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10月9日(金) 学術会議会員6人の任命拒否の理由を明らかにして取り消すべきだ [教育]

 日本学術会議会員の任命拒否事件についての初の国会質疑が、衆参両院の内閣委員会で行われました。菅首相が6人を除外した判断の基準や背景が焦点でしたが、具体的な説明はなく「ゼロ回答」に終わりました。
 のらりくらりと言い逃れをして時間稼ぎを図り、国民が忘れるのを待つというこれまでのやり方は許されません。菅首相は学術会議会員6人の任命拒否の理由を明らかにして取り消すべきです。

 1983年に中曽根首相は「政府が行うのは形式的任命にすぎない。学問の自由独立はあくまで保障される」と答弁していました。もし、形式的ではなく、実質的な任命がなされれば、「学問の自由独立は保障され」なくなると言っていたのです。今回がそれに当たります。
 同じ83年の参議院文教委員会で内閣官房総務審議官は「推薦されたうちから総理が良い人を選ぶのじゃないかという感じがしますが、形式的に任命を行う。実質的なものだというふうには理解しておりません」と答弁しています。「総理が良い人を選ぶ」ことはない、つまり今回のようなことはしないと約束していたのです。
 丹羽兵助総務長官はもっとはっきりと「学会の方から推薦をしていただいた者は拒否しない。その通りの形だけの任命をしていく」と答弁しています。「拒否しない」と言っていたのに、今回は6人について「拒否」しています。

 国会での審議では「解釈は変えていない」と言う答弁が相次ぎました。当時から、今回のような任命拒否が可能だと解釈されていたのなら、これらの答弁との整合性が問題になります。
 83年当時の関係者が皆、嘘を言ってごまかしていたのでしょうか。当時と変わっていないと言えば言うほど、これらの答弁を行った中曽根元首相などを貶め、名誉を損なうことになります。
 当時から解釈を変えたとすれば、変わっていないという国会での答弁は嘘だということになります。それは、いつ、何故なのでしょうか。

 『毎日新聞』10月8日付に興味深い記事が出ていました。「14年10月以降のある時点で、官邸側から『最終決定する前に候補者を説明してほしい』と要求されていたという」のです。
 「14年10月以降のある時点」から、「官邸側」は学術会議の人事に関与する姿勢を示していたことになります。この「14年」という年が一つのポイントではないでしょうか。
 13年から14年にかけて、それまでの慣例を破る形での官邸側による人事介入が相次いでいたからです。安倍首相は13年には内閣法制局長官に外交官の小松一郎駐仏大使を任命し、NHKの経営委員に「お友だち」の百田尚樹・長谷川三千子さんを押し込み、翌年の14年1月にはNHK会長に籾井勝人さんを起用し、この年の5月には内閣人事局が設置されました。

 もう一つ、興味深い事実があります。14年5月15日に「安全保障の法的基盤の再構築に関する懇談会」が内閣に対して“集団的自衛権の行使は認められるべきだ”とする報告書を提出し、この日の記者会見で安倍首相は 集団的自衛権が必要な具体例として親子のパネルを示して説明していました。
 他方で、3月には「戦争をさせない1000人委員会」、4月には「立憲デモクラシーの会」が発足し、これ以降翌年の9月まで、学者・研究者も加わって激しい反対運動が展開されます。「官邸側」が学術会議の人事に関与する姿勢を示していた「14年10月以降のある時点」は、まさにこのような反対運動が盛り上がり始めていた頃に当たります。
 この様子を眺めていた官邸側は「何とかしたい」と考えたのかもしれません。その具体的な現れは「16年の補充人事で学術会議が推薦候補として事前報告した2ポストの差し替えを官邸が要求」(『毎日新聞』10月8日付)という形で生じ、以後、今日まで繰り返されてきました。

 自民党や政府にとって学術会議は以前から煙たい存在で、できれば廃止するか少なくとも従順な機関へと変質させたいと考えていたはずです。それが、具体的な人事介入という形をとるようになった背景には特定秘密保護法や安保法制に対する反対運動があり、これらの法制定との関係で軍事研究を加速させる必要性が生じたからではないでしょうか。
 そのために、2018年に首相が推薦通りに会員を任命する義務はないとする内部文書を作成して準備を進めてきたのだと思われます。この時点で法解釈の変更がなされたことは明らかですが、政府はそのことを認めていません。
 認めれば、勝手に解釈を変えたのに公表していなかったことになり、立法権を侵害してしまうからです。そのために、「総合的・俯瞰的」という抽象的で理解不能な言葉を繰り返すしかなくなってしまいました。

 「総合的・俯瞰的」観点から6人を任命しなかったとすれば、この6人はその資格や資質が無いということになります。しかし、その理由は明らかにされていませんから、一方的に投げかけられた侮辱であり名誉を大きく棄損するものです。
 国会でのやり取りは国民が見ているだけでなく、世界の人々も見ています。まるで、日本語が通用しなくなってしまったようなやり取りを。
 森友・加計学園疑惑や桜を見る会、黒川検事長の定年延長問題などでも目にしたおなじみの光景ではありますが、情けないったらありゃしません。こんなたわごとを言わされている官僚も気の毒です。


