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2月20日(土) 2021年の政治動向と国会をめぐる情勢―野党共闘で政治を変えるチャンス(その2) [論攷]

〔以下の論攷は、婦人民主クラブの『婦民新聞』第1667号、2021年2月10日付、に掲載されたものです。2回に分けてアップさせていただきます。〕

 「政治とカネ」と学術会議問題

 通常国会ではコロナ対策や来年度予算審議と共に大きなテーマとなるのが「政治とカネ」の問題です。これらは安倍前政権から引き継がれたものですが、官房長官として政権を支えてきた菅首相にも大きな責任があります。
 農相在任中に鶏卵業者から現金を受け取ったとして、吉川貴盛元農相が在宅起訴されました。国会としても証人喚問を要求し、全容を解明するとともに関係者の政治責任を明らかにする必要があります。
 また、安倍晋三前首相の「桜を見る会」前夜の夕食会費用補てんの問題も幕引きにしてはなりません。ホテル側の明細書や資金管理団体「晋和会」の領収書を提出させ、安倍首相を証人喚問してさらなる説明を求めることが必要です。
 幕引きが許されないのは、学術会議の任命拒否事件も同様です。菅首相は、なぜ6人の任命を拒んだのか説明していません。この6人は安倍前政権時代に安全保障法制などについて反対論や慎重論を唱えていました。政権にとって不都合だという判断で杉田和博官房副長官が外し、菅首相が追認した疑いが濃厚です。
 このほか、河井案里参院議員の公職選挙法違反事件での辞職、菅首相長男による違法接待疑惑、森喜朗五輪組織委員会会長の女性蔑視発言などの問題も生じました。これらについても真相の究明と責任の追及が必要です。

 総選挙・都議選で審判を

 以上に見たような政治動向の結節点となるのが、秋までには必ず実施される総選挙と7月の都議選です。菅首相は、五輪・パラリンピックを成功させ、その勢いで解散・総選挙に勝利するシナリオを描いていたと思われます。しかし、チャンスを見いだせないまま「自滅解散」に追い込まれるか、あるいはそれ以前に辞任させられる可能性もあります。
 今年は、政権交代が起きた2009年の麻生政権末期と似通っています。09年も9月に衆院議員の任期満了が迫り、7月の都議選で自民党が大敗し、8月に解散へと追い込まれて歴史的な惨敗を喫しました。
 しかも、09年以上に政権運営への批判は大きく、解散のチャンスを見出すことが難しくなっています。野党共闘に共産党が加わり市民との連携も強まるなど、主体的には09年以上に「草の根」での共闘が発展してきました。
 1人区や2人区での市民と野党の共闘が都議選でも生まれています。都民ファーストの会には以前のような勢いがなく、自民党も失地を回復する力はありません。立憲野党にとっては大きなチャンスです。
 7月の都議選で自公勢力に打撃を与えて解散・総選挙に追い込んでいくことができれば、政権交代を実現することは十分に可能です。そのためには、共産党を含めた政権合意を実現し、本気の共闘による明確な「受け皿」を提示しなければなりません。
 そして、こう言おうではありませんか。「オサラバだ 自公政権 もう時効」


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2月19日(金) 2021年の政治動向と国会をめぐる情勢―野党共闘で政治を変えるチャンス(その1) [論攷]

〔以下の論攷は、婦人民主クラブの『婦民新聞』第1667号、2021年2月10日付、に掲載されたものです。2回に分けてアップさせていただきます。〕

 激動の時代

 従来の思考の枠組みが大きく転換(パラダイムシフト)する激動の時代が始まりました。世界と日本の歴史が大きく変わろうとしています。
 新型コロナウイルスの感染拡大によって、効率最優先でケアを軽視する新自由主義の脆弱性や開発を進めて環境を破壊する資本主義そのものの限界が明らかになりました。米大統領選挙でのトランプ落選とバイデン当選は右派ポピュリズムの敗北と民主主義の勝利を意味しています。
 ブラック・ライブズ・マター(BLM)運動は人種差別の解消だけでなく奴隷貿易と植民地支配という近代史の見直しを迫りました。「#Me Too」運動もジェンダー平等に向けての不可逆的な流れを生み出しています。そして、核兵器禁止条約の発効によって「核なき世界」に向けての第一歩が踏み出されました。
 自民党はその全てに逆行しています。時代に取り残され、役割を終えたと言うしかありません、世界は音を立てて変わろうとしているのです。この流れに合流し、日本を変えることが今年の課題です。

 新型コロナウイルス対策の迷走

 地殻変動ともいえる情勢の下で、1月18日に通常国会が始まりました。そこには多くの難題が横たわっていますが、なかでも最大の課題は新型コロナウイルスの感染拡大に対する対応です。
 衆院予算委員会での審議で、菅首相が病床の逼迫について「国民が不安を感じている。責任者として大変申し訳ない」と陳謝したように、菅内閣のコロナ対策は後手に回り、迷走に次ぐ迷走でした。そうなった最大の要因は、コロナ対策に全力を傾けるのではなく、経済対策や五輪開催などの政治的思惑を優先してきたからです。
 今年度末までに使い切る第3次補正予算にしても、コロナ対策は2割の4兆円にすぎず、残りの15兆円は「Go To」事業や「国土強靭化」などです。野党がこれらの事業を撤回して医療機関や生活困窮者への支援に回すよう求めたのも当然でしょう。
 新型コロナウイルスに対応する特措法と感染症法の改定問題でも罰則の導入について与野党の対立が生じました。与党は修正協議に応じ、刑事罰の規定をなくして過料額を減らすこと、緊急事態宣言の前段階として設けられる「まん延防止等重点措置」に国会報告を義務付けることなどを受け入れました。
 このような修正がなされたのは当然ですが、そもそも修正を前提にした法案を出してきたことに問題があります。与党として「欠陥商品」を出してきたということですから。
 また、説得し理解を求める代わりに強制措置によって言うことを聞かせようというのも本末転倒です。菅首相のコミュニケーション能力の欠如と権力主義的な体質を如実に示しており、失政のツケを国民に払わせる愚策というほかありません。全ての罰則をなくし、補償を明記すべきでした。

 ワクチンと五輪

 新型コロナウイルス対策の重点は、今後、ワクチン接種に移っていくことになります。これについても難題山積です。
 緊急事態宣言がいつ解除できるのか、ワクチン接種が予定通り行き渡るのかが、夏の五輪開催に直結するでしょう。その成否が菅政権の命運を決めることにもなります。
 ワクチンについては感染症対策の切り札として期待が高まっていますが、安全性の確認と必要量の確保が難しいという問題があります。2月中旬に医療関係者への接種が始まり高齢者に接種できるのは「早くても4月1日以降」とされています。通常医療までひっ迫している人手不足の下で人員や場所が確保できるのか、マイナンバーに紐付けした新システムの導入などの準備が間に合うのか、事務量が増えて現場が混乱しないかなどの懸念も強まっています。
 政府がワクチン接種を焦っているのは、それなしには五輪・パラリンピックの開催が見通せないからです。しかし、世界の感染者が1億人を越えて収束の兆しが見えず、日本の感染状況も高止まりしています。安全でフェアな競技が可能でしょうか。早期に中止を決定し、全力で感染防止に取り組むべきではないでしょうか。

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12月17日(木) 日本政治の現状と変革の展望(その4) [論攷]

〔以下の論攷は、日本民主主義文学会の『民主文学』2021年1月号、に掲載されたものです。4回に分けてアップさせていただきます。〕

4、変革への鳴動

 市民と野党の共闘をめぐる新しい動き

 菅新政権の発足と同時に、立憲民主党と国民民主党が共に解党し、それぞれ立憲民主党と国民民主党に再編されました。これはかつての民主党や民進党の再現ではありません。市民と野党の共闘を推進する立場に立ち、新自由主義と反共主義から抜け出した150人を擁する野党第一党の誕生を意味しています。
 この過程で大きく変わったのは、労働組合ナショナルセンターである連合の立ち位置です。民進党を分裂させた「希望の党騒動」のとき、神津里季生連合会長は小池百合子都知事や前原誠司民進党代表と共に分裂を画策しました。しかし、今回は国民民主党の玉木雄一郎代表を説得し、新党結成に協力する立場に立ちました。
 このような形で連合が共産党などと共に行動するのは、リーマンショック後の年越し派遣村以来です。今回はコロナ禍の下での方針転換です。いずれの場合も、労働者の置かれている状況が急速に悪化し、賃金と雇用条件の低下によって生じた労働組合の危機が背景にあります。
 派遣村で生じた共同への胎動は脱原発運動に受け継がれ、特定秘密保護法や安保法制、「共謀罪」法反対運動などへと発展してきました。とりわけ、2015年の安保法反対運動の中で沸き上がった「野党は共闘」という声は、翌2016年2月の民主党・日本共産党・維新の党・生活の党・社民党による参院選での共闘に向けた「五党合意」に結実します。
 その後、この市民団体と野党との共闘の流れは、紆余曲折を経ながら太く大きくなり、共闘志向の野党第一党を生み出すまでに発展してきました。こうして新たな「受け皿」が形成され、共闘をめぐる新たな条件が生まれたのです。

 政策合意の発展

 新たな発展を遂げたのは政策合意においても同様です。2020年9月19日、「安保法制の廃止と立憲主義の回復を求める市民連合」は「立憲野党の政策に対する市民連合の要望書」を発表し、立憲民主党・日本共産党・社民党・国民民主党・れいわ新選組などに対して申し入れました。
 これは4本柱15項目で、「いのちと人間の尊厳を守る『選択肢』の提示を」との副題が付けられ、「利益追求・効率至上主義(新自由主義)の経済からの転換」「消費税負担の軽減」「原発のない社会と自然エネルギーによるグリーンリカバリー」「持続可能な農林水産業の支援」などを掲げています。2019年の参院選前に市民連合と5野党・会派が合意した13項目の「共通政策」をさらに発展させたものです。
 このような政策合意の出発点は前述の2016年の「5党合意」でしたが、この時は4項目にすぎず、政策的には「安保法制の廃止」だけが掲げられていました。翌年の総選挙を前にした2017年9月26日、市民連合は再び「野党の戦い方と政策に関する要望」を出し、さらに2019年5月にも「共通政策」を提示し、合意の幅はさらに広がりました。
 今回の「要望書」は分量も増え、内容的にも一段と充実したものとなっています。1年以内に確実に実施される総選挙という「天下分け目の合戦」に向けての大きな旗印です。市民と野党の共闘による政権交代に向けて新たな選択肢を示すものとなるでしょう。

