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5月5日(金) 春の花と新緑に迎えられた宇都宮と足尾銅山を訪ねる旅 [旅]

 昨夕、宇都宮と足尾銅山を訪ねる旅から帰宅しました。宇都宮に行ったのは5月3日の憲法記念日での講演を依頼されたためであり、足尾銅山に行ったのは、この機会に足を延ばして、まだ訪れたことがなかった足尾銅山をぜひ訪問したいと考えたからでした。

 5月3日の憲法集会については、地元紙『下野新聞』5月4日付が、写真付きの「『壊憲』より『活憲』を ネット中継の議論注視も 県内」という記事で、次のように報じていました。

 日本国憲法施行70年の節目の憲法記念日となった3日、平和・民主・革新の日本をめざす栃木の会などは宇都宮市雀宮町の同市立南図書館で憲法集会を開き、憲法改正の動きを強める安倍政権を護憲の立場から批判した。一方、都内で開かれた改憲派集会を、インターネット中継で視聴する会場が宇都宮市内にも設けられ、約50人が議論を見守った。
 護憲派の集会には約300人が参加。講演した五十嵐(いがらし)仁(じん)法政大名誉教授は「憲法を破壊する『壊憲(かいけん)』ではなく、憲法を政治と生活に活(い)かす『活憲(かつけん)』が必要だ」と訴えた。また改憲を目指す安倍政権について「安倍一強体制の緩み、おごりがある」と指摘。閣僚の失言、スキャンダルや森友学園問題などを挙げ政権を批判し、野党共闘と市民勢力の結集を呼び掛けた。
 さらに「戦後70年かけて実現した自由で民主的な平和国家を守り、次世代に手渡すことが現世代の責任」と強調。「1人1人が正しい情報を発信し、周囲に伝えていくことが重要だ」とした。

 この記事では、「約300人が参加」とありますが、400人入る会場がいっぱいでした。300人以上の方が参加されたのではないでしょうか。
 皆さんの反応も良く、爆笑に次ぐ爆笑で、私も気持ちよく話をさせていただきました。私の前に、昨年の参院選栃木選挙区で野党統一候補として出馬され惜敗した田野辺隆男さんも「未来のための『徳義』の連帯を」というテーマで話をされました。
 講演終了後、会場で私の新著『活路は共闘にあり―社会運動の力と「勝利の方程式」』(学習の友社)のサインセールをしていただきました。取り寄せた50冊が完売したと聞き、嬉しく思ったものです。

 その後、一席設けていただき、宇都宮駅前のホテルまで送っていただきました。この時、宇都宮に来たのに、まだ餃子を食べていないことに気づき、駅近くのお店を調べて出かけました。
 しかし、夜の8時半を過ぎているというのに、どこも長蛇の列です。連休中だったと言うこともあるでしょうが、宇都宮餃子の人気を見くびっていたことを反省しました。
 結局、餃子は諦めて、ホテルに戻ることにしました。それにしても、すごい人気ですね。

 懇親会の席上、翌日の予定を聞かれ、「まだ行ったことがないので、足尾銅山を訪問するつもりです」と話しましたら、「日光からのバスの便がないかもしれないから、車で案内しましょう」との申し出がありました。
 「それはありがたい。ぜひお願いします」ということで、ホテルの前で待ち合わせました。車で現れたのは、日中友好協会宇都宮支部の伊藤義明事務局長と奥様の新日本婦人の会栃木県支部事務局長の伊藤直子さんです。
 このお二人と共に、長い間、行きたいと思いながら訪問する機会がなかった足尾銅山に向かうことになりました。足尾については、私の勤務先であった大原社会問題研究所の先輩所長でもある二村一夫先生のご専門で、『足暴動の史的分析―鉱山労働者の社会史』(東大出版会、1988年)という著作があり、私も読んだりお話を伺ったりしていました。

 日光から足尾に至る山道も、足尾の町も周辺の山も、そして帰りに乗ったわたらせ渓谷鉄道沿いの渓谷も、春真っ盛りでまさに百花繚乱ともいうべき花々が咲き誇り、新緑は滴るようなモスグリーンで、濃淡が鮮やかなパッチワークのようでした。しかし、その緑が失われた一角がありました。
 足尾ダム上流の松木沢と言う渓谷で、この周囲の山は精錬所から出たガスの影響や鉱山開発に伴う森林伐採で緑が失われ、ここにあった松木村も全村移転を強いられ、先祖代々のお墓は下流の龍蔵寺にまとめてピラミッドのように積み上げられています。足尾銅山については、銅の採掘による渡良瀬川下流への鉱毒の垂れ流しによる公害は田中正造によって告発され良く知られていますが、その上流の空中にも公害がまき散らされていたのです。
 足尾の銅山開発によって水と空気が汚染され、谷中村だけでなく松木村も廃村になっていた事実はあまり知られていません。私も、途中から合流した元足尾町議の藤井豊さんに案内されお話を伺って始めて知りました。

 足尾ダムの上流には許可がなければ車で入ることができません。藤井さんは管理者としての資格があり許可を得ているということで、私たちも松木村の跡地に入ることができました。
 日当たりが良く平坦な場所にあった村は跡形もなく、数基のお墓が残っているだけでした。周囲の山は今も緑が失われ、岩がむき出しになっています。
 ここで偶然、植樹などを行って緑を回復する作業に従事しているNPO法人「森びとプロジェクト委員会」の方々とお目にかかりました。5月20日にも植樹のイヴェントを行うそうですが、ボランティアで緑の復活をめざしているこのような取り組みには本当に頭が下がります。