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10月8日(木) 学術会議人事介入の狙いは大学と学術研究を権力のしもべに変え戦争に協力させることにある [教育]

 「今回の個別の人事案件とは別に、政策決定におけるアカデミアの役割という切り口から議論していく必要性がある」
 自民党の下村博文政調会長は6日午前に党本部で開かれた会議のあいさつで学術会議をめぐる問題についてこう述べ、「政治と学術の関係について前向きなものを打ち出したい」と語りました。昨日の記者会見でも下村政調会長は「日本学術会議」のあり方を検討するプロジェクトチーム(PT)を新設する方針を表明し、次のように述べてきます。
 「学術会議としての活動が見えない。いろいろな課題があるのではないか」「果たすべき役割が果たされているのかを議論をしていく必要がある」

 今回の人事介入の目的はここにあったのです。政府の言うことを聞かない学術会議をぶっ壊すこと、少なくとも変質させることによって大学と学術研究を権力のしもべに変え、戦争と軍事に協力させようとしているのです。
 そのために、秘かに人事介入を準備し、知られないようにしながら安倍政権の下で実行してきました。それが、今回、明るみに出てしまったわけです。
 それを逆手にとって、いよいよ牙を剥いて学術会議に襲いかかろうというのが、自民党プロジェクトチーム新設の意味なのです。下村さんは、その狙いをはっきりと口にしました。

 その狙いは安倍前首相が進めてきた教育改革や大学改革と共通しています。安倍教育改革の目的は、道徳の教科化と愛国心教育の強化によって、権力に従順で自ら進んで「お国ため」に戦う人材を育成することにありました。学術会議への介入は、その大学版です。
 権力に手向かわず、戦争に反対せず、軍事研究に協力する大学と学術に変質させることを目的にしています。大学法人化や管理運営体制への民間人登用、教授会自治の切り崩し、補助金の削減と科学研究費の配分などを通じて、これまでも大学の自治と学問の自由は侵され、軍事研究への協力を強いられてきました。
 学術会議が目の敵にされるのは、このような大学改革や学術研究への介入に対する防波堤となって軍事研究に反対し、大学の自治と学問の自由を守ろうとしてきたからです。いよいよ自民党はこの学術会議に挑戦状をたたきつけ、87万人の学者・研究者を敵に回すことを宣言したことになります。

 学術会議を変質させて言うことを聞かせようとする手段も、安倍首相に指示され菅官房長官が実行してきたものと同じです。人事に関与したり介入したりすることで恫喝し、忖度させたり言うことを聞かせたりしようというのです。
 内閣人事局の新設によって官僚全体を統制下におき、それまで認められないとされてきた集団的自衛権の一部容認を実現するために内閣法制局長官を交代させ、アベノミクスに協力させるために都合の良い人物を日銀総裁に据え、NHKを支配するために会長や経営委員にお友だちを送り込み、気に入らないテレビ報道番組のキャスターなどを交代させ、「官邸の守護神」を守るために検察庁の人事や定年制度さえ歪めようとしてきました。学術会議への人事介入も陰で秘かに実施されていたもので、今回が初めてではなかったのです。
 特定の政治目的を達成するために人事に介入するという安倍政権による常套手段が繰り返され、それが明るみに出たというのが今回の事件です。安倍政治の「闇」が、それを担ってきた人物が首相になった途端にばれてしまったというのも歴史の皮肉でしょうか。

 いわば二つの「闇」の流れが交錯するところに、今回の事件が露わになったと言うべきでしょう。一つは教育の国家統制をめざす安倍教育改革の一環として進められてきた大学の自治と学問の自由の侵害という流れ、もう一つは特定の政治目的を実現するための人事介入による官邸支配の強化という流れです。
 このいずれも「安倍政治」の「闇」であり、これを継承するところに安倍なき安倍政治たる菅後継政権の本質があります。日本の教育と大学・学術の自治と自由、民主主義と平和を守るために、菅政権を打倒することは急務になっています。

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4月12日(土) 小保方さんの問題は大学政策の歪みによって生じたのではないか [教育]

 小保方晴子さんの問題というのは、新型万能細胞「STAP細胞」についての論文をねつ造したのではないかという疑惑を招いている件です。いずれこのような問題が生ずるのではないかという心配は、大学関係者であれば以前からあったのではないでしょうか。
 というのは、大学政策の大きな変化によって任期制や競争の激化、成果や業績による研究費の配分、そのための事務手続きの煩雑さなどの問題が生じ、研究テーマや研究内容、研究者の処遇などが大きな影響を受けてきたからです。

 小保方さんも任期制の職に就いているといいます。この間に研究成果を上げなければ、次の職に就けません。
 このような状況に置かれている研究者は、短期間に論文などを書いて業績を上げなければならず、それを考慮してテーマなどを選択することになります。長期的で基礎的な研究が手薄になり、研究面でも焦りが生ずることは避けられません。
 今回の問題でも、以前書いた論文や写真の使い回し、コピーの貼り付けなどの問題が指摘され、そのような不備があったことは小保方さん自身も認めています。それは故意ではなかったというのが小保方さんの弁明ですが、そのような不備を生じさせた暗黙の圧力はこのような研究環境から生じたように思われます。

