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12月21日(金) 安倍「逆走」政権による歯止めなき狂気の大軍拡は直ちに中止するべきだ [自衛隊]

 安倍政権の暴走ぶりが加速しています。最近では東アジアでの緊張緩和や平和構築の動きへの逆行がはなはだしくなっており、「逆走」と言うべきかもしれません。
 18日に閣議決定された「防衛計画の大綱(防衛大綱)」と「中期防衛力整備計画(中期防)」は、その最たるものです。「いずも」改修による事実上の「空母」導入など専守防衛を逸脱し、過去最高水準の27億4700億円もの兵器調達を明記した歯止めなき狂気の大軍拡は直ちに中止させなければなりません。

 今回もまた、「隠す、誤魔化す、嘘をつく」という安倍首相お得意のやり方が駆使されています。特に、批判の大きい「いずも」型護衛艦の改修については、言い変えによる誤魔化しが顕著でした。
 当初「防御型空母」とされ、次いで「多用途運用母艦」と言い変えられ、さらに「多用途運用護衛艦」となり、最終的には今と同じ「多機能の護衛艦」ということに落ち着きました。「空母」ではないと誤魔化すための迷走です。
 改修によって短距離で離陸して垂直で着陸できる米国製の戦闘機F35Bが発着できるようになるのですから、「空母」そのものではありませんか。常時艦載しないと言っても訓練や非常時には積み、中東などにも派遣され、米軍機の給油や発着に利用される可能性は否定できず、「空母」ではないというのは詭弁にすぎません。

 これまでの陸海空にとどまらず、宇宙やサイバー空間を含む「多次元統合防衛力」をめざすということも盛り込まれました。軍事的対応の範囲が宇宙やネット世界にまで、大きく拡大することになります。
 長距離巡航ミサイルの保有なども打撃力の画期的な強化につながり、敵基地を攻撃できる能力を持つことになります。国是とされてきた「専守防衛」を大きく踏み越える大転換にほかなりません。
 このような国策の大転換が、閣議決定というやり方で既成事実化されることも大きな問題です。来年の通常国会で徹底的に論議し、中止に追い込まなければなりません。

 安倍政権は「戦争する国、戦争できる国」に向けて、3つの領域での具体化を図ってきました。戦争するための法や制度などのシステムの構築、自衛隊の増強や装備の近代化、基地の強化、米軍との連携というハード面の強化、戦争を支持し率先して戦う人材の育成や社会意識の形成というソフト面での整備です。
 これまで、国家安全保障会議や国家安全保障局の設置、安保法制(戦争法)による集団的自衛権の部分的容認などによってシステム構築を行い、教育や教科書への介入、道徳教育による愛国心の育成、マスメディアへの管理・統制の強化による変質などのソフト整備を進めてきました。今回の防衛大綱と中期防は、ハード整備の中核となる大軍拡に向けて本格的に乗り出す姿勢を示したものだと言って良いでしょう。
 システム構築の最後の仕上げである9条改憲に向けての攻勢とともに、ハード構築の本格的実施に着手しようとしている点に注目しなければなりません。安倍首相は9条が変えられても自衛隊の任務や役割は変わらないと言っていますが、すでに任務や役割が変わってきている自衛隊を正当化し、憲法に位置付けて認知することになるのは明らかで、9条改憲と大軍拡は「戦争する国、戦争できる国」づくりの総仕上げを意味しているからです。

 このような大軍拡計画は東アジアの平和構築に逆行し、とりわけ「仮想敵」とされている中国との緊張を強め、不毛な軍拡競争に引きずり込まれる危険性を高めます。中期防による5年間の防衛費は過去最大の27兆4700億円になり、財政的にも大きな負担を国民に強いることにならざるを得ません。
 現状でも、トランプ米大統領の求めに応じた米国製兵器の爆買いによって防衛費が圧迫され国内企業への支払いもままならないではありませんか。それなのに、これほどの大盤振る舞いを行える財政力が一体どこにあるというのでしょうか。
 一方で、消費税を引き上げて社会保障を削り国民の命とくらしを危機に晒しながら。他方で、「戦争する国、戦争できる国」を作るために9条改憲と大軍拡に突き進もうとしているのが安倍首相です。武力の行使や威嚇によってではなく、対話と交渉によって平和と安全を確保するという憲法9条の平和理念に従い、それを実践する首相に交代させなければ、東アジアの平和も日本の安全も、国民の命とくらしも守ることはできません。

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5月2日(火) 朝鮮半島危機を利用した「火事場泥棒」のような戦争への「慣らし運転」 [自衛隊]

 朝鮮半島では北朝鮮による戦争の挑発が強まっていると、安倍首相は煽り立ててきました。国民の不安が高まっている今がチャンスだと考えたのでしょう。
 どさくさに紛れて盗みを働く「火事場泥棒」のような陰険で姑息な実績作りだと言わなければなりません。朝鮮半島危機を利用して安保法制による新任務を初めて実施し、戦争に向けての「慣らし運転」を始めたのですから……。