 このほか、109人の霊が祀られているという中国人受難烈士慰霊塔、粗末な蘇東坡のような墓しかない朝鮮人連行碑、本山抗跡とその前の無人の野となった住宅街の跡、旧松木村の墓や鉱夫の墓などが残されている龍蔵寺、そして足尾観光の中心である通洞抗跡・足尾銅山観光をめぐりました。車で案内していただかなければ、とても回りきれるものではありません。
 こうしてめぐった山の中に、足尾銅山はあったのです。足尾銅山は610年に発見され、10層以上の横抗が縦抗で結ばれ、総延長は東京から博多までに相当する1200キロになるそうです。
 その周囲をぐるりとめぐり、主要な入口であった通洞抗、本山抗、小滝抗なども見ることができました。伊藤さんが車で案内して下さったばかりか、藤井さんに連絡して途中から合流し案内していただいた賜物です。

 今回の宇都宮と足尾銅山をめぐる旅も、伊藤さんご夫妻や藤井さんを始め、沢山の方のお世話になりました。お陰様で、大変意義深く、また思い出に残る旅となりました。
 お世話になった全ての方に、この場を借りてお礼申し上げます。ありがとうございました。

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2月13日(月) 早春の日向路を行く [旅]

 昨晩、宮崎での旅を終えて帰宅しました。「早春」の旅のはずが、寒波の襲来によって冷たい風が吹き、「厳寒」の旅のような寒さでした。
 旅の目的は「第81回憲法と平和を考えるつどい」での講演です。地方紙『宮崎日日新聞』本社ビルにある「宮日ホール」で開催されました。

 宮崎では、えびの高原や高千穂を訪問したことがあります。鹿児島での講演のついでに、大学院時代の先輩が車で案内してくれました。
 鹿児島から山道を通ったり高速道路を飛ばしたりしての宮崎訪問です。いわば「裏口」から入ってきたようなものでした。
 今回は宮崎空港からの宮崎市訪問ですから、「表玄関」から入ったことになります。空港には日本科学者会議(日科)宮崎支部の木下宮崎大准教授が出迎えて下さり、そのまま車で平和台公園の「平和の塔(八紘一宇の塔)」に案内していただきました。

 「八紘一宇の塔」は「紀元2600年」の記念事業として1939(昭和14)年5月に着工され、1940(昭和15)年11月に完成しています。塔は予想よりもずっと大きなもので、いかにもアジア侵略のシンボルとされた過去を物語るようでした。
 普段は中に入れないのですが、この日は許可を得て中に入ることができました。案内して下さったのは「八紘一宇」の塔を考える会の税田会長と会員の杉尾兵庫教育大名誉教授で、中に設置されている神話などをモチーフにした石膏レリーフについて説明していただきました。
 レリーフには軍艦なども掘られており、軍事力や戦争を否定していないし隠そうとしてもいなかったことがうかがわれます。塔の周りにはめ込まれている石は日本全国だけでなく、当時植民地だった台湾や朝鮮、侵略していた中国、南米からも集めれ、これら各国から略奪してきた石を返そうという運動が取り組まれています。

 この日の夜、打ち合わせを兼ねて宮崎の地鶏をご馳走になりました。焼き鳥などもおいしかったのですが、この時に飲んだ焼酎「茜霧島」の味が忘れられず、翌日、店頭で見つけて自宅に発送しました。
 講演会は2月11日の午前中で、日科宮崎支部と宮崎民主法律家協会の主催によるものです。毎年、2月11日の「建国記念の日」と5月3日の憲法記念日に開かれているそうです。
 すでに81回を数えているということで、その回数の多さに驚きました。翌朝『毎日新聞』を見たら、宮崎版に「護憲 改憲 考える 各地で講演や集会」という見出しで、この講演の様子が報じられていました。

 これで私の仕事は終わりです。しかし、せっかく宮崎までやって来たのですから、このまま帰ってしまうのはもったいない。「早春の日向路の旅」を楽しむことにしました。
 ところが、2月11日の宿が取れません。2連休の週末だっただけでなく、宮崎には巨人軍などのプロ野球の球団がキャンプをしていて、おまけにこの日は長島さんまでやってきたためにファンが殺到したのでしょう。
 仕方なく、延岡まで足を延ばすことにしてようやくホテルを確保できました。延岡は旭化成の「企業城下町」で、転勤族相手のホテルが沢山あったからだと思います。

 延岡の駅は工事中でしたが、町は何となくレトロな雰囲気が漂い、ホテルの横には1970年創業の「スタンドバー」があり、その向かい側の食堂の上には「青春の門」という大きな看板がかかっていました。何となく懐かしい感じがしたものです。
 延岡は東北の平藩から移封された内藤藩のお城があったところで、城跡には「千人殺し」という大きな石垣が残っていました。外敵に攻められた時、一部の石を引き抜けばたちどころに崩れて千人を殺すことができるというのです。
 翌日は西日本マラソンがあるということで近くの駐車場にはテントが張られ、ホテルのすぐ裏では「十日えびす」の出店が並んでいました。こういう催しがある中でよくホテルがとれたものだ、それも「じゃらん」のポイントを差し引いて3万3000円という格安のホテルが、と思ったものです。

 翌日は延岡から各駅停車で宮崎まで戻り、そこで特急電車「海彦山彦号」に乗り換えて青島まで行きました。青島神社を訪問した後、路線バスで鵜戸神宮を訪ね、そこからまた路線バスに乗って宮崎空港へと至るルートです。
 JR九州は儲かっているのか、車両が良いです。延岡から乗った各駅停車は全て前向きのリクライニングで、まるで駅ごとに停まる特急列車のようでした。
 前夜に買ったカップ焼酎「あなたにひとめぼれ」を水で割ってチビリチビリやりながら、日向灘に照り映えるまばゆい朝の光を眺めて至福のひと時を過ごしました。途中、モノレールの線路ようなものの上にソーラー・パネルが並んでいましたが、これも晴れる日が多い宮崎ならではの光景でしょうか。