 同じようなことは、理化学研究所についても言えます。競争を勝ち抜いて評価されるためには、成果と業績を上げることが要求されるからです。
 多額の研究費の配分を受け有利な研究環境を獲得するためには、世間をあっと言わせるような研究成果を上げなければなりません。小保方さんのSTAP細胞についての研究は注目を集めている再生医療の分野での業績であり、政府が後押ししている成長戦略にも合致し、格好の研究成果だと考えられたことでしょう。
 しかし、これは今回の問題によって裏目に出てしまいました。昨日、下村文科相は閣議のあとの記者会見で、理化学研究所を「特定国立研究開発法人」に指定するのに必要な法案について、不正防止策の内容が不十分な場合は今の国会への提出が見送られる可能性もあるという認識を示したからです。

 今日の大学と研究所、研究者のすべてが、このような厳しい競争にさらされています。それは研究を促進させ、業績と成果を高める目的で導入されたものですが、実際には逆効果を生み出しました。
 科学研究費補助金をどれだけ申請し、どれほど獲得できたかが評価の対象になり、それによってどのような研究が発展し、どれほど成果が上がっているかはさして問題にされなくなったからです。そうなると、短期間に成果が上がり、注目を集めるようなテーマを選択しがちになるも当然でしょう。
 研究内容を評価することは簡単ではなく、論文の数だけで測ることはできません。しかし、だれにでもわかる尺度が必要ですから、そのような形で成果が比較されがちになるのも避けられません。

 このような環境の下では落ち着いた基礎的な研究は軽視されるようになります。アカデミズムの世界で評価対象とされることの少ない社会的な活動は敬遠されがちになるのも当然でしょう。
 論文を書くよりも、研究計画を立てたり科学研究費補助金の申請書を作成したりすることの方に時間と精力を取られるなどという倒錯も生じます。研究者自身がこれらの事務作業に忙殺され、しかも激しい競争にさらされていれば、若手研究者に対する指導がおろそかになります。
 このような問題の積み重ねのなかで、今回のような問題が生じたのではないでしょうか。それは偶然ではなく、以前から問題点が指摘されていた大学政策の歪みが具体的な形をもって発現したということになるでしょう。

 今回の問題については理研と小保方さんの双方の主張が対立しています。それを判断する材料を私は持っていませんが、疑惑を晴らすための最善の道はSTAP細胞を再現することであるように思われます。
 すでに「私自身、STAP細胞の作製に200回以上成功している」というのであれば、あと1回、このような細胞を生み出すことは簡単でしょう。そもそも、STAP細胞の特性とは、これまでのものより作製法が格段に容易であるという点にあったのですから……。

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9月26日(月) 戦後民主教育を破壊してしまったために生じた国家の困難 [教育]

 最近、つくづく思うんです。日本という国は、どうしてこんなに酷くなっちゃったんだと……。
 なかでも、一番酷いのが政治と政治家。でも、それを選んでいるのは、われわれ有権者なのですから……。

 小泉首相以後、安倍、福田、麻生と自民党の首相3人が1年ずつ続きました。その後、政権が交代して、鳩山、菅と、また1年ずつの首相が続いてきました。
 何とか長続きして欲しいものだという期待の下に出発した野田新首相ですが、どうもいけません。来年の秋まで持つかどうか。
 野田さん自身は「安全運転」を心がけ、なるべくしっぽを捕まれないようにしているようです。でも、最も政治のリーダーシップが求められている「危機の時代」に、そのようなことでトップリーダーとしての責任が果たせるのでしょうか。

 問題は首相だけではありません。大臣や議員にも「こんな人が」と言いたくなるような人が沢山います。
 「法務大臣は二つの言葉だけ覚えていれば良い」と言って辞任に追い込まれた柳田法相、上から目線での傲慢な発言で辞任させられた松本復興相、「死のまち」発言と「放射能つけじゃうぞ」というおふざけで辞任に追い込まれた鉢呂経産相などが相次ぎました。その他にも、「これが大臣か」と思われるような人も見受けられます。
 このような政治家がどうして生まれたのでしょうか。どうして、このような政治家が選ばれるようになってしまったのでしょうか。

 これについては様々な背景があるでしょう。小選挙区制の罪については、すでに書きました。
 もう一つ、大きな背景として指摘したいのが、教育とマスコミの罪です。これこそが、政治家と有権者の劣化を進めてきた責任を追うべき二つの領域であるように思われます。
 長期的に言えば、自民党と文部省(文科省)が一貫して進めてきた「教育改革」が戦後民主教育を破壊し、かつて狙われた「期待される人間像」を現実のものとしてきました。短期的に言えば、マスコミのセンセーショナリズムと右傾化が、これを抑制する力を奪い、国民の愚民化に輪をかけてきたのではないでしょうか。

 芸人を鍛えるのが観客の目であるように、政治家を鍛えるのは有権者の眼です。観客の芸を見る目が衰えれば芸人は育たず、有権者の政治を見る目が充分でなければ政治は劣化します。
 このような政治を見る目を鍛え育てるのは、教育とマスコミの役割にほかなりません。しかし、日本の教育とマスコミは、逆の機能を果たしてきたのではないでしょうか。
 その結果、東京では石原慎太郎都知事、大阪では橋下徹府知事、名古屋では河村たかし市長が、行政のトップに選ばれています。有権者の政治家を見る目がどのようなものであったかは、これらの事実に示されています。