 昨日、海上自衛隊の護衛艦「いずも」が安保法制に基づいて自衛隊が米艦などを守る「武器等防護」のために、横須賀基地を出港しました。房総半島沖で米海軍の補給艦と合流し、護衛するためです。
 自衛艦は防護のために必要最小限の範囲で武器を使えるとされています。こうして米軍との一体化がさらに進み、日米間の軍事協力は新たな段階に達しました。
 安保法制に基づく新たな任務が実施されたのは初めてのことになります。攻撃されれば反撃することができるとされていますから、日本が戦争に巻き込まれる危険性が格段に高まったことになります。

 護衛艦「いずも」は大型のヘリ空母型ですが、防空能力は限られており他の艦船を防護するような装備は持たず、場所も太平洋側で攻撃される可能性は低く、房総沖から四国沖までという中途半端なルートになっています。もともと、シンガポールで開催される国際観艦式に参加する予定だった「いずも」が、たまたま米補給艦の移動ルートと重なったために、今回の「防護」になったと見られています。
 ほとんど実質的な意味がないにもかかわらず実施されたのは、安保法制に基づく新任務を実行するには絶好のチャンスだと考えたからでしょう。大型で目立つヘリ空母型の護衛艦を派遣することで日米間の軍事的連携をアピールでき、朝鮮半島危機に不安を高めている国民も強く反対しないだろうと高をくくっていたからだと思われます。
 別の言い方をすれば、米韓防護の実績作りの機会として、朝鮮半島危機が利用されたということになります。このような形で安保法制の実績作りを行い、日米同盟を強化し、「積極的平和主義」に基づく軍事力強化に向けての世論動員を図るために、北朝鮮によるミサイル発射やトランプ政権による空母カール・ビンソンの派遣などを契機に高まった緊張をさらに煽り立てていたわけです。

 こうして、安保法制は具体的な任務を伴って動き出しました。それによって、日本は安全になり、国民の安心感は増大しているでしょうか。
 トランプ大統領の登場に伴うアメリカの方針転換もあって北朝鮮をめぐる緊張が激化し、日本周辺の安全保障環境は極端に悪化しています。日本が攻撃されたり戦争に巻き込まれたりするのではないかとの国民の不安も、これまでになく大きくなりました。
 戦争の足音が高まり、不安や危機感が強まっているのが実態です。安倍首相はこのような国民の不安や危機感を和らげるどころか、軍事力強化という自らの政治的な思惑を実現するために煽り立ててきました。

 一体、どこの国の指導者なのか、と言いたくなります。アメリカとの軍事的一体化をめざす余り、安倍首相は頭の中までアメリカと一体化してしまったようです。
 しかし、朝鮮半島危機に対するアメリカと日本の立場は根本的に異なっており、ひとたび戦争になれば日本が甚大な被害を受けることは避けられません。日本にとって「あらゆる選択肢」があるわけではなく、軍事的対応を選択肢にすることは許されないのです。
 まして、「武力による威嚇」は憲法9条で禁じられており、首相は憲法尊重擁護義務を負っています。「武力による威嚇」も「力による平和」も、まして軍事的対応は日本として断固として拒否しなければなりません。

 先日、北朝鮮が午前5時半にミサイルを発射したのに対して、テレビなどが速報したのは6時で、これに対応して地下鉄が止まったのは6時7分でした。もし、日本に向けて発射されていれば7~8分で到達しますから、これに対応することは不可能だということが改めて示されました。
 解決する道は外交的な話し合いしかありえません。このことを肝に銘じて、危機打開のための協議の道を探ってもらいたいものです。

 なお、5月の講演などの予定は以下の通りです。お近くの方や関心のある方に足を運んでいただければ幸いです。

5月3日(水)13時30分 宇都宮市立図書館サザンクロスホール:栃木県革新懇
5月6日(土)13時30分 甲斐駒センターせせらぎ:北杜市地域で人権・『共謀罪』を考える会
5月13日(土)13時 萩中集会所:全日空職場革新懇
5月14日(日)13時30分 ルミエール府中:府中市革新懇
5月25日(木)18時30分 世田谷区宮坂区民センター:世田谷革新懇
5月28日(日)15時 明日都浜大津:滋賀県革新懇

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11月16日(水) 「駆けつけ警護」が必要なほど危険な場所からは撤退するべきだ [自衛隊]

 いよいよ、日本の若者が血を流すことになる危険性が高まっています。集団的自衛権の行使容認を強行した安倍首相にとっては、それが目的だったのかもしれません。
 安倍首相は『この国を守る決意』という本の中で、日本の若者も血を流すことによって日米が初めて対等になると語り、自民党の石破茂幹事長(当時)もNHKの番組で集団的自衛権について、「アメリカの若者が血を流しているのに、日本の若者が血を流さなくていいのか?」というような発言をしていたのですから。