 こうして青島に到着したのですが、そこは無人駅で駅前の荷物預り所も閉まっています。シーズンオフだからなのかもしれませんが、「新婚旅行の聖地」として旅行者が殺到した往時の賑わいは感じられませんでした。
 土産物屋のおじさんに教えてもらった「鬼扇」という磯料理屋で海鮮丼を食べ、バスに乗り込んで鵜戸神宮に向かいました。青島周辺の「鬼の洗濯岩」は有名ですが、同じような地形を何カ所かで目にすることができます。
 鵜戸神宮からの帰り、バスを待つ間、上り口にあったお店でサザエのつぼ焼きを食べました。持っていたカップ焼酎「木挽き」を取り出して「これ飲んでもいいですか」とおばさんに聞いたら、「温めましょうか」と言ってレンジで「チン」してくれました。私の心も「チン」されたように、暖かくなったものです。

 帰りの飛行機から下を見たら、日向灘に沿って海岸線が南北にまっすぐ伸びていました。前日からこの日にかけて、その海岸線に沿って行ったり来たりしたことになります。
 旅行中、テレビで日米首脳会談の様子を見ました。握手するとき、笑顔の安倍首相がトランプ大統領に手をさすられる映像を見て、飼い主に首筋を撫でられて嬉しそうにしっぽを振りながらクンクンと鳴いている犬の姿を思い出したのは私だけでしょうか。

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12月21日(日) 兵庫労連結成25周年記念レセプションで堀内衆院議員に会った [旅]

 神戸の三宮に行ってきました。兵庫労連結成25周年記念講演会で講演するためです。
 講演が終わってから開かれたレセプションで、当選したばかりの堀内照文共産党衆院議員にお目にかかりました。まだ湯気が立っているような新人議員さんで、初々しい限りです。

 講演では、労働運動が解決すべき問題や当面の課題、運動刷新に向けての提言などを話しました。たまたま、前日の夕刊紙『日刊ゲンダイ』12月20日付には、安倍政権の狙う「労働破壊」についての記事が報じられています。
 これには私の発言も掲載されていましたので、紹介させていただきました。それは次のようなものです。

 年明け召集の通常国会冒頭から、労働者にとって地獄の門は開かれる。安倍政権が今年2度も廃案に追い込まれた「労働者派遣法改正案」の提出は既定路線だ。
 「企業が受け入れる派遣期間の上限(最長3年)を撤廃し、派遣社員は3年ごとに、ほぼ強制的に別の部署に移されるという内容です。派遣社員は一生ハケンから抜け出せず、スキルアップも望めない。低賃金で働かせ続けるのも雇い止めも企業の都合次第となり、ハケンの“奴隷化”がますます進んでしまいます」(労働問題に詳しい政治学者の五十嵐仁氏)

 安倍は「世界一ビジネスのしやすい国づくり」を口実に、労働規制を徹底的に破壊する構えだ。検討するたび国民の不評を買ってひっこめてきた「解雇の金銭解決=首切り自由化」や「限定正社員制度」だって、自民大勝の勢いに乗じて一気に片づけかねない。
 「例年6月に経財諮問会議がまとめる『骨太の方針』の15年版に盛り込むのは必至でしょう。『過労うつ』が社会問題化する中、ますます過酷な労働環境となれば医療費がかさみ、さらなる財政悪化の要因となる。これだけ労働者の低賃金化を招く政策を推進すれば、消費は冷え込み、需要不足でデフレも進む。安倍首相は『財政再建とデフレ脱却の二兎を追う』などとよくも言えたもので、スローガンに逆行する自滅路線は日本の国力を衰退させるだけです」(五十嵐仁氏=前出)

 この講演が終わってからレセプションが開催されました。そこに来賓として顔を見せていたのが、近畿ブロックで当選した堀内照文さんでした。
 「議員になってから初めてのあいさつです」とおっしゃっていました。企画が持ち上がったころには「予定候補」だったのに、総選挙があったために現職の衆院議員としてあいさつできるようになったわけで、これも安倍首相の「お蔭」でしょう。
 この堀内さんは、12月19日付『しんぶん赤旗』一面下のコラム「潮流」で「小学3年生の長男の反応」が紹介された方です。それは、次のようなものでした。

 「おめでとう」と言ったうえで、東京へ行くことが多くなる父親をどうやって応援するか真剣に考えたようです。「家の手伝いをせなあかんようになるから、学校で先生に宿題を減らしてもらうように言わな」▼衆院近畿ブロックの比例で初当選した堀内照文さんの長男です。「せんきょ(選挙)がんばってね」「とうとう(お父さん)がせんきょにか(勝)てばとうきょう(東京)にいっちゃうけどぼくはいいよ。せかい(世界)がへいわ(平和)になればいいから」。堀内さんが演説のなかで紹介した長男の手紙は感動を呼びました

 この手紙の実物を見せていただきました。小さな鉛筆書きの文字で、とつとつと書かれています。堀内さんにとっては、一生の宝物でしょうね。
 「今日、当選証書を受け取りに東京まで行ってきました。議員会館の部屋は、これまで次世代の党の杉田水脈前議員が使っていた部屋です」
 次世代の党の議員が落選して出て行き、その代わりに入るのが共産党の新人議員だというわけです。まさに、今回の総選挙によって生じた劇的な変化を象徴するような出来事です。