 マスコミでも、日本で最も読まれている新聞は、改憲論を主張している『読売新聞』です。極端な右よりの主張で知られている『産経新聞』も、経営が成り立つほどの読者を得ています。
 中立と見られている『日経新聞』も、9月19日の6万人が集まった脱原発集会をほとんどまともに報じませんでした。国民の受信料で成り立っているNHKも同様です。
 6万人もの人が、焦眉の問題である原発について自らの主張を掲げて行動に立ち上がった事実を、きちんと報道する姿勢を持てなくなっているということです。これで、どうして民主主義を励まし、政治を活性化することができるでしょうか。

 週刊誌には、もっと酷い例もあります。日本の世論を右寄りに引っ張ってきた『週刊新潮』と『週刊文春』の役割は犯罪的であると言うべきでしょう。
 たとえば、『週刊新潮』9月1日号では、「露出度が4倍になって山本太郎 反原発は儲かるか!」という記事が掲載されています。実際には、ドラマなどから干されたため、情報番組への出番が増えても収入は十分の一に減ったそうです。
 でも、問題は収入が増えたか減ったかではありません。このレベルでしか反原発問題をとらえられない記者の低水準、このような意地悪な記事を書こうという発想の愚劣さ、人格の低劣さ、そしてそれを記事として報道してしまう雑誌の下劣さ、全てがマスコミの劣化を象徴しています。

 かつて、自民党と文部省の教育政策は日教組攻撃を主眼とするものでした。その結果、教職員組合への加入率はどんどん低下し、1960年前には8割を超えていた日教組の組織率は27.1%となってしまいました。
 日教組から分かれた全教も組織率は6%で、これらを含めた教職員団体全体の加入率は42.3%です(いずれも、2009年10月1日現在の数字)。つまり、先生の半分以上は労働組合などの教職員団体に入っていません。
 これでどうして、労働組合の意義や役割を子供たちに教えることができるのでしょうか。自分自身が、そのような団体に入っていないのに……。

 そればかりではありません。教育の現場では、先生への管理強化を狙って校長などの権限を強め、上意下達の体制を採り入れてきました。
 その結果、職員会議は形骸化し、民主的な討論の場ではなくなりました。必要事項を伝達する場にすぎないというのです。
 これでどうして、民主主義や討論の重要性を子供たちに教えることができるのでしょうか。自分自身が、そのような場を保障されていないのに……。

 政治は教育に介入して意のままにしようとし、文科省は教科書検定を通じて教育内容を歪め、ついには、「日本は悪くない」とする歴史教科書も現れ、その採択率が高まっています。「日の丸・君が代」を強制しないという約束は反故にされ、どのような教育がなされているかよりも、「君が代」斉唱で起立しているかどうかの方が、より大きな問題とされるようになりました。
 「君が代」を歌っているときに起立しなかったという理由で処分され、再雇用を拒まれた先生も出てきました。独自の性教育を行っていることを目の敵とする都議まで現れ、裁判で争われました。
 大阪では、君が代起立斉唱を想定した職務命令違反の教員の分限免職や首長が設定した目標を実現する責務を果たさない教育委員を罷免できるなどの「教育基本条例案」が提案されています。とうとう、こんな馬鹿げた憲法違反の条例案が、堂々と議会に提案されるような時代になったということです。

 このようななかで、先生は萎縮し、苦悩し、精神を病み、やる気を失い、情熱を持って子供たちに接することが難しくなってきました。今日の『朝日新聞』に、教員の感じる働きがいはベテランになるほど落ちているという調査結果が報じられています。
 それによれば、男性だと、年齢が高いほど「職場の仲間がいるから楽しい」「児童・生徒たちから必要とされている」の設問に「そう思う」と答える率が低下し、職場や教室で関係が結びにくくなっている傾向がうかがえたそうです。
 先生の危機は、教育の危機を意味します。「失われた20年」とともに、日本の教育も失われつつあります。

 このように、日本の教育は政治や行政の誤った介入によって、破壊され続けてきました。戦後民主教育を目の敵にし、「期待される人間像」を具体化するために精を出してきた自民党や文部省(文科省)による「教育改革」の「成果」が、このような形で結実しつつあると言うべきかもしれません。
 その結果、日本の教育は大きく歪んでしまいました。時代の要請に反する人間類型が続々と生み出されてきています。
 政治と政治家の劣化をもたらしている背景の一つがここにあります。それは、このような政治家を選ぶ有権者が増えている要因の一つでもあるでしょう。

 こうして、自主性を持たず自分の頭で考えない、たとえ理不尽な支持や要求でも従う、使いやすい「指示待ち」人間が増えてきました。ビジネス社会では、創造力豊かな「問題解決型」のビジネスマンが求められているというのに……。
 また、自分の意見や主体性を持たず、政治への関わりを避けようとする消極的な人間が増えてきました。現代社会では、政治への発言力を持った民主的な人格が求められているというのに……。
 さらに、日本の戦争責任や植民地支配の過ちを認めず、周辺諸国を貶み、民族的な差別に鈍感な「愛国者」が増えてきました。国際社会では、アジアの周辺諸国との友好を前提に、マイノリティに共感して民族の共生を尊重する地球市民こそが求められているというのに……。