 解散・総選挙に向けて

 菅新首相が誕生した9月16日、野党の側にも注目すべき動きがありました。衆院の首班指名選挙で、立憲・国民・共産・社民・れいわの野党が初めて立憲民主党の枝野幸男代表に投票したのです。来るべき野党連合政権が、おぼろげながら姿を現した瞬間でした。
 次の総選挙で、これらの野党が力を合わせて多数派になれば、新しい連合政権を樹立することができます。その可能性は、市民と野党の共闘の核となる立憲民主党という新しい大きな塊が誕生したことで、一段と現実味を増しています。
 しかも、一方の菅新政権は新自由主義に基づく「自助」型の自己責任社会の旗を掲げ、他方の立憲民主党などの野党は新自由主義から抜け出して「いのちと暮らしを守る」社会の実現を提起しています。将来社会のビジョンをめぐる対抗軸も鮮明になりつつあります。
 今後は市民連合の「要望書」を基にした政策合意を図りつつ、小選挙区での統一候補の擁立をめざさなければなりません。一時的な選挙共闘ではなく、政権を共にすることを合意して政権交代をめざす決意をはっきりと示す必要があります。
 このようにして初めて、野党連合政権樹立に向けての本気度を有権者に示すことができるのではないでしょうか。「新しい政治」に向けての希望を生み出し、政権交代の「受け皿」として選択を問う選挙とし、投票率を上げられれば野党共闘の勝利を生み出すことができます。

 むすびに代えて―コロナ後に目指すべき「新しい政治」

 新型コロナウイルスの急速な拡大によって、世界は大きな問題に直面しました。日本も例外ではありません。このような感染症の拡大に対して、ひたすら市場の拡大を進めて環境を破壊する資本主義や、経済効率最優先で自己責任社会を生み出してきた新自由主義の害悪が明瞭になりました。
 このような社会システムの下ではセーフティーネットが破壊され、社会の維持と運営に不可欠な労働者たち(エッセンシャルワーカーズ)が虐げられ、人々の健康と生命、生活と生業を守ることができないことが明らかになりました。このような社会の脆弱性を克服するためには社会構造の大転換(パラダイムシフト)が必要になります。
 そのような転換のための見取り図は、すでに存在しています。日本国憲法を政治と暮らしに活かすことによってこそ、人権を保障し、国民のいのちと暮らしを守る「新しい政治」を実現することができるからです。「活憲の政治」こそ、コロナ後の日本が目指すべき青写真であり、「新しい政治」の姿にほかなりません。
 そのためには、安倍前首相がめざし、菅首相も受け継いでいる改憲策動を最終的に打ち砕き、憲法を守り活かすことのできる新しい政権を樹立する必要があります。市民と野党の共闘による連合政権の樹立です。来るべき総選挙が、そのための大きなチャンスとなるにちがいありません。菅政権を、最後の自公政権とするチャンスに。(2020年10月31日脱稿)

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12月16日(水) 日本政治の現状と変革の展望(その3) [論攷]

〔以下の論攷は、日本民主主義文学会の『民主文学』2021年1月号、に掲載されたものです。4回に分けてアップさせていただきます。〕

3、必要なのは継承ではなく大転換

 山積する難問

 菅新政権の前途には難題が山積しています。本来であれば、政権交代を機に新たな方針を打ち出して新政権への期待を高めることもできたはずです。しかし、今回は「振り子の論理」は働かず、政策転換のチャンスを自ら放棄してしまいました。
 安倍前首相が得意とし、一般的には評価の高い外交ですが、実態は散々なものです。日米関係を重視するからといって、一方的に従う必要はないはずです。自ら譲るばかりの隷従外交から対等平等な関係に変え、外交・安全保障政策を刷新することが求められています。
 具体的には、日米地位協定の改定、沖縄・辺野古での土砂投入の中止、武器爆買いの見直しなどに着手すべきです。北東アジアでの軍縮・緊張緩和の提案、韓国をはじめとした周辺諸国との関係改善を進めなければなりません。
 陸上イージスの撤回に当たって安倍前首相が談話を出して置き土産とした敵基地攻撃論の検討も大きな問題です。先制攻撃は国際的ルールや憲法、専守防衛の国是に反し、軍事技術的にも財政的にも実現不可能な妄想にすぎません。外交と話し合いによる安全保障政策へと大転換するべきです。
 全く前進しなかった拉致問題と北方領土問題の打開、核兵器禁止条約の批准などの課題にも取り組む必要があります。核兵器禁止条約の批准国が50カ国を超え、2021年1月に発効することが決まりました。唯一の戦争被爆国である日本政府は核兵器を違法とする国際条約に加わっていません。核保有国と同じ立場に身を置くことによって、世界に恥をさらしました。
 内政面では、コロナ対策を強化し、医療・保健・介護などのケア優先の社会に転換しなければなりません。非正規労働者や女性、外国人労働者など社会基盤の維持に不可欠な労働者たち(エッセンシャルワーカーズ)の役割をきちんと評価して差別をやめ、処遇を抜本的に改善することが必要です。
 消費増税とコロナ禍で大打撃を受けた経済を立て直すことも必要です。大企業と株主優遇から中小企業・地方重視の経済政策への転換が迫られています。賃上げや最低賃金の引き上げなどによる可処分所得の増大を図ることは急務です。年末に向けて職と食、住居を失う労働者、中小企業の倒産や廃業の激増が懸念されます。早急に手を打たなければなりません。
 政府は福島第一原発事故の放射能汚染水を太平洋に放出しようとしています。科学的根拠の乏しい独断専行で海洋汚染と風評被害を拡大する暴挙であり、直ちに中止すべきです。
 菅政権の目玉政策とされている携帯電話の料金値下げは民間企業の経営への介入です。不妊治療と新婚家庭への支援は少子化対策としての効果は薄いとの批判があります。デジタル化の推進にはマイナンバーカードの普及と監視社会化の推進、情報通信産業を成長産業とする狙いなどが隠されています。
 
 改憲の野望とジレンマ

 「首相の考え方は安倍政権を踏襲することが基本。憲法改正にまい進する意思表示と受け取っていただいて結構だ」。自民党憲法審査会の佐藤勉前会長は、後任の細田博之審査会長(前自民党憲法改正推進本部長)や衛藤征士郎本部長など、憲法関連の新たな体制についてこう強調しました。「安倍9条改憲」の基本路線に変更はないということです。
 衛藤新本部長は役員会冒頭のあいさつで「現在、議論中の『条文イメージ』は完成された条文ではない。よって党の改正原案を策定するために憲法改正原案起草委員会を立ち上げたい」と発言しました。その後、起草委員会は初会合を開いて年内に成案を取りまとめる方針を決めています。憲法論議の加速化に意欲を示したことになります。
 しかし、原案策定で自民が独走すれば野党の硬化を招きかねません。直後に新藤義孝自民党憲法改正推進本部事務総長が「一切これまでの方針に変更はない」と打ち消すなど、早くも足並みの乱れが生じています。安倍改憲路線には大きなジレンマがあり、それが解決されていないからです。
 強力な改憲推進体制を確立し、力づくで進めようとすれば野党や国民の警戒心を高めてしまい、丁寧にやろうとすれば時間がかかるというジレンマです。どちらにしても、思うようには進まないというのがこれまでの経過でした。
 そもそも、憲法は国の基本法です。改憲は禁じられていませんが、そうしようとするのであれば、幅広い国民の理解と与野党間の合意のもとに丁寧に行われなければなりません。国民の過半数以上が反対している9条改憲を、99条で憲法尊重擁護義務を負う安倍首相が先頭に立って強引に進めようとしたこと自体、初めから間違っていたのです。
 菅新政権でも改憲路線に違いがないのであれば、自民党案4項目に示されている9条への自衛隊の書き込みと緊急事態条項の新設という発議を阻止しなければなりません。また、特定秘密保護法、安保法制=戦争法、「共謀罪」を含む組織犯罪処罰法など違憲の疑いの濃い法律を廃止することも必要です。

 「負の遺産」と「負の資産」

 菅新政権は「安倍政治」が残した「負の遺産」も継承しました。政治の私物化として大きな批判を浴びた「森友・加計」学園疑惑、「桜を見る会」や河井夫妻の大量買収事件など、「安倍政治」の闇を支えてきたのが菅官房長官です。その人が正面に出てきたのですから、「負」の側面がさらに大きくなる恐れさえあります。
 菅氏は森友問題など疑惑解明に向けての再調査を拒み、官僚の忖度を強めた内閣人事局を見直さないばかりか、政権の決めた政策の方向性に反対する幹部は「異動してもらう」と明言しました。また、総裁選で首相の国会出席について「大事なところで限定して行われるべき」だと主張し、できるだけ制限したいという意向をにじませました。
 森友疑惑や河井夫妻の事件については裁判が進行中で、新たな事実が出てくる可能性があります。事実、河井事件では買収された側の証言や森友事件でも新たな音声データが公開されたりしました。再調査を実施し、記録の保存と公文書管理の適正化を図り、政策形成過程の事後検証が可能なようにして官邸支配とマスコミ統制をやめさせなければなりません。
 しかし、事態は逆に進みそうです。菅首相の著書『政治家の覚悟』が新書版となって発売されましたが、単行本時の「政府があらゆる記録を克明に残すのは当然」と公文書管理の重要性を訴える記述があった章が削除されました。菅氏のオフィシャルブログには同様の記述が残されており、このような自分の見解まで隠蔽するのかとの批判を招いています。
 また、これまで以上に、マスコミ統制が強まる恐れが出てきました。新内閣の首相補佐官に柿崎明二元共同通信社論説副委員長が就任したからです。今後は「政策の評価・検証を担当」するようですが、本当の役割はメディア各紙の政治部長を牽制することではないかと見られています。
 菅新首相は安倍前首相以上に権力闘争に長けた陰険で狡猾な本性を示しています。安倍前首相の路線と手法を受け継ぎつつも、それとは異なる独自の政策と手法によって「安倍政治」の本質を継承しようとしているのです。「安倍政治」から引き継がれた「負の遺産」と菅首相による独自の「負の資産」の両方が絡み合い「負のスパイラル」が加速しそうです。
 今必要なことは、行き詰まった前内閣の路線を継承することではありません。コロナ禍の広がりによって明らかになったのは、日本政治の根本的な刷新によって新たな希望を生み出すような大転換が求められているということです。そして、そのような転換をもたらす変革への鳴動も始まっています。

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12月15日(火) 日本政治の現状と変革の展望(その2) [論攷]

