5月3日(日) コロナ禍に乗じた惨事便乗型アベ改憲策動を許してはならない [憲法]
今日は憲法記念日です。例年であれば、護憲派・改憲派は共に大きな集会を開きますが、今年は新型コロナウイルスに感染する恐れがあるために、インターネットによるオンラインでの集会などに変わっています。
コロナ禍は憲法をめぐる論議にも微妙な影響を与えています。感染を恐れた人々は私権の制限を含めた強力な対策を求め、安倍首相は緊急事態宣言に踏み切り、さらに1カ月ほど延長しようとしています。
自民党は、緊急事態への対処をテーマの一つとして、憲法審査会での論議を始めるように野党に求めました。安倍首相は緊急事態条項の導入について「重く大切な課題」だと述べ、論議を促す姿勢を示しています。
コロナ禍に対する危機感と国民の不安に乗じ、緊急事態条項を餌にして改憲という「魚」を釣り上げようというわけです。まさに、コロナ禍という惨事に便乗し、どさくさに紛れて改憲議論を進めようという惨事便乗型改憲策動にほかなりません。
緊急事態条項は大規模な災害のような重大事態が生じた時に政府の権限を強める規定です。自民党の改憲案には、法律と同等の効力を持つ政令をだす権限を内閣に与える条項が含まれています。
国会での審議を経ることなく法律を制定できるようにするわけですから、独裁権を与えることになります。三権分立や立憲主義を破壊する「劇薬」だと言わなければなりません。
憲法と法律とは根本的に異なっており、もし緊急事態宣言に不十分さがあれば、法律を変えれば良いことです。憲法審査会での論議は「不要不急」であり、無用な「三密」を生み出すような愚行は避けるべきでしょう。
今は新型コロナウイルス対策に全力を尽くすべきです。NHKの調査では、改憲以外のテーマを優先すべきだという意見が78%に及び、改憲議論を進めるべきだという意見は13%にすぎません。
朝日新聞の調査でも、改憲議論を急ぐべきではないという意見は72%になっています。改憲議論は高まっていないという意見も76%で、8割近くに上っています。
政治が全力を挙げて取り組むべきは、いかにしてコロナ禍を抑え込み終息させるかということです。改憲どころではなく、政治の優先順位を間違えてはなりません。
コロナ対策のために外出自粛などが求められている今は、むしろ憲法が掲げる基本的人権を守ることこそが急務なのではないでしょうか。人々の健康と命を守り健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を定めた25条、雇用を維持し働く人の権利を定めた28条、財産権を定めた29条などは、今こそ実現を政府に求めていかなければなりません。
営業と雇用、労働を守り、休業や自粛によって生じた損失を補償することは憲法上の要請であり、国民の権利なのです。まして、緊急事態宣言が1ヵ月ほど延長されることになれば国民生活は更なる苦境に立たされます。
この苦境を脱するために手を差し伸べることこそ、政府の責任ではありませんか。その責任を果たせないというのであれば、憲法を変えるのではなく政府を変えなければなりません。
コロナ禍は憲法をめぐる論議にも微妙な影響を与えています。感染を恐れた人々は私権の制限を含めた強力な対策を求め、安倍首相は緊急事態宣言に踏み切り、さらに1カ月ほど延長しようとしています。
自民党は、緊急事態への対処をテーマの一つとして、憲法審査会での論議を始めるように野党に求めました。安倍首相は緊急事態条項の導入について「重く大切な課題」だと述べ、論議を促す姿勢を示しています。
コロナ禍に対する危機感と国民の不安に乗じ、緊急事態条項を餌にして改憲という「魚」を釣り上げようというわけです。まさに、コロナ禍という惨事に便乗し、どさくさに紛れて改憲議論を進めようという惨事便乗型改憲策動にほかなりません。
緊急事態条項は大規模な災害のような重大事態が生じた時に政府の権限を強める規定です。自民党の改憲案には、法律と同等の効力を持つ政令をだす権限を内閣に与える条項が含まれています。
国会での審議を経ることなく法律を制定できるようにするわけですから、独裁権を与えることになります。三権分立や立憲主義を破壊する「劇薬」だと言わなければなりません。
憲法と法律とは根本的に異なっており、もし緊急事態宣言に不十分さがあれば、法律を変えれば良いことです。憲法審査会での論議は「不要不急」であり、無用な「三密」を生み出すような愚行は避けるべきでしょう。
今は新型コロナウイルス対策に全力を尽くすべきです。NHKの調査では、改憲以外のテーマを優先すべきだという意見が78%に及び、改憲議論を進めるべきだという意見は13%にすぎません。
朝日新聞の調査でも、改憲議論を急ぐべきではないという意見は72%になっています。改憲議論は高まっていないという意見も76%で、8割近くに上っています。
政治が全力を挙げて取り組むべきは、いかにしてコロナ禍を抑え込み終息させるかということです。改憲どころではなく、政治の優先順位を間違えてはなりません。
コロナ対策のために外出自粛などが求められている今は、むしろ憲法が掲げる基本的人権を守ることこそが急務なのではないでしょうか。人々の健康と命を守り健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を定めた25条、雇用を維持し働く人の権利を定めた28条、財産権を定めた29条などは、今こそ実現を政府に求めていかなければなりません。
営業と雇用、労働を守り、休業や自粛によって生じた損失を補償することは憲法上の要請であり、国民の権利なのです。まして、緊急事態宣言が1ヵ月ほど延長されることになれば国民生活は更なる苦境に立たされます。
この苦境を脱するために手を差し伸べることこそ、政府の責任ではありませんか。その責任を果たせないというのであれば、憲法を変えるのではなく政府を変えなければなりません。
2020-05-03 11:26
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11月3日(土) 憲法を尊重し擁護する義務はどのようにして果たされるべきか [憲法]
72年前の今日、日本国憲法は公布されました。それが施行されたのは、半年後の1947年5月3日のことになります。
安倍首相は今年の通常国会開会に当たっての施政方針演説で、「50年、100年先の未来を見据えた国創りを行う。国の形、理想の姿を語るのは憲法です」と述べて、改憲を呼びかけました。70年以上の生命力を発揮した現行憲法は、まさに自由と民主主義が保障された平和国家の建設という「50年、100年先の未来を見据えた国創りを行う」という「国の形、理想の姿」を示していたのではないでしょうか。
この事実は安倍首相の誤った憲法観に照らしても、現行憲法は輝きを失わないということを意味しています。すでに「50年」を越えて、日本の政治と社会に定着してきたのですから。
ちなみに、憲法とは権力者を縛るためのものです。安倍首相のようなトンデモナイ権力者が出て来て強権政治を強行しようとしたとき、国民と社会を守るための武器となるのが憲法なのです。
それを変えるようにと、国民にたきつけているのが安倍首相です。不都合があれば変えなければならないのは当然です。
しかし、どのような不都合があるというのでしょうか。共産党の志位委員長の代表質問に対して、安倍首相は「憲法改正について国民的議論を深めるためには、具体的条文案を示す必要がある」と答えています。
不都合があるから提起したのではなく、改憲議論を深めるために提起したというのですから、自らの提案が改憲そのものを自己目的化したものであったということを、はっきりと告白した答弁にほかなりません。9条に自衛隊の存在を書き込んでも何も変わらないと誤魔化したり、自分のは「条文イメージ」であって自民党案とは異なると言ってみたり、各党に改憲案の提案を求めたりしていることも、端的に「ここが不都合だ」というわけではないことの証拠です。
不都合などがないから、国民は改憲を求めていません。毎日、朝日、読売、共同、NHK各社の世論調査だけでなく、政府寄りとされている産経の調査でも臨時国会に自民党改憲案を提出することに賛成が42.9%、反対が48.3%と、反対の方が多くなっています。
安倍首相は「憲法改正や改憲案の本国会提出に賛成する人が一定程度認められる現状で、議論することまでを否定するべきではなく」述べています。「賛成する人が一定程度認められる」ことは事実ですが、それ以上に反対する人が多いのですから多数意見に従うのが民主主義というものでしょう。
確かに、改憲について議論することまでは「禁止」されているわけではありませんが、それを総理大臣が、自衛隊という中立であるべき実力組織や国会という立法府を前に呼びかけることが、憲法の趣旨からして許されるのかということが問われているのです。憲法99条に「天皇又は摂政及び国務大臣、国会議員、裁判官その他の公務員は、この憲法を尊重し擁護する義務を負ふ」と書かれていることは、いくら安倍首相でも知らないはずがありません。
言うまでもなく、安倍首相は国会議員であるだけでなく国務大臣・公務員であり、そのトップにして国民を代表する立場にあります。二重三重に憲法を尊重し、擁護しなければならない縛りがかけられているのです。
最近はやりの言い方で言えば、二重三重に重なっている「檻」に入れられている「ライオン」が安倍首相なのです。そのような立場にある者は改憲議論を呼びかけることについても抑制的であるべきだというのが、自民党を含めたこれまでの首相の共通理解でした。
憲法は最高法規ですからその扱いは慎重でなければならず、三権分立の趣旨からして行政府の長が立法府での議論のあり方に関与・介入するべきではないということも、自民党を含めた国会議員の共通理解であり常識でした。しかし、そのよう共通理解を持たず、常識も通用しないのが安倍首相という人なのです。
臨時国会は難題山積で期間も短く改憲など提起する余裕があるのか、しかも、与党の公明党まで腰が引けているから発議は相当困難なのではではないか、という見方は常識的なものです。しかし、このような常識も安倍首相には通用しません。
国会での答弁に示されているように、安倍首相は今もなお改憲の野望と執念を持ち続け、スキあらば改憲発議に持ち込みたい、少なくとも憲法審査会での議論の俎上に乗せたいと考えているはずです。
安倍首相は説明だけでもさせて欲しいとトーンダウンしたと言われていますが、維新の会などの「援軍」を利用し、国民投票法で野党を分断して国民民主党を引き込み、何とか足掛かりを見出したいと考えているにちがいありません。
首相の狙いは、臨時国会でまず改憲案を憲法審査会に提示し、通常国会への継続も視野に入れて時間をかけたという実績を作り、チャンスがあれば発議に持ち込むということにあります。野党の側としては、国会での追及によって安倍政権を防戦一方に追い込んで改憲論議の余裕を与えないという「水際阻止作戦」に取り組むべきであり、それこそが99条に規定された憲法尊重擁護義務を果たす最善の道にほかなりません。
安倍首相は今年の通常国会開会に当たっての施政方針演説で、「50年、100年先の未来を見据えた国創りを行う。国の形、理想の姿を語るのは憲法です」と述べて、改憲を呼びかけました。70年以上の生命力を発揮した現行憲法は、まさに自由と民主主義が保障された平和国家の建設という「50年、100年先の未来を見据えた国創りを行う」という「国の形、理想の姿」を示していたのではないでしょうか。
この事実は安倍首相の誤った憲法観に照らしても、現行憲法は輝きを失わないということを意味しています。すでに「50年」を越えて、日本の政治と社会に定着してきたのですから。
ちなみに、憲法とは権力者を縛るためのものです。安倍首相のようなトンデモナイ権力者が出て来て強権政治を強行しようとしたとき、国民と社会を守るための武器となるのが憲法なのです。
それを変えるようにと、国民にたきつけているのが安倍首相です。不都合があれば変えなければならないのは当然です。
しかし、どのような不都合があるというのでしょうか。共産党の志位委員長の代表質問に対して、安倍首相は「憲法改正について国民的議論を深めるためには、具体的条文案を示す必要がある」と答えています。
不都合があるから提起したのではなく、改憲議論を深めるために提起したというのですから、自らの提案が改憲そのものを自己目的化したものであったということを、はっきりと告白した答弁にほかなりません。9条に自衛隊の存在を書き込んでも何も変わらないと誤魔化したり、自分のは「条文イメージ」であって自民党案とは異なると言ってみたり、各党に改憲案の提案を求めたりしていることも、端的に「ここが不都合だ」というわけではないことの証拠です。
不都合などがないから、国民は改憲を求めていません。毎日、朝日、読売、共同、NHK各社の世論調査だけでなく、政府寄りとされている産経の調査でも臨時国会に自民党改憲案を提出することに賛成が42.9%、反対が48.3%と、反対の方が多くなっています。
安倍首相は「憲法改正や改憲案の本国会提出に賛成する人が一定程度認められる現状で、議論することまでを否定するべきではなく」述べています。「賛成する人が一定程度認められる」ことは事実ですが、それ以上に反対する人が多いのですから多数意見に従うのが民主主義というものでしょう。
確かに、改憲について議論することまでは「禁止」されているわけではありませんが、それを総理大臣が、自衛隊という中立であるべき実力組織や国会という立法府を前に呼びかけることが、憲法の趣旨からして許されるのかということが問われているのです。憲法99条に「天皇又は摂政及び国務大臣、国会議員、裁判官その他の公務員は、この憲法を尊重し擁護する義務を負ふ」と書かれていることは、いくら安倍首相でも知らないはずがありません。