 レセプションのオープニングは「トーフレンズ」の演奏でした。これは漢字で書くと「闘父連ズ」となり、闘う父親たちのバンドで「湯豆腐でもつまみながら歌おう」ということらしいですよと、隣の席にいた兵庫労連の津川知久議長が説明してくれました。
 津川議長は、開会のあいさつで「オール沖縄」の小選挙区での勝利について「国民的統一戦線の萌芽形態」だと指摘していました。沖縄では、「反共攻撃」のつもりで「赤嶺は共産党」だという宣伝があったといいますが、「当たり前だ」と言って笑われたそうです。
 総選挙直後とあって、会場では「おめでとうございます」「がんばりました」という声が飛び交っていました。なかに、「あなたが当選してくれて良かったよ」という声がありましたが、当選した側がお礼を言うのではなくお礼を言われるというのも堀内さんの人柄でしょうか。

 私が日本酒好きだという情報を聞き込んだ兵庫労連の北島隆事務局長がやってきてお酒を注いでくださいました。灘の地酒「浜福鶴」や学生時代からのなじみである「剣菱」です。
 堀内衆院議員には2次会までご一緒していただき、大いに語り合ったものです。津川議長や北島事務局長には3次会までお付き合いいただきました。
 たらふくご馳走になり、すっかりお世話になってしまいました。ありがとうございました。

 これが、今年最後の講演になります。安倍首相が「暴走」を続けてきた「お蔭」もあって、私のところにも講演依頼が例年以上に舞い込むことになりました。
 正確には数えていませんが、40回を超えたと思います。講演に呼んでいただき、つたない私の話を聞いて下さった皆さんに、この場を借りてお礼申し上げます。

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10月22日(水) 佐倉、成田、湯河原、戸倉へと関東を縦断する5日間の旅 [旅]

 忙しい5日間でした。10月16日(木)から20日(月)まで、千葉県の佐倉、成田空港、伊豆の湯河原、長野県の戸倉上山田温泉へと、関東を縦断する旅をしていたのですから……。

 10月16日(木)に千葉県の佐倉を訪れたのは、社会・労働関係資料センター連絡協議会(労働資料協)http://oohara.mt.tama.hosei.ac.jp/rodo/top.htmlの総会・研修会に出席するためでした。労働資料協は社会・労働関係の資料を収集し保存している資料館や図書館などで作っている小さな協議会で、大原社研在職中、私は代表幹事を務めたことがあります。
 毎年、総会と研修会を開いており、今年は千葉県の佐倉にある国立歴史民俗博物館(歴博)https://www.rekihaku.ac.jp/での開催でした。以前、大阪の万博記念公園にある国立民族学博物館(民博)を訪れたことがありますが、それに勝るとも劣らない立派な施設です。
 総会前に義人・佐倉宗吾を祀る宗吾霊堂http://www17.ocn.ne.jp/~sougorei/を訪問し、歴博では資料の搬入・保管や修繕などを行っているバックヤード、第5展示室(近代)と第6展示室(現代)の展示を見学させていただきました。翌日は、空港開港をめぐる「成田闘争」の「戦跡」をかつての関係者からマイクロバスで案内していただき、「闘争」の経過や背景、問題点、現状と課題などを学ぶ貴重な機会になりました。

 千葉から帰ってきた翌日の18日、伊豆の湯河原に出かけました。世田谷区労連の学習会での講師を依頼されていたからです。
 都立大学の後輩であるU君から電話で依頼されたものですが、そのU君は世田谷区労連の議長だというではありませんか。学生時代はそれほど目立たなく、どちらかと言えばおとなしい印象でしたが、世田谷区の労働運動の先頭に立っていることに、経過した時間の長さを実感したものです。
 せっかくの温泉でしたので一泊させていただき、同宿の虎ファンと一緒にテレビで阪神・巨人戦を観戦し、阪神タイガースの日本シリーズへの進出決定を祝いました。翌日は北条氏の本拠地として有名な小田原城を見学し、東京を縦断して長野県の戸倉上山田温泉に向かいました。

 戸倉上山田温泉には今年の夏にも家族とともに来ています。新潟の上越市に帰省した帰途、ここの温泉で一泊したからです。
 9月には上田の長野大学で開かれた長野県母親大会での助言者として参加しました。というわけで、上田には8月、9月、10月と、3か月連続で来たことになります。
 今回、ここに来たのは都立大学時代の先輩との同窓会に出るためです。この近くの坂城には大学時代の先輩である吉田超さんが主宰する知的障がい者のNPO法人「やまびこ舎」http://blogs.yahoo.co.jp/yamabikosyaがあり、リンゴもぎなどの援農を兼ねた同窓会が企画されていました。

 
 出席された方は20数人でしたが、私が大学1年生で自治会副委員長をやっていた時の上級生ばかりです。卒業以来40数年ぶりという方がほとんどで、まことに懐かしい顔ぶれでした。
 翌日は、私もリンゴもぎの手伝いをしました。途中で雨が降ってきたのは残念でしたが、得難い体験をさせていただきました。
 このリンゴや農産物はネットでも注文することができます。http://blogs.yahoo.co.jp/yamabikosya/16090833.htmlまで、ぜひご注文下さい。


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9月30日(火) 足早な秋の訪れを感じた信州の旅 [旅]