〔以下の論攷は、日本民主主義文学会の『民主文学』2021年1月号、に掲載されたものです。4回に分けてアップさせていただきます。〕

2、 日本学術会議任命拒否事件                 

 違憲・違法な任命拒否

 安倍政権からの「負の遺産」の継承を象徴的に示したのが、日本学術会議に対する任命拒否事件です。学術会議から推薦された105人のうち6人の任命が拒まれたのです。この任命拒否は憲法23条が公的な学術機関の自律を保障する学問の自由と、法律によって定められている「学術会議の推薦に基づいて首相が任命する」という規定に反する違憲で違法なファッショ的暴挙にほかなりません。
 6人を誰かが勝手に除外し、元のリストを首相が「見ていない」という今回のやり方は、「任命は形式的」で「首相が任命する」といういずれの規定にも反しています。研究と業績以外の理由を持ち出して任命を拒否するのも法律違反です。拒否の理由を説明し、直ちに撤回して6人を任命するべきです。
 1983年に中曽根首相は「政府が行うのは形式的任命にすぎない。学問の自由独立はあくまで保障される」と答弁していました。もし、形式的ではなく実質的な任命がなされれば、「学問の自由独立」は保障されなくなると言っていたのです。今回がそれに当たります。
 同じ83年の参議院文教委員会で内閣官房総務審議官は「推薦されたうちから総理が良い人を選ぶのじゃないかという感じがしますが、形式的に任命を行う。実質的なものだというふうには理解しておりません」と答弁していました。「総理が良い人を選ぶ」ことはない、つまり今回のようなことはしないと約束していたのです。
 丹羽兵助総務長官はもっとはっきりと「学会の方から推薦をしていただいた者は拒否しない。その通りの形だけの任命をしていく」と答弁していました。その後、政府が現行の推薦方式に変えた2004年に「首相が任命を拒否することは想定されていない」という内部資料をまとめていたことも分かりました。
 「拒否しない」と言っていたのに「拒否」したのです。国会での審議では「解釈は変えていない」という答弁も相次ぎました。当時から任命拒否が可能だと解釈されていたわけではなく、これらの答弁との整合性が問題になります。

 権力による教育と大学への介入

 今回の人事介入の狙いは安倍前首相が進めてきた教育改革や大学改革と共通しています。その目的は道徳の教科化と愛国心教育の強化によって、権力に従順で自ら進んで「お国のため」に戦う人材を育成することにありました。学術会議への介入は、その大学版です。
 大学法人化や管理運営体制への民間人登用、教授会自治の切り崩し、補助金の削減と科学研究費の配分などを通じて、これまでも大学の自治と学問の自由は侵され、軍事研究への協力を強いられてきました。防衛省の軍事研究助成(安全保障技術研究推進制度)に採択された岡山大や東海大はJAXA(宇宙航空研究開発機構)とともに「極超音速ミサイル」の開発に協力しています。学術会議への攻撃は「敵基地攻撃能力」の保有の動きと連動しているのです。
 学術会議が目の敵にされるのは、このような大学改革や学術研究への介入に対する防波堤となって軍事研究に反対し、大学の自治と学問の自由を守ろうとしてきたからです。自民党はこの学術会議に挑戦状をたたきつけ、87万人の学者・研究者を敵に回すことを宣言したことになります。
 学術会議の変質を図ろうとする手段も、安倍前首相に指示され菅前官房長官が実行してきたものと同じです。人事に関与したり介入したりすることで恫喝し、忖度させて言うことを聞かせようというのです。
 『毎日新聞』10月8日付に興味深い記事が出ていました。「14年10月以降のある時点で、官邸側から『最終決定する前に候補者を説明してほしい』と要求されていたという」のです。この「14年」という年が一つのポイントではないでしょうか。13年から14年にかけて、それまでの慣例を破る形での官邸側による人事介入が相次いでいたからです。
 安倍前首相は13年には内閣法制局長官に外交官の小松一郎駐仏大使を任命し、NHKの経営委員に「お友だち」の百田尚樹・長谷川三千子両氏を押し込み、翌年の14年1月にはNHK会長に籾井勝人氏を起用し、この年の5月には内閣人事局が設置されました。
 14年5月15日には「安全保障の法的基盤の再構築に関する懇談会」が “集団的自衛権の行使は認められるべきだ”とする報告書を出し、安倍前首相は 集団的自衛権が必要な具体例として親子のパネルを示して説明していました。他方で、3月に「戦争をさせない1000人委員会」、4月には「立憲デモクラシーの会」が発足し、これ以降、翌年の9月まで学者・研究者も加わって激しい反対運動が展開されます。
 この様子を眺めていた官邸側は「何とかしたい」と考えたのかもしれません。その具体的な現れは「16年の補充人事で学術会議が推薦候補として事前報告した2ポストの差し替えを官邸が要求」(『毎日新聞』2020年10月8日付)するという形で生じ、以後、今日まで繰り返されてきました。

 墓穴を掘ったのではないか

 自民党や政府にとって学術会議は以前から煙たい存在で、できれば廃止するか従順な機関に変質させたいと考えていたはずです。それが、具体的な人事介入という形をとるようになった背景には特定秘密保護法や安保法制に対する反対運動があり、これらの法制定との関係で軍事研究を加速させる必要性が生じたからでしょう。
 そのために、2018年に首相が推薦通りに会員を任命する義務はないとする内部文書を作成して準備を進めてきたのだと思われます。この時点で法解釈の変更がなされたことは明らかですが、政府はそのことを認めていません。
 認めれば、勝手に解釈を変えたのに公表していなかったことになり、国会の立法権を侵害してしまうからです。そのために、「総合的・俯瞰的」という抽象的で理解不能な言葉を繰り返すしかなくなりました。
 菅首相は10月9日、内閣記者会のインタビューに応じて日本学術会議を行政改革の対象とする方針を示しました。問題の論点をすり替えるとともに、真の狙いをあけすけに語ったわけです。また、首相は自身が任命を決裁する段階で学術会議が推薦した6人は既に除外され、99人だったと説明しました。推薦段階の名簿は「見ていない」というのです。
 それなら、誰が名前を削ったのでしょうか。警察庁出身で内閣情報調査室長の経歴を持つ杉田和博官房副長官の関与が明らかになっています。首相以外が判断したのなら任命権の行使であり、学術会議法違反です。そもそも名前も見ないで、菅首相が「総合的・俯瞰的」に判断することができるのでしょうか。
 この菅首相の発言は、今回の決定への疑問を深め、その不当性をさらに強めるものです。菅首相は日本学術会議の6人の任命拒否によって「虎の尾」を踏み、知らず知らずのうちに「墓穴」を掘ったのではないでしょうか。その後の対応は自ら穴を掘り進み、ますます深みにはまったように見えます。


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12月14日(月) 日本政治の現状と変革の展望(その1) [論攷]

〔以下の論攷は、日本民主主義文学会の『民主文学』2021年1月号、に掲載されたものです。4回に分けてアップさせていただきます。〕

 はじめに

 「私が目指す社会像は、『自助・共助・公助』そして『絆』です。自分でできることは、まず、自分でやってみる。そして、家族、地域で互いに助け合う。その上で、政府がセーフティーネット(安全網)でお守りする。そうした国民から信頼される政府を目指します。」
 新たに首相の地位に就いた菅義偉前官房長官は、所信表明演説でこう述べました。それは、9月16日に就任してから40日も経ってからのことです。その遅さと内容の陳腐さにおいて、歴代内閣と比べても際立っていたというしかありません。
 菅新政権は「安倍政権の継承」を掲げていますが、政策路線だけでなく国会軽視の政治姿勢や強権的な政治手法まで「継承」しているようです。しかも、菅首相には「森友・加計」学園疑惑や「桜を見る会」の問題など、数々の疑惑にフタをして官房長官として安倍内閣を支えてきた実績があります。安倍前首相以上に危険で強権的な政治運営を行うのではないでしょうか。
 最低・最悪との批判を受けていた安倍前首相ですが、その後継である菅新首相は、さらにそれを上回る悪質さを示しています。政権発足後、短時日で発覚した日本学術会議の6人の会員の任命を拒否した問題は、このような菅政権の本質を露呈するものでした。
 新型コロナウイルスの感染が拡大し、世界的な不況の下で経済活動もままならず、国民のいのちと暮らしが脅かされています。それにもかかわらず、自公政権は効果的な対策を打てないばかりか政権維持に汲々としています。派閥間の談合による菅政権の発足にも見られるように、自民党は自己刷新の機会を失い、日本の政治はますます劣化の度を深めました。
 「安倍政治」の「劣化バージョン」にほかならない菅政権は、当初の高い支持率を下落させ、日が昇った途端に「黄昏時」を迎えているような状況に陥っています。このような菅政権は日本をどこに導こうとしているのでしょうか。日本政治の劣化を防ぎ、希望の持てる「新しい政治」に向けての変革の展望はどこにあるのでしょうか。

1、 菅義偉新政権の発足

 「たたき上げ」という「虚像」

 「雪深い秋田の農家の長男として生まれ、地元で高校まで卒業いたしました。卒業後、すぐに農家を継ぐことに抵抗を感じ、就職のために東京に出てきました。……五十数年前、上京した際に、今日の自分の姿はまったく想像することもできませんでした。」
 9月8日、自民党総裁選への立候補を届け出た菅義偉官房長官は石破茂元幹事長や岸田文雄政調会長とともに所見発表演説会に臨み、このように自らの過去を振り返りました。47歳で国会議員に当選したことについても、「まさに地縁、血縁のないゼロからのスタートでありました」と、「たたき上げ」の経歴をさりげなく誇示しています。庶民出身の苦労人だという「虚像」の始まりです。
 この「虚像」の効果は直ちに現れました。菅内閣発足後の各種世論調査で、軒並み60~70%台という高い支持率を記録したからです。
 一般的に、政権発足直後の内閣支持率は高く、その後徐々に減るという傾向があります。新しい政権が始まったことに対する「ご祝儀」が含まれているからです。今回の菅新政権に対する支持率の高さも「ご祝儀相場」であったと思われますが、それだけではありません。
 前述のような庶民出身の苦労人で「たたき上げ」だという「虚像」が幻想を生んだからだと思われます。前任の安倍首相を始め、総裁選で闘った石破元幹事長や岸田政調会長はいずれも二世・三世議員で、庶民とは言えない出自でした。
 また、官房長官として新しい元号を発表し、「令和おじさん」として知名度抜群で親しみをもたれていたことやパンケーキ好きだというマスコミ報道の影響もあったと思われます。実際には、ホテルニューオータニで3000円もするパンケーキで、庶民が気軽に口にできるようなものではなかったにもかかわらず。
 加えて、菅首相は携帯料金の値下げや不妊治療の保険適用など、身近な実益を生み出す政策を意識的に打ち出しました。これらの政策は若者や女性に歓迎された面もあったでしょう。しかし、このような菅首相のイメージや新政権への期待は極めて表面的なもので、「虚像」に基づく幻想にすぎなかったことは間もなく明らかになります。そのことは、当初高かった内閣支持率が軒並み急減するという事態にはっきりと示されました。