 教育は国家の基礎であるといわれます。その教育が、このような形で破壊され、「期待されざる人間像」が排出されるようになってきたところに、日本がこのような酷いことになってしまった根本的な原因があるのではないかと、しみじみ考えてしまう今日このごろです。


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4月5日(月) 「松田さんを支える会」が「支え」てきた「地の塩」の志 [教育]

 「地の塩」とは、新約聖書の山上の垂訓のひとつだそうです。「マタイ福音書の5章13節から16節に記述がある。そのほかマルコ福音書の9章48節から50節、ルカ福音書の14章34節から35節に、地の塩に関する同様の記述がある」と、ウィキペデアでは解説されています。
 「地の塩」は、料理に味を付けたり、腐敗を防いだりするために、また人間の健康にとってもなくてはならぬものなのです。つまり、目立たないけれど、社会に不可欠で有用な存在こそ、「地の塩」にほかなりません。

 一昨日の「集い」に参加された「松田さんを支える会」のメンバーこそ、この「地の塩」であるという思いを強く抱きました。法政大学から巣立った後も、全国各地、社会の隅々に散らばりながら、学生運動で学んだ勇気と志を持続させてきたからです。
 「支える会」が「支え」てきたものは、松田さんの生活だけではありませんでした。これら「地の塩」の存在をも支えて来たのではないでしょうか。

 70年前後の学生運動については、あれだけの問題提起をし華々しい活動をしながら、卒業したら雲散霧消してしまったという見方が一般的です。ときには、企業戦士として「企業社会」を支えてきたと、厳しく批判されることもあります。
 それは、確かに、全共闘に加わった学生の多くに当てはまる弱点であり、問題点です。たとえば、信州大学全共闘議長であった猪瀬直樹は、その後、執筆家となって名を挙げ、小泉内閣の行革断行評議会や道路関係四公団民営化推進委員会、地方分権改革推進委員会の委員などを歴任し、今では、東京都副知事として石原慎太郎都知事の右腕になっています。
 しかし、松田さんを支えてきた人々のように、そうではない生き方を選んだ人々も沢山いたという事実を忘れてはなりません。一昨日の「集い」で、私はそのような人々にお会いすることができました。大学を出てからも志を持続させ、様々な形で政治や社会を変えるために力を尽くしてきた人々です。

 この点が、全共闘に加わった学生たちと根本的に異なっているのではないでしょうか。マスコミなどのとらえ方では、この相違がほとんど意識されていません。
 「日共系」「代々木系」であれば頭から無視してかかるというのが、当時のマスコミが持っていた最大の弱点であり、問題点でした。それは、当時の学生運動の総括においても継続されていると言わざるを得ません。
 たとえ、「日共系」「代々木系」であったとしても、当時の学生運動とその参加者に対して、事実に即した正当な評価がなされるべきです。暴力学生を泳がせていた治安当局も、全共闘運動を美化したマコミもまた、松田さんに対する加害者の一員であるということを自覚してもらいたいものです。

 最後に、一昨日の「集い」への返信用葉書に記載されていたメッセージのいくつかを紹介させていただくことにしましょう。これは当日配布された資料に入っていたものです。

○Eさん
 あれから40年経ったのですね。法政大学のあの当時の異様な雰囲気を思い出します。病院で再会した松田さんの姿を思い浮かべ、その後の苦労はいかばかりだったろうかと思っています。しかし、40年後、元気で今日の日を迎えられたことに感謝しています。

○Cさん
 あの日から40年経ちますが、松田さんの事件のことは忘れたことはありません。私は事件をきっかけに大学に行かなくなり、新しい職場に入り新しい生活をスタートさせました。しかし、松田さんのその後の生活を想うと、やりきれない思いが残り、複雑な気持ちを抱えて今日にいたっています。松田さんには、いつまでも元気でいて欲しいと願っています。

○Tさん
 私も退職を迎えた歳になりました。40年の長さを感じます。それでも、私の記憶からあの日の事は消えることはありません。辛い、悔しい思い出です。この長い年月を自分の身体と向かい合い、頑張ってこられた松田さんに敬意を表します。これからもお互い元気で長生きしましょう。そして「支える会」の事務局の皆さん、御苦労様です。

○Iさん
 「1.21」の当時の色々な場面を今でも夢に見て、汗をかいている時があります。松田君と一緒にお茶の水の医科歯科大の病院に大学の職員と共に行った事、医師の診断が「重篤」であった事など……。松田君の犠牲の上に今日の私があるのかと思うと、申し訳ない気持ちでいっぱいです。いつまでもお元気でと念じております。

○Wさん
 あの日の晩のことは、今でも鮮明に頭の中に焼きついています。級友の7~8人と教室に乱入してきた暴力集団から逃げ、学外に出られる箇所を探し回ったことを、40年経った今も記憶から消えません。忙しさを理由に、この40年、ほとんど支える会に参加してこなかったことを反省しています。

○Sさん
 法政大学の学生運動に参加したことが、その後の私の人生を大きく変えました。組合活動で疲れた心を支えてくれるのが、当時を生き抜いた自分であり、仲間の存在であり、松田さんの生き方です。私たちを支え続けるためにも、いつまでも、いつまでも長生きしてください。