 長野県母親大会の助言者として、上田にある長野大学に行ってきました。ついでに、別所温泉、小諸、中込、野辺山と一周し、足早に近づいてくる秋の訪れを感じたものです。 

 母親大会の分科会は9時15分から12時15分までの3時間。朝早いので前泊しました。用意していただいた宿は上田駅前の東横インで、3年ほど前に社会政策学会の大会の時に泊まったホテルです。
 私はこのホテルの会員で、各地の東横インを愛用しています。というのは、サービスで新聞をもらえ、インターネットでメールをチェックできるからです。
 それに安い。そのうえ朝食も出て、量が少なく食べ過ぎることがありません。

 翌朝は車で迎えに来ていただき、会場の長野大学に直行しました。ここは社会政策学会の会場でもありましたから、来たことがあります。
 分科会会場の教室には80人ほどの方がおられたでしょうか。「越後の上杉謙信の地元出身の私が、武田信玄と戦った川中島の近くでこうして話ができる。戦争はなくせるのです」などと自己紹介し、30分ほど集団的自衛権行使容認の問題点などについて話した後、質疑と意見交換になりました。
 参加者は長野各地から来られているようです。私は茅野や諏訪で講演したことがありましたが、その時にお世話になった方もおられました。

 分科会が終了し、会場の外で弁当を食べて帰ろうとした時、バッタリと吉田超さんにお会いしました。全く予想していなかったので驚きました。
 吉田さんは都立大学の先輩で、近くの坂城で知的障害者のNPO法人の農園「やまびこ舎」を主宰されていますから、本当はそれほど驚くようなことではありません。そこで採れた大根や味噌などを会場の外で販売していたのです。
 来月にはリンゴもぎを兼ねた大学の同窓会も予定されており、同窓会の方には私も参加する予定です。またの再会を約して別れました。

 この後、近くの生島足島神社を参拝しました。なかに野菜の直売所がありましたので、「松茸はないの?」と聞きましたら、「今日は稲刈りが忙しくて、キノコ採りどころではないそうですよ」ということ。以前、この近くで比較的安い松茸が買えたのですが、日曜日ですから稲刈りの方を優先したのでしょう。
 近くの上之郷駅から長野電鉄別所線に乗って別所温泉に向かう途中、名物の車掌さんが現れました。乗客にせがまれてハーモニカを吹き、皆さんも歌いだして大合唱です。
 のどかな田園風景の中を電車が走ってゆきます。のんびりとした各駅停車の旅でした。

 別所温泉には泊まったこともあり、これで3回目になります。外湯の石湯で一汗流しました。
 ここは若き真田幸村が女忍者お江(こう)と出会った隠し湯だとされています。再来年のNHKの大河ドラマは「真田丸」ですから、このようなエピソードが放映されれば大混雑になるかもしれません。
 私が入ったときは、旅行客らしい小父さんが一人で岩に囲まれた湯船につかっていました。ちょっと熱いお湯で汗をかき、おなじみの北向観音で涼しい風に当たってから丸い窓の電車に乗り、上田経由で小諸に向かいます。

 翌日は、小海線で中込、野辺山を経て高尾に帰りました。この各駅停車の経路も、もう3回目になります。
 中込駅で下車したのは、朝早い列車の終点だったからです。次の列車まで1時間半ほどありましたので、駅員に聞いて「ぴんころ地蔵」を参拝しに行きました。
 洒落た街並みの駅前通りを抜け、途中、千曲川を渡りましたが、川風の気持ち良いこと。門前の出店で開店準備中の小母さんは近くの佐久鯉専門店「魚甲」の女将さんだそうで、勧められて名産の鯉のうま煮と昆布巻きを買いました。

 再び小海線に乗って、途中下車の旅を続けます。清里で降りるつもりでしたが、開発が進みすぎたと聞いていましたので一つ手前の野辺山に変更しました。
 駅前のレンタサイクルで自転車を借りて、1時間のサイクリングです。これが大正解。近くに八ヶ岳の連山を望み、畑が波打つ雄大な景色を楽しみました。
 飯盛山の麓のしし岩の近くまで行きましたが、あまりの登り坂にギブアップ。途中から右折し、JRの最高地点を経て駅まで戻りました。

 信州の秋の旅は好天に恵まれ、コスモスが風に揺れていました。一部では紅葉も始まり、柿の実が色づき、赤くなり始めているドウダンツツジの葉も目につきます。
 黄金の稲穂が波打ち、刈り入れの真っ最中でした。この実りがすべて、人々の豊かな暮らしにつながることを願いたいものです。

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7月28日(月) 安芸、宮島、広島、有馬温泉をめぐる旅 [旅]

 しばらく旅に出ていて、一昨日まで東京を留守にしていました。今回は、安芸、宮島、広島、有馬温泉をめぐる4日間の旅でした。

 旅に出たのは、安芸グランドホテルでの講演を頼まれたからです。全商連(民商)の全国事務局員交流会・西日本会場ということで、西日本の各地から400人ほどの事務局員が集まりました。
 午前中の講演でしたので、私は前日からホテルに泊まりました。せっかくの温泉ですから、さっそく一汗流したら、電話がかかってきました。
 『しんぶん赤旗』の記者からの取材で、7月22日付けの前回のブログ「安倍内閣に対する『民意の反乱』が始まっている」に関連するコメントが欲しいと仰います。この時の発言は、翌日(24日)1面の記事に引用されています。

 「400人も集まるなんてすごいですね」と言いましたら、「以前はもっと多かった」という答え。でも、ずらっと並ぶと壮観です。
 聴衆が多いとやる気がわく性格ですから、楽しく話をさせていただきました。この講演で私の仕事は終わりです。
 ということで、お役御免となった私はすぐ近くの宮島に船でわたりました。今回が初めての訪問です。