言うまでもなく、安倍首相は国会議員であるだけでなく国務大臣・公務員であり、そのトップにして国民を代表する立場にあります。二重三重に憲法を尊重し、擁護しなければならない縛りがかけられているのです。
最近はやりの言い方で言えば、二重三重に重なっている「檻」に入れられている「ライオン」が安倍首相なのです。そのような立場にある者は改憲議論を呼びかけることについても抑制的であるべきだというのが、自民党を含めたこれまでの首相の共通理解でした。
憲法は最高法規ですからその扱いは慎重でなければならず、三権分立の趣旨からして行政府の長が立法府での議論のあり方に関与・介入するべきではないということも、自民党を含めた国会議員の共通理解であり常識でした。しかし、そのよう共通理解を持たず、常識も通用しないのが安倍首相という人なのです。
臨時国会は難題山積で期間も短く改憲など提起する余裕があるのか、しかも、与党の公明党まで腰が引けているから発議は相当困難なのではではないか、という見方は常識的なものです。しかし、このような常識も安倍首相には通用しません。
国会での答弁に示されているように、安倍首相は今もなお改憲の野望と執念を持ち続け、スキあらば改憲発議に持ち込みたい、少なくとも憲法審査会での議論の俎上に乗せたいと考えているはずです。
安倍首相は説明だけでもさせて欲しいとトーンダウンしたと言われていますが、維新の会などの「援軍」を利用し、国民投票法で野党を分断して国民民主党を引き込み、何とか足掛かりを見出したいと考えているにちがいありません。
首相の狙いは、臨時国会でまず改憲案を憲法審査会に提示し、通常国会への継続も視野に入れて時間をかけたという実績を作り、チャンスがあれば発議に持ち込むということにあります。野党の側としては、国会での追及によって安倍政権を防戦一方に追い込んで改憲論議の余裕を与えないという「水際阻止作戦」に取り組むべきであり、それこそが99条に規定された憲法尊重擁護義務を果たす最善の道にほかなりません。
2018-11-03 06:40
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7月4日(水) 自由と権利を守るために「不断の努力」を行うことは憲法上の義務なのだ [憲法]
前回のブログで、憲法12条の重要性についてして指摘しました。そして、「自由や権利を守るという点で国民も政治・行政・司法も中立ではなく、それを「保持」するために「不断の努力」を行わなければならず、それは憲法上の義務なのだということを忘れてはならないのではないでしょうか」と書きました。
国民にとっては自由と権利を守るためにある程度の「迷惑」は耐えるという「努力」が必要であり、行政機関などは自由と権利を守るための活動を保障し、支援しなければならないということになります。とりわけ、憲法99条で憲法尊重擁護義務を負っている天皇、摂政、国務大臣、国会議員、裁判官、公務員などは、憲法12条の趣旨を尊重し擁護しなければなりません。
ところが、安倍政権の走狗と化している政治家、行政や司法はこのような義務を果たしていないばかりか、自由と権利を無視し奪い破壊する先兵になっています。たとえば、『東京新聞』7月3日付は「『No9』とプリントされたTシャツを着た女性が先月末、参議院の委員会室を傍聴しようとしたところ、入り口で職員に制止された」ことを報じていますが、これは「示威宣伝に当たる衣類の着用を許可しない」という「内規」に違反したからだというのです。
憲法を守ろうという主張を込めたTシャツの着用を、表現の自由を守るために「不断の努力」を行い憲法を尊重し擁護する義務を負っている公務員が制止したということになります。これは憲法よりも「内規」を優先した憲法違反の対応ではありませんか。
自由と権利を守るために努力せよとの憲法の要請よりも、9条改憲をめざしている安倍政権の政治姿勢への忖度を優先させたことになります。安倍首相が9条改憲をめざしていなければこのような対応は取られなかったにちがいありません。
東京都の迷惑防止条例や新宿区が実施しようとしている新たなデモ規制などが、言論・表現の自由を規制するものだとして批判を浴びています。近隣住民にとっての「迷惑行為」を禁止したり防止したりするための措置だとして正当化されていますが、「不断の努力」を求めている憲法12条と、それを尊重し擁護することを義務付けている憲法99条の趣旨からすれば、自由と権利を守るために多少の「迷惑」については国民も甘受するべきだということになるでしょう。
しかも、何が「迷惑」かは人によって受け取り方は異なり、最終的にそれを判断するのは取り締まりに当たる公務員たる警察官です。「みだりにうろつくこと」や「名誉を害する事項を告げること」などの行為が、条例違反に当たるかどうかを恣意的に判断され罰せられる可能性もあります。
デモの出発地として使用できる公園を制限しようとする新宿区の規制に対して、自由法曹団東京支部は「デモ行進自体、かかる表現行為を通じて社会にその問題を知らしめ、政治的意思表示を行うことで社会を改善するためのものであり、騒音を理由に規制することは表現行為を禁止するに等しい」と、懸念を表明しています。このような規制は集会・結社・表現の自由を保障した憲法21条違反であるだけでなく、その権利を保持するための「不断の努力」を求めた憲法12条違反になり、公務員に対して尊重擁護義務を定めた憲法99条違反でもあり、三重の憲法違反にほかなりません。
逆に、憲法で保障されている自由と権利を守るために市民が声を上げたり運動したりするのは、憲法12条が要請する国民としての義務を果たすための当然の行為に過ぎません。政治・司法・行政はこのような国民の努力を鼓舞し、擁護し、推進し、支援しなければならない憲法上の義務を負っているのです。
憲法9条は平和を守るべきことを、憲法12条は自由と権利を擁護するべきことを、そして憲法99条はこのような規定を尊重し擁護することを、国務大臣、国会議員、裁判官、公務員に義務づけています。安倍首相はじめこれらの人々には、憲法を熟読し自らが負っている憲法上の責務を改めて自覚していただきたいものです。
国民にとっては自由と権利を守るためにある程度の「迷惑」は耐えるという「努力」が必要であり、行政機関などは自由と権利を守るための活動を保障し、支援しなければならないということになります。とりわけ、憲法99条で憲法尊重擁護義務を負っている天皇、摂政、国務大臣、国会議員、裁判官、公務員などは、憲法12条の趣旨を尊重し擁護しなければなりません。
ところが、安倍政権の走狗と化している政治家、行政や司法はこのような義務を果たしていないばかりか、自由と権利を無視し奪い破壊する先兵になっています。たとえば、『東京新聞』7月3日付は「『No9』とプリントされたTシャツを着た女性が先月末、参議院の委員会室を傍聴しようとしたところ、入り口で職員に制止された」ことを報じていますが、これは「示威宣伝に当たる衣類の着用を許可しない」という「内規」に違反したからだというのです。
憲法を守ろうという主張を込めたTシャツの着用を、表現の自由を守るために「不断の努力」を行い憲法を尊重し擁護する義務を負っている公務員が制止したということになります。これは憲法よりも「内規」を優先した憲法違反の対応ではありませんか。
自由と権利を守るために努力せよとの憲法の要請よりも、9条改憲をめざしている安倍政権の政治姿勢への忖度を優先させたことになります。安倍首相が9条改憲をめざしていなければこのような対応は取られなかったにちがいありません。
東京都の迷惑防止条例や新宿区が実施しようとしている新たなデモ規制などが、言論・表現の自由を規制するものだとして批判を浴びています。近隣住民にとっての「迷惑行為」を禁止したり防止したりするための措置だとして正当化されていますが、「不断の努力」を求めている憲法12条と、それを尊重し擁護することを義務付けている憲法99条の趣旨からすれば、自由と権利を守るために多少の「迷惑」については国民も甘受するべきだということになるでしょう。
しかも、何が「迷惑」かは人によって受け取り方は異なり、最終的にそれを判断するのは取り締まりに当たる公務員たる警察官です。「みだりにうろつくこと」や「名誉を害する事項を告げること」などの行為が、条例違反に当たるかどうかを恣意的に判断され罰せられる可能性もあります。
デモの出発地として使用できる公園を制限しようとする新宿区の規制に対して、自由法曹団東京支部は「デモ行進自体、かかる表現行為を通じて社会にその問題を知らしめ、政治的意思表示を行うことで社会を改善するためのものであり、騒音を理由に規制することは表現行為を禁止するに等しい」と、懸念を表明しています。このような規制は集会・結社・表現の自由を保障した憲法21条違反であるだけでなく、その権利を保持するための「不断の努力」を求めた憲法12条違反になり、公務員に対して尊重擁護義務を定めた憲法99条違反でもあり、三重の憲法違反にほかなりません。
逆に、憲法で保障されている自由と権利を守るために市民が声を上げたり運動したりするのは、憲法12条が要請する国民としての義務を果たすための当然の行為に過ぎません。政治・司法・行政はこのような国民の努力を鼓舞し、擁護し、推進し、支援しなければならない憲法上の義務を負っているのです。
憲法9条は平和を守るべきことを、憲法12条は自由と権利を擁護するべきことを、そして憲法99条はこのような規定を尊重し擁護することを、国務大臣、国会議員、裁判官、公務員に義務づけています。安倍首相はじめこれらの人々には、憲法を熟読し自らが負っている憲法上の責務を改めて自覚していただきたいものです。
2018-07-04 10:09
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7月2日(月) 自由と権利の保持のための不断の努力を国民に求めた憲法12条の重要性 [憲法]
最近、憲法の条文のなかでも特に重要なのは、12条ではないかという気がしてきました。とりわけ、政治・社会運動に関わる人々にとって、日本国憲法12条は運動理念にも等しい重要な意味を持っているのではないでしょうか。
まず、その条文を確認しておきましょう。それは次のようになっています。
〔自由及び権利の保持義務と公共福祉性〕
第12条 この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によつて、これを保持しなければならない。又、国民は、これを濫用してはならないのであつて、常に公共の福祉のためにこれを利用する責任を負ふ。
この条文は、後段にある「自由及び権利」の「濫用」防止という点で注目され、「公共の福祉のために」用いる「責任」が強調されてきました。しかし、それ以上に重要なのは、前段にある「この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によつて、これを保持しなければならない」という部分だと思われます。
憲法は権力者に対する命令書であって、99条に定められている憲法尊重擁護義務から国民は除外されています。権力者の恣意的な権力行使を制限し、その暴走を抑えるための「檻」のようなものだからです。
しかし、この12条は他の条文とは異なり、国民に対する直接的な要請が書かれています。この憲法が「保障する自由及び権利」は、国民自身による「不断の努力」によって「これを保持しなければならない」と。
7月1日付『東京新聞』の一面に「<世界の中の日本国憲法> 『世界最古』の未改正憲法 人権規定充実 平和主義貫く」という記事が大きく出ていました。この記事に登場するのは「あらゆる憲法の条文を比較研究しているケネス・盛(もり)・マッケルウェイン東大准教授」です。
准教授は、「約四十本ある未改正の現存憲法の中では、日本国憲法は一番古い」と指摘しています。その理由として、人権規定が多く制定当時は「とても進歩的」(准教授)だったし、今でも十分世界に通用する水準であること、統治機構の規定が少なく、憲法を変えなくても法改正で対応できること、「日本国憲法は軍の最高司令官や兵役、軍事裁判所も書いていない。全部ない憲法はすごく珍しい」平和憲法であることなどを挙げ、改憲に必要な議会の承認に関しては、衆参両院の三分の二以上の賛成が必要とする日本国憲法は「一番スタンダード(標準的)」であると、改憲論者の言いがかりに反論しています。
日本国憲法には時代を越えて長く通用する生命力があり、それにはちゃんとした理由があるということなのです。そして、その理由の一つである人権規定が多いという「とても進歩的」な側面を支えてきたのが12条であり、「この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によつて、これを保持しなければならない」という規定だったのではないでしょうか。
この規定は、憲法が保障する「自由及び権利」を守るために国民が「不断の努力」を行うことを求め、国民は自由と権利を守るために努力すべきこと、それらが侵されそうになったら抵抗すべきことを要請しているのです。このような国民一人一人の努力が積み重なり集まることになれば、それは集団的な行動となり政治・社会運動となります。
したがって、政治や行政・司法はこのような国民の努力を支える憲法上の義務を負っていることになります。自由と権利のために運動することはもとより、そのために努力する個人や集団を支援することは憲法に書かれている要請なのです。
冒頭で、私が「政治・社会運動に関わる人々にとって、日本国憲法12条は運動理念にも等しい重要な意味を持っている」と書いたのは、このような意味からです。自由や権利を守るという点で国民も政治・行政・司法も中立ではなく、それを「保持」するために「不断の努力」を行わなければならず、それは憲法上の義務なのだということを忘れてはなりません。