 昨日、安倍内閣は南スーダンの国連平和維持活動(PKO)に派遣する陸上自衛隊の部隊に、安保法に基づく新任務である「駆けつけ警護」や「宿営地の共同防護」を付与することなどを盛り込んだ実施計画を閣議決定しました。安保法に基づいて海外での自衛隊の任務が拡大されるのは初めてのことです。
 この閣議決定に合わせて「新任務付与に関する基本的な考え方」も発表されました。そこでは、施設部隊の自衛隊は「治安維持は任務ではない」とし、「他国の軍人を駆けつけ警護することは想定されない」と明記され、自衛隊の出動は「他に対応できる国連部隊が存在しないといった、極めて限定的な場面で緊急の要請を受けた、応急的かつ一時的な措置」だと明示されています。
 このような限定の多さから、「駆けつけ警護が必要になる場面はほとんどない」とされていますが、それなら何故、このような新たな任務を付与するのでしょうか。安倍首相は「有意義な活動が困難だと判断する場合は、撤収を躊躇することはない」と強調していますが、すでに今でも「有意義な活動が困難」になっているのではないでしょうか。

 安保法が制定されたことによって付け加えられた新たな任務ですから、これまで以上に自衛隊の活動領域が拡大されることになります。それに伴って、危険性が増すことは誰の目にも明らかでしょう。
 そもそも自衛隊が駆けつけて警護しなければならないということは、襲われる危険性があるからではありませんか。宿営地を共同で防護しなければならないということは、宿営地に対する攻撃が予想されるからではありませんか。
 このような危険性が生じているのは、すでに停戦合意が崩壊して内戦状態になっているからです。いつ襲撃され、戦闘になるかわからないところで、どうして「道路補修」のための部隊を派遣しなければならないのでしょうか。

 しかも、南スーダンは日本からはるか遠くに離れたアフリカの地にあります。集団的自衛による日本の安全保障とどのような関係にあるのか、まったく理解できません。
 どうしてこのような所に、自衛のための部隊を派遣する必要性があるのでしょうか。武力衝突は大統領派と副大統領派の間で生じていますから、政府は崩壊状態でPKO部隊は政府軍に狙われる可能性があるというのですから話になりません。
 派遣される自衛隊員にとっては、いつ戦闘に巻き込まれるかわからない状況の下で命の危険にさらされながら理解不能な任務の遂行を強いられることになります。このような無意味な派遣は直ちに中止し、今すぐに撤収を開始するべきです。

 7月に大規模な戦闘があって300人近くの死者が出たにもかかわらず、安倍首相は「衝突であって戦闘ではない」として、首都ジュバは安定していると強弁しています。もし今後、再び戦闘が発生して現地の自衛隊員に死傷者が出た時、安倍首相は責任を取れるのでしょうか。その覚悟があるのでしょうか。

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9月1日(木) 自衛隊をどう「活かす」のか [自衛隊]

 憲法の理念を再生させ、それを政治や生活に活かすことが必要だというのが「活憲」です。この「活憲」の中でも最大の課題が自衛隊をどう「活かす」かという問題だということは、たいがいの人が同意されることでしょう。
 自衛隊についてどう考えたらよいのか、それはどうあるべきなのか。これについて、私の考えを述べ、一つの「試論」として今後の議論の素材を提供させていただきます。

 この問題は改憲論議とも密接に関連しています。改憲には賛成でも9条改憲には反対だという立場や9条改憲に賛成でもそれは自衛隊の「国防軍」化や「外征軍」化を阻止するための改憲だという意見もあるからです。
 このような人々も味方にして「壊憲」阻止勢力を拡大するには、この問題についての回答を示さなければなりません。そのためには、自衛隊の役割と位置づけを明確にする必要があります。
 たとえば、「自衛隊を活かす会」は「自衛隊を否定するのでもなく、かといって集団的自衛権や国防軍に走るのでもなく、現行憲法のもとで生まれた自衛隊の役割と可能性を探り、活かす道」を「提言」しています。これなどを参考にした政策の緻密化が求められているのではないでしょうか。

 そもそも、自衛隊は矛盾した存在です。憲法9条に反していますから、存在してはならないはずのものです。
 それが存在しているだけでなく、5兆円もの国費を費やしているのが現実です。これはまさに「反憲法的現実」そのものですが、直ちに解消することは不可能です。
 このような矛盾は歴代自民党政権によって意識的に生み出され、拡大され、ついにはこの現実にあわせて憲法の方を変えようとしているのが、安倍首相の目指している「壊憲」策動になります。このような策動を許さず、矛盾は矛盾として受け入れながら、憲法の理念に基づいて運用し、活用を図ることが必要です。