 船から降りると、さっそく鹿の出迎えを受けました。船上から見えていた赤い鳥居に向かいましたが、干潮だったので下まで歩いて行けます。
 本来は海の中ですから、太陽の光を遮るものは何もありません。あまりの暑さにたまらず、持っていた折り畳みの雨傘をさしました。
 厳島神社の本殿では結婚式の最中で、列席していた子供が暑さにあえいでいました。白い婚礼衣装を身にまとったご両人、ご苦労様です。

 山の上なら涼しかろうと、ロープウウェーに乗って山上に向かいました。上からの展望は抜群で、瀬戸内海が一望できます。
 涼しい風も吹いてきて、生き返ったような心地がしたものです。しかし、乗り場に行き着くまで坂道を上ったため、汗だくになってしまいました。
 平日ですが、さすがに夏休みです。観光客も多く、ロープウェーの臨時便が出ていました。

 この日は広島に泊まり、翌朝は原爆ドーム、平和記念公園、原爆の子の像、原爆供養塔、原爆死没者慰霊碑、平和記念資料館、国立広島原爆死没者追悼平和祈念館などをめぐりました。ここに来るのは2回目です。
 原爆の子の像の前では、各地の小学生がたくさん集まって碑前祭を行っていました。8月に向けてこのような慰霊の行事が繰り返されていくのでしょう。
 広島平和記念資料館は今後リニューアルされるということで、展示内容も変わるようです。しかし、原爆のむごさや被害の悲惨さを弱めるような展示には変えてほしくありません。

 この後、広島城に向かいました。ここは前回の広島訪問では訪れていず、今回が初めてです。
 途中、城址公園の中で掃除をしているお年寄りがいましたので、「ご苦労様です」と声をかけました。シルバー人材センターの仕事で週2回作業をしているのだそうです。
 広島城は1589年に毛利輝元によって築城され、5層の天守閣が復元されています。中は歴史博物館となっていて、天守からの眺めも抜群でした。

 ということで、その後は山陽新幹線を途中下車して有馬温泉に一泊し、六甲山の山上を横断して帰路につきました。平日に旅をして週末に帰ってきたというわけで、このようなぜいたくな旅ができるのもリタイアして現役ではなくなったからだということを実感した次第です。

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5月8日(木) 春の新潟と東京を2往復した各駅停車の旅 [旅]

 長い「連休」でした。とはいっても、その前から「毎日が日曜日」だったわけですが……。

 
 4月27日の新潟市秋葉区(旧新津市)での講演が始まりでした。その前日、友人の村上さんのカフェ兼ギャラリー「木り香」に泊めていただきました。
 ギャラリーの周りは春の息吹に満ち、新たに散策路ができるなど相変わらず進化を続けています。庭に咲いている春の花も種類が増えていました。
 新潟県阿賀野市のカフェ兼ギャラリー「木り香(きりか)」について、詳しくはhttp://www.gallerykirika.com/をご覧ください。食事もできますので、お近くにお越しの際は立ち寄っていただければ幸いです。

 新潟からの帰りに草津温泉まで足を延ばしました。まだ桜も咲いていず、スキー場には雪もあり、早春という風情です。
 新潟から上越線経由で長岡、長岡から水上、水上から渋川まで各駅停車の旅でした。帰りも、長野原草津口から高崎、高崎から八高線経由で八王子まで各駅です。
 初めての上越線でしたが、新津の次の駅が古津で六日町の前には五日町という駅がありました。各駅でなければ気づかない駅名です。

 各駅停車の旅は、その後も続きました。後半の連休で新潟県上越市(旧頚城村)の実家に帰省しましたが、行きも帰りも各駅停車です。
 西八王子から武蔵野線経由で大宮、快速で高崎に出て水上行に乗り、水上から長岡行に連絡して六日町、ほくほく線で犀潟に着きました。犀潟駅は直江津高校に汽車で通っていた時の最寄り駅になります。
 新潟からの帰りは、直江津から信越線で長野に出て、篠ノ井線で松本、中央線で甲府、そこから立川行に乗って高尾下車という経路でした。こうしてグルッと一巡し、昨日、東京に戻ってきたというわけです。

 これだけの期間、休むことができたのは、リタイアしたおかげです。平日に各駅停車でゆっくり旅をするというのは私の「夢」でしたが、それがかないました。
 上越線で通った越後湯沢周辺では桜が満開で、信越線の富士見周辺でも桜が散り残っていました。越後中里や妙高高原にはまだ雪があり、五頭連峰、飯豊連峰、谷川岳、八海山などの越後三山、霧ケ峰、妙高山、北アルプス、八ヶ岳、甲斐駒、仙丈ヶ岳なども雪で白く輝いていました。
 信越線の脇野田駅周辺では北陸新幹線の「上越妙高駅」の工事が行われていましたが、新幹線が通ればこのような各駅停車の旅はできなくなるかもしれません。東京からは早く行けるかもしれませんが、それは「便利」になったと言えるのでしょうか。

 今回は2度にわたって新潟と東京を往復する旅でしたが、それは同時に、初夏から春、早春へと季節を往復する旅でもありました。フジや芝桜、山桜に八重桜、ツツジなど咲き誇る花々と、滴るような新緑を愛でるゆったりとした至福の時間を過ごすことができました。

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4月23日(水) 春爛漫の諏訪湖と春まだ浅い蓼科湖・白樺湖を訪ねて [旅]

 「諏訪9条の輪」に招かれて講演してきました。上諏訪への訪問は昨年末以来です。
 昨年の訪問は茅野9条の会での講演のついででした。この時の講演を主催した方を含めて、今回の講演を企画していただいたわけです。