自由と権利が忘れられ奪われ失われるような時代にあって、国民一人一人ができる範囲とやり方で自由と権利を守るために努力することはますます重要になっています。自由と権利を守る砦として憲法12条を政治と生活に活かすこと、その旗を掲げて「不断の努力を行う」ことこそ、憲法を守る国民としてのあるべき姿なのだということを再確認したいものです。
まず、その条文を確認しておきましょう。それは次のようになっています。
〔自由及び権利の保持義務と公共福祉性〕
第12条 この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によつて、これを保持しなければならない。又、国民は、これを濫用してはならないのであつて、常に公共の福祉のためにこれを利用する責任を負ふ。
この条文は、後段にある「自由及び権利」の「濫用」防止という点で注目され、「公共の福祉のために」用いる「責任」が強調されてきました。しかし、それ以上に重要なのは、前段にある「この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によつて、これを保持しなければならない」という部分だと思われます。
憲法は権力者に対する命令書であって、99条に定められている憲法尊重擁護義務から国民は除外されています。権力者の恣意的な権力行使を制限し、その暴走を抑えるための「檻」のようなものだからです。
しかし、この12条は他の条文とは異なり、国民に対する直接的な要請が書かれています。この憲法が「保障する自由及び権利」は、国民自身による「不断の努力」によって「これを保持しなければならない」と。
7月1日付『東京新聞』の一面に「<世界の中の日本国憲法> 『世界最古』の未改正憲法 人権規定充実 平和主義貫く」という記事が大きく出ていました。この記事に登場するのは「あらゆる憲法の条文を比較研究しているケネス・盛(もり)・マッケルウェイン東大准教授」です。
准教授は、「約四十本ある未改正の現存憲法の中では、日本国憲法は一番古い」と指摘しています。その理由として、人権規定が多く制定当時は「とても進歩的」(准教授)だったし、今でも十分世界に通用する水準であること、統治機構の規定が少なく、憲法を変えなくても法改正で対応できること、「日本国憲法は軍の最高司令官や兵役、軍事裁判所も書いていない。全部ない憲法はすごく珍しい」平和憲法であることなどを挙げ、改憲に必要な議会の承認に関しては、衆参両院の三分の二以上の賛成が必要とする日本国憲法は「一番スタンダード(標準的)」であると、改憲論者の言いがかりに反論しています。
日本国憲法には時代を越えて長く通用する生命力があり、それにはちゃんとした理由があるということなのです。そして、その理由の一つである人権規定が多いという「とても進歩的」な側面を支えてきたのが12条であり、「この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によつて、これを保持しなければならない」という規定だったのではないでしょうか。
この規定は、憲法が保障する「自由及び権利」を守るために国民が「不断の努力」を行うことを求め、国民は自由と権利を守るために努力すべきこと、それらが侵されそうになったら抵抗すべきことを要請しているのです。このような国民一人一人の努力が積み重なり集まることになれば、それは集団的な行動となり政治・社会運動となります。
したがって、政治や行政・司法はこのような国民の努力を支える憲法上の義務を負っていることになります。自由と権利のために運動することはもとより、そのために努力する個人や集団を支援することは憲法に書かれている要請なのです。
冒頭で、私が「政治・社会運動に関わる人々にとって、日本国憲法12条は運動理念にも等しい重要な意味を持っている」と書いたのは、このような意味からです。自由や権利を守るという点で国民も政治・行政・司法も中立ではなく、それを「保持」するために「不断の努力」を行わなければならず、それは憲法上の義務なのだということを忘れてはなりません。
自由と権利が忘れられ奪われ失われるような時代にあって、国民一人一人ができる範囲とやり方で自由と権利を守るために努力することはますます重要になっています。自由と権利を守る砦として憲法12条を政治と生活に活かすこと、その旗を掲げて「不断の努力を行う」ことこそ、憲法を守る国民としてのあるべき姿なのだということを再確認したいものです。
2018-07-02 16:13
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6月29日(金) 憲法の理念を活かした外交・安全保障はどうあるべきなのか [憲法]
6月27日のブログで、私は「拉致問題を解決するためにも安倍首相を引きずり降ろさなければならない」と書きました。これは私の勝手な思い込みだというわけではありません。
安倍首相では拉致問題は解決できないという意見は、世論の多数になっているからです。毎日新聞が6月23、24両日に実施した全国世論調査で、安倍首相が意欲を示している日朝首脳会談による日本人拉致問題の解決に「期待できる」は18%にとどまり、「期待できない」が66%に上りました。
7割近くの国民は、安倍さんに期待できないと考えているわけです。そうであるなら、安倍さん以外の方に首相となって拉致問題の解決に取り組んでいただく以外にないでしょう。
そもそも、安倍首相は憲法の理念を活かした外交・安全保障政策には全く関心がなく、その逆の道を歩んできました。憲法に自衛隊の存在を書き込む改憲案を提起しているだけでなく、首相就任以来、「戦争する国」「戦争できる国」をめざした好戦的政策を具体化し、軍事大国に向けて暴走を続けてきたからです。
野党や世論の反対を押し切って特定秘密保護法、安保法制、共謀罪法などを制定し、防衛費も毎年の増額によって1兆2000億円も増やし、長距離巡航ミサイルなどの攻撃的兵器を導入し、オスプレイの購入などによる装備と自衛隊基地の増強、沖縄の辺野古での米軍新基地建設、教育での道徳の教科化や愛国心教育の強化などを強行してきました。いずれも、軍事的対応による安全保障をめざしたもので、軍事力によらない安全保障を志向する憲法の理念に反するものばかりです。
憲法は、その前文で「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した」と謳い、9条には「国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する」と書かれています。つまり、国民の「安全と生存」は「平和を愛する諸国民の公正と信義」への信頼によって「保持」されるべきで、「国際紛争」も戦争、武力の「威嚇」や「行使」によって「解決」されてはならないというのが憲法の要請なのです。
北朝鮮危機、核やミサイルの問題を軍事力で解決することもいとわない姿勢を示していた安倍首相は、このような憲法の要請に完全に反していました。憲法上の制約を受ける日本の首相は、アメリカのトランプ大統領と一致するような対応を取ってはならなかったのです。
トランプ大統領が、軍事的なオプションを含めてあらゆる選択肢がテーブルの上にあると言った時、安倍首相が100%共にあると言うことは許されず、軍機的な選択肢を外しなさいと諫言するべきでした。それが、平和憲法を順守するべき日本の首相としてのあるべき姿だったのです。
今後の朝鮮半島での緊張緩和、ミサイルと核問題の解決に当たっても同様です。戦争や軍事力に訴えるのではなく、非軍事的な手段によって非核化への道を具体化していくのが日本としての取るべき道にほかなりません。
これについて、昨日の『朝日新聞』の「論壇時評」に示唆的な論攷が掲載されていました。小熊英二さんの「ゲーム依存と核 関係性の歪み 北朝鮮にも」という記事です。
小熊さんは、ゲーム依存について、「依存症とは、社会関係の歪みから生じる病なのだ。関係の歪みから依存になると、関係がますます歪み、さらに依存が深まる。強制して一時的にやめさせても、当人の社会関係が変わらないとすぐ依存が再発する。周囲の人がやるべきことは、説教や恫喝ではなく、社会関係の再構築を助けることだ」とし、北朝鮮の核問題も同様だと指摘するのです。つまり、「猜疑心や敵対心、相互不信がつのると、核兵器が増加する。逆にいえば、猜疑心や相互不信に満ちた関係を作り変えることなしに、核兵器をなくすのは難しいのだ」と指摘し、「猜疑心や相互不信に満ちた関係を作り変えること」が大切だと主張しています。
日本についても、「日本はなぜ核武装しないのか。それは、そうしなくてもよい国際関係があるからだ。また核武装したら、その国際関係が破綻するからだ」とし、「いちど核依存になった国は、圧力だけかけても効果は薄い。北朝鮮も同様だ。全面戦争で双方に大量の犠牲者を出したいのでなければ、関係を再構築していくほかない。その具体策を考える際には、日本自身が、安全保障上の不安をやわらげる国際関係なしには核武装をあきらめなかったことを念頭におくべきだ」「力で恫喝すれば何でも解決すると考えるのは非現実的であり、幼稚である。外交とはすなわち、国際関係を再構築する努力にほかならないはずだ」というのが、小熊さんの結論です。
力による「恫喝」ではなく、「国際関係を再構築する努力」こそが必要であり、それこそが「外交」だというのです。それには「猜疑心や相互不信に満ちた関係を作り変える」知恵も忍耐力も必要で、相手を納得させるような道理に立脚した説得力も不可欠でしょう。
憲法の前文にある「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼」することによって、このような道理や説得力を手にすることができたはずです。それを安倍首相は投げ捨て、相手の猜疑心や不信を高めてきたというのが、「戦争する国」に向けての好戦的政策実施のプロセスにほかなりませんでした。
憲法に反した暴走の連続だったというだけではありません。「平和憲法」を持つ国であるからこそ実現できたはずの紛争解決への道を閉ざし、国際社会で享受できたはずの「名誉ある地位」を踏み外してしまったと言うべきではないでしょうか。
この日の『毎日新聞』一面下のコラム「余録」にも、注目すべき文章が書かれていました。「武器効果」という用語についての指摘です。
「心理学に『武器効果』という用語がある。胸にわだかまるイライラや欲求不満が、時に他人への攻撃衝動に変わることがあるのは人の悲しい一面である。それを結びつけるものの一つが『武器』の存在という▲ストレスを与えられた人に銃を見せると攻撃的になるという心理実験があるそうだ。銃などの武器が人の心にひそむ攻撃のイメージや記憶を呼び覚まし、欲求不満などによる怒りを攻撃衝動へと結びつけてしまうのだといわれている」
武器の存在こそが、人々のイライラや欲求不満、ストレスを攻撃衝動に変えてしまうのだというのです。逆にえば、イライラや欲求不満などによる怒りなどがあっても、武器がなければ簡単には攻撃衝動に結びつかないということになります。
国家や国家指導者についても、同じことが言えるのではないでしょうか。核やミサイルなどの武器があるからこそ、攻撃衝動へと結びつくのだと。
「国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する」と宣言したことの深い含意を、ここから汲み取ることができるように思われます。安倍首相がめざしてきた軍事力依存の「積極的平和主義」や軍事大国路線こそが攻撃衝動を高める極めて危険な道だったということも、同じように学び取ることができるのではないでしょうか。
安倍首相では拉致問題は解決できないという意見は、世論の多数になっているからです。毎日新聞が6月23、24両日に実施した全国世論調査で、安倍首相が意欲を示している日朝首脳会談による日本人拉致問題の解決に「期待できる」は18%にとどまり、「期待できない」が66%に上りました。
7割近くの国民は、安倍さんに期待できないと考えているわけです。そうであるなら、安倍さん以外の方に首相となって拉致問題の解決に取り組んでいただく以外にないでしょう。
そもそも、安倍首相は憲法の理念を活かした外交・安全保障政策には全く関心がなく、その逆の道を歩んできました。憲法に自衛隊の存在を書き込む改憲案を提起しているだけでなく、首相就任以来、「戦争する国」「戦争できる国」をめざした好戦的政策を具体化し、軍事大国に向けて暴走を続けてきたからです。
野党や世論の反対を押し切って特定秘密保護法、安保法制、共謀罪法などを制定し、防衛費も毎年の増額によって1兆2000億円も増やし、長距離巡航ミサイルなどの攻撃的兵器を導入し、オスプレイの購入などによる装備と自衛隊基地の増強、沖縄の辺野古での米軍新基地建設、教育での道徳の教科化や愛国心教育の強化などを強行してきました。いずれも、軍事的対応による安全保障をめざしたもので、軍事力によらない安全保障を志向する憲法の理念に反するものばかりです。
憲法は、その前文で「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した」と謳い、9条には「国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する」と書かれています。つまり、国民の「安全と生存」は「平和を愛する諸国民の公正と信義」への信頼によって「保持」されるべきで、「国際紛争」も戦争、武力の「威嚇」や「行使」によって「解決」されてはならないというのが憲法の要請なのです。
北朝鮮危機、核やミサイルの問題を軍事力で解決することもいとわない姿勢を示していた安倍首相は、このような憲法の要請に完全に反していました。憲法上の制約を受ける日本の首相は、アメリカのトランプ大統領と一致するような対応を取ってはならなかったのです。