 そのためには、第1に、自衛隊が持っている「戦闘部隊」としての性格と「災害救助隊」としての性格という二面性のうち、前者の役割を最小にして後者の役割を最大化することが必要です。今は前者が主たる任務で後者が副次的任務となっていますが、実際には「災害救助隊」として機能し、その有用性が高まっていることは明らかです。
 阪神・淡路大震災以降、自衛隊は災害救助面で大きな役割を果たし、東北大震災や熊本地震での活動などもあって副次的任務への期待と評価が増しています。自衛隊に入隊する若者の志願動機の多くは「人の役に立ちたい」というもので、それはとりもなおさず被災者を救うことを意味しています。
 このような自衛隊の活動の実際、国民の期待、隊員の希望というあらゆる面から言って、災害救助隊としての役割の増大と活用を図ることが合理的です。そして、将来は改組・再編して主たる任務と副次的任務を逆転させ、「自衛」の対象を軍事的脅威から自然災害へと移行しなければなりません。

 第2に、「戦闘部隊」としての任務も、9条に基づく「専守防衛」という国是を忠実に守り、外敵による急迫不正の侵害から国土を防衛する「拒否力」としてのあり方に徹する必要があります。もともと、自衛隊には海外での任務遂行は前提とされていませんでしたし、国土防衛の基盤をなす防衛力の最低水準を整備するという「基盤的防衛力構想」が政策の基本でした。
 もちろん、集団的自衛権など考えられもせず、歴代の政府や内閣法制局長官、最高裁もそのようなことを憲法が予定しているなどとは夢にも思っていませんでした。だからこそ「専守防衛」であり、そのような「自衛」隊を海外の戦地に送り、戦闘に巻き込まれるリスクを高めてはならないというのが、安保法に反対する論拠の一つでした。
 このような「専守防衛」の立場から、自衛隊の部隊編成や装備、米軍との関係、基地のあり方などについて洗い直すことが必要です。海外派兵への対応のために編成されている「中央即応集団」を解散し、周辺海域の警備のための海上保安庁の役割を高めて海上自衛隊の機能を縮小するとともに、陸上自衛隊や航空自衛隊の装備や部隊編成、基地機能についても「国防軍」化や「外征軍」化に通ずる部分を削減するべきです。

 第3に、これ以上の自衛隊の増強や機能強化を防ぐために、その存在を憲法に明記するべきだという意見があります。9条改憲論ではあっても、自民党改憲草案や日本会議が目指している「国防軍」化や「外征軍」化とは逆の主張であり、この両者はきちんと区別されなければなりません。
 しかし、このような9条改憲論には慎重でなければならないと思います。一つにはタイミングの問題があり、今の時点でのこのような提起は「壊憲」勢力に利用される恐れがあるからです。
 もう一つは、9条の戦争放棄・戦力不保持という規定はもう二度と戦争の脅威を与えないという国際社会、とりわけ周辺諸国に対する国際的な誓約となっており、それを変えて自衛隊の保持を明記すれば国際社会や周辺諸国に誤ったメッセージを与えることになるからです。まして、戦前型社会と軍国主義の復活を目指しているのではないかと疑いの目で見られている安倍首相の下での変更は避けるべきでしょう。

 さらに、自衛隊の存在は歴代自民党政権によって意識的に生み出されてきた「反憲法的現実」そのものですから、それを憲法に明記してしまえば現実を追認することになります。自民党による長年の「反憲法的政治」によって9条と大きく乖離してしまっている現実をそのまま受け入れるのではなく、そのような歪んだ現実を9条に近づけていく努力こそが求められるという「活憲」の課題が失われ、戦争放棄・戦力不保持が実現できるような周辺環境や国内状況を生み出すという将来ビジョンを掲げることができなくなります。
 このような戦争放棄・戦力不保持という9条の理念を実現しようという意思と方向性を持っているかどうかが、今後の安保・防衛政策や外交路線にとって決定的です。そのための緊張緩和や友好関係の樹立など、外交努力が不可欠になるからです。

 これがアベ暴走政治に代わるべき安保・防衛政策や外交路線の基本であり、自衛隊を「活かす」道でもあります。それは安倍首相にとっては実行不可能であり、だからこそ新しい政府が必要なのだということを国民に理解してもらうことができれば、野党共闘による政権交代も決して夢ではないでしょう。

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8月27日(土) 自衛隊は南スーダンから撤退し安保法新任務の訓練を中止するべきだ [自衛隊]

 いよいよ、自衛隊は危険な領域に足を踏み入れることになりました。いつ戦闘に巻き込まれ、死傷者が出るかわからないようなリスクを抱えながらの活動を強いられることになります。
 このような未知の領域に足を踏み入れるべきではありません。その危険性が高まっている南スーダンから、自衛隊は直ちに撤退するべきです。

