けた場合にその他国を守るための権利とみる『他国防衛説』」と「他国が攻撃された時、その国との連帯関係を踏まえて自国への攻撃と同じことだと認識し、武力攻撃に参加する考え方で、『自国防衛説』」という二つに分け、前者は許されないが後者なら許されるというものです。
 つまり、他国を守るために他国の戦争に加わることは許されないが、自国を守るために他国の戦争に加わることは許されるというわけです。後者の場合、「その国との連帯関係を踏まえて自国への攻撃と同じことだと認識」されることが条件となります。

 どちらも、自国が攻撃されていないが、他国が攻撃され、それへの反撃として武力攻撃に加わるという点では共通しています。違いは、他国を守るためなのか、自国を守るためなのかという点です。
 竹内さんは、自国を守るために他国を守るのであれば「憲法9条の下で許される自衛の措置」であるから、それは「9条の枠内」だというのです。問題は、「自国を守るために他国を守る」という理屈にありますが、このような奇妙な論理をどれだけの人が理解できるでしょうか。
 「自国を守るために他国を守る」という理屈が成り立つためには、二つの条件が必要です。その一つは、竹内さんの言う「その国との連帯関係」、閣議決定された「新3要件」では「密接な関係にある他国」であり、もう一つは竹内さんの言う「自国への攻撃と同じ」だという「認識」、「新3要件」では「国民の生命、自由、幸福追求の権利が根底から覆される明白な危険」です。

 問題は、このような条件、つまり「連帯関係」「密接な関係」「自国への攻撃と同じ」「明白な危険」を、誰がどのようにして「認識」したり判断したりするのかという点にあります。それは言うまでもなく、時の政府が総合的に判断するということであり、最終的には首相の決断に任されます。
 「他国防衛説」は許されず「自国防衛説」は許されると言ってみても、結局は他国で行われる戦争に参加するということに変わりはありません。両者に違いがあると竹内さんは言っていますが、その違いは首相の判断一つでどうにでもなるようなものなのです。
 これがどうして、「9条の制約を踏まえたわが国独特の抑制された集団的自衛権である」と言えるのでしょうか。「自国が武力攻撃を受けていない」にもかかわらず、他国の戦争に加わることが、どうして「憲法9条の枠内で許される自衛の措置」だと言えるのでしょうか。
 

 集団的自衛権の行使とは、自国が攻撃されていないにもかかわらず、他国の戦争に加わることを意味しています。戦争放棄と戦力不保持、交戦権の否認を定めた憲法9条の下で、そのようなことが許されるのかということが根本的な問題なのです。
 いかなる理屈によっても、日本の領域外で自衛隊が武力攻撃に加わるようなことは許されません。自国を守るために他国で戦争するなどという説は屁理屈以外の何物でもなく、とうてい国民に理解されることはないでしょう。


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7月17日(木) 理解不能な誤魔化しはどんなに説明しても理解されるわけがない [集団的自衛権]

 集団的自衛権をめぐって衆参両院の予算委員会で2日間にわたって行われた閉会中審査について「質疑が不十分だ」として、野党はさらなる閉会中審査を行うよう自民党に要求しました。高村正彦自民党副総裁は集団的自衛権の行使を可能とする閣議決定に基づく安全保障関連法案の国会審議に関して来年の通常国会で衆参両院に特別委員会を設置すべきだとの認識を示しています。
 集団的自衛権の行使容認について国民の不安は大きく、反対意見も多くなっています。十分な説明がなされていないと感じている人は8割にも上っています。

 たとえば、閣議決定を受けて7月2~3日に読売新聞が行った緊急世論調査によれば、集団的自衛権を限定的に使えるようになったことについて「評価する」が36%、「評価しない」は51%と半数を越えました。以前、読売新聞が行った世論調査で限定を含めて集団的自衛権更新容認論が7割もあったことに比べれば、大きな変化です。
 以前の調査は3つの選択肢のうち賛成が2つもあるという「3択のトリック」によるものでした。そのような「トリック」を用いなければ、読売新聞の調査であっても反対の方が過半数を越えるのです。
 限定容認によって日米同盟が強化され、抑止力が高まると思う人は39%で、「そうは思わない」が49%と、抑止力が高まるとは思わない人の方が多くなっています。また、政府が集団的自衛権をめぐる問題を国民に十分に説明していないと思う人は81%もの多数に上っています。

 このように、今後も国民への説明がなされ、国会でも十分に審議することは必要です。しかし、長い時間をかけてそうしたからといって、果たして国民は十分に理解できるでしょうか。
 国民が十分に理解できないのは、集団的自衛権の行使容認を決めた閣議決定が誤魔化しに満ちているからではありませんか。それに対する安倍首相の説明も、うそを言ったりでたらめだったりして、国民の疑問や懸念にまともに答えるものとなっていないからではないでしょうか。
 どれほど時間をかけて説明しても、もともと説明できないような論理に基づく無理な決定であれば、国民が理解できるはずがありません。しかも、安倍首相はそのデメリットやリスクを隠そうとしており、国民の目を誤魔化すような不真面目な答弁に終始しています。

 これでは、国民の納得を得ることはできません。もともと、国民に説明できないような矛盾に満ちた政策転換だったのですから、それも当然でしょう。
 その最たるものは、国内向けと国外向けを使い分けた2枚舌です。安倍首相は、国内向けには1日の記者会見で、「現行の憲法解釈の基本的考えは、今回の『閣議決定』でも何ら変わることはない」と強調し、国外のオーストラリア連邦議会では、「なるべくたくさんのことを諸外国と共同してできるように、日本は安全保障の法的基盤を一新しようとしている」と演説しました。
 「安全保障の法的基盤を一新」したのに「憲法解釈の基本的考えは……何ら変わることはない」というわけです。この説明を聞いて、「良くわかった」という国民はどれほどいるでしょうか。

 安倍首相はあまりにも不誠実だと、この言葉を読んだ誰もがそう思うでしょう。今回の閣議決定の元になった報告書を出したのは「安全保障の法的基盤の再構築に関する懇談会(安保法制懇)」であり、それに基づいて閣議決定で新しい「3要件」を定め、これまで「できない」とされていた集団的自衛権に基づく武力行使を「できる」ようにしたというのが、一連の経過だったのではありませんか。
 この経過を見ていた国民が、「何ら変わることはない」などと説明されれば、面食らって混乱するだけでしょう。「変わることはない」のに「一新しようとしている」だなんて?
 「変わることはない」というのであれば、どうして閣議決定までして集団的自衛権についての態度を変更する必要があったのか。安倍首相のオーストラリアでの演説にあるように、これまで「できなかった」ことが「諸外国と共同してできる」ようになったのに、それでも「変わることはない」というのは、一体、どういうことなのか、と。

 閣議決定自体が矛盾に満ちた誤魔化しにほかならないものでした。そのうえ、安倍首相は国民に真実を語らず、言い逃れに終始しています。このような状況が続く限り、どれほどの時間をかけても国民の理解を得ることは不可能でしょう。
 とはいえ、国会という場での審議には大きなメリットがあります。このような誤魔化しと言い逃れが国民の目にさらされ、その矛盾が赤裸々に示される貴重な機会となるでしょうから……。

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