トランプ大統領が、軍事的なオプションを含めてあらゆる選択肢がテーブルの上にあると言った時、安倍首相が100%共にあると言うことは許されず、軍機的な選択肢を外しなさいと諫言するべきでした。それが、平和憲法を順守するべき日本の首相としてのあるべき姿だったのです。
今後の朝鮮半島での緊張緩和、ミサイルと核問題の解決に当たっても同様です。戦争や軍事力に訴えるのではなく、非軍事的な手段によって非核化への道を具体化していくのが日本としての取るべき道にほかなりません。
これについて、昨日の『朝日新聞』の「論壇時評」に示唆的な論攷が掲載されていました。小熊英二さんの「ゲーム依存と核 関係性の歪み 北朝鮮にも」という記事です。
小熊さんは、ゲーム依存について、「依存症とは、社会関係の歪みから生じる病なのだ。関係の歪みから依存になると、関係がますます歪み、さらに依存が深まる。強制して一時的にやめさせても、当人の社会関係が変わらないとすぐ依存が再発する。周囲の人がやるべきことは、説教や恫喝ではなく、社会関係の再構築を助けることだ」とし、北朝鮮の核問題も同様だと指摘するのです。つまり、「猜疑心や敵対心、相互不信がつのると、核兵器が増加する。逆にいえば、猜疑心や相互不信に満ちた関係を作り変えることなしに、核兵器をなくすのは難しいのだ」と指摘し、「猜疑心や相互不信に満ちた関係を作り変えること」が大切だと主張しています。
日本についても、「日本はなぜ核武装しないのか。それは、そうしなくてもよい国際関係があるからだ。また核武装したら、その国際関係が破綻するからだ」とし、「いちど核依存になった国は、圧力だけかけても効果は薄い。北朝鮮も同様だ。全面戦争で双方に大量の犠牲者を出したいのでなければ、関係を再構築していくほかない。その具体策を考える際には、日本自身が、安全保障上の不安をやわらげる国際関係なしには核武装をあきらめなかったことを念頭におくべきだ」「力で恫喝すれば何でも解決すると考えるのは非現実的であり、幼稚である。外交とはすなわち、国際関係を再構築する努力にほかならないはずだ」というのが、小熊さんの結論です。
力による「恫喝」ではなく、「国際関係を再構築する努力」こそが必要であり、それこそが「外交」だというのです。それには「猜疑心や相互不信に満ちた関係を作り変える」知恵も忍耐力も必要で、相手を納得させるような道理に立脚した説得力も不可欠でしょう。
憲法の前文にある「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼」することによって、このような道理や説得力を手にすることができたはずです。それを安倍首相は投げ捨て、相手の猜疑心や不信を高めてきたというのが、「戦争する国」に向けての好戦的政策実施のプロセスにほかなりませんでした。
憲法に反した暴走の連続だったというだけではありません。「平和憲法」を持つ国であるからこそ実現できたはずの紛争解決への道を閉ざし、国際社会で享受できたはずの「名誉ある地位」を踏み外してしまったと言うべきではないでしょうか。
この日の『毎日新聞』一面下のコラム「余録」にも、注目すべき文章が書かれていました。「武器効果」という用語についての指摘です。
「心理学に『武器効果』という用語がある。胸にわだかまるイライラや欲求不満が、時に他人への攻撃衝動に変わることがあるのは人の悲しい一面である。それを結びつけるものの一つが『武器』の存在という▲ストレスを与えられた人に銃を見せると攻撃的になるという心理実験があるそうだ。銃などの武器が人の心にひそむ攻撃のイメージや記憶を呼び覚まし、欲求不満などによる怒りを攻撃衝動へと結びつけてしまうのだといわれている」
武器の存在こそが、人々のイライラや欲求不満、ストレスを攻撃衝動に変えてしまうのだというのです。逆にえば、イライラや欲求不満などによる怒りなどがあっても、武器がなければ簡単には攻撃衝動に結びつかないということになります。
国家や国家指導者についても、同じことが言えるのではないでしょうか。核やミサイルなどの武器があるからこそ、攻撃衝動へと結びつくのだと。
「国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する」と宣言したことの深い含意を、ここから汲み取ることができるように思われます。安倍首相がめざしてきた軍事力依存の「積極的平和主義」や軍事大国路線こそが攻撃衝動を高める極めて危険な道だったということも、同じように学び取ることができるのではないでしょうか。
2018-06-29 15:06
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2月10日(土) 安倍首相が狙う9条改憲にとってのこれだけの誤算 [憲法]
「自衛隊の存在を憲法に明記してもしなくても、明記した改憲案が国民投票で承認されてもされなくても何も変わらないのなら、改憲案を発議し、国民投票にかける意味がどこにあるのか。」
これは今日の『東京新聞』の社説「9条改正論議 切迫性欠く自衛隊明記」の一部です。昨日のブログで、私も同じようなことを書きました。
「改憲を提案する前から自衛隊は合憲だと言っているのに、わざわざ合憲にするために改憲を提案して国民投票を実施し、国民投票で否決されても合憲だということになります。一体、何のために改憲を提案して国民投票を実施するのか、訳が分かりません。やってもやらなくても、国民投票で承認されてもされなくても、自衛隊は合憲だというのですから」と。
同じような疑問が生まれるのは、誰が考えてもおかしいからです。やってもやらなくても同じなら、何故やらなければならないのかと。
安倍首相が誤魔化しているから、このような疑問が生まれるのです。実は、自衛隊の存在を書き加えれば、9条の意味は大きく変わります。
安倍首相は戦前の日本と戦後のアメリカを足して2で割るような国に、この日本を変えようとしているのではないでしょうか。そのために「国の形」を変えることが、安倍首相が改憲を目指す究極の目標のように思われます。
しかし、戦前の日本は破滅への道をたどり、戦後のアメリカは失敗の連続でした。その後追いをすれば、同じように破滅と失敗しか待っていないということが、どうして分からないのでしょうか。
このような目標を胸に秘めて、安倍首相は9条の本丸への攻撃を強めようとしています。昨年5月の自衛隊明記を打ち出した改憲論は、この攻撃を開始する烽火を意味していました。
しかし、それは直ぐに大きな誤算に見舞われます。昨年の通常国会での森友・加計学園疑惑についての追及や共謀罪法案の強行採決などもあって、内閣支持率が急落したからです。
通常国会を早めに幕引きして逃亡を図ったにもかかわらず、直後の都議選で歴史的惨敗を喫しました。大きな挫折を味わった安倍首相は、改憲についてもスケジュールありきではないと釈明することになります。
その後も、閉会中審査などで森友・加計学園疑惑への追及は続き、そこからの逃亡を図って安倍首相は解散・総選挙に打って出ました。議席減覚悟のばくちを打ったにもかかわらず、小池都知事や前原民進党代表が結託した分断工作によって野党は自滅します。
野党の分裂に救われて改選議席を維持しただけでなく、「改憲勢力」が3分の2を突破するという僥倖にも恵まれました。この結果に気を良くした安倍首相は、再び9条改憲に向けてのアクセルを吹かせることになります。
年内での自民党案の取りまとめを指示し、与党の公明党や野党に対する働きかけを強めようとしました。しかし、ここでも思わぬ誤算に直面することになります。
その第1は自民党内での抵抗が思いのほか強かったことです。自民党は2012年の改憲草案で9条2項を削除して自衛隊を国防軍とし、正式の軍隊とすることを求めていました。
石破さんをはじめとしてこれに対する支持が強く、昨年中に安倍首相の提案で党内をまとめることができませんでした。安倍首相がこのような提案をしたのは、2項を維持した方が抵抗は少なく削除論は国民の支持を得られないと考えて譲歩したからです。
しかし、『読売新聞社』は1月12~14日に世論調査を実施しましたが、「9条2項は削除し、自衛隊の目的や性格を明確にする」は34%、「9条2項を維持し、自衛隊の根拠規定を追加する」は32%、「自衛隊の存在を明記する必要はない」は22%となり、自民と公明の与党支持層では「2項削除」40%、「2項維持」34%、「明記不要」13%の順になりました。安倍首相が提案する維持論より自民党改憲草案の削除論の支持が多くなっており、安倍首相の提案で党内をまとめられるかどうかは依然として不透明です。
第2は公明党が同調してくれなかったことです。安倍首相が自衛隊の書き込みを提案したもう一つの目的は、公明党の加憲論を取り込むためでした。
公明党は以前から「加憲」を唱え、プライバシー権や新しい人権などの現憲法に必要な内容を加えることを提案していました。9条についても、この加憲論を逆手にとって公明党を巻き込もうと考えたわけです。
しかし、公明党は衆院選後の連立政権合意で、当初自民党が提示した「憲法改正を目指す」との表現を削るよう求め、「憲法改正に向けた国民的議論を深め、合意形成に努める」という文言に落ち着きました。2月7日に党の憲法調査会の幹部会合を開き、16日に約8カ月ぶりとなる全体会合を開催することを決めましたが、慎重な姿勢を崩していません。
第3は野党の状況が大きく変わってしまったことです。ここでの誤算は二つあります。
一つは、総選挙で野党第一党が立憲民主党になり、希望の党などの統一会派づくりによってこの地位と奪おうとして失敗したことです。もう一つは、政権補完勢力として期待していた希望の党が、次第に安倍政権に対する対決色を強めていることです。
どちらも、安倍9条改憲にとっては大きな障害となる変化でした。このような変化が生じたことによって、安倍9条改憲や安保法制反対、原発ゼロ、「働き方改革」などのテーマで、維新の会以外の野党が結束して共闘する可能性が生まれています。
そして第4は、国民世論の状況を見誤ってしまったことです。『毎日新聞』1月24日付は、安倍改憲について「世論調査の結果が分かれ」「世論の理解は必ずしも進んでいない」と書き、「首相の方針に沿って党内を取りまとめようとした自民党は頭を抱えている」と指摘しています。
NHKの調査では「憲法9条を変える必要はない」が38%で最も多く、「戦力の不保持などを定めた9条2項を削除して、自衛隊の目的などを明確にする」が30%で続き、首相案に近い「9条2項を維持して、自衛隊の存在を追記する」は16%で、『読売新聞』の調査と同様に、安倍首相案ではなく自民党改憲草案の方の支持が多くなっています。これに対し20、21日の『毎日新聞』調査では「9条の2項を削除して自衛隊を戦力と位置付ける」12%、「9条の1項と2項はそのままにして自衛隊を明記する」31%と大差がつきました。
この結果について、自民党の憲法改正推進本部は「世論調査をすれば『2項維持』が多数になると見込んでいただけに、NHKと読売新聞の結果は『誤算』だった」と指摘しています。自民党憲法改正推進本部の細田本部長は、自民党所属の国会議員に対して9条改正に向けた具体的な条文案を提出することを求めていますが、無理やり安倍首相の2項維持案でまとめようとすれば、自民党内だけでなく右傾化した世論や極右の支持層の反発を受け敵に回す可能性が出てきました。
この二つの案について、昨日の『朝日新聞』の社説「憲法70年 自民の抱えるジレンマ」は、次のように書き、自民党の改憲論議における「ジレンマ」を指摘していました。
「高村氏は一方でこうも語っている。『安倍さんが言っていることは正しい。石破さんが言っていることも間違いではない。この二つは矛盾しない』
だが、両者が矛盾しないはずがない。まず首相案で一歩踏み出し、いずれは2項を削除して各国並みの軍隊をめざす方向に進むということなのか。
『変わらない』と言い続ければ、改憲の必要性は見えにくくなる。といって改憲の意義を明確にしようとすれば、どう『変わる』のかを国民に説明しなければならない。
自民党の改憲論議は、深いジレンマに陥っている。」
このような「ジレンマ」に加えて、以上に見たような誤算が積み重なっています。改憲の危機は高まっていますが、それは安倍首相が構想していたような形で順調に進んでいるわけではありません。
その野望を阻止することは十分に可能です。カギを握っているのが世論であることに変わりはありません。
それをどちらの方向にどう変えていくのかが、9条改憲をめぐるこれからの攻防を左右することになるでしょう。ここに、現在取り組まれている安倍改憲NO!3000万人署名運動の大きな意義があります。
具体的な数をもって、改憲反対の世論を明示することが大切です。その壁の高さをはっきりと示すことができれば、改憲の野望を安倍首相に諦めさせることができるにちがいありません。
同時に、森友学園疑惑での新たな内部文書の公表などによる追及を強め、政権の体力を奪っていくことも重要です。通常国会で安倍首相をどこまで追い込めるかも、安倍9条改憲阻止にとって大きな意味を持つにちがいないのですから。
これは今日の『東京新聞』の社説「9条改正論議 切迫性欠く自衛隊明記」の一部です。昨日のブログで、私も同じようなことを書きました。
「改憲を提案する前から自衛隊は合憲だと言っているのに、わざわざ合憲にするために改憲を提案して国民投票を実施し、国民投票で否決されても合憲だということになります。一体、何のために改憲を提案して国民投票を実施するのか、訳が分かりません。やってもやらなくても、国民投票で承認されてもされなくても、自衛隊は合憲だというのですから」と。
同じような疑問が生まれるのは、誰が考えてもおかしいからです。やってもやらなくても同じなら、何故やらなければならないのかと。
安倍首相が誤魔化しているから、このような疑問が生まれるのです。実は、自衛隊の存在を書き加えれば、9条の意味は大きく変わります。