○Kさん
 私は1969年度と70年度の法政大学教職員組合の書記長でした。「1.21事件」を防止できなかったことに責任を痛感しています。その後、松田さんと「かんちく」の仲間の方々の活動に本当に感動しております。

○Oさん
 あれから松田さんは復学そして卒業され、お母さんの待つ高知に帰られました。大勢の仲間たちの応援が続いたのは、松田さんご自身が重い後遺症にもかかわらず厳しい現実に立ち向かわれている姿があったからでしょう。40年が過ぎ還暦を迎える年頃になりました。1・21事件を風化させない!思いを強くしています。

4月4日(日) 松田さんとともに生きた「支える会」の40年 [教育]

 元気な姿で高知からやってきました。松田さんです。
 でも、車いすに乗って、です。後遺症のために身体の自由がききません。
 111人も集まったそうです。昨日の「松田さんとともに歩んだ40年の集い」のことです。

 昨日は、地下鉄新宿線の九段下駅で降りました。「集い」の会場は麹町の日本テレビ前ですが、靖国神社から法政大学を通り、外濠公園を歩いて市ヶ谷に抜けようと考えたからです。
 このルートは、桜の名所が続きます。せっかく近くに行くわけですから、早めに出かけて桜見物としゃれ込もうというわけです。
 春爛漫の風情でした。薄日も射し、桜は満開で、沢山の人でにぎわっていました。

 九段下の駅の改札口を出ると、「法政大学」の腕章を着けた人が「武道館」と書いた案内板を持って立っていました。毎年、4月3日は法政大学の入学式で、式典が武道館で行われるからです。
 靖国神社を抜けると、そこにも「法政大学」という案内板を持った係員が立っていました。人並みに混ざって、市ヶ谷キャンパスに入ります。
 クラブやサークルの勧誘をする学生、新入生とその家族などで、狭いキャンパスはごった返していました。入学式の式典が終わるころの時間だったからです。

 希望に満ちた顔、顔、顔。明るいのどかな雰囲気。
 回りの桜は満開で、温かい春の日差しが降り注いでいます。冷たい風さえも、爽やかに感じるほどです。
 見ていて、涙が出ました。これが本来の大学の姿なのだと……。

 約40年前、松田さんも、この同じキャンパスに足を踏み入れたことでしょう。胸一杯に、沢山の希望と期待を抱きながら……。
 しかし、それは、暴力によって、無惨にも打ち砕かれてしまいました。彼の仲間や友人の多くも、暴力学生につけねらわれ、ときには暴力をふるわれ、このキャンパスに足を踏み入れることができなかったのです。
 ここにいる人々は、約40年前、陰惨で悲惨な現実が存在したことをほとんど知りません。この平和な光景を取り戻すために、汗を流し、ときには血を流しても、暴力と闘いつづけた学生たちがいたということも……。

 「集い」は午後2時過ぎに始まりました。松田さんは、現在、高知県南国市の障害者向けの施設で働いており、そこの寮で暮らしているそうです。
 高知からは、2人の友人が付き添ってきていました。1人では旅することもままならないのです。
 私は、30分ほど話をしました。「『松田さんを支える会』は『民主法政』の象徴であり、ここにおられる皆さんを、私は法政大学の一員として誇りに思う」と……。

 あの頃は、本当に酷い大学でした。ほとんど授業には出られず、試験も受けられなかったんです。
 あの事件は、忘れられません。一生背負って生きていきます。
 「あいつだ!」と叫んで、暴力学生が襲ってきたとき、授業に出ていた学生が取り囲んでくれて、助かりました。
 大切な4年間だったけれど、学びの4年間ではなく、闘いの4年間になってしまったのは残念でした。ゲバ棒に追われた青春でした。できれば、取り戻したいと思います。

 このような発言が続きました。直接、話をうかがった方もいました。様々な思いがあふれた発言に、胸が熱くなりました。
 話を聞いた1人が、こう言ったのです。「ヘルメットの学生が持っていたのは、バーベキューの時に使う長い金串ですよ。あれを見たときには、ゾッとしましたね」
 凶器は、ゲバ棒やチェーンだけではなかったのです。狂っていた、としか言いようがありません。

 事件は40年もの昔のことになります。しかし、多くの人々は心に深い傷を負い、その傷は今もなお癒えていないようです。
 その傷を負わせた人々は、何食わぬ顔をして、普通の生活を送っているのでしょうか。人の一生を狂わせた罪を、少しでも反省しているのでしょうか。
 かつて全共闘だった人の全てを敵視し、その主張の全てを否定するつもりはありません。しかし、暴力という手段を肯定しているのか、それを行使した過去を反省しているのかという問いは、一切の妥協なく突きつける必要があると思います。

 「集い」に出ていて、ちょっぴり羨ましく思うこともありました。私の場合には、「支える会」も、このような「集い」もないからです。
 おそらく、全国どこの大学にも、このような「支える会」の存在や、40年にもわたって活動を継続してきた例はないでしょう。法政大学学生運動の誇るべき「宝」だと思います。
 このような「宝」があるからこそ、こうして懐かしい昔の友人にも会えるんじゃないでしょうか。その意味では、5年に一度、このような形で「同窓会」を開けるのも、松田さんのお陰ということになるかもしれませんね。