 露骨な新自由主義

 菅首相は就任後初の記者会見でも所信表明演説でも、「私が目指す社会像、それは自助・共助・公助、そして絆であります」と述べ、「そのためには、行政の縦割り、既得権益、そしてあしき前例主義、こうしたものを打ち破って規制改革を全力で進めます」と約束しました。「規制改革を進め」、「国民のために働く内閣」を作るというのです。
 ここには、菅政権の「社会像」が露骨な新自由主義に基づくものであることが明瞭に示されています。コロナ禍の下で、世界的に新自由主義的な経済効率優先社会への反省が語られ、医療・介護・福祉などのセーフティーネットの充実こそが何よりも優先されなければならない時に、〝まずは自分で何とかしろ〟というのですから呆れてしまいます。
 順番が逆です。何よりも目指すべきは、「公助」によって政府の責任を果たすことです。コロナ危機によって不安を高めている国民に対して、政府がきちんと対策を講ずるから心配ないと、先ずは「公助」の決意と具体的な対策を語るべきだったでしょう。「公助」こそが必要な時に「自助」を語ることの誤りに気がついていないのです。
 かつて、菅首相が総務副大臣のとき、上司だったのが竹中平蔵総務大臣でした。今回、首相となった菅氏はさっそく人材派遣業大手の竹中平蔵パソナグループ会長と会食し、菅内閣として進める規制改革や経済政策についてアドバイスを受けています。その後、安倍前政権の「未来投資会議」を解体して新たに始動させた「成長戦略会議」にも竹中氏を加え、小西美術工藝社のデービッド・アトキンソン社長や金丸恭文フューチャー会長兼社長など、新自由主義的な「自己責任」や格差社会を容認する危険な人々を選任しました。
 また、「国民のために働く内閣」というのも、取り立てて強調する必要があるのでしょうか。八百屋の主人が「野菜を売るぞ」と胸を張っているようなものではありませんか。前の政権が「国民のために働かない内閣」だったと言いたいのかと勘繰りたくなります。

 行き詰まりの継承

 菅新政権は安前倍政権の継承を掲げて出発しました。行き詰まった安倍前政権を引き継げば、結局、その行き詰まりも受け継ぐことにならざるを得ません。それは何よりも、新内閣成立のプロセスと人的な構成から明らかです。
 菅氏を担ぎ出して首相の座に押し上げたのは二階俊博幹事長でした。それは石破茂元幹事長の総裁選出を阻むためです。コロナ対策での減収世帯30万円支給案を推進し、国民の批判を浴びて撤回に追い込まれた岸田政調会長では石破氏には勝てないと考えたからです。
 代わりに「令和おじさん」として人気を高めた菅氏を担ぎ出すことで、石破当選を阻止しようとしたのです。その後の経過は二階氏のシナリオ通りの展開となり、菅候補に主要5派閥の支持が集まって菅新首相の誕生となりました。密室談合によって、幕が上がる前にドラマは終わっていたのです。 
 こうして発足した菅政権ですが、その骨格に大きな変化はありませんでした。安倍前政権を支えてきた「3本柱」である菅氏は首相になり、二階俊博幹事長と麻生太郎副総理兼財務相は留任しました。自民党役員では森山裕国対委員長、主要閣僚では、茂木敏充外相、萩生田光一文科相、梶山弘志経産相、赤羽一嘉国交相、西村康稔経済再生相、橋本聖子五輪相の5人が留任し、加藤勝信官房長官、河野太郎行革担当相、武田良太総務相はポストを変えて再任されました。
 党の役員や閣僚として安倍前政権を支えた議員も再入閣し、新入閣はたったの5人です。上川陽子法相や田村憲久厚労相など4人は安倍前政権で閣僚になった経験がありました。菅首相自身は無派閥出身ですが、党役員人事や閣僚ポストは各派閥にほぼ均等に配分されています。
 また、菅首相ら自民党籍の閣僚20人中18人が「靖国」派の改憲・右翼団体である「日本会議国会議員懇談会」と「神道政治連盟(神政連)国会議員懇談会」に加盟しています。菅首相は靖国神社の秋季大祭に際して真榊を奉納しました。未加盟の小泉進次郎環境相も毎年の終戦記念日に靖国神社を参拝しています。極右内閣としての性格も安倍前政権から引き継いだわけです。
 ただし、引き継がなかった面もあります。女性閣僚の数です。前内閣も3人と少なかったのですが、今回はさらに1人減って2人になってしまいました。なぜそうなったのかと問われた菅首相は「華やかさよりも実務をとった」と答えていました。女性閣僚は飾りにすぎず、実務能力で劣るという菅首相の女性観がこの説明にはっきりと示されています。

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11月18日(水) 大原社会問題研究所の思い出―『日本労働年鑑』の編集業務を中心に(その3) [論攷]

〔以下の論攷は『大原社会問題研究所雑誌』第745号、2020年11月号、に掲載されたものです。3回に分けてアップさせていただきます。なお、注は全て割愛させていただきます。〕

3、 大原社研でのその他の業務

(1) 戦後社会運動資料の復刻

 『雑誌』の編集担当を交代した時、早川先生から受け継いだのは『年鑑』の編集だけではなかった。もう一つ重要な業務があった。それは戦後社会運動資料の復刻作業である。これは戦後占領期の政党や社会運動団体などの機関紙誌を復刻するもので、兼任研究員の吉田健二さんが中心となって進めていた。私はこの業務を通じて吉田さんとコンビを組むことになる。
 私が担当を受け継いだ時、『民報・東京民報』の本体の刊行準備はほとんど済んでおり 、「別巻」の索引の作成から引き継いだ。この時点ではコンピュータによる索引づくりなどはまだ思いもよらず、印刷されたゲラを点検するのに苦労したものだ。しかも、吉田さんと違って戦争直後の政治や社会運動について専門的な知識などなかった私にとって、これに始まる復刻事業は大きな試練となった。
 この後、復刻事業は日本社会党の機関誌『社会思潮』全8巻、社会主義政治経済研究所の機関誌『社会主義』全3巻、同機関紙『政治経済通信』全1巻と続いた。その後も、民主評論社の雑誌『民主評論』全5巻を復刻することになる。日本共産党の機関誌『前衛』と新聞の『赤旗』を復刻する計画もあった。『前衛』の解題は増島宏先生、『赤旗』の解題は塩田庄兵衛・犬丸義一・梅田欽次の3先生にお願いしたが、結局、復刻には至らなかった。
 このような関係で戦後占領期のことは良く知らないなどとは言っていられなくなり、個人的にも研究を深めるようになっていった。次第に占領期の政治・社会運動に対する興味や知識が増え、やがてそれは戦後社会運動史研究会の発足と私が編集した2冊の研究所 叢書の刊行へと結びついていく 。
 占領期の政治・社会運動にまで私の研究分野が広がったのは、研究所業務における分担の変更があったからである。『年鑑』編集の業務とともに、戦後社会運動資料の復刻作業を業務として担当しなければ、このような形で研究分野が拡大することはなっただろう。このことも、結果的に私にとっては大きなプラスとなった。
 戦後社会運動史研究会は2冊目の叢書を刊行した2011年まで続き、その後は改組・再編されて社会党・総評史研究会に引き継がれた。その研究成果として刊行されたのが研究所叢書『日本社会党・総評の軌跡と内実』であった 。また、このような形で戦後の政治史についてそれなりに俯瞰することができるようになった成果の一つが、小学館から刊行した拙著『戦後政治の実像』である 。

(2)研究プロジェクトと大型出版

 戦後社会運動史研究会以外にも、多くの研究プロジェクトや出版活動に参加した。研究プロジェクトとして最初に取り組んだのは「ユニオンリーダー研究会」だった。ユニオンリーダーの属性や意識についての調査を行い、『大原雑誌』や『年鑑』の特集として発表し、労働省で記者会見を開き新聞でも報道された 。
 次に取り組んだのは、「労働組合の再編・統一に関する調査研究(連合研究会)」だった。これは当時の総評解散から連合と全労連の結成に至る労働戦線再編に焦点をあてた研究プロジェクトである。その成果は、研究所叢書『《連合時代》の労働運動』にまとめられた 。
 さらに、「人事評価と労働組合研究会」や「労働政策研究会」も力を入れて取り組んだプロジェクトだった 。高知短大の元学長代理で大原社研の客員研究員としてこられた芹澤 寿良先生の協力を得て経営者団体の関係者からの聴き取りを行い、高知県経営者協会専務理事の松本秀正さんや、旧経団連の常務理事・専務理事を歴任し日本年金機構の初代理事長となった紀陸孝さんなどの知己を得た。この研究プロジェクトの成果はワーキングペーパーにまとめられている 。
 これらの研究会は、いずれも私が責任者としてかかわったものである。それ以外にも、参加者として加わった研究会には、「現代労使関係・労働組合研究会」「労働運動の再活性化の国際比較研究会」「社会問題史研究会」などがある。
 前述のように、戦後社会運動史研究会を立ち上げて2冊の研究所叢書を編集したが、その後、この研究会は社会党・総評史研究会に受け継がれ、加藤宣幸さんなどの元社会党書記や富塚三夫元総評事務局長などからの聞き取りを行なった。これは嘱託研究員の木下真志さんの尽力によるもので、その成果は木下さんとの共編による研究所叢書となり、昨年刊行された。大原社研との関連で私が行った最後の仕事がこれである。
 このような研究プロジェクトとは別に、大原社研と旧労働旬報社とのコラボによる大型出版の企画にも取り組んで来た。その始まりは、すでに触れた『戦後社会・労働運動大年表』の刊行だった。これを皮切りに、『日本の労働組合100年 』『日本労働運動資料集成 』『社会労働大事典 』などが次々と刊行されていく。
 そのいずれもが、旬報社とのコンビを組んでの大型出版だった。編集を担当したのは『年鑑』編集でもコンビを組んでいた佐方信一さんで、こちらの方でも大いに助けられた。その後社長となった木内洋育さんとは編集者時代に私の著作 を担当していただいた縁もあり、長い付き合いになった。
 特に、最後の大型出版となった『社会労働大事典』は私の所長時代に出版されたために、最終的な文章の調整と編集を一手に引き受けることになり、2年ほどの間、寝る間も惜しんでの作業となった。左目に大きな負担がかかったようで、ある日の朝、目覚めると墨が流れているように見える。眼科の病院で診察してもらったら毛細血管が切れて血が出ているという。緊急にレーザーで手術してもらうということもあった。