安倍首相は戦前の日本と戦後のアメリカを足して2で割るような国に、この日本を変えようとしているのではないでしょうか。そのために「国の形」を変えることが、安倍首相が改憲を目指す究極の目標のように思われます。
しかし、戦前の日本は破滅への道をたどり、戦後のアメリカは失敗の連続でした。その後追いをすれば、同じように破滅と失敗しか待っていないということが、どうして分からないのでしょうか。
このような目標を胸に秘めて、安倍首相は9条の本丸への攻撃を強めようとしています。昨年5月の自衛隊明記を打ち出した改憲論は、この攻撃を開始する烽火を意味していました。
しかし、それは直ぐに大きな誤算に見舞われます。昨年の通常国会での森友・加計学園疑惑についての追及や共謀罪法案の強行採決などもあって、内閣支持率が急落したからです。
通常国会を早めに幕引きして逃亡を図ったにもかかわらず、直後の都議選で歴史的惨敗を喫しました。大きな挫折を味わった安倍首相は、改憲についてもスケジュールありきではないと釈明することになります。
その後も、閉会中審査などで森友・加計学園疑惑への追及は続き、そこからの逃亡を図って安倍首相は解散・総選挙に打って出ました。議席減覚悟のばくちを打ったにもかかわらず、小池都知事や前原民進党代表が結託した分断工作によって野党は自滅します。
野党の分裂に救われて改選議席を維持しただけでなく、「改憲勢力」が3分の2を突破するという僥倖にも恵まれました。この結果に気を良くした安倍首相は、再び9条改憲に向けてのアクセルを吹かせることになります。
年内での自民党案の取りまとめを指示し、与党の公明党や野党に対する働きかけを強めようとしました。しかし、ここでも思わぬ誤算に直面することになります。
その第1は自民党内での抵抗が思いのほか強かったことです。自民党は2012年の改憲草案で9条2項を削除して自衛隊を国防軍とし、正式の軍隊とすることを求めていました。
石破さんをはじめとしてこれに対する支持が強く、昨年中に安倍首相の提案で党内をまとめることができませんでした。安倍首相がこのような提案をしたのは、2項を維持した方が抵抗は少なく削除論は国民の支持を得られないと考えて譲歩したからです。
しかし、『読売新聞社』は1月12~14日に世論調査を実施しましたが、「9条2項は削除し、自衛隊の目的や性格を明確にする」は34%、「9条2項を維持し、自衛隊の根拠規定を追加する」は32%、「自衛隊の存在を明記する必要はない」は22%となり、自民と公明の与党支持層では「2項削除」40%、「2項維持」34%、「明記不要」13%の順になりました。安倍首相が提案する維持論より自民党改憲草案の削除論の支持が多くなっており、安倍首相の提案で党内をまとめられるかどうかは依然として不透明です。
第2は公明党が同調してくれなかったことです。安倍首相が自衛隊の書き込みを提案したもう一つの目的は、公明党の加憲論を取り込むためでした。
公明党は以前から「加憲」を唱え、プライバシー権や新しい人権などの現憲法に必要な内容を加えることを提案していました。9条についても、この加憲論を逆手にとって公明党を巻き込もうと考えたわけです。
しかし、公明党は衆院選後の連立政権合意で、当初自民党が提示した「憲法改正を目指す」との表現を削るよう求め、「憲法改正に向けた国民的議論を深め、合意形成に努める」という文言に落ち着きました。2月7日に党の憲法調査会の幹部会合を開き、16日に約8カ月ぶりとなる全体会合を開催することを決めましたが、慎重な姿勢を崩していません。
第3は野党の状況が大きく変わってしまったことです。ここでの誤算は二つあります。
一つは、総選挙で野党第一党が立憲民主党になり、希望の党などの統一会派づくりによってこの地位と奪おうとして失敗したことです。もう一つは、政権補完勢力として期待していた希望の党が、次第に安倍政権に対する対決色を強めていることです。
どちらも、安倍9条改憲にとっては大きな障害となる変化でした。このような変化が生じたことによって、安倍9条改憲や安保法制反対、原発ゼロ、「働き方改革」などのテーマで、維新の会以外の野党が結束して共闘する可能性が生まれています。
そして第4は、国民世論の状況を見誤ってしまったことです。『毎日新聞』1月24日付は、安倍改憲について「世論調査の結果が分かれ」「世論の理解は必ずしも進んでいない」と書き、「首相の方針に沿って党内を取りまとめようとした自民党は頭を抱えている」と指摘しています。
NHKの調査では「憲法9条を変える必要はない」が38%で最も多く、「戦力の不保持などを定めた9条2項を削除して、自衛隊の目的などを明確にする」が30%で続き、首相案に近い「9条2項を維持して、自衛隊の存在を追記する」は16%で、『読売新聞』の調査と同様に、安倍首相案ではなく自民党改憲草案の方の支持が多くなっています。これに対し20、21日の『毎日新聞』調査では「9条の2項を削除して自衛隊を戦力と位置付ける」12%、「9条の1項と2項はそのままにして自衛隊を明記する」31%と大差がつきました。
この結果について、自民党の憲法改正推進本部は「世論調査をすれば『2項維持』が多数になると見込んでいただけに、NHKと読売新聞の結果は『誤算』だった」と指摘しています。自民党憲法改正推進本部の細田本部長は、自民党所属の国会議員に対して9条改正に向けた具体的な条文案を提出することを求めていますが、無理やり安倍首相の2項維持案でまとめようとすれば、自民党内だけでなく右傾化した世論や極右の支持層の反発を受け敵に回す可能性が出てきました。
この二つの案について、昨日の『朝日新聞』の社説「憲法70年 自民の抱えるジレンマ」は、次のように書き、自民党の改憲論議における「ジレンマ」を指摘していました。
「高村氏は一方でこうも語っている。『安倍さんが言っていることは正しい。石破さんが言っていることも間違いではない。この二つは矛盾しない』
だが、両者が矛盾しないはずがない。まず首相案で一歩踏み出し、いずれは2項を削除して各国並みの軍隊をめざす方向に進むということなのか。
『変わらない』と言い続ければ、改憲の必要性は見えにくくなる。といって改憲の意義を明確にしようとすれば、どう『変わる』のかを国民に説明しなければならない。
自民党の改憲論議は、深いジレンマに陥っている。」
このような「ジレンマ」に加えて、以上に見たような誤算が積み重なっています。改憲の危機は高まっていますが、それは安倍首相が構想していたような形で順調に進んでいるわけではありません。
その野望を阻止することは十分に可能です。カギを握っているのが世論であることに変わりはありません。
それをどちらの方向にどう変えていくのかが、9条改憲をめぐるこれからの攻防を左右することになるでしょう。ここに、現在取り組まれている安倍改憲NO!3000万人署名運動の大きな意義があります。
具体的な数をもって、改憲反対の世論を明示することが大切です。その壁の高さをはっきりと示すことができれば、改憲の野望を安倍首相に諦めさせることができるにちがいありません。
同時に、森友学園疑惑での新たな内部文書の公表などによる追及を強め、政権の体力を奪っていくことも重要です。通常国会で安倍首相をどこまで追い込めるかも、安倍9条改憲阻止にとって大きな意味を持つにちがいないのですから。
2018-02-10 15:23
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2月9日(金) 安倍9条改憲に向けての動きと並行して進む自衛隊参戦の準備 [憲法]
安倍首相が言うところの「安全のための措置」をとればとるほど、不安が増すというのが現実の姿ではないでしょうか。平和安保法制の制定も改憲も、それを行うことで平和になり安全が高まるのではなく、実際にはその逆になっていることは皆さんが目撃している通りです。
騙されてはなりません。現実を直視し、その意味を読み解くことによって騙されないための「知力」を身に着けることが、今ほど大切になっていることはありません。
安倍首相は5日の衆院予算委員会で、憲法9条1、2項を維持して自衛隊を明記する自身の改憲案に関し「自衛隊が合憲であることは明確な一貫した政府の立場だ。国民投票で、たとえ否定されても変わらない」と述べました。自衛隊明記案が国民投票で否決されても自衛隊の合憲性は変わらないとの考えを強調したものです
これまで「自衛隊が合憲であることは明確な一貫した政府の立場」であったことは、安倍首相が明言している通りです。それなら何故、わざわざ国民投票までして憲法を書き換え、自衛隊について明記する必要があるのでしょうか。
しかも、この「国民投票で、たとえ否定されても変わらない」と言うのです。つまり、改憲を提案する前から自衛隊は合憲だと言っているのに、わざわざ合憲にするために改憲を提案して国民投票を実施し、国民投票で否決されても合憲だということになります。
一体、何のために改憲を提案して国民投票を実施するのか、訳が分かりません。やってもやらなくても、国民投票で承認されてもされなくても、自衛隊は合憲だというのですから。
このような疑問に対して、安倍首相は1月24日の衆院本会議で行われた各党の代表質問に対する答弁で、「自衛隊は違憲だと主張する有力な政党も存在する。自衛隊員に『君たちは憲法違反かもしれないが、命を張ってくれ』と言うのは無責任だ」と答えました。しかし、現在、「自衛隊は違憲だと主張」しているのは共産党と社民党だけです。
この両党が「有力な政党」であるかどうかは見解の分かれるところでしょうが、この両党の「違憲論」を解消するための改憲だと、安倍首相は主張したいのでしょうか。そのためにわざわざ国民投票までして憲法を書き替えるのだと。
加えて、これまでも安倍首相は「自衛隊員に『君たちは憲法違反かもしれないが、命を張ってくれ』と言うのは無責任だ」と繰り返してきました。このような情緒的な理由を前面に出せば国民が納得してくれるとでも思っているのでしょうか。
安倍首相が「命を張る」と言うのは、戦闘行為に加わって「殺される」リスクを覚悟することを指しています。安倍首相はこれまでこのような改憲論を口にしなかったのに、急にこのようなことを言うようになったのは何故でしょうか。
それは、安保法=戦争法の制定や北朝鮮危機の増大などによって自衛隊員に「命を張ってくれ」と言わなければならないリスクが増えているからだと思われます。安倍首相が本当に狙っているのは、「君たちは憲法違反ではないから、命を張って捨ててくれ」と胸を張って言えるようにしたいということではないでしょうか。
憲法上の位置付けを明確にして参戦の準備を整え、万全な体制で「殺し殺される」ことのできる「戦力」へと自衛隊を変貌させたいというのが、安倍首相の考えていることなのでしょう。そしていずれ、まごう方なき真正の「軍事力=軍隊」にしたいと……。
これまでも安倍首相は「我が軍」と口を滑らせることがありました。1月30日の衆院予算委員会では、自衛隊について「憲法下、必要最小限度の戦力として、われわれは保持している」と答弁し、直後に「『実力(組織)』と申し上げるところ、戦力と申し上げた」と弁明して訂正しています。
はしなくも、安倍9条改憲の本当の狙いが顔を出した瞬間でした。自衛隊を戦場へと送り出し「命を張る」新たな任務に従事させるためにこそ憲法に書き込むことが必要だと、安倍首相はそう考えているにちがいありません。
AFP通信が6日に報じた記事によると、米軍の制服組トップのダンフォード統合参謀本部議長はオーストラリア北部のダーウィンに駐留している米海兵隊部隊を視察した際、隊員から「(1950年の)朝鮮戦争のような被害をどのようにして避けるのか」と質問されたそうです。これに対して議長は米軍の軍事力が当時と比べて格段に向上していることを指摘した上で、「最終的には海兵隊や地上部隊が投入され、同盟国の軍隊と一緒に戦うことになる」と答えました。
他方、マティス国防長官は先月15日、カナダ・バンクーバーでの北朝鮮問題に関する外相会合関連の夕食会で「米国には作戦計画があり、準備もできている」と発言して注目されました。「ダンフォード議長が言う『同盟国』が日本と韓国であることは自明」だとされ、「自衛隊が朝鮮半島で戦う悪夢がいよいよ現実味を帯びてきた」と2月8日付の『日刊ゲンダイ』DIGITALが報じています。
このような形で、第2次朝鮮戦争に向けての動きと安倍9条改憲とが並行して進んでいることに注目せざるを得ません。安倍首相の言う「最大限の圧力」のなかには、このような準備も含まれているのでしょうか。
騙されてはなりません。現実を直視し、その意味を読み解くことによって騙されないための「知力」を身に着けることが、今ほど大切になっていることはありません。
安倍首相は5日の衆院予算委員会で、憲法9条1、2項を維持して自衛隊を明記する自身の改憲案に関し「自衛隊が合憲であることは明確な一貫した政府の立場だ。国民投票で、たとえ否定されても変わらない」と述べました。自衛隊明記案が国民投票で否決されても自衛隊の合憲性は変わらないとの考えを強調したものです
これまで「自衛隊が合憲であることは明確な一貫した政府の立場」であったことは、安倍首相が明言している通りです。それなら何故、わざわざ国民投票までして憲法を書き換え、自衛隊について明記する必要があるのでしょうか。
しかも、この「国民投票で、たとえ否定されても変わらない」と言うのです。つまり、改憲を提案する前から自衛隊は合憲だと言っているのに、わざわざ合憲にするために改憲を提案して国民投票を実施し、国民投票で否決されても合憲だということになります。
一体、何のために改憲を提案して国民投票を実施するのか、訳が分かりません。やってもやらなくても、国民投票で承認されてもされなくても、自衛隊は合憲だというのですから。
このような疑問に対して、安倍首相は1月24日の衆院本会議で行われた各党の代表質問に対する答弁で、「自衛隊は違憲だと主張する有力な政党も存在する。自衛隊員に『君たちは憲法違反かもしれないが、命を張ってくれ』と言うのは無責任だ」と答えました。しかし、現在、「自衛隊は違憲だと主張」しているのは共産党と社民党だけです。