 稲田防衛相は安保法で可能になった新たな任務について、自衛隊の各部隊の判断で訓練を始めることを明らかにしました。南スーダンの国連平和維持活動(PKO)に11月に交代で派遣される陸上自衛隊第九師団第五普通科連隊(青森市)主体の部隊は25日から訓練を始めています。
 PKO関係者らが武装集団などに襲われた際に防護に向かう「駆け付け警護」や宿営地の他国軍との共同防衛を付与することなどで、抵抗する暴徒らを武器を使って威嚇、制圧する訓練も行う見通しです。「駆け付け警護」では武器使用の基準を緩和し、任務遂行のための警告射撃などを容認しています。
 その他の集団的自衛権の行使を想定した訓練は、米国との共同訓練の場を利用して実施されます。防衛省は10月以降に予定する日米統合演習「キーン・ソード」などで米側と調整を進め、米艦に対する攻撃に自衛隊艦隊が反撃するシナリオや発進準備中の戦闘機への給油など米軍の戦闘支援も訓練メニューとなるようです。
 
 安保法については、日本が米国の戦争に巻き込まれたり、危険な任務に当たる自衛隊員のリスクを高めたりするとして批判されました。集団的自衛権の行使の容認には違憲性も指摘されていますが、これらの批判や指摘が実証されようとしています。
 そもそも、駆けつけ警護や宿営地の共同防衛が必要になるような危険な状況の下で、自衛隊の部隊が派遣されていることが大きな間違いなのです。南スーダンの実態は内戦というべきものでPKO部隊派遣の前提は崩れており、宿営地の共同防衛は他国軍とともに宿営地を守るこですから、攻撃してくる相手が国や国に準ずる組織なら海外での武力行使にあたり、憲法9条に違反することになります。
 安保法制定後、日本周辺の安全保障環境は悪化し、「抑止力」などは全く働いていません。安保法の成立によって、確かに「日米同盟の絆」は強化されたかもしれませんが、その結果、バングラデシュでは日本人が国際テロの標的として犠牲になるなど、安全は高まったのではなく急速に低下しつつあります。

 さらなる犠牲者が出る前に、ブレーキをかけて方向転換するべきでしょう。急迫不正の侵害に対する拒否力としての「自衛」隊が、海外で殺し、殺される「外征軍」へと変質してしまう前に、既成事実化を防がなければなりません。
 災害救助などでの活躍ぶりを見て、「自分も人助けをしたい」ということで自衛隊員になった若者も沢山いることでしょう。そのような隊員をアフリカに送りこみ、現地の住民や子供たちを誤って殺傷するようなリスクを負わせてよいのでしょうか。
 すでに、「日米同盟の絆」はバングラデシュでの日本人犠牲者によって血塗られてしまいました。今度はアフリカの南スーダンで、日本の若者たちの血を流させようというのでしょうか。

 このままでは、日本という国の形が変わってしまいます。自由で民主的な平和国家としてのこの国のあり方は、安保法によって既に変質を始めています。
 憲法の原理と理念を破壊する「壊憲」策動を許さないだけでなく、安保法の全面的な発動を阻止することが必要です。先の大戦で多大な犠牲を払い、それへの反省として手に入れた自由で民主的な平和国家としてのこの国のあり方を守るために……。


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3月26日(木) 菅官房長官は自衛隊が憲法違反であることを認めるのか [自衛隊]

 軍隊ではないから憲法に違反しないのだというのが、これまでの説明でした。それが軍隊だというのであれば、憲法に違反することになります。

 昨日のブログで、安倍首相の「我が軍」発言について「失言だった」と書きました。しかし、そうではなかったようです。
 安倍首相は、この言葉を取り消していません。菅官房長官は「答弁の誤りにはまったく当たらない」と強弁しました。
 安倍首相が「我が軍」と言ったのは、うっかり口を滑らせた結果ではなかったということになります。もともと、政府が公式に自衛隊を「軍隊のひとつ」と認識しており、そのことを表明する機会を狙っていたということなのでしょうか。

 菅官房長官は昨日の記者会見で、安倍首相が自衛隊を「我が軍」と答弁したことについて、「自衛隊は我が国の防衛を主たる任務としている。このような組織を軍隊と呼ぶのであれば、自衛隊も軍隊の一つということだ」と述べました。
 菅さんは「自衛隊は憲法上、必要最小限度を超える実力を保持し得ないなどの制約が課せられており、通常の観念で考えられる軍隊とは異なる」と、従来の政府見解に沿って自衛隊の解釈を説明しました。そのうえで、「自衛隊は一般的に国際法上は軍隊に該当することになっている。自衛隊が軍隊かどうかというのは、軍隊の定義いかんによるものだ」と発言しています。
 首相答弁についても、「全体の流れとして、外国の軍隊と共同訓練をしていることに対しての質問の中で、自衛隊を『我が軍』と述べた。答弁の誤りにはまったく当たらない」と語りました。