3月26日(金) 暴力に抗した友情の絆-松田さんと「支える会」の40年に寄せて [教育]

 少し前、「かんちく」という印刷物が送られてきました。「松田さんを支える会」という団体の機関紙です。
 一緒に、手紙も入っていました。来週の土曜日(4月3日)、「1.21事件」の40周年の集いを開くので、出席して話をして欲しいというのです。

 法政大学には、悲しい負の歴史があります。一部の暴力学生が、他の学生に暴力を振るい、キャンパスから追い出したり、一生癒えることのない傷を負わせたりしたのです。
 松田さんの事件は、1970年1月21日に起きました。当時、法政大学文学部に在籍していた松田恒彦さんは、全共闘を名乗る暴力学生の襲撃によって瀕死の重傷を負い、今に至るも後遺症に悩まされています。
 この松田さんの裁判闘争や生活を支えるために「会」が作られました。それが、「松田さんを支える会」です。

 私は、ずっと以前から、この「会」に協力してきました。私も、都立大学在学中、暴力学生によって右目を失明させられた被害者だからです。
 この事件は1971年9月10日に起きましたが、そのときの様子は、拙著『概説・現代政治』(法律文化社)の「あとがき」に書きました。また、松田さんを支える会・1.21事件30年誌編集委員会編『法政大学70年1月21日-松田恒彦さんと「支える会」の30年』(こうち書房、2000年)にも、「『9.10事件』の被害者として」という一文を書いています。
 事件が起きてからは40年という長さですが、この本を出してからでも、もう10年経ってしまいました。この本は、事件を次のように描写しています。

 844番教室へは廊下の二つの入り口から、ベランダからは窓ガラスを鉄パイプで打ち壊して全共闘暴力集団は乱入した。
 松田恒彦君をはじめ、……自治会役員、学生委員を飯島博は指さし「あいつは民青だ、やれ、殺してしまえ!」と叫び、命令に従って全共闘暴力集団は、鉄パイプ、角材、竹竿、チェーンを振り回し、無防備の学生に殺意を持って襲いかかり多数の負傷者をつくり出した。
 とくに、松田恒彦君に対しては、言語に絶する蛮行で、4階廊下に引きずり出し、頭部を中心に、顔面、大腿部をメッタうちにし、さらに凶器で乱打した。松田君はその場で血だらけの意識不明に陥らされてしまった。
 全共闘暴力集団は55年館、及び58年館の各教室、廊下で凶暴きわまる蛮行をはたらいた上、同校舎の各入り口、構内各所に完全武装の集団を立哨させ、威圧的に検閲し、「民青はいないか」と見回り、血だらけになった学生や自治会に結集する学生を見るや、鉄パイプで暴力を加え、無防備の自由な言動を圧殺した。
 彼ら暴力集団の恐るべき蛮行はとどまるところを知らなかった。大学の診療所に乱入し、頭頂部の裂傷を縫合中の法学部2年生……にたいして、看護婦の制止を振り切ってさらに鉄パイプで殴りつけた。
(中略)
 メッタ打ちにされた松田君は、救急車で代々木病院に搬送されたが、あまりの傷のひどさに処置できず、御茶の水の医科歯科大学病院に転院し、手術を受けた。松田君は頭部陥没兼亀裂骨折、頭蓋内出血、右脛骨骨折、顔面挫傷、右上肢打撲傷等で危篤に陥り、その後何度も頭部の切開手術を繰り返さなければならないことになってしまった。
 その他に自治会の学生委員をはじめ50数名の学生が重軽傷を負う大きな暴力事件となった。事件の3日後、Ⅱ部四学部各自治会は記者会見を行い、彼らの暴力の実態を訴えるとともに、彼らの犯罪を断罪すべく「告訴・告発」に踏み切った(14~16頁)。

 松田さんは、幸いなことに、一命を取り留めました。しかし、その後40年経つ今も後遺症は残り、不自由なままです。
 1970年1月21日に発生した暴力事件は、松田さんの人生を変えてしまいました。それから40年、松田さんはどのような思いで、生きてこられたのでしょうか。
 松田さんの悔しさ、辛さは、同じような暴力の被害を被った私にはよく分かります。事件のことはあまり思い出したくありませんが、しかし、あのときに味わった身を震わせるような強い憤りだけは、忘れることができません。

 大学の自治と学問の自由を守る。これは、単なるお題目ではないのです。
 時にそれは、身を危険にさらし、人の一生をかけても守らなければならないものなのです。そのために、松田さんは身体の自由を奪われ、私は右目を失いました。
 新聞の細かな字などを読んでいるとき、「この右目が見えればなあー」と思うことがあります。片眼であることのもどかしさに、泣きたくなることもあります。

 しかし、失ったものは戻りません。それは価値ある犠牲だったのだと、自分に言い聞かせるだけです。
 少なくとも、人としての道を踏み外すことはなかったと、誇って良いのではないでしょうか。暴力を振るう側にではなく、振るわれる側にいたということは……。
 40年の歳月が立証したのではないでしょうか。暴力に反対し、民主主義を守ろうとしたことは正しかったのだと……。