この両党が「有力な政党」であるかどうかは見解の分かれるところでしょうが、この両党の「違憲論」を解消するための改憲だと、安倍首相は主張したいのでしょうか。そのためにわざわざ国民投票までして憲法を書き替えるのだと。
加えて、これまでも安倍首相は「自衛隊員に『君たちは憲法違反かもしれないが、命を張ってくれ』と言うのは無責任だ」と繰り返してきました。このような情緒的な理由を前面に出せば国民が納得してくれるとでも思っているのでしょうか。
安倍首相が「命を張る」と言うのは、戦闘行為に加わって「殺される」リスクを覚悟することを指しています。安倍首相はこれまでこのような改憲論を口にしなかったのに、急にこのようなことを言うようになったのは何故でしょうか。
それは、安保法=戦争法の制定や北朝鮮危機の増大などによって自衛隊員に「命を張ってくれ」と言わなければならないリスクが増えているからだと思われます。安倍首相が本当に狙っているのは、「君たちは憲法違反ではないから、命を張って捨ててくれ」と胸を張って言えるようにしたいということではないでしょうか。
憲法上の位置付けを明確にして参戦の準備を整え、万全な体制で「殺し殺される」ことのできる「戦力」へと自衛隊を変貌させたいというのが、安倍首相の考えていることなのでしょう。そしていずれ、まごう方なき真正の「軍事力=軍隊」にしたいと……。
これまでも安倍首相は「我が軍」と口を滑らせることがありました。1月30日の衆院予算委員会では、自衛隊について「憲法下、必要最小限度の戦力として、われわれは保持している」と答弁し、直後に「『実力(組織)』と申し上げるところ、戦力と申し上げた」と弁明して訂正しています。
はしなくも、安倍9条改憲の本当の狙いが顔を出した瞬間でした。自衛隊を戦場へと送り出し「命を張る」新たな任務に従事させるためにこそ憲法に書き込むことが必要だと、安倍首相はそう考えているにちがいありません。
AFP通信が6日に報じた記事によると、米軍の制服組トップのダンフォード統合参謀本部議長はオーストラリア北部のダーウィンに駐留している米海兵隊部隊を視察した際、隊員から「(1950年の)朝鮮戦争のような被害をどのようにして避けるのか」と質問されたそうです。これに対して議長は米軍の軍事力が当時と比べて格段に向上していることを指摘した上で、「最終的には海兵隊や地上部隊が投入され、同盟国の軍隊と一緒に戦うことになる」と答えました。
他方、マティス国防長官は先月15日、カナダ・バンクーバーでの北朝鮮問題に関する外相会合関連の夕食会で「米国には作戦計画があり、準備もできている」と発言して注目されました。「ダンフォード議長が言う『同盟国』が日本と韓国であることは自明」だとされ、「自衛隊が朝鮮半島で戦う悪夢がいよいよ現実味を帯びてきた」と2月8日付の『日刊ゲンダイ』DIGITALが報じています。
このような形で、第2次朝鮮戦争に向けての動きと安倍9条改憲とが並行して進んでいることに注目せざるを得ません。安倍首相の言う「最大限の圧力」のなかには、このような準備も含まれているのでしょうか。
2018-02-09 04:57
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1月15日(月) 今こそ思い出すべき憲法9条の「効用」 [憲法]
私は「安倍9条改憲の前にすでに生じているこれだけの実害」という12月26日のブログで、以下の3点についての「実害」を指摘しました。
① 「安全に対する脅威の拡大と国民の不安の増大」
② 「米軍と米軍基地の存在は基地周辺の地域、とりわけ沖縄での具体的な被害を生み出してきたという事実」
③ 「この間の安倍政権が進めてきた軍事力の拡大による国民生活の破壊という大きな問題」
そして、結論的に「安倍9条改憲は周辺諸国にとって大きな脅威となり、誤ったメッセージを発して極東の平和と日本の安全を危機に陥れることになります。そのような選択が実行される前にも、すでに多くの実害が現に生じていることを改めて直視することが必要になっているのではないでしょうか」と、書きました。
この間に、沖縄で起きた窓枠の落下やヘリの不時着などは、まさにこの事実を羅づけるものだったと言えるでしょう。普天間基地については無条件で直ちに撤去し、ヘリをはじめとしたすべての米軍機の飛行を停止しなければ、沖縄県民の不安や事故を無くすこともできません。
このような「実害」は枚挙にいとまがありませんが、他方で、これとは逆の面もあります。これまで憲法9条によって日本の平和と安全が守られてきたからです。
改憲論者は直ぐに9条で平和や安全が守られるのかと問いますが、このような問いが生ずるのは過去の歴史について無知だからです。世界と日本の戦後を振り返ってみれば、9条が持っていた平和と安全を守る力をはっきりと確認することができます。
今回はその「効用」について指摘しておくことにしましょう。安倍9条改憲は、この9条の「効用」を失わせてしまうことを意味するからです。
その第1は、戦争加担への「バリケード」としての「効用」です。戦後の日本は、アメリカが行ってきた間違った戦争への加担を免れてきました。
象徴的なのはベトナム戦争です。この戦争での死者は、アメリカ軍5万7702人、韓国軍4407人、オーストラリア軍475人、タイ軍350人、フィリピン軍27人、ニュージーランド軍26人、中華民国派遣団 11人となっています。
4000人以上の犠牲者を出した隣の韓国とは異なって、日本は自衛隊を派遣せず、死者は1人もいませんでした。戦闘に巻き込まれたりして犠牲者が出なかったのは、湾岸戦争やイラク戦争でも同様です。
なぜ、韓国、オーストラリア、タイ、フィリピン、ニュージーランド、中華民国とは異なって日本が犠牲者を出さずに済んだのかと言えば、それは「憲法上の制約」があったからです。憲法9条の「バリケード」によってアメリカも日本に派兵を要請せず、自衛隊は1人の戦死者も出さずに済んだのです。
しかし、この「バリケード」も完全ではありませんでした。日本にある米軍基地はベトナム戦争への出撃基地として使用され、日本は米軍の兵站・補給・休養拠点としてベトナム戦争に協力させられたからです。
この戦争では、南ベトナム側で約335万6000人、北ベトナム側で約478万1000人 の戦死者が出ています。この誤った戦争に協力した日本も、これらの人々の死に対して責任を負うべき立場にあり、私たちの手も血でぬれているのです。
しかも、イラク戦争ではアメリカからの要請に応えて海上自衛隊がインド洋、航空自衛隊がバグダッド空港、陸上自衛隊がサマーワに派遣されるなど、 この「バリケード」は徐々に崩されてきています。それでも派遣先が「非戦闘地域」での非軍事的な任務に限定されるなど、自衛隊員の命を守る点で9条の「バリケード」はそれなりに機能してきたと言えるでしょう。
第2は、自衛隊の増強や防衛費の増大への「防壁」としての「効用」です。憲法9条によって日本は「軽武装国家」であることを義務付けられ、これを超えるような軍事力の拡大が抑制されてきました。
その量的な制限は「GNP比1%枠」であり、防衛費は基本的にこれを越えないような額に抑えられてきました。質的な制限は国是としての「専守防衛」であり、空母などの攻撃的な兵器は保有できないという政策上の歯止めです。
「非核3原則」や「武器輸出3原則」なども、日本の軍事大国化を阻むための憲法上の制約となってきました。これが憲法9条による「平和の配当」となって、日本の財政が軍備増強に費やされ浪費されることを防ぎ、民生中心の高度成長を実現することができたのです。
しかし、安倍政権の下でこのような「防壁」も崩されつつあります。それまで減少し続けてきた防衛費は、安倍政権が発足した2012年の4兆6543億円をボトムに反転し、その後増加し続けて来年度予算では5兆1911億円(前年度比660億円増)となって4年連続で過去最大を更新しました。
米軍から提供される機密情報を守るために特定秘密保護法を制定し安保法制の成立によって米軍とともに海外で闘うことができる集団的自衛権が一部行使容認となり、「専守防衛」の国是に風穴があけられました。敵基地攻撃に転用可能な巡行ミサイルやステルス戦闘機。オスプレイの購入、ヘリ空母の通常型空母への改修なども計画されています。
すでに「武器輸出3原則」も「防衛装備移転3原則」に変えられ、武器の原則的な輸出禁止から容認へと方針転換が図られてきました。米軍との共同作戦や訓練の点でも、日本海での米原子力空母や戦略爆撃機との共同訓練、黄海での海上自衛隊による警戒監視活動など法的根拠があいまいな日米一体化が進行し、「戦争できる国」に向けての既成事実づくりが着々と進行しています。
第3は、国際テロ活動に対するバリアーとしての「効用」です。日本は欧米の先進国とは異なり、思想的な背景を持った国際組織によるテロ事件が起きていないという事実が、このようなバリアーの存在を示しています。
「オウム真理教事件」という国内組織によるテロ事件はありましたが、それは国際テロとは別物で、しかも20年以上も前のことになります。ホームグローンテロ(イスラム国など国外の過激思想に共鳴した国内出身者によるテロ)とも、ローンウルフ(特定の組織に属さず個人行動を起こすテロリスト)とも、これまで無縁であった稀有の国がこの日本なのです。
そればかりでなく、外国でも日本の企業や日本人がテロリストに狙われ、犠牲となる例は多くありませんでした。中東地域を植民地として支配したことはなく、アラブ世界との関係は良好で、アメリカと戦い広島・長崎に原爆を落とされた過去と戦争放棄の憲法を持つ「平和国家」であるというイメージが「平和ブランド」となり、テロに対するバリアーとして大きな力を発揮してきたからです。
しかし、イラク戦争への自衛隊派遣が転換点となり、その後、このバリアーも失われつつあります。イラク戦争に際して高遠菜穂子さんなど3人の日本人が拘束され、その後解放されましたが、残念ながらその後捕まった香田証正さんは殺害されてしまいました。
その後も、2013年のアルジェリアでの日揮社員10人が殺された日本企業襲撃・殺害事件、2015年のIS(イスラム国)による後藤健二さんら2人の日本人殺害事件が起き、2016年にバングラディシュの首都ダッカでのレストラン襲撃事件に国際協力機構(JICA)の職員など7人が巻き込まれて殺害されています。襲われたうちの1人は「私は日本人だ」と叫んだそうですが、攻撃を避けることはできませんでした。
2015年9月19日に安保法制が成立していますが、その翌10月にもバングラディシュで農業指導に携わっていた60代の日本人1人が現地のIS支部を名乗る武装集団に襲われて殺害されるという事件が起きました。これらの事実は、米軍と共に「戦争できる国」になることが海外にいる日本人の安全を高めたのではなく危険にさらす結果となったことをはっきりと示しています。
安倍首相が意図している9条改憲は、平和と安全を守るうえで発揮されてきたこのような「効用」を失うことになります。それで良いのでしょうか。
戦後、70年以上かけて営々として築いてきた「平和国家」としてのイメージやブランドを失うことが、「新しい時代への希望を生み出すような、憲法のあるべき姿」(年頭会見での安倍首相の発言)なのでしょうか。戦後の世界と日本の歩みをきちんと振り返ることによって、憲法9条が果たしてきた役割や意義、その「効用」を再確認することが、今ほど必要なときはありません。
戦前の日本が大きな過ちを犯したことは否定しようのない歴史的な事実です。同じように、戦後のアメリカが大きな間違いを犯してきたことも、まぎれもない歴史的な事実ではありませんか。
アメリカはベトナム戦争という大きな間違いを犯しました。中南米やアフリカ諸国、イラクやアフガニスタンなどの中東諸国に軍隊を送って武力介入し、紛争と混乱を拡大してきました。
このようなアメリカの間違いに日本が基本的に巻き込まれなかったのは、9条という憲法上の制約があったからです。自衛隊の存在を明記することはこの制約を取り払うことになります。
安保法制の整備や9条改憲によって、安倍首相は戦後においてアメリカが犯してきた間違いの後追いをしようとしています。そうすれば結局、間違いをも後追いすることになってしまうのだということが、どうして分からないのでしょうか。
① 「安全に対する脅威の拡大と国民の不安の増大」
② 「米軍と米軍基地の存在は基地周辺の地域、とりわけ沖縄での具体的な被害を生み出してきたという事実」
③ 「この間の安倍政権が進めてきた軍事力の拡大による国民生活の破壊という大きな問題」
そして、結論的に「安倍9条改憲は周辺諸国にとって大きな脅威となり、誤ったメッセージを発して極東の平和と日本の安全を危機に陥れることになります。そのような選択が実行される前にも、すでに多くの実害が現に生じていることを改めて直視することが必要になっているのではないでしょうか」と、書きました。
この間に、沖縄で起きた窓枠の落下やヘリの不時着などは、まさにこの事実を羅づけるものだったと言えるでしょう。普天間基地については無条件で直ちに撤去し、ヘリをはじめとしたすべての米軍機の飛行を停止しなければ、沖縄県民の不安や事故を無くすこともできません。
このような「実害」は枚挙にいとまがありませんが、他方で、これとは逆の面もあります。これまで憲法9条によって日本の平和と安全が守られてきたからです。
改憲論者は直ぐに9条で平和や安全が守られるのかと問いますが、このような問いが生ずるのは過去の歴史について無知だからです。世界と日本の戦後を振り返ってみれば、9条が持っていた平和と安全を守る力をはっきりと確認することができます。
今回はその「効用」について指摘しておくことにしましょう。安倍9条改憲は、この9条の「効用」を失わせてしまうことを意味するからです。