 ということは、「国際法上は軍隊に該当」し、「軍隊の定義いかん」では「自衛隊が軍隊」であることを認めたことになります。「我が国の防衛を主たる任務としている」「組織を軍隊と呼ぶ」のであれば、「自衛隊も軍隊の一つ」だというわけです。
 自衛隊についての、このような解釈や説明の変更は、いつから、どのようにして、なされたのでしょうか。定義や見方によっては、自衛隊も軍隊だという、以前から繰り返されてきたものとは明らかに異なる見解への大転換は……。
 このような新しい見方は、政府の正式な見解なのでしょうか。そうであれば、憲法で規定されている「陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない」という第9条2項の規定との整合性をどう説明するのでしょうか。

 従来の説明は、昨日のブログでも引用した2006年12月1日の第1次安倍内閣の際に、安倍首相自身によって示された「保持することが禁止されている『陸海空軍その他の戦力』には当たらない」というもので、自衛隊は「実力」であって軍隊ではないとされてきました。しかし、今回の答弁では、一定の条件を付けながらも、「軍隊」であると説明されています。
 つまり、安倍首相も菅官房長官も、「軍隊の定義いかん」では自衛隊が憲法違反になることを認めたことになります。そのことの重大な意味を、これらの人は分かっているのでしょうか。

拙著『対決 安倍政権―暴走阻止のために』(学習の友社、定価1300円+税)刊行中。
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3月11日(水) 自衛隊とは「自衛」のための部隊ではなかったのか [自衛隊]

 鎮魂の日が続きました。昨日の3月10日は東京大空襲があった日で、今日の3月11日は東日本大震災から4年目に当たります。
 戦争と爆撃、大震災と原発事故によって、多くの人が亡くなったり、故郷を追われたりしました。東京大空襲では10万人が命を失い、東日本大震災では1万8500人近人が亡くなったり行方不明になっただけでなく震災関連死も3000人を突破し、いまだに避難生活を続ける人は23万人近く、原発事故でも12万人が避難生活を余儀なくされています。

 私の妻は墨田区の東向島で生まれ育ちました。妻の母親はすでに亡くなっていますが、関東大震災と東京大空襲の被災者です。
 もし、空襲で命を落としていたら、妻はこの世に生まれてくることができませんでした。義母も焼け出されたそうですが、かろうじて生き延びた僥倖は私にも及んでいるということになります。
 大空襲の被害は甚大で、民間人をも巻き込む無差別爆撃は許しがたいものですが、そのような無差別爆撃の最初の例が日本軍による重慶爆撃であったこと、東京大空襲の責任者であったカーチス・ルメイ少将に、戦後、航空自衛隊育成の功績を讃えて日本政府が勲一等旭日大綬章を送ったことを忘れないようにしたいものです。また、「イスラム国」(IS)などに対しては、民間人が巻き込まれる可能性のある爆撃が今も実行されているという事実も指摘しなければなりません。

 4年前の東日本大震災が勃発した日、私は法政大学多摩キャンパスにある研究所で、『日本労働年鑑』の編集作業を行っていました。ゆっくりとした大きな揺れが繰り返されたことを、今も鮮明に覚えています。
 交通機関であったバスは普通に動き、家族も在宅していたため我が家には全く被害がありませんでした。しかし、テレビに映った無残な映像には、言葉を失ったものです。
 その後、名取市の閖上地区や東松島市の野蒜地区などを訪れる機会がありました。実際の姿を見て、被害の大きさに茫然としたものです。

 戦争や震災、原発事故などはいずれも、繰り返される日常を一挙に破壊する「危機」の発生にほかなりません。当たり前の生活が「平和」であるとすれば、それを守ることが「自衛」ということの意味でしょう。
 自衛隊はそのためにあります。少なくとも、「人を殺す」ためではなく「人を生かす」ためにという限りにおいて、かろうじてこの部隊は国民から存在を認められてきたはずです。
 そうでなければ、「政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起ることのないやうにすることを決意し」(前文)、「国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄」したうえで、「海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない」 ことを宣言した憲法の下で、その存在は許されません。他国のための戦争に加われないことは自明のはずです。

 安倍政権は今、集団的自衛権の行使容認によって、このような自衛隊のあり方を根本的に転換しようとしています。「自衛」の概念を拡大し、「他衛」のためにも、いつでもどこでも、自衛隊を派遣できるようにしたいというわけです。
 こうして、自衛隊は「普通の国」の「普通の軍隊」として、「国際紛争を解決する手段」としても活用されることになります。そうなれば、もはや自衛隊は「自衛」のための部隊ではなくなり、「国防」軍でさえなくなってしまうでしょう。
 「政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起る」危険性が高まり、憲法上は認められていない「国の交戦権」が行使される可能性も生じます。自衛隊は軍隊となって戦争に巻き込まれます。