(3)海外との交流と調査

 研究所業務との関連で、海外との交流と調査に関わったことも忘れがたい。大原社研に就職していなければ、以下に記すような外国旅行はほとんど実現しなかったに違いない。海外に目を開いて国際的なつながりを作ってもらえたのも、大原社研のお陰だったと言える。
 私の最初の海外旅行は、記述した都職労調査団の随員としての欧州5カ国訪問だった。この時知り合った2人とは、今も付き合いがある。これは大原社研の業務ではなかったが、公務員労働組合の調査という点では全く無関係というわけではなかった。
 次の外国訪問は韓国である。大原社研と仁川の仁荷大学との共同研究プロジェクトや講演、研究交流協定の締結などのために韓国訪問は7回を数えた 。これほど訪韓することになるとは夢にも思っていなかったが、盧武鉉政権で労働部長官(労働大臣)となる金大煥先生など多くの研究者と知り合い交流することができた。
 3番目の外国訪問は中国の上海外語学院への2カ月間の短期留学である。これは法政大学との相互交換留学制度によるもので、「抗日戦争と中国共産党」というテーマを掲げて約1カ月間かけて中国各地をめぐった。その調査旅行の詳細は『労働法律旬報』に連載している 。
 そして、私の海外経験のハイライトともいえるものがハーバード大学ライシャワー日本研究所への留学である。そのきっかけは大原社研に客員研究員として滞在していたアンドリュー・ゴードンさんと知り合ったことだった。「留学する時は頼みますよ」とお願いしていたところ、ゴードンさんがデューク大学からハーバード大学に移ったため、私の留学先もそれに連れて変わったのである。
 ハーバード大学には1年間在籍し、2001年8月31日にボストンのローガン空港からヨーロッパに向けて出発した。半年かけて世界の労働組合と労働資料館を調査するためである。その直後に、9.11同時多発テロが勃発するという偶然もあった。地球を一周して私が訪問したのはアメリカを含めて33ヵ国で、都市と場所は約90ヵ所に及んだ。この調査旅行については研究所叢書にまとめてあるので、詳しくはそちらをご覧いただきたい 。
 この他、個人的な外国訪問としては、ハワイへの1週間の旅、中国東北部(旧満州地域)への旅行、中国の西域(敦煌など)がある。このような形で数多くの国や都市を訪問できたのも、大原社研に在籍していたたまものだった。大原社研がIALHI(労働史研究機関国際協会、The International Association of Labour History Institutions)に加盟していなければ外国の資料館の訪問は実現できなかったにちがいない 。中国東北部への個人旅行も、中国からやって来た客員研究員に案内してもらってのものだった 。

 むすび

 私は32歳で兼任研究員として採用され、63歳で早期退職するまでの31年間、大原社研に在職した。そのうちの大半は『年鑑』の執筆と編集に従事していたことになる。この私の半生を改めて振り返ってみて、「何と恵まれていたことか」との思いを強くしている。
 第1に、大原社研という場ないしは器の有難さである。歴史と伝統があり、研究所としての実績は十分で、海外でも知名度抜群だった。外国の資料館への訪問では、相手がアーキビストだということもあって、法政大学は知らなくても大原社研の名前は知っていた。原資料を含む研究環境の素晴らしさは言うまでもない。ただし、私自身はこれらの資料を充分に活用できず、「宝の山」にいながら、その「宝」を充分に生かすことができなかったのは悔やまれる。
 それだけではない。多摩キャンパスへの移転に伴う研究所施設の充実、組織改編による若手の登用、二村・早川元所長はじめ嶺学・相田利雄・原伸子の歴代所長による上下関係のない自由で民主的な研究所運営、女性も臨時職員も分け隔てなく処遇する公平さなどは特筆される。懇親会も活発で、私にとってはまことに居心地の良い労働環境だったというほかない。
 第2に、研究所での業務ないしは仕事に恵まれた点である。『大原雑誌』編集の担当に始まり、『年鑑』編集と戦後社会運動資料の復刻、研究プロジェクトや大型出版企画への参加などをはじめ、個人的な著作の刊行や講演活動など大変充実した仕事をさせていただいた 。
 これらについては、すでに書いたので詳しくは触れない。やるべき仕事が、やって面白く身に付き、さらにやりたくなるような性格のものだった。そのためにいささか無理をしたきらいもなかったわけではない。椅子に座り続けた不健康な生活がたたってギックリ腰や腰痛になったり、左目の出血があったり何度も痛風の発作に襲われたりするなど、不健康で過労とも言える勤務実態であったことは否めない。
 同時に、それによって自己の限界を超え、大きく成長できたように思える。早期退職して以降は意識的に体力と健康の回復につとめ、ウォーキングとダイエットによって現役時代の最大時から25キロの減量に成功し、体調も大いに改善された。
 第3に、研究所内を中心とする先輩・同僚・後輩など、人とのつながりにも恵まれたことである。『年鑑』編集をはじめとして過酷ともいえる勤務を苦にしなかったのは、それを支え励ましてくれる仲間がいたからだ。仕事や研究活動を通じて得られた人間的なつながりは、私にとって一生の「宝物」である。
 ここで、今まで挙げていない恩人の名前を追加しておきたい。都立大学で塩田先生が大学を去った後、ゼミ生としてお世話になった金子ハルオ先生、大学院で中林先生とともに面倒を見ていただいた田沼肇 先生、最初の単著出版で助けていただいた畑田重夫先生 、退職後の研究会でお世話になり、私が立候補した八王子市長選挙で応援演説に来て下さった下山房雄先生などである。
 大原社研で過ごした日々をふりかえれば、懐かしい思い出の数々が走馬灯のように浮かんでは消えていく。「大原ファミリー」の一員として充実した毎日だった。研究所というより切磋琢磨する道場のような試練の場であったが、今となってはただ感謝しかない。

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11月18日(水) 大原社会問題研究所の思い出―『日本労働年鑑』の編集業務を中心に(その3) [論攷]

〔以下の論攷は『大原社会問題研究所雑誌』第745号、2020年11月号、に掲載されたものです。3回に分けてアップさせていただきます。なお、注は全て割愛させていただきます。〕

3、 大原社研でのその他の業務

(1) 戦後社会運動資料の復刻

 『雑誌』の編集担当を交代した時、早川先生から受け継いだのは『年鑑』の編集だけではなかった。もう一つ重要な業務があった。それは戦後社会運動資料の復刻作業である。これは戦後占領期の政党や社会運動団体などの機関紙誌を復刻するもので、兼任研究員の吉田健二さんが中心となって進めていた。私はこの業務を通じて吉田さんとコンビを組むことになる。
 私が担当を受け継いだ時、『民報・東京民報』の本体の刊行準備はほとんど済んでおり 、「別巻」の索引の作成から引き継いだ。この時点ではコンピュータによる索引づくりなどはまだ思いもよらず、印刷されたゲラを点検するのに苦労したものだ。しかも、吉田さんと違って戦争直後の政治や社会運動について専門的な知識などなかった私にとって、これに始まる復刻事業は大きな試練となった。
 この後、復刻事業は日本社会党の機関誌『社会思潮』全8巻、社会主義政治経済研究所の機関誌『社会主義』全3巻、同機関紙『政治経済通信』全1巻と続いた。その後も、民主評論社の雑誌『民主評論』全5巻を復刻することになる。日本共産党の機関誌『前衛』と新聞の『赤旗』を復刻する計画もあった。『前衛』の解題は増島宏先生、『赤旗』の解題は塩田庄兵衛・犬丸義一・梅田欽次の3先生にお願いしたが、結局、復刻には至らなかった。
 このような関係で戦後占領期のことは良く知らないなどとは言っていられなくなり、個人的にも研究を深めるようになっていった。次第に占領期の政治・社会運動に対する興味や知識が増え、やがてそれは戦後社会運動史研究会の発足と私が編集した2冊の研究所 叢書の刊行へと結びついていく 。
 占領期の政治・社会運動にまで私の研究分野が広がったのは、研究所業務における分担の変更があったからである。『年鑑』編集の業務とともに、戦後社会運動資料の復刻作業を業務として担当しなければ、このような形で研究分野が拡大することはなっただろう。このことも、結果的に私にとっては大きなプラスとなった。
 戦後社会運動史研究会は2冊目の叢書を刊行した2011年まで続き、その後は改組・再編されて社会党・総評史研究会に引き継がれた。その研究成果として刊行されたのが研究所叢書『日本社会党・総評の軌跡と内実』であった 。また、このような形で戦後の政治史についてそれなりに俯瞰することができるようになった成果の一つが、小学館から刊行した拙著『戦後政治の実像』である 。

(2)研究プロジェクトと大型出版

 戦後社会運動史研究会以外にも、多くの研究プロジェクトや出版活動に参加した。研究プロジェクトとして最初に取り組んだのは「ユニオンリーダー研究会」だった。ユニオンリーダーの属性や意識についての調査を行い、『大原雑誌』や『年鑑』の特集として発表し、労働省で記者会見を開き新聞でも報道された 。
 次に取り組んだのは、「労働組合の再編・統一に関する調査研究(連合研究会)」だった。これは当時の総評解散から連合と全労連の結成に至る労働戦線再編に焦点をあてた研究プロジェクトである。その成果は、研究所叢書『《連合時代》の労働運動』にまとめられた 。
 さらに、「人事評価と労働組合研究会」や「労働政策研究会」も力を入れて取り組んだプロジェクトだった 。高知短大の元学長代理で大原社研の客員研究員としてこられた芹澤 寿良先生の協力を得て経営者団体の関係者からの聴き取りを行い、高知県経営者協会専務理事の松本秀正さんや、旧経団連の常務理事・専務理事を歴任し日本年金機構の初代理事長となった紀陸孝さんなどの知己を得た。この研究プロジェクトの成果はワーキングペーパーにまとめられている 。
 これらの研究会は、いずれも私が責任者としてかかわったものである。それ以外にも、参加者として加わった研究会には、「現代労使関係・労働組合研究会」「労働運動の再活性化の国際比較研究会」「社会問題史研究会」などがある。
 前述のように、戦後社会運動史研究会を立ち上げて2冊の研究所叢書を編集したが、その後、この研究会は社会党・総評史研究会に受け継がれ、加藤宣幸さんなどの元社会党書記や富塚三夫元総評事務局長などからの聞き取りを行なった。これは嘱託研究員の木下真志さんの尽力によるもので、その成果は木下さんとの共編による研究所叢書となり、昨年刊行された。大原社研との関連で私が行った最後の仕事がこれである。
 このような研究プロジェクトとは別に、大原社研と旧労働旬報社とのコラボによる大型出版の企画にも取り組んで来た。その始まりは、すでに触れた『戦後社会・労働運動大年表』の刊行だった。これを皮切りに、『日本の労働組合100年 』『日本労働運動資料集成 』『社会労働大事典 』などが次々と刊行されていく。
 そのいずれもが、旬報社とのコンビを組んでの大型出版だった。編集を担当したのは『年鑑』編集でもコンビを組んでいた佐方信一さんで、こちらの方でも大いに助けられた。その後社長となった木内洋育さんとは編集者時代に私の著作 を担当していただいた縁もあり、長い付き合いになった。
 特に、最後の大型出版となった『社会労働大事典』は私の所長時代に出版されたために、最終的な文章の調整と編集を一手に引き受けることになり、2年ほどの間、寝る間も惜しんでの作業となった。左目に大きな負担がかかったようで、ある日の朝、目覚めると墨が流れているように見える。眼科の病院で診察してもらったら毛細血管が切れて血が出ているという。緊急にレーザーで手術してもらうということもあった。