 昨年末からでは情勢が大きく変わり、集団的自衛権の行使容認という問題が前面に出てきました。同時に、これに対する懸念や反対の声も大きくなっています。
 このような変化についても話をさせていただきました。その日の夜、宿泊するホテルに『日刊ゲンダイ』の記者から取材の電話がかかってきて、5月13日に安保法制懇の答申が出るようだと知らされました。
 会場には100人以上の方が出席され、『信濃毎日新聞』の記者も取材に来ていました。諏訪は桜が満開でしたが、お花見にもいかずに私の講演に来てくださったわけで、この場を借りてお礼申し上げます。

 上諏訪の駅まで車で迎えに来てくださったHさんに、昼食だけでなく夕食までごちそうになりました。翌日も白樺湖に宿泊すると言いましたら、車で案内してくださると仰います。
 ご厚意に甘えて雨模様の中、高島城、諏訪大社の下社秋宮と宝物館、桜の名所である水月公園、諏訪湖から天竜川への水門、武田信玄の側室である諏訪御寮人が晩年を過ごし供養塔がある龍光山観音院、諏訪大社の上社本宮、横谷渓谷の乙女滝などを案内していただきました。途中、昼食をカツ専門店である勝味庵というところで取りましたが、「宣伝してください」と言われましたので宣伝しておきます。特に、ゴマをすりおろして入れる特性のソースが美味しかったです。
 諏訪湖周辺は桜並木が続き、水月公園の桜も満開でした。水仙、コブシ、レンギョウ、花モモ、ドウダンツツジや三つ葉ツツジなどが一斉に花開いて春らんまんという風情です。しかし、市街を抜けて山道に入るにつれ花はなくなって緑が薄くなり、横谷渓谷には雪が残っていました。

 ここからさらに高度を上げて山道を登りましたが、霧が出てきて周囲は真っ白です。引き返す途中に別荘地を通りましたが、そこで車の前を野生の鹿が4頭、横切っていきました。
 以前、宿泊したことのある滝の湯や小斉の湯などの前を通って蓼科湖にも立ち寄りました。雨模様の静かな湖畔には誰もいません。
 その後、八ヶ岳山野草園にも立ち寄り、裏山に自生しているカタクリの群落を見せていただき、対岸も見えないほどの濃い霧に包まれた雨の白樺湖に到着しました。車で送ってくださったHさんに、お礼申し上げます。

 翌日、春の信州・甲州路駅停車の旅としゃれ込みましたが、途中の塩崎駅の近くで「憲法9条は平和を願う日本の宝」という看板を目にしました。このような形で、各地で憲法9条を守る運動が発展することを期待したいものです。
 私の講演行脚も、その役に立てれば幸いです。これからも、新潟県の新潟市秋葉区、小千谷、見附、加茂、魚沼、東京の荒川区、埼玉県の杉戸、北海道、広島、鹿児島などを講演で訪ずれる予定ですが、その際にはよろしくお願いいたします。

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4月8日(火) 土浦への「リベンジの旅」に行ってきた [旅]

 日曜日に足立革新懇の総会で講演し、代表委員の吉田万三さんらとお会いしました。北千住に行ったついでに足を延ばして藤代に住む伯母の家を訪問し、さらに土浦に一泊して周辺を散策、帰りに松戸で途中下車して知人と一献傾けて昨晩遅く帰宅しました。

 この伯母の家の訪問と土浦での一泊は、実は、2月に実行する予定でした。それが今回、ようやく行うことができたので「リベンジの旅」というわけです。
 2月にできなかったのは、大雪のためでした。2月8日(土)にしろい9条の会に依頼されて講演し、そのついでに今回と同じように藤代に行って土浦に泊まる予定だったのです。
 しかし、ご存知のような大雪で、講演は強行して50人ほどの方が見えましたが、伯母の家への訪問は断念し、土浦で一泊しました。このとき、交通が大混乱した都心を通って帰らなかったのは大正解でしたが、問題は翌日です。

 一面、雪で真っ白になって、霞ヶ浦観光などはとんでもないという状況でした。早々に引き上げようとしましたが、常磐線は架線の点検で動かず、知らずに駅に行った私はホームで1時間半も待たされました。
 途中もダイヤが混乱し、時間のかかること。やっとの思いで帰宅したのは午後も遅くなってからでした。
 この一週間後の2月16日(日)はさらなる大雪で翻弄されることになります。この日、たった一度しかなかった法政大学の入試監督に当たっていたからです。
 バスが運休したため、自宅から多摩キャンパスまで歩いていかなければなりませんでした。ようやくバスが通るようになったのは、帰宅直前のことです。

 ということで、今回、改めて藤代の伯母の家を訪問したわけですが、電車に乗っている途中から空が暗くなって雨が降り出すなど、また「雨男」の本領発揮です。伯母の話では、雹も降ったそうです。
 伯母宅では夕食をご馳走になり、平貝のお刺身やアワビ茸と新タケノコの煮物などをご馳走になりました。ただ、残念ながらタケノコは熊本産で、地元でも沢山取れるのに、一時、放射線量が高かったため出荷を自粛しているそうです。
 こんなところにも、福島第1原発事故の影響が現れていたわけです。目に見えない力で人々の暮らしを制約してしまう放射能の恐ろしさを実感しました。