その第1は、戦争加担への「バリケード」としての「効用」です。戦後の日本は、アメリカが行ってきた間違った戦争への加担を免れてきました。
象徴的なのはベトナム戦争です。この戦争での死者は、アメリカ軍5万7702人、韓国軍4407人、オーストラリア軍475人、タイ軍350人、フィリピン軍27人、ニュージーランド軍26人、中華民国派遣団 11人となっています。
4000人以上の犠牲者を出した隣の韓国とは異なって、日本は自衛隊を派遣せず、死者は1人もいませんでした。戦闘に巻き込まれたりして犠牲者が出なかったのは、湾岸戦争やイラク戦争でも同様です。
なぜ、韓国、オーストラリア、タイ、フィリピン、ニュージーランド、中華民国とは異なって日本が犠牲者を出さずに済んだのかと言えば、それは「憲法上の制約」があったからです。憲法9条の「バリケード」によってアメリカも日本に派兵を要請せず、自衛隊は1人の戦死者も出さずに済んだのです。
しかし、この「バリケード」も完全ではありませんでした。日本にある米軍基地はベトナム戦争への出撃基地として使用され、日本は米軍の兵站・補給・休養拠点としてベトナム戦争に協力させられたからです。
この戦争では、南ベトナム側で約335万6000人、北ベトナム側で約478万1000人 の戦死者が出ています。この誤った戦争に協力した日本も、これらの人々の死に対して責任を負うべき立場にあり、私たちの手も血でぬれているのです。
しかも、イラク戦争ではアメリカからの要請に応えて海上自衛隊がインド洋、航空自衛隊がバグダッド空港、陸上自衛隊がサマーワに派遣されるなど、 この「バリケード」は徐々に崩されてきています。それでも派遣先が「非戦闘地域」での非軍事的な任務に限定されるなど、自衛隊員の命を守る点で9条の「バリケード」はそれなりに機能してきたと言えるでしょう。
第2は、自衛隊の増強や防衛費の増大への「防壁」としての「効用」です。憲法9条によって日本は「軽武装国家」であることを義務付けられ、これを超えるような軍事力の拡大が抑制されてきました。
その量的な制限は「GNP比1%枠」であり、防衛費は基本的にこれを越えないような額に抑えられてきました。質的な制限は国是としての「専守防衛」であり、空母などの攻撃的な兵器は保有できないという政策上の歯止めです。
「非核3原則」や「武器輸出3原則」なども、日本の軍事大国化を阻むための憲法上の制約となってきました。これが憲法9条による「平和の配当」となって、日本の財政が軍備増強に費やされ浪費されることを防ぎ、民生中心の高度成長を実現することができたのです。
しかし、安倍政権の下でこのような「防壁」も崩されつつあります。それまで減少し続けてきた防衛費は、安倍政権が発足した2012年の4兆6543億円をボトムに反転し、その後増加し続けて来年度予算では5兆1911億円(前年度比660億円増)となって4年連続で過去最大を更新しました。
米軍から提供される機密情報を守るために特定秘密保護法を制定し安保法制の成立によって米軍とともに海外で闘うことができる集団的自衛権が一部行使容認となり、「専守防衛」の国是に風穴があけられました。敵基地攻撃に転用可能な巡行ミサイルやステルス戦闘機。オスプレイの購入、ヘリ空母の通常型空母への改修なども計画されています。
すでに「武器輸出3原則」も「防衛装備移転3原則」に変えられ、武器の原則的な輸出禁止から容認へと方針転換が図られてきました。米軍との共同作戦や訓練の点でも、日本海での米原子力空母や戦略爆撃機との共同訓練、黄海での海上自衛隊による警戒監視活動など法的根拠があいまいな日米一体化が進行し、「戦争できる国」に向けての既成事実づくりが着々と進行しています。
第3は、国際テロ活動に対するバリアーとしての「効用」です。日本は欧米の先進国とは異なり、思想的な背景を持った国際組織によるテロ事件が起きていないという事実が、このようなバリアーの存在を示しています。
「オウム真理教事件」という国内組織によるテロ事件はありましたが、それは国際テロとは別物で、しかも20年以上も前のことになります。ホームグローンテロ(イスラム国など国外の過激思想に共鳴した国内出身者によるテロ)とも、ローンウルフ(特定の組織に属さず個人行動を起こすテロリスト)とも、これまで無縁であった稀有の国がこの日本なのです。
そればかりでなく、外国でも日本の企業や日本人がテロリストに狙われ、犠牲となる例は多くありませんでした。中東地域を植民地として支配したことはなく、アラブ世界との関係は良好で、アメリカと戦い広島・長崎に原爆を落とされた過去と戦争放棄の憲法を持つ「平和国家」であるというイメージが「平和ブランド」となり、テロに対するバリアーとして大きな力を発揮してきたからです。
しかし、イラク戦争への自衛隊派遣が転換点となり、その後、このバリアーも失われつつあります。イラク戦争に際して高遠菜穂子さんなど3人の日本人が拘束され、その後解放されましたが、残念ながらその後捕まった香田証正さんは殺害されてしまいました。
その後も、2013年のアルジェリアでの日揮社員10人が殺された日本企業襲撃・殺害事件、2015年のIS(イスラム国)による後藤健二さんら2人の日本人殺害事件が起き、2016年にバングラディシュの首都ダッカでのレストラン襲撃事件に国際協力機構(JICA)の職員など7人が巻き込まれて殺害されています。襲われたうちの1人は「私は日本人だ」と叫んだそうですが、攻撃を避けることはできませんでした。
2015年9月19日に安保法制が成立していますが、その翌10月にもバングラディシュで農業指導に携わっていた60代の日本人1人が現地のIS支部を名乗る武装集団に襲われて殺害されるという事件が起きました。これらの事実は、米軍と共に「戦争できる国」になることが海外にいる日本人の安全を高めたのではなく危険にさらす結果となったことをはっきりと示しています。
安倍首相が意図している9条改憲は、平和と安全を守るうえで発揮されてきたこのような「効用」を失うことになります。それで良いのでしょうか。
戦後、70年以上かけて営々として築いてきた「平和国家」としてのイメージやブランドを失うことが、「新しい時代への希望を生み出すような、憲法のあるべき姿」(年頭会見での安倍首相の発言)なのでしょうか。戦後の世界と日本の歩みをきちんと振り返ることによって、憲法9条が果たしてきた役割や意義、その「効用」を再確認することが、今ほど必要なときはありません。
戦前の日本が大きな過ちを犯したことは否定しようのない歴史的な事実です。同じように、戦後のアメリカが大きな間違いを犯してきたことも、まぎれもない歴史的な事実ではありませんか。
アメリカはベトナム戦争という大きな間違いを犯しました。中南米やアフリカ諸国、イラクやアフガニスタンなどの中東諸国に軍隊を送って武力介入し、紛争と混乱を拡大してきました。
このようなアメリカの間違いに日本が基本的に巻き込まれなかったのは、9条という憲法上の制約があったからです。自衛隊の存在を明記することはこの制約を取り払うことになります。
安保法制の整備や9条改憲によって、安倍首相は戦後においてアメリカが犯してきた間違いの後追いをしようとしています。そうすれば結局、間違いをも後追いすることになってしまうのだということが、どうして分からないのでしょうか。
2018-01-15 06:57
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1月11日(木) 昔は「戦争が廊下の奧に立ってゐた」、今は「戦争が官邸の椅子に座っている」 [憲法]
「戦争が廊下の奥に立ってゐた」
これはよく知られている俳句です。京都大学俳句会で活躍していた渡辺白泉という学生が1939(昭和14)年に詠んだものです。
アジア太平洋戦争の開戦は1941年ですから、その2年前になります。戦争へと向かう当時の社会に漂っていた不気味な気配と違和感を表現した名句でした。
白泉はとくに政治に強い関心を持っていたわけではなく、左翼学生でもありませんでした。戦争を嫌い、平和と文学を好む普通の学生だったといいます。
しかし、特高警察はこの俳句にまで目をつけ、反戦思想を抱いているとして治安維持法違反の嫌疑で投獄しました。仲間の学生も俳句を作れないほどの弾圧を受けたそうです。
こうして、日本は戦争へと突入していきました。「廊下の奥に立ってゐた」戦争は、茶の間にまで踏み込んできて国民の生活を滅茶苦茶にしてしまったのです。
翻って、今の日本はどうでしょうか。「戦争が官邸の椅子に座っている」と言っても良いような状況が生まれつつあるのではないでしょうか。
平昌オリンピック・パラリンピックに向けての南北対話が始まり、戦争の危機が回避されたように見えますが、安倍首相は依然として対話よりも圧力の強化という異常な立場を取り続けています。朝鮮半島の危機を利用して政権基盤の強化を図り、改憲などの政治目的を達成しようとしている安倍首相にとって、そこでの緊張緩和が進みすぎては困るからです。
第2次安倍政権が発足して以来、「積極的平和主義」という軍事力優位の軍事大国化路線を掲げ、特定秘密保護法や安保法制、共謀罪法の制定を図り、国家安全保障会議や国家安全保障局などを設置し、自衛隊の敵基地攻撃能力を高めて専守防衛政策をなし崩しに変え、愛国心教育の強化やマスコミへの懐柔と統制によって若者と国民の意識を反戦や非戦から好戦へと転換しようとしてきたのが安倍首相です。まさに、戦争が背広を着て首相官邸の椅子に座っている姿をほうふつとさせるような光景ではありませんか。
このような軍事大国化路線の総仕上げとして提起されているのが、9条改憲に向けての動きです。安倍首相が政権に復帰して以来、着々と進められてきた「戦争できる国」づくりに向けての一連の流れと戦争政策の構造全体に位置付けることによって、安倍9条改憲構想の狙いと危険性を正しく認識しなければなりません。
普通の学生が「戦争が廊下の奥に立ってゐた」と詠んだような社会の不気味さと違和感は、今の日本においても次第に強まりつつあるように思われます。それは「戦争が官邸の椅子に座っている」と言わざるを得ないような安倍首相の好戦的政策によって、ますます強められようとしています。
その核心をなすものとして打ち出されているのが、9条改憲に向けての提案です。その本質は戦争か平和かを問う、未来に向けての選択にほかならないということを、今こそかみしめる必要があるのではないでしょうか。
これはよく知られている俳句です。京都大学俳句会で活躍していた渡辺白泉という学生が1939(昭和14)年に詠んだものです。
アジア太平洋戦争の開戦は1941年ですから、その2年前になります。戦争へと向かう当時の社会に漂っていた不気味な気配と違和感を表現した名句でした。
白泉はとくに政治に強い関心を持っていたわけではなく、左翼学生でもありませんでした。戦争を嫌い、平和と文学を好む普通の学生だったといいます。
しかし、特高警察はこの俳句にまで目をつけ、反戦思想を抱いているとして治安維持法違反の嫌疑で投獄しました。仲間の学生も俳句を作れないほどの弾圧を受けたそうです。
こうして、日本は戦争へと突入していきました。「廊下の奥に立ってゐた」戦争は、茶の間にまで踏み込んできて国民の生活を滅茶苦茶にしてしまったのです。
翻って、今の日本はどうでしょうか。「戦争が官邸の椅子に座っている」と言っても良いような状況が生まれつつあるのではないでしょうか。
平昌オリンピック・パラリンピックに向けての南北対話が始まり、戦争の危機が回避されたように見えますが、安倍首相は依然として対話よりも圧力の強化という異常な立場を取り続けています。朝鮮半島の危機を利用して政権基盤の強化を図り、改憲などの政治目的を達成しようとしている安倍首相にとって、そこでの緊張緩和が進みすぎては困るからです。
第2次安倍政権が発足して以来、「積極的平和主義」という軍事力優位の軍事大国化路線を掲げ、特定秘密保護法や安保法制、共謀罪法の制定を図り、国家安全保障会議や国家安全保障局などを設置し、自衛隊の敵基地攻撃能力を高めて専守防衛政策をなし崩しに変え、愛国心教育の強化やマスコミへの懐柔と統制によって若者と国民の意識を反戦や非戦から好戦へと転換しようとしてきたのが安倍首相です。まさに、戦争が背広を着て首相官邸の椅子に座っている姿をほうふつとさせるような光景ではありませんか。
このような軍事大国化路線の総仕上げとして提起されているのが、9条改憲に向けての動きです。安倍首相が政権に復帰して以来、着々と進められてきた「戦争できる国」づくりに向けての一連の流れと戦争政策の構造全体に位置付けることによって、安倍9条改憲構想の狙いと危険性を正しく認識しなければなりません。
普通の学生が「戦争が廊下の奥に立ってゐた」と詠んだような社会の不気味さと違和感は、今の日本においても次第に強まりつつあるように思われます。それは「戦争が官邸の椅子に座っている」と言わざるを得ないような安倍首相の好戦的政策によって、ますます強められようとしています。
その核心をなすものとして打ち出されているのが、9条改憲に向けての提案です。その本質は戦争か平和かを問う、未来に向けての選択にほかならないということを、今こそかみしめる必要があるのではないでしょうか。
2018-01-11 06:29
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1月5日(金) 安倍首相の年頭会見での改憲発言における3つの矛盾とジレンマ [憲法]
4日は仕事始めのところも多かったと思います。私も昨日の夕方、故郷の新潟から帰ってきました。
幸い雪は積もっていず、時折ちらつく程度の穏やかな正月でした。とはいえ、あい変わらずどんよりとした冬空で、雪が降って白くなったりたまに日がさしたりという変幻極まりない雪国特有の天気でした。まるで、今の日本の政治のような空模様です。