 それに、松田さん。あなたには友情の絆という貴重な財産ができたではありませんか。
 40年にもわたって、あなたを見守り、支え、励ましてきた多くの友人たちという、何ものにも代え難い財産が……。
 来週の土曜日。その友人たちの前に、ぜひ、元気な姿を見せてあげてください。私も、久しぶりの再会を楽しみにしています。

10月9日(木) 日本人のノーベル賞受賞者4人というのはめでたいものの…… [教育]

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 拙著『労働再規制-反転の構図を読みとく』ちくま新書で刊行開始。240頁、本体740円+税。
 ご注文はhttp://tinyurl.com/4moya8またはhttp://tinyurl.com/3fevcqまで。
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 とうとう、拙著『労働再規制』が刊行されました。昨日、買い取った本が研究所まで送られてきました。
 献本分も送られているようで、お礼の電話やメールが届き始めています。書店にも出回っているにちがいありません。もう、皆さんの目には触れましたでしょうか。

 ところで、日本人のノーベル賞の受賞者が4人も出て、大きな話題になっています。このうちの二人がアメリカに在住ではありますが……。
 研究者の端くれである私としても、嬉しいことです。受賞が決まった南部陽一郎(物理学賞)、小林誠(物理学賞)、益川敏英(物理学賞)、下村脩(化学賞)さんには、お祝いを申し上げたいと思います。
 今回、受賞の対象された業績が、基礎的なものであったということも評価できる点です。普段、あまり光が当たらない分野が評価されることには、大きな意味があると思うからです。

 今日の『東京新聞』の「こちら特報部」は、このノーベル賞の受賞決定を扱っています。しかし、その内容には考えさせられました。
 この記事の見出しは「実利重視 学問立ち枯れ」「基礎研究 食べていけぬ」となっています。記事の内容には、大きな共感を覚えました。
 そこには、つぎのような関係者の声が紹介されていたからです。

「独法化で研究の独立採算が掲げられたが、基礎科学が儲かるはずがない。研究に百発百中ということはない。しかし、役立つ点をアピールしないと予算が付かない。現実にはあれこれ役立つ『可能性がある』という言葉が乱発されている」
「産業や経済を優先し、短期成果ばかりを求めるようなばかなことを続ければ、何年かたった時に日本の科学はどうしようもない状態になる」
「資金を得るための書類書きなどで忙しくなっている。近視眼的に役に立つ分野を優遇した結果、基礎分野が立ち枯れている」
「国の政策を念頭に置いて採択されやすい研究内容にシフトし、企業などに擦り寄る姿勢が濃くなっている」

 ここで指摘されているような問題は、「まさにその通り」と言いたいことばかりです。私立大学の研究所においても、事情は似たようなものですから……。
 とくに、この間、来年度の科学研究費補助金の応募書類の作成に忙殺され、ダメを出され続けてまだ完成していない私としては、「資金を得るための書類書きなどで忙しくなっている」と言う指摘は身につまされます。慣れない書類作りでやっとできあがったと思っても、電子申請の形式が整っていないだけで受け付けてもらえません。
 コンピュータにはじかれても、どこが違っているのかよく分からず、間違いが分かっても、今度はどうやって修正したらよいかが分からない。形を整えるだけで、すっかり消耗してしまいました。

 小泉改革の一環として実施された04年4月の国立大学の独法化(独立行政法人化)と文科省の大学政策が、日本の学問を絞め殺そうとしているように見えます。小泉首相の構造改革の破壊力は大学教育にまで及んでいたのです。
 小泉政権は、まことに、恐ろしい時代でした。「改革」という名の「破壊」の嵐が吹きすさび、社会の隅々にまで浸透していたのです。
 そうなる前の大学によって生み出された成果が、今回の受賞の対象とされたものでした。しかし、これからはどうでしょうか。

 大学においても競争原理が導入され、「生き残り」のためと称して「改革」が進められています。教学よりも法人を重視し、研究や教育の内容よりも経営体としての大学のあり方を優先する傾向も強まっています。
 これで、大学は学問の府として存続できるのでしょうか。大学での学問や研究は発展するのでしょうか。
 今回の受賞決定で、「日本人の研究も捨てたものではない」と感じた方も多かったと思いますが、しかし、受賞の対象となった業績は、どれも何十年も昔のものです。今の研究体制の下で、同じような業績を上げることは、果たして可能なのでしょうか。

 今日の『朝日新聞』で、02年に物理学賞を受賞した小柴昌俊さんは、次のように国家の役割を指摘しています。学術の発展は、国の責任だということでしょう。

 小柴 宇宙の最初がどうだったかなんて、分かったところでどの産業の利益にもならない。やはり基礎科学は国が何とかしてくれないと、どうにもならない。国が本気で考えてほしい。

 ところで、明日から岩手大学で開かれる社会政策学会に出席するため、盛岡に出かけます。帰りに、中尊寺のある平泉に立ち寄る予定ですので、帰京は連休最終日の10月13日(月)の夜になります。
 例によって、この間、ブログの更新を休みますのでご了承下さい。来週の14日(火)に再開する予定ですので、それまで、ご機嫌よう。