 土浦では、前回できなかった霞ヶ浦の遊覧船クルージングを楽しみに、朝一番の出航をめざして乗船所に行きました。しかし、係員の話では「団体客の予約が入っていて準備があり、船は出せない。11時半になれば出せるが、人数が集まらなければ無理だ。燃料代の方が高くなってしまうから」と言います。
 ガッカリして引き返した私は、対岸に見えた桜の並木に沿って歩き出しましたが、驚きました。その桜並木はどこまでも続き、湖岸を離れて川沿いに桜のベルトになっていたからです。それは見事な光景でした。
 3時間ほど歩いた後、昼食を取るために入った喫茶店のマスターに「凄い桜並木ですね」と声をかけましたら、「昔はもっと凄かったんですよ。アメリカシロヒトリに大分やられました。ちなみに、あの川は桜川で、ここは桜町と言います」という答え。桜が見事なのも当然だということでしょうか。

 その後、亀城公園に立ち寄り、駅に帰る途中、モールという商店街を通りましたが、人通りは少なく、閑散としていました。開いている店も多くなかったように思います。
 それは月曜日という曜日のせいだったのでしょうか。それとも、それが地方都市の普段の姿だったのでしょうか。

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9月11日(火) 久しぶりに中国を訪問して感じたことのいくつか [旅]

 昨日のブログで、「これまでの訪中と今回とでは、若干の違いがありました。それを含めて感じたことがいくつかあります」と書きました。以下に、いくつかの感想を書かせていただきます。

 第1に、古さと新しさです。最初に中国を訪れた23年前、私が一番驚いたのはトイレの汚さです。この「トイレ問題」は中国旅行の大きなネックになっており、以前よりは改善されたものの、依然として、不潔である、鍵が閉まらない、ペーパーが切れている、詰まっていて水が流れない、などという問題が散見されました。
 交通マナーの悪さも、あまり変わっていないようです。しかし、自転車の大部隊が姿を消し、自動車の数が増え、交通ラッシュや環境破壊という新しい問題が生じているようです。
 他方、中国人はところ構わず痰を吐くため、以前は所々に「痰壺」が置かれていました。今回は、これが綺麗に姿を消していて、驚かされました。

 第2に、経済発展に向けての潜在的な力の大きさです。23年前の中国は、日本の高度経済成長前のような雰囲気でした。農村部は、私が育った新潟の田舎よりも遅れているような印象を持ったものです。
 しかし、今回訪問した西域は、「西部大開発」の掛け声の下、急速な開発が進んでいました。蘭州の郊外には高層マンションが林立し、現在も各所で工事が行われています。
 橋の架け替え、高速鉄道の建設、道路の拡幅と新設など、砂漠の中での工事もありました。陽関などの農村部でも、葡萄の生産だけでなく、干し葡萄やワインの製造という商業化に成功し、立派な住宅を建て、屋根には温水装置が乗っていました。

 第3に、以上の両者の観点からとくに注目したいのは、新エネルギー開発に向けての取り組みです。蜃気楼が見えていた砂漠の彼方に、数え切れないほどの風車が現れたときには、大変、驚きました。
 この地方は風が良く吹くそうで、その通り道を計算して風車を立てているそうです。地平線の彼方まで続く数限りない風車の姿は、壮観と言うしかありません。
 また、太陽光発電のためのパネルも、砂漠の一部に敷き詰められていました。西安交通大学の鄭学長は、このような新エネルギー開発については大学としても力を入れて取り組んでいると強調されていました。

 第4に、中国が潜在的に所有している「歴史の力」を再認識させられたということです。これは中国に行くたびに実感させられる点です。
 敦煌の「莫高窟」は随や唐の時代にできたものであり、秦の始皇帝陵や兵馬俑はそれ以前の先史時代に遺されたものです。それが、今の中国にとって、いや世界にとって大きな文化遺産となり、兵馬俑の発見によって一つの町までできました。
 今回の私たちのように、世界中からその文化遺産に触れるためにやってきます。何という優れた「遺産」でしょうか。これらの「遺産」が今日の中国に資するところ、極めて大きいと言うべきでしょう。

 第5に、中国という国の広さです。すでに、23年前の第1回訪中時に、この広さは実感させられました。シーサンパンナ景江から昆明に戻るとき、2泊3日の「路線バス」に乗ったからです。
 この間、バスの乗客は一緒に食事をして、同じ宿に泊まりました。この時も、「中国は広い」と思いましたし、2回目の東北部の旅でもその広さを実感することができました。
 しかし、今回の広さは、それを上まわるのではないかと思います。バスに乗っていて、1時間ほど眠ってから目覚めても周りの景色にそれほどの変化はありません。アラブ首長国連邦(UAW)を訪問したときも砂漠というより「土漠」を目にしましたが、一木一草もないゴビ砂漠の荒涼たる景色は、その広大さを強く印象づけるものでした。

 第6に、日中両国の一般庶民による「草の根交流」の根強さです。今回は、「尖閣問題」があり、反日感情が強まっているのではないか、日本人と分かると嫌がらせなどをされるのではないか、などの心配がありました。
 しかし、それは全て杞憂でした。楡林窟や莫高窟では現地の日本語ガイドがついて親切に案内してくれましたし、日本からの観光客もいつもと同じようでした。敦煌のホテルでは日本語が飛び交い、土産物屋の売り込みも普段と変わらないしつこさです。
 このような関係は、何があっても、もう後戻りできないでしょう。政府間でどのような紛糾や対立があろうとも、日中両国の草の根レベルでの交流を途絶えさせることは不可能だ思いますし、そうさせてはなりません。

 感想はもっとたくさんありますが、長くなりましたので、これくらいにしておきます。最も開発が遅れているとされている西域でも、一旅行者にさえ、そのエネルギーと発展への潜在力を充分感じ取れるものだったということを、最後に強調しておきましょう。
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