 多くの人々の死を悼む鎮魂の日に何を誓うのか、が問われているのではないでしょうか。このような日を、侵略戦争や原発推進などの過去の過ちを過ちとして直視し、それを繰り返さないためにはどうすべきなのか、国民一人一人が真剣に自問すべき機会としなければなりません。

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1月17日(金) 日本の「軍隊」もアメリカの軍隊もない平和な日本をめざすべきだ [自衛隊]

 またもや、悲惨な事故が起きました。瀬戸内海で全長178mもの巨大な自衛艦の輸送船「おおすみ」と衝突して7.6mの小さな釣り船「とびうお」が転覆し、4人が投げ出されて2人が亡くなるという海難事故です。

 事故の原因は何だったのか、どちらに問題があったのかは不明です。両者の位置関係はどうなっていたのか、どちらに回避義務があったのかなど、事実はこれから次第に明らかになることでしょう。
 しかし、素人である私からしても、何となく想像がつきます。巨大な輸送船が小さな釣り船の存在を軽視して無理やり前方を横切り、その航跡の渦に巻き込まれた釣り船が輸送船に衝突して転覆してしまったのではないかと……。
 輸送船はヘリ空母様式で甲板がせり出し、艦橋は右に寄っていますから、船の左舷下方は死角になります。小さな釣り船が衝突した跡が残っていたのは、まさにその左舷中央から後部にかけてだったのです。

 このような自衛艦による海難事故はこれで7回目になり、88年の潜水艦「なだしお」が引き起こした事故では30人が死亡、2008年のイージス艦「あたご」の事故でも2人が亡くなっています。今回の事故でも、2人の人が命を落としました。
 まさか「そこ退けそこ退け自衛艦が通る」ということで傍若無人な行動をとったわけではないと思います。しかし、図体がでかく態度もでかい軍艦には、しばしばそう指摘されるような問題がありました。
 このような事故が起きる度に再発防止が叫ばれ、どうしたら避けられるかが議論されますが、最善の策は軍艦をなくすことです。それが存在することによってどれほど安全が高まったかは不明ですが、それが存在したために安全が損なわれ34人の人命が失われたのは厳然たる事実なのですから……。

 ところで、この事故が発生した日の『東京新聞』1月15日付夕刊に、注目すべき記事が出ていました。沖縄国際大学講師の野添文彬さんへのインタビュー記事で、「72年 米が海兵隊撤退検討」「日本が維持主張 縮小機会失った」という見だしが付いています。
 「1972年の沖縄返還直後、米国防総省が沖縄を含む太平洋地域から海兵隊の撤退を検討していたことを示すオーストラリア外務相の公文書があることが分かった」というのです。この文書を発見したのが野添さんで、「米政府側の資料を見ると、73年7月の日米安保条約運用協議会で、防衛庁(当時)の久保卓也防衛局長は、第七艦隊、空軍、海兵隊はアジアにおける『機動戦力』であり、『目に見える証拠』として『海兵隊は維持されるべきだ』と主張した」と指摘しています。
 そして、「返還直後に沖縄の基地がもっと減る可能性があった。しかし、基地縮小の機会は失われ、日本政府の協力によって基地が維持されるという構図が、今日まで続いている」というわけです。

 なんということでしょうか。沖縄の海兵隊の撤退や縮小を阻んだのは、日本政府だったのです。
 沖縄の施政権が返還される前後に基地縮小のチャンスがあったのに、日本政府はそのチャンスを生かさなかったばかりか、それに反対していたというのです。沖縄の基地が縮小されずに維持されてきた最大の主犯は、米軍やアメリカ政府ではなく日本政府でした。
 「それまで米国務省内では、沖縄の海兵隊基地縮小の議論がなされていたが、基地を維持してやるから協力しろということに論理の転換が行われたといえる」との指摘もあります。「縮小」から「維持」への転換であり、「維持してやるから協力しろ」という論理による駐留経費の日本負担、すなわち「思いやり予算」に対する要求です。

 私は13日のブログ「沖縄名護市長選挙での稲嶺進候補の当選を訴える」で、「その後も米軍基地が存続し続けたのは日米両政府の怠慢の結果です。とりわけ日本政府は犯罪的なサボタージュに終始し、米軍基地の移設や撤去を米政府に強く求めるようなことはありませんでした」と書きました。しかし、日本政府は「サボタージュ」していたわけではなく、基地存続のために積極的に働きかけていたというのですから呆れてしまいます。
 まさに犯罪的であると言うべきでしょう。いや、「犯罪的」というより、沖縄県民に対して明確な犯罪を犯していたと言わなければなりません。
 そして、今また日本政府はこのような犯罪を犯そうとしています。米軍普天間飛行場の撤去・返還ではなく、辺野古への移設と新基地の建設を後押しすることによって……。