(3)海外との交流と調査

 研究所業務との関連で、海外との交流と調査に関わったことも忘れがたい。大原社研に就職していなければ、以下に記すような外国旅行はほとんど実現しなかったに違いない。海外に目を開いて国際的なつながりを作ってもらえたのも、大原社研のお陰だったと言える。
 私の最初の海外旅行は、記述した都職労調査団の随員としての欧州5カ国訪問だった。この時知り合った2人とは、今も付き合いがある。これは大原社研の業務ではなかったが、公務員労働組合の調査という点では全く無関係というわけではなかった。
 次の外国訪問は韓国である。大原社研と仁川の仁荷大学との共同研究プロジェクトや講演、研究交流協定の締結などのために韓国訪問は7回を数えた 。これほど訪韓することになるとは夢にも思っていなかったが、盧武鉉政権で労働部長官(労働大臣)となる金大煥先生など多くの研究者と知り合い交流することができた。
 3番目の外国訪問は中国の上海外語学院への2カ月間の短期留学である。これは法政大学との相互交換留学制度によるもので、「抗日戦争と中国共産党」というテーマを掲げて約1カ月間かけて中国各地をめぐった。その調査旅行の詳細は『労働法律旬報』に連載している 。
 そして、私の海外経験のハイライトともいえるものがハーバード大学ライシャワー日本研究所への留学である。そのきっかけは大原社研に客員研究員として滞在していたアンドリュー・ゴードンさんと知り合ったことだった。「留学する時は頼みますよ」とお願いしていたところ、ゴードンさんがデューク大学からハーバード大学に移ったため、私の留学先もそれに連れて変わったのである。
 ハーバード大学には1年間在籍し、2001年8月31日にボストンのローガン空港からヨーロッパに向けて出発した。半年かけて世界の労働組合と労働資料館を調査するためである。その直後に、9.11同時多発テロが勃発するという偶然もあった。地球を一周して私が訪問したのはアメリカを含めて33ヵ国で、都市と場所は約90ヵ所に及んだ。この調査旅行については研究所叢書にまとめてあるので、詳しくはそちらをご覧いただきたい 。
 この他、個人的な外国訪問としては、ハワイへの1週間の旅、中国東北部(旧満州地域)への旅行、中国の西域(敦煌など)がある。このような形で数多くの国や都市を訪問できたのも、大原社研に在籍していたたまものだった。大原社研がIALHI(労働史研究機関国際協会、The International Association of Labour History Institutions)に加盟していなければ外国の資料館の訪問は実現できなかったにちがいない 。中国東北部への個人旅行も、中国からやって来た客員研究員に案内してもらってのものだった 。

 むすび

 私は32歳で兼任研究員として採用され、63歳で早期退職するまでの31年間、大原社研に在職した。そのうちの大半は『年鑑』の執筆と編集に従事していたことになる。この私の半生を改めて振り返ってみて、「何と恵まれていたことか」との思いを強くしている。
 第1に、大原社研という場ないしは器の有難さである。歴史と伝統があり、研究所としての実績は十分で、海外でも知名度抜群だった。外国の資料館への訪問では、相手がアーキビストだということもあって、法政大学は知らなくても大原社研の名前は知っていた。原資料を含む研究環境の素晴らしさは言うまでもない。ただし、私自身はこれらの資料を充分に活用できず、「宝の山」にいながら、その「宝」を充分に生かすことができなかったのは悔やまれる。
 それだけではない。多摩キャンパスへの移転に伴う研究所施設の充実、組織改編による若手の登用、二村・早川元所長はじめ嶺学・相田利雄・原伸子の歴代所長による上下関係のない自由で民主的な研究所運営、女性も臨時職員も分け隔てなく処遇する公平さなどは特筆される。懇親会も活発で、私にとってはまことに居心地の良い労働環境だったというほかない。
 第2に、研究所での業務ないしは仕事に恵まれた点である。『大原雑誌』編集の担当に始まり、『年鑑』編集と戦後社会運動資料の復刻、研究プロジェクトや大型出版企画への参加などをはじめ、個人的な著作の刊行や講演活動など大変充実した仕事をさせていただいた 。
 これらについては、すでに書いたので詳しくは触れない。やるべき仕事が、やって面白く身に付き、さらにやりたくなるような性格のものだった。そのためにいささか無理をしたきらいもなかったわけではない。椅子に座り続けた不健康な生活がたたってギックリ腰や腰痛になったり、左目の出血があったり何度も痛風の発作に襲われたりするなど、不健康で過労とも言える勤務実態であったことは否めない。
 同時に、それによって自己の限界を超え、大きく成長できたように思える。早期退職して以降は意識的に体力と健康の回復につとめ、ウォーキングとダイエットによって現役時代の最大時から25キロの減量に成功し、体調も大いに改善された。
 第3に、研究所内を中心とする先輩・同僚・後輩など、人とのつながりにも恵まれたことである。『年鑑』編集をはじめとして過酷ともいえる勤務を苦にしなかったのは、それを支え励ましてくれる仲間がいたからだ。仕事や研究活動を通じて得られた人間的なつながりは、私にとって一生の「宝物」である。
 ここで、今まで挙げていない恩人の名前を追加しておきたい。都立大学で塩田先生が大学を去った後、ゼミ生としてお世話になった金子ハルオ先生、大学院で中林先生とともに面倒を見ていただいた田沼肇 先生、最初の単著出版で助けていただいた畑田重夫先生 、退職後の研究会でお世話になり、私が立候補した八王子市長選挙で応援演説に来て下さった下山房雄先生などである。
 大原社研で過ごした日々をふりかえれば、懐かしい思い出の数々が走馬灯のように浮かんでは消えていく。「大原ファミリー」の一員として充実した毎日だった。研究所というより切磋琢磨する道場のような試練の場であったが、今となってはただ感謝しかない。

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11月17日(火) 大原社会問題研究所の思い出―『日本労働年鑑』の編集業務を中心に(その2) [論攷]

〔以下の論攷は『大原社会問題研究所雑誌』第745号、2020年11月号、に掲載されたものです。3回に分けてアップさせていただきます。なお、注は全て割愛させていただきます。〕

2、 専任研究員としての採用と『日本労働年鑑』の編集

(1)『大原社会問題研究所雑誌』の編集業務

 『大年表』刊行の大事業が終了した1987年、私は経済学部に移った佐藤博樹さんの後任として専任研究員の助教授に採用された。当初の業務は『大原雑誌』の編集であった。それまでの『研究資料月報』を『大原雑誌』として市販される「商品」とするために 、まずイメージチェンジを図ろうということで表紙をピンクに変えた。私と三宅さんの提案を二村所長が採用したのである。
 その後もいくつかの改善が図られた。体裁をきちんとするために専門の割付担当者を採用すること 、一般の雑誌のように発行時期を一カ月早めること、誤植などをなくすために所外に専門の校正者を依頼すること 、原稿料の支払いと雑誌の購読料を相殺するような仕組みを作ることなどである。
 この時期に作られた雑誌編集の枠組みはその後も継承され、今日に至っている。そのうちのどれが私の編集担当の時代に実現したのかは、今となってはよく覚えていない。少なくとも、私が雑誌編集を早川先生に引き継ぐころまでには、このような枠組みは基本的にできあがっていたように思う。その後、専門的な学術研究誌としての評価を高め定着することになるのは早川編集長時代だが、その基礎はこの時代にはできていたように思う。
 ただし,月刊雑誌の編集は、積んでは崩す「賽の河原の石積み」のようなところがある。毎月、原稿を集めて編集し、初校・再校と手を入れて刊行したと思ったら、すぐ次の号の編集が待っている。特集の企画も考えなければならず、原稿の依頼や点検、校正などの作業は並行して進められ、息を抜くことができない。『大原雑誌』の編集担当から『年鑑』担当に業務が変わったとき、何となくホッとしたことを覚えている。

(2)『日本労働年鑑』の編集を担当

 私が前任の早川先生と交代する形で『年鑑』編集の担当になったのは1990年秋のことだったと思う。以来、91年版から退職する年の2013年版までの22年間にわたって『年鑑』の編集に携わった。私の研究所での仕事の大半は、この『年鑑』の編集作業を中心に回っていたことになる。
 『年鑑』は1987年刊行の第57集から、①労働経済と労働者の生活、②経営労務と労使関係、③労働組合の組織と運動、④労働組合と政治・社会運動、⑤労働・社会政策という5部構成となった。この5部構成と特集という基本的な枠組みは今も維持されている。
 特集と章別の編成、執筆者についてはその都度検討され、修正や変更の必要があれば対応しなければならない。留学などで執筆できないという連絡が入ることもある。特集のテーマや章別の編成を確定し、適当な執筆者を探して依頼が完了するのは師走に入ってからのことになる。
 年が明けてからの最初の作業は、各執筆者に対して改めて執筆に向けてのお願いをすることだった。『年鑑』は毎年刊行されるので、はっきりとした期限がある。6月の刊行を遅らせるわけにはいかない。かといって、その年が終わらないことにはデータがそろわない。年が明けてから、できるだけ早く執筆をはじめ、2月から3月にかけての締め切りに間に合わせてもらう必要がある。
 各章の締め切りは同じではない。内容や資料が発表される時期、筆者などによって多少の差をつけた。第1次の締め切りは2月中旬、2次は下旬、3次は3月上旬という具合だった 。いっぺんに集まってきても原稿の点検や編集が間に合わないからで、その後は第2次までになった。
 執筆する対象によっては資料の収集が難しかったり、データの発表が遅かったりするものもある。筆者による執筆の遅速の差もあり、原稿集めには大変苦労した。それでも、ワープロやパソコンで入力し、メール添付で送ってもらい、直接手を入れられるようになってからは、編集作業も入稿のスピードも格段に改善された。