安倍晋三首相は4日、三重県伊勢市の伊勢神宮を参拝後、現地で記者会見し、憲法改正について「戌(いぬ)年の今年こそ、新しい時代への希望を生み出すような憲法のあるべき姿を国民にしっかり提示し、憲法改正に向けた国民的な議論を一層深めていく。自由民主党の総裁として私はそのような1年にしたい」と述べる一方、「スケジュールありきではない」として具体的な検討については党に任せる考えを強調したと報じられています。
そもそも、「戌(いぬ)年」であることと改憲とは何の関係もありません。牽強付会の最たるものですが、この記者会見での発言には安倍首相がめざす9条を中心とした改憲論の矛盾とジレンマがはっきりと示されています。
第1に、「新しい時代への希望を生み出すような憲法のあるべき姿を国民にしっかり提示」するという点です。今の時点で安倍首相が打ち出している改憲案はわずか4項目にすぎず、「新しい時代への希望を生み出すような憲法のあるべき姿」と言えるような代物ではありません。
それは、9条をそのままにして自衛隊の存在を書き込むこと、高等教育を無償化すること、参院の合区解消のために一票の価値の平等の例外を定めること、緊急事態における国会議員の任期を延長することの4点に限られています。これがどうして、「新しい時代への希望を生み出すような憲法のあるべき姿」なのでしょうか。
9条を除けばほんの部分的な手直しにすぎません。維新の会を「釣り上げる」ために付け加えた高等教育の完全無償化にしても、財政上の制約があるために「完全」を取り去って維新の会の反発を招いています。
本当は、安倍首相も2012年に作成した自民党改憲草案をそのまま提案したいと思っているにちがいありません。その全面的な改悪案であれば、安倍首相が考える「新しい時代への希望を生み出すような憲法のあるべき姿」を示すものだ言えるかもしれません。
しかし、それでは国民の賛同を得られず、国民投票で否決される可能性が高いと判断したのでしょう。成立を優先して「迂回戦術」を取ったということです。
北朝鮮危機を利用できる今なら、最も変えたい9条について手を付けても賛成が得られるという判断もあったにちがいありません。しかし、そのために部分的で中途半端なものになったという矛盾が生じ、石破さんなど自民党内からの反発を受けるというジレンマに直面しています。
第2に、「自由民主党の総裁として私はそのような1年にしたい」と述べている点です。なぜ、首相なのに「内閣総理大臣として」と言わないのでしょうか。
憲法99条の憲法尊重擁護義務が頭をかすめたにちがいありません。「国務大臣のトップである内閣総理大臣が改憲の旗を振るのは99条違反だ」という批判があるからです。
だからわざわざ「自由民主党の総裁として」と言い変えたのだと思います。しかし、このような形で立場を使い分けなければならないところに矛盾があり、首相として旗を振るわけにはいかないというジレンマが示されています。
とはいえ、このような形で立場を使い分けてみても、矛盾とジレンマは解消されません。憲法99条には「国務大臣、国会議員、裁判官その他の公務員は憲法を尊重し擁護する義務を負う」と書かれているからです。
安倍首相は「国務大臣」のトップとしてだけでなく、「国会議員」としても「公務員」としても憲法を尊重し擁護する義務を負っています。いわば3重の縛りがかけられていることになります。
その人が先頭に立って「憲法を変えよう」と呼びかけるところに、大きな矛盾とジレンマがあると言うべきでしょう。言い変えたからといって立場が変わるわけではありませんし、それが解消されるわけではありませんが、安倍首相としてはそう言わざるを得ない程度の「気持ちの悪さ」を感じたのかもしれません。
そして第3に、「スケジュールありきではない」としている点です。そう言いながら「今年こそ、……憲法のあるべき姿を国民にしっかり提示し、憲法改正に向けた国民的な議論を一層深めていく」という「スケジュール」を「しっかり提示」しているところに、すでに矛盾が示されています。
そして、ここにも安倍首相のジレンマがあります。自分の任期中に改憲したという実績を残して歴史に名を刻みたいという野望と、それにこだわるあまり「スケジュール」を前面に出すと大きな反発を買い、かえって改憲を遠ざけてしまうというジレンマがあるからです。
この点で、慎重な手綱さばきが求められることになります。改憲の「押し付け」にならないように気を付けながら、2020年の改憲施行という当初の目標に近づけるという矛盾した対応を迫られるからです。
とりわけ今年は、秋に自民党の総裁選挙があります。ここで3選されなければ、安倍首相の手による改憲という野望は水泡に帰します。
そのうえ、9条改憲論をはじめとした4項目の改憲案については、自民党内でも異論が存在しており昨年中に党内をまとめることができませんでした。安倍首相からすれば「何をグズグズしているんだ」という思いで見ていたことでしょう。
しかし、表立って尻を叩けば「スケジュールありきではないか」という批判を招き、さらに遅れてしまう可能性があります。少なくとも3選を確実にするまでは自民党内での反発を招かないような形での慎重運転に徹しなければなりませんが、そうすれば改憲「スケジュール」が大きく狂ってしまうかもしれないというジレンマが生まれます。
安倍9条改憲阻止をめざす側からすれば、これらの矛盾とジレンマにこそ、つけ入るスキがあるということになります。この「弱い環」を攻めていこうではありませんか。
安倍首相が「憲法改正に向けた国民的な議論を一層深めていく」と言っている点も重要です。このような「議論」を「国民的」に広めていくなかで、安倍9条改憲論の危険性を明らかにするだけでなく現行憲法のすばらしさを確認し、その憲法を守るだけでなく活かし具体化していくことのできる新しい政府の実現に結び付けていく必要があります。
そのためにも、安倍首相の自民党総裁3選を何としても阻止しなければなりません。全ての攻撃をここに集中し、安倍首相をその地位から引きずりおろすことが、今年前半の獲得目標だということになります。
なお、年明け早々、今月も以下のような講演が決まっています。お近くの方や関係者の方に沢山おいでいただければ幸いです。
1月20日(土)14時 産業文化センターホール:埼玉5区市民連合
1月21日(日)13時30分 つくば市ふれあいプラザ:安倍9条改憲NO!市民アクションつくば連絡会準備会
1月23日(火)10時30分 埼玉平和委員会
1月24日(水)19時 文京シビックセンター:出版共産党後援会
1月26日(金)14時 北多摩西教育会館:都教組
1月27日(土)13時30分 秋田県民会館ジョイナス:秋田9条の会
1月28日(日)14時 川崎市宮前市民館:宮前田園革新懇
1月30日(火)19時 吹田市職員会館:吹田市労連春闘学習会
幸い雪は積もっていず、時折ちらつく程度の穏やかな正月でした。とはいえ、あい変わらずどんよりとした冬空で、雪が降って白くなったりたまに日がさしたりという変幻極まりない雪国特有の天気でした。まるで、今の日本の政治のような空模様です。
安倍晋三首相は4日、三重県伊勢市の伊勢神宮を参拝後、現地で記者会見し、憲法改正について「戌(いぬ)年の今年こそ、新しい時代への希望を生み出すような憲法のあるべき姿を国民にしっかり提示し、憲法改正に向けた国民的な議論を一層深めていく。自由民主党の総裁として私はそのような1年にしたい」と述べる一方、「スケジュールありきではない」として具体的な検討については党に任せる考えを強調したと報じられています。
そもそも、「戌(いぬ)年」であることと改憲とは何の関係もありません。牽強付会の最たるものですが、この記者会見での発言には安倍首相がめざす9条を中心とした改憲論の矛盾とジレンマがはっきりと示されています。
第1に、「新しい時代への希望を生み出すような憲法のあるべき姿を国民にしっかり提示」するという点です。今の時点で安倍首相が打ち出している改憲案はわずか4項目にすぎず、「新しい時代への希望を生み出すような憲法のあるべき姿」と言えるような代物ではありません。
それは、9条をそのままにして自衛隊の存在を書き込むこと、高等教育を無償化すること、参院の合区解消のために一票の価値の平等の例外を定めること、緊急事態における国会議員の任期を延長することの4点に限られています。これがどうして、「新しい時代への希望を生み出すような憲法のあるべき姿」なのでしょうか。
9条を除けばほんの部分的な手直しにすぎません。維新の会を「釣り上げる」ために付け加えた高等教育の完全無償化にしても、財政上の制約があるために「完全」を取り去って維新の会の反発を招いています。
本当は、安倍首相も2012年に作成した自民党改憲草案をそのまま提案したいと思っているにちがいありません。その全面的な改悪案であれば、安倍首相が考える「新しい時代への希望を生み出すような憲法のあるべき姿」を示すものだ言えるかもしれません。
しかし、それでは国民の賛同を得られず、国民投票で否決される可能性が高いと判断したのでしょう。成立を優先して「迂回戦術」を取ったということです。
北朝鮮危機を利用できる今なら、最も変えたい9条について手を付けても賛成が得られるという判断もあったにちがいありません。しかし、そのために部分的で中途半端なものになったという矛盾が生じ、石破さんなど自民党内からの反発を受けるというジレンマに直面しています。
第2に、「自由民主党の総裁として私はそのような1年にしたい」と述べている点です。なぜ、首相なのに「内閣総理大臣として」と言わないのでしょうか。
憲法99条の憲法尊重擁護義務が頭をかすめたにちがいありません。「国務大臣のトップである内閣総理大臣が改憲の旗を振るのは99条違反だ」という批判があるからです。
だからわざわざ「自由民主党の総裁として」と言い変えたのだと思います。しかし、このような形で立場を使い分けなければならないところに矛盾があり、首相として旗を振るわけにはいかないというジレンマが示されています。
とはいえ、このような形で立場を使い分けてみても、矛盾とジレンマは解消されません。憲法99条には「国務大臣、国会議員、裁判官その他の公務員は憲法を尊重し擁護する義務を負う」と書かれているからです。
安倍首相は「国務大臣」のトップとしてだけでなく、「国会議員」としても「公務員」としても憲法を尊重し擁護する義務を負っています。いわば3重の縛りがかけられていることになります。
その人が先頭に立って「憲法を変えよう」と呼びかけるところに、大きな矛盾とジレンマがあると言うべきでしょう。言い変えたからといって立場が変わるわけではありませんし、それが解消されるわけではありませんが、安倍首相としてはそう言わざるを得ない程度の「気持ちの悪さ」を感じたのかもしれません。
そして第3に、「スケジュールありきではない」としている点です。そう言いながら「今年こそ、……憲法のあるべき姿を国民にしっかり提示し、憲法改正に向けた国民的な議論を一層深めていく」という「スケジュール」を「しっかり提示」しているところに、すでに矛盾が示されています。
そして、ここにも安倍首相のジレンマがあります。自分の任期中に改憲したという実績を残して歴史に名を刻みたいという野望と、それにこだわるあまり「スケジュール」を前面に出すと大きな反発を買い、かえって改憲を遠ざけてしまうというジレンマがあるからです。
この点で、慎重な手綱さばきが求められることになります。改憲の「押し付け」にならないように気を付けながら、2020年の改憲施行という当初の目標に近づけるという矛盾した対応を迫られるからです。
とりわけ今年は、秋に自民党の総裁選挙があります。ここで3選されなければ、安倍首相の手による改憲という野望は水泡に帰します。
そのうえ、9条改憲論をはじめとした4項目の改憲案については、自民党内でも異論が存在しており昨年中に党内をまとめることができませんでした。安倍首相からすれば「何をグズグズしているんだ」という思いで見ていたことでしょう。
しかし、表立って尻を叩けば「スケジュールありきではないか」という批判を招き、さらに遅れてしまう可能性があります。少なくとも3選を確実にするまでは自民党内での反発を招かないような形での慎重運転に徹しなければなりませんが、そうすれば改憲「スケジュール」が大きく狂ってしまうかもしれないというジレンマが生まれます。
安倍9条改憲阻止をめざす側からすれば、これらの矛盾とジレンマにこそ、つけ入るスキがあるということになります。この「弱い環」を攻めていこうではありませんか。
安倍首相が「憲法改正に向けた国民的な議論を一層深めていく」と言っている点も重要です。このような「議論」を「国民的」に広めていくなかで、安倍9条改憲論の危険性を明らかにするだけでなく現行憲法のすばらしさを確認し、その憲法を守るだけでなく活かし具体化していくことのできる新しい政府の実現に結び付けていく必要があります。
そのためにも、安倍首相の自民党総裁3選を何としても阻止しなければなりません。全ての攻撃をここに集中し、安倍首相をその地位から引きずりおろすことが、今年前半の獲得目標だということになります。
なお、年明け早々、今月も以下のような講演が決まっています。お近くの方や関係者の方に沢山おいでいただければ幸いです。
1月20日(土)14時 産業文化センターホール:埼玉5区市民連合
1月21日(日)13時30分 つくば市ふれあいプラザ:安倍9条改憲NO!市民アクションつくば連絡会準備会
1月23日(火)10時30分 埼玉平和委員会
1月24日(水)19時 文京シビックセンター:出版共産党後援会
1月26日(金)14時 北多摩西教育会館:都教組
1月27日(土)13時30分 秋田県民会館ジョイナス:秋田9条の会
1月28日(日)14時 川崎市宮前市民館:宮前田園革新懇
1月30日(火)19時 吹田市職員会館:吹田市労連春闘学習会
2018-01-05 05:17
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