(3)『年鑑』編集のスケジュールと具体的作業

 『年鑑』編集のための会議は、原稿が集まってくる2月中旬頃から始まり、4月上旬にかけてほぼ毎週水曜日に開催された。出席するのは専任研究員全員と編集担当の兼任研究員2人、それに発行元である労働旬報社(後、旬報社)の編集担当である。編集会議での議題は、原稿の集まりや進行状況の確認、集まった原稿を読む分担、原稿読みと編集作業を進めてきて生じた問題点の解決などである。
 以上に加えて、二つの大きな作業がある。その一つは「序章」の検討で、もう一つは「年表」の作成だった。この二つについては、それぞれの担当者を決めたうえで集団的に検討し、それを踏まえて完成させたものを最終的に調整して仕上げる 。年表の原案は外部の作成者にお願いしたが、各欄の重複や欠落の補充などはこちらで行わなければならない。6つの欄の重なりなどは、最終的に並べてみなければ分からないことも多かった。
 『年鑑』には、冒頭にグラビアのページがあり、その作成は編集委員会の仕事になる。また、各章の扉には内容を簡潔に示すキャッチ・コピーとグラフや写真などの図版が付いている。基本的にはこれらの原案も原稿筆者に依頼するが、記載されていなければこちらで作成しなければならない。キャッチ・コピーには字数と行数に制限があり、毎度、苦労したものだ。
 この一連の過程における私の役割は、編集スケジュールの作成、編集会議の招集と進行、原稿の発注と集まってきた原稿の素読み、各担当者への原稿読みの割り振り、戻ってきた原稿の点検と入稿、序章と年表の完成と入稿などである。遅れている原稿があれば催促し、記述すべき内容で足りない部分があれば筆者に補充してもらい、それが間に合わないようなら編集委員に補充執筆をお願いしなければならない。これらは今も繰り返されていると思うが、気苦労の多い大変な作業であった。
 4月初め頃には一通り入稿が終わり、順番に初校ゲラが出てくる。これについては筆者、編集担当者、私が目を通し、赤を入れたものを転記して出版社に返す。大型連休明けにはこの作業もほぼ終了し、その後、再校ゲラが出てくる。この段階でも多くの赤が入るのが普通で、研究所に待機して出版社の担当者からの問い合わせに答えなければならない。
 こうしてほぼ完成原稿がそろった段階で、最後の作業が待っている。それは索引語の指定と、関連する記述があるページの「年表」欄へ記入である。いずれの作業も、ページ数が確定しなければできない。ページ数を入れたために年表欄の字数が増え、再度の調整が必要になるなどということもあった。索引語を統一するという面倒な作業もあるが、これについては編集担当者に任せた。
 こうして、前年の9月頃から始まった『年鑑』編集の作業は大団円を迎える。最終的に校了となって研究所の手を離れるのは5月末で、それから3週間ほどして『年鑑』が刷り上がってくる。刊行は6月下旬で反省会は7月の初めだからほぼ10ヵ月が費やされ、夏休みを除く通年の作業ということになる。この間、原稿やゲラ読みを始めとした編集作業の多くは研究所の勤務時間内だけでは不可能で、自宅に持ち帰っての仕事は当たり前だった。
 特に、編集作業にワープロやパソコンを使うようになってからは、研究所と自宅での作業に大きな差はなくなったように思う。まさに、「フロッピー残業」の典型のような働き方だった。毎年、5月が過ぎると腰痛に悩まされたのは、パソコン画面をのぞき込んでいたせいかもしれない。退職してからは、腰の痛みに悩まされるようなこともなくなった。
 『年鑑』編集の始まりから終わりまで、細かな字を読み続ける過酷な作業が続いた。学生時代に右目を失明し、左目しか見えない私には大変つらい仕事でもあった。残された左目を守るためにも、できるだけ早い時期に研究所を退職した方が良いのではないかと思うようになった。これが、63歳という年齢で早期退職を選択した理由の一つだったのである。

(4)「特集」テーマ・筆者の決定と痛恨の失敗

 私が担当した時期の特集のテーマ

1991年版(第61集) 労働組合組織化の新たな動向
1992年版(第62集) ユニオンリーダーの属性と意識
1993年版(第63集) 現代日本の女性労働
1994年版(第64集) 日本における外国人労働者の現状
1995年版(第65集) ILOと日本
1996年版(第66集) データ・ファイル=戦後50年の労働問題
1997年版(第67集) 高齢者就業・雇用の現状と課題
1998年版(第68集) 現代日本の社会福祉労働
1999年版(第69集) 国際労働組合運動の50年
2000年版(第70集) 現代日本の雇用変動と雇用・失業問題
2001年版(第71集) 人事評価と労働組合
2002年版(第72集) 労働時間の法制の改編と運用の実態
2003年版(第73集) メンタルヘルス問題と職場の健康
2004年版(第74集) 若年労働者の就業をめぐる諸問題
2005年版(第75集) プロ野球選手会のストライキ/介護保険制度の現状と改革課題
2006年版(第76集) JR福知山線脱線事故とJRの労使関係/日経連「新時代の日本的経営」から10年
2007年版(第77集) 業務請負と労働問題/アスベスト(石綿)問題の過去と現在
2008年版(第78集) 介護労働と介護問題/国際労働組合総連合(ITUC)の結成
2009年版(第79集) 今日のワーキングプアと非正規雇用問題/M&Aと労働問題
2010年版(第80集) ユニオン運動の形成と現状/構造改革と社会保障改革
2011年版(第81集) JR不採用問題の和解と今後の課題/外国人技能実習生問題の現状と課題
2012年版(第82集) 東日本大震災と労働組合/原子力問題と労働運動・政党
2013年版(第83集) 変貌する正社員の雇用と労働/東日本大震災と公務労働
2014年版(第84集) 非正規労働をめぐる政策と運動/社会保障制度改革の現状と課題

 『年鑑』は1991年刊行の第51集から「特集」を掲載している。『年鑑』がカバーする単年度の記録としてではなく、中・長期的な視野からそのときどきの重要なテーマについて整理、分析するためである。私が担当した1991年から2014年までの「特集」は別表のとおりである。それを見れば、そのときどきにおいて何が重視され焦点となっていたかを知ることができる。 
 特集は、2004年版の第74集までは一本だったが、翌年からは2本になっている。『年鑑』の魅力を高めて販売部数の低下に歯止めをかけようとしたためである。しかし、顕著な効果はなく、販売部数は増減を繰り返しながら緩やかに減少していった。
 「特集」テーマの検討は、『年鑑』刊行後の7月初めの反省会から始まる。夏休み明けの9月から10月にかけての研究員会議や運営委員会でも意見を聞いた。執筆者についても知恵を出してもらった。私一人では、手に負えないことも多かったからだ。
 私は原案を出したが、それは参考程度で全く違ったテーマに決まることもある。最終的な決定は10月の社会政策学会の研究大会前になされることが多かった。学会で筆者の候補を探したり、直接交渉したりするためであった。
 何を特集のテーマとするかも難しかったが、それ以上に誰に書いてもらうかが重要だった。『年鑑』の通常の章はほぼ筆者が決まっており、内容も見当がついたが、特集は毎回テーマも筆者も異なっている。どんなに良いテーマでも書いてもらえる筆者を見つけなければならず、引き受けてもらえなければ掲載できない。1本でも大変なのに、毎年2本となると苦労は倍加する。今でも2本の「特集」を維持するのは大変なのではないかと思う。
 この「特集」について、あまり書きたくはないが、今も反省すべき痛恨の失敗があった。筆者名を間違えてしまったのである。『年鑑』は客観的記述を旨とし集団的に検討してかなり手を入れることもあって、各章の筆者を明らかにしていない。しかし、「特集」については個人的な見解や評価も記述され、研究業績として扱われることもあり、希望者については文末に筆者名を入れることにした。その筆者名を間違えてしまったのである。
 問題は2006年版の第76集「JR福知山線脱線事故とJRの労使関係」で生じた。この前半の筆者は「安田浩一」であったのを、「安田和也」としてしまったのである。姓が同じ「安田」であったために、巻末の「社会・労働運動年表」の社会運動欄の作成者と取り違えてしまった。
 翌年の『年鑑』では「旬報社編集部」名で「訂正とお詫び」の紙片を挟んで配本することになった。安田浩一さんにもお目にかかってお詫びしたが、このような失敗は、後にも先にもこれ一回きりのことである。安田さんはその後フリージャーナリストとして大活躍されておられる 。全く不注意の極みであり、この場を借りて改めてお詫び申し上げたい。
 
(5)『年鑑』章別編成の変遷

 『年鑑』の5部構成という枠組みに変化はなかったが、各部を構成する章やその中の節については、労働・社会問題の変化に応じて変わってきた。その変遷の後を辿れば、おのずと各時代の変化を知ることもできる。以下、章や節の変化を振り返ってみることにしたい。
 91年版では、第2部第5章の「産業動向と合理化」の節として、新たに「金融」と「建設」が加えられた。また、第4部第2章の「労働者福祉運動」から労働者住宅を除き、新たに労働者生産協同組合運動が加えられている。
 92年版では、第1部第2章「労働者生活の実態」で家計を主とする消費生活だけでなく単身赴任問題やセクシュアル・ハラスメント(セクハラ)などの職場の状況や労働のあり方も視野に入れるようにした。それまで第2部に収めていた「労働災害・職業病」は第1部に移し、第2部の「労使交渉と労働争議」も第3部に入れて表題を「労働組合の組織現状と労働争議」と改めた。第3部第3章の「賃金要求と賃金闘争」を「賃金・時短闘争」として労働時間短縮(時短)闘争も加え、第3部第5章の「合理化と労働組合」も、合理化だけでなく新たな取り組みを幅広くフォローできるように「単産・単組の運動事例」と改めている。
 私は91年版から編集を引き継いだが、その時、すでに次年度の章別編成の大枠は決まっていた。計画段階から編集に関わったのは92年版からであった。この時の編成替えが大幅なものになったのは、私が担当者になって、その考えが反映されたという面もあったように思う。もちろん、それは私だけでなく編集会議での集団的な検討によるもので、当時の二村所長のリーダーシップが大きかったように思う。
 翌93年版では大きな変更は加えられていないが、94年版にはいくつかの変更があった。前年版で特集として扱った「女性労働」を新たに第1部第3章とし、「労働災害・職業病」を第4章とした。また、第1部第2章「労働者生活の実態」を「労働者の生活と意識」とし、意識調査の結果も紹介することとした。
 95年版でも大きな変化はなく???、96年版では第2部第1章「労働経済の動向」で、家内労働従事者と外国人労働者についての記述を新設した。97年版と98年版では変更はなかった。
 99年版では、第2部第3章「主要産業の動向」で新たに「医療・福祉」「公務」「教育」の節を新設し、一段と広く産業の動向をカバーできるようにした。「主要産業」としては、これ以外にも触れるべきものがあったように思うが、全体の分量などの関係もあって、その後も増やされていない。
 2000年版は変更なく、01年版で第1部第4章として「外国人労働者」を新設し、「労働災害・職業病」を第5章とした??のが、章別編成としての大きな変更だった。その後、これらの章はそのまま引き継がれ、02年版から14年版まで大きな変更が加えられることはなかった。

(6) 『年鑑』編集に関するいくつかのエピソード

 『年鑑』編集に関連しては、数多くのエピソードが思い出される。その全てに触れるわけにはいかない。主なものをいくつか紹介しておくことにしよう。
 第1に、『年鑑』の改革についての論議である。年々、出版物全体の販売数が低下傾向にあり、『年鑑』も例外ではなかった。刊行部数の一応の目安は1000部で、これを割るたびにテコ入れ策が検討され実施された。全国の図書館や大学などに『年鑑』の所蔵状態のアンケートを送ったり、継続しての購入のお願いを出したりした。
 『年鑑』そのものについても、抜本的な改善策が検討された。その一つは版型を変えるというものだった。現在よりも大きな判にして読みやすくしたらどうかというものだったが、途中から大きさが変われば本棚に収納するのに困るのではないか、継続性が薄れるのではないかなどの意見が出され、沙汰止みとなった。
 また、現在の縦組みを横組みとした方が良いという意見もあった。『年鑑』に多くの数字が記載されるが、漢数字よりも算用数字の方が読みやすいというのである。これは版型を大きくすることと併せて実施しなければ、かえって読みにくくなる可能性があり、上記の案が消えた段階で横組み案も消えることになった。
 さらには、電子情報と結合するという案もあった。『年鑑』の付録としてCDを付け、豊富なデータを入手できるようにしようというものだ。しかし、文字版の編集だけでもやっとの思いで間に合わせているのに、それ以上のことは無理ではないか、技術的にも難しいのではないかということで、これも実現されなかった。
 結局、特集などを紹介する帯を付けたくらいで、版型や内容の点では大きな変更なしに現在に至っている。世界でも稀な継続性を特徴とする『年鑑』である以上、基本的に変わらないことにも一定の価値があると言えるかもしれない。
 第2に、『年鑑』編集と研究所のコンピュータ化との関連である。1983年に私が兼任研究員となって『年鑑』編集を手伝った時は、まだ手書きの原稿を集めて編集していた。このころには手書きで文章に手を入れたり校正したりしていたが、コンピュータの画面で行う時代に比べれば、ずっと困難で手間がかかった。
 1984年7月にパソコンが導入され、それ以降、研究所のコンピュータ化は急速に進む。資料の整理や索引の作成のために積極的な導入が図られていったからである。それに引きずられるようにして、私もワープロやパソコンの操作に慣れていった。それが『年鑑』編集の上で大きな威力を発揮したことは、すでに書いたとおりである。
 そのことは、私自身の研究活動にとっても大きな意味をもった。この面で一歩先んじておられた二村所長の強い勧めと技術指導によって、個人のホームページを立ち上げたからだ。米ハーバード大学への留学と世界をめぐっての労働組合・労働資料館の調査旅行の間も発信を続け、一冊の本にまとめることができた 。1998年から書いて発信し始めたホームページは、これまでの累計で1000万アクセスを遥かに越えている 。
 第3に、『年鑑』の編集作業を担当することによって得られたメリットについても触れておきたい。『年鑑』の編集は苦労が多く辛い仕事だったが、同時にそれは私にとって日本の労働問題の教科書であった。これによって労働問題や労働運動だけでなく、日本の政治と社会への理解を深めることができたからである。
 毎年、原稿を受け取ったとき、入稿するとき、初校ゲラを点検するときと、最低3回は原稿を読む。出来上がってからもざっと目を通す。依頼した字数を越えている時は削り、間違っているデータは修正し、文章表現についても手を入れた。受け取った原稿をそのまま入稿するのではなく、正確で読みやすくするための作業を行う。厚くなりすぎないよう、毎年のページ数が大きく変動しないよう、特に注意を払った。こうして、所定の字数内に収める技術が身についていった。
 これらの作業が終わるころ、前年の日本の政治と社会、労働の現場がどうであったかというイメージができあがる。「序章」の執筆では、前述のように国際政治の動向と国内政治の動向を担当し、経済や労働についても編集会議で議論する。「年表」の作成では、日付や集会の名称、参加人数、場所、人名などにも気を配る。自然に、前年の世界と日本についての「土地勘」のようなものが身に付いたように思う。
 これは私にとって大きな財産となった。それぞれの年の政治・経済・労働の全体像が自然に浮かび上がってくるのである。無理やり叩き込まれたような形で記録され記憶しているイメージを手掛かりに『年鑑』で調べれば、さらに詳しく知りたい事実やデータに行き当たる。
 すべてを網羅しているのが『年鑑』の強みである。それはそのまま私自身の強みとなり、大きな自信となった。私は『年鑑』の編集を担当し、毎年の大半を費やして悪戦苦闘するなかで、研究者として鍛えられ成長させてもらったと思っている。『年鑑』の編集担当という業務に従事していなければ、今日の私はない 。

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11月16日(月) 大原社会問題研究所の思い出―『日本労働年鑑』の編集業務を中心に(その1) [論攷]

〔以下の論攷は『大原社会問題研究所雑誌』第745号、2020年11月号に掲載されたものです。3回に分けてアップさせていただきます。なお、注は全て割愛させていただきます。〕

 はじめに

 大原社会問題研究所(以下、大原社研)が毎年刊行している『日本労働年鑑』(以下、『年鑑』)が、2020年度に第90集を数えた。この「第90集刊行記念として、歴代の編集責任者に、これまでの歴史や編集記録として残すべきと考えることをご執筆いただき掲載したい」とのお誘いを、『大原社会問題研究所雑誌』(以下、『大原雑誌』)の編集担当からいただいた。これを喜んで引き受けることにしたい。
 『大原雑誌』の紙上を借りて、私のささやかな経験と思い出を語ることができるのは幸せなことだと思う。そもそも大原社研に職を得ることができたのは生涯の喜びであり、現在の伴侶を得られたのも大原社研に就職できたお陰だった。研究所には「足を向けて寝られない」ほどの大恩がある。
 2019年で創立から100年を越えた歴史 を持ち錚々たる研究員によって数多くの業績を積み重ねてきた伝統ある研究所の活動に、どれほどの貢献ができたかは心もとない限りである。とはいえ、私のつたない経験も、後に続く人々にとって何らかの参考になるかもしれない。そう思い、この機会に『年鑑』の編集業務を中心としながら、私の大原社研での活動についての思い出を記すことにしたい 。

1、 前史―大原社研の所員としての採用

(1) 大原社研との出会い

 私が、大原社研の名を知ったのは、東京都立大学に学んでいた学生時代のことになる。経済学部に在籍していたが、ほとんど「自治会学部タテカン学科」で、1年生で自治会副委員長、2年生で委員長となるなど学生運動に明け暮れていた。そのような中で、先輩の一人が「大原社研に就職したいなあ」とつぶやくのを耳にしたのが最初だった。「おおはらしゃけん」て何だろうと思ったが、記憶には残った。
 ほどなくして、その正体はゼミの指導教員だった塩田庄兵衛先生を通じて知ることになる。その後、塩田先生の友人で大原社研の所員でもあった中林賢二郎 先生を頼って法政大学の大学院に進学したため、大原社研と私との縁は急速に深まっていった。直接的なつながりは、中林先生の紹介で資料整理のアルバイトに採用されたことに始まる。当時、麻布にあった分室に通い、日本農民組合(日農)の原資料を分類してファイルに整理する仕事に従事したからである 。
 その後、中林先生の指導でコミンテルン(共産主義インターナショナル)の統一戦線政策を研究テーマにするに至り、大原社研との研究者としてのつながりが生まれる。研究所所蔵のコミンテルン関係資料や定期刊行物がなければ、私の研究は不可能だった。修士論文「コミンテルン初期における統一戦線政策の研究」は一定の評価を受け、日本武道館で開かれた卒業式で社会科学研究科修士課程代表として中村哲総長から学位記を授与された。論文は手を加えて縮小した後、社会学部の学会誌『社会労働研究』に掲載されている 。
 中林先生には、ゼミ指導のほかにも公私にわたって大変お世話になった。資料整理のほかにも、都職労・都労連の第3次ヨーロッパ調査団の随員としてイギリス・フランス・ドイツ・スイス・イタリア5カ国の公務労働の調査に同行して報告書を作成する仕事や、当時の日本共産党の野坂参三名誉議長の回顧録執筆のための資料調査 なども、中林先生の紹介だった。先生が突然亡くなられた後、2年ほどの間、奥様のご厚意でお宅に下宿させていただいたこともある。

(2) 所員としての採用

 博士課程に進学した後も、中林ゼミでのコミンテルンと統一戦線政策の研究は続いたが、このころから高橋彦博先生の誘いを受けて増島宏先生を中心とする政治研究会に加わり、私の関心は政治学や日本政治の研究へと傾斜していった 。学部で経済学部に在籍し、大学院では社会学専攻であったのに、大原社研に就職した後は政治学者 を名乗ることになった背景はここにある。
 法政大学大学院には1974年に入学し、修士課程4年、博士課程5年の9年間在学した。1983年3月に満期退学した後、翌4月に三宅明正さんと2人で所員待遇の兼任研究員に採用された。これも中林先生の紹介だったように思う。このころはまだ半専任扱いだったため日本育英会の免除職に該当し、学部時代に貸与されていた特別奨学金の返還が免除されたのは大いに助かった。
  大学院棟の5階にあった研究所は新しくできた80年館に移っており、研究所の研究員会議もその一室で開かれていた。週に一度開催される研究員会議に出席して驚いたのは、休憩時間に職員が紅茶を入れて現れ、本棚から取り出したブック型のビンからウィスキーを垂らして呑んだことである。馥郁たる芳醇な香りが漂うなか、舟橋尚道所長、中林賢二郎、岡本秀昭、二村一夫、早川征一郎、佐藤博樹などの諸先生の陰で、新参者の私と三宅さんは小さくなっていた。
 
(3)『大年表』第3巻を担当
 私が研究員会議に参加したころ、研究所は市ヶ谷から多摩キャンパスに移転する準備を進めていた。これを機に財団法人を解散して大学の付置研究所に改める方針は、「研究員会議を中心に慎重な検討が重ねられた 」たと『100年史』に記されている。この研究員会議での議論についてはほとんど記憶がない。
 新たに採用された私と三宅さんの主たる業務は、研究所創立60周年記念事業として計画された『社会・労働運動大年表』(以下、『大年表』)の執筆・編集作業であった。これは1858年以降約130年間の歴史を、労働運動と社会運動を中心に、政治・法律、経済・経営、社会・文化、国際の6欄構成で記録した年表で、全項目に出典を明記し、重要項目には簡潔な解説を付していた 。
 編集委員会には、二村・早川・高橋・佐藤先生に明治大学の栗田健先生が加わっていた。毎月一回開かれていた編集会議が終わってから、担当編集者だった労働旬報社の佐方信一 さんも交えて食べた「うな重」の美味さは忘れられない。
 86年に付置研究所になるとともに組織替えが行われた。新たに有給で非常勤の兼任研究員が拡充され、私と三宅さんのほかに、荒川章二、梅田俊英、大野節子、佐伯哲郎、相馬保夫、平井陽一、吉田健二の各氏が加わった。研究所の理事会は、専任研究員と学部教員の兼担研究員とで構成される運営委員会となった。
 兼任研究員の大量採用は『大年表』の執筆・編集のためであり、これは研究所の総力を挙げての取り組みとなった 。私は1965年以降をカバーする第3巻を担当し、多摩キャンパスに移ってからは仮泊研修施設の「百周年記念館」にしばしば泊まり込んだ。ほとんど時間管理なしの過酷ともいえるような勤務状態で、報酬の引き上げを求めて二村所長に掛け合うなど緊迫した一幕もあった。同時に、編集実務を担った若手研究者の間には、「戦友」とも言える濃密な仲間意識も生じた。今となっては懐かしい思い出である。

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