 このような日本政府の犯罪はきっぱりと断罪され、罰が与えられなければなりません。今回の名護市長選挙は、そのための絶好の機会になろうとしています。
 米軍基地の撤去を求める沖縄県民の明確な意思表示の機会として、この市長選挙を生かすべきでしょう。そのためにも、新基地建設のための辺野古沖の埋め立てに明確に反対している候補者の当選を勝ち取り、日本の「軍隊」もアメリカの軍隊も存在しない平和な日本と沖縄の実現に向けての第一歩にしようではありませんか。

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12月25日(水) 「積極的平和主義」の危険性を示している弾薬1万発の無償譲渡 [自衛隊]

 まあ、こういうことなんでしょう。安倍首相の言う「積極的平和主義」というのは。
 南スーダンの国連平和維持活動(PKO)に従事する韓国軍に弾薬1万発を無償譲渡したことです。これが安倍首相が行った韓国軍へのクリスマス・プレゼントでした。

 これは武器輸出3原則やPKO5原則、シビリアン・コントロールの徹底や非軍事的支援活動など自衛隊の海外展開に対する「しばり」を解除し、国際的な「平和」活動に軍事的に深くコミットしたいという安倍首相の願望を具体化したものです。このような狙いからすれば、韓国軍からの要請は「渡りに船」で、安倍首相からすれば「待ってました」と言いたくなるようなものだったでしょう。
 こうして、一歩一歩、日本は「戦争できる普通の国」に近づいていくことになります。それに連れて、日本は「戦争しない平和な国」でなければならないとした日本国憲法から遠ざかることになります。
 しかし、おかしいじゃありませんか。まだ、憲法は変えられたわけではなく、「専守防衛」という国是も「自衛のための必要最小限度の実力」であって「戦力」ではないという自衛隊の位置づけも、変化していないのですから……。

 政府は今回の弾薬の提供をPKO法25条の「物資協力」に基づくと説明していますが、法律の制定当時から国連への自衛隊の武器・弾薬の譲渡は明確に否定され、1991年の国会審議では「『物資協力』に武器や弾薬、装備は含まれるか」との問いに政府側は「含まれていない」(国際平和協力の法体制整備準備室長)と答弁し、「(国連)事務総長から要請があった場合は」との質問にも「そもそも事務総長からそういう要請があることは想定していないし、あってもお断りする」(同)などと強調していました。今回の措置はこれまでの説明を覆すもので、過去の「解釈」と「説明」を勝手に変えてしまうという点では「解釈改憲」と同様の手法になります。
 菅官房長官は「緊急性」を強調して、今回の措置が正当であるかのように言い繕っています。しかし、韓国政府の報道官は「予備分を確保するために臨時に借りた」と説明し、切迫した状況ではなく「念のために予備の弾薬を借りただけだ」と説明しています。
 どこに、「緊急性」があるのでしょうか。そもそも、インフラ整備のために安全であるはずの地域に派遣されている自衛隊が、韓国軍に無償譲渡できる弾薬を1万発も持っていたというのですから驚いてしまいます。

 自衛隊が活動している地域が、それだけの防備を必要とする場所なのでしょうか。もしそうなら、そのような危険な所に派遣することはPKO5原則に反することになります。
 もし、それほどの危険性がないというのであれば、菅官房長官の言う「緊急性」も説得力を失います。安全であれば緊急性はなく、緊急性があれば安全ではないということなのですから。
 今回の措置が例外中の例外だというのも信じられません。先に閣議決定された国家安全保障戦略(NSS)では武器輸出3原則に代わる新原則を年明け以降に定める方針が打ち出されており、日本とイギリスの間での武器共同開発の合意やトルコとの戦車用エンジン開発での協力などの既成事実化も着々と進んでいるのですから。

 今回の措置は国会での審議抜きに、国家安全保障会議で決定されています。重要な国策の例外措置がたった4閣僚の密室での合議によって決まってしまったわけです。
 ここにこそ、国家安全保障会議設置の意味があったのだと言うべきでしょうか。このような密室での国防政策の専断を合理化することこそ、まさにその狙いだったからです。
 このようなシビリアン・コントロールの弱体化も、今回が初めてではありません。すでに、自衛隊の部隊運用と作戦指導における制服組の主導権の確立が図られつつあるからです。

 こうして、一歩、また一歩と、日本は「戦争できる普通の国」へと歩みを進めています。この現実を直視し、その一つ一つの芽を摘んでいかなければなりません。
 気がついたときには、もう後戻りできなかった戦前のような失敗を繰り返さないためにも。

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8月11日(日) 自衛隊は自然災害への対応と災害救助を本務とするべきだ [自衛隊]

 集中豪雨と酷暑の中、花巻温泉から昨日帰ってきました。第62回東北民教研(東北民間教育研究団体合同研究集会)での記念講演「第2次安倍政権と子ども・教育のゆくえ」を終え、一泊したからです。

 新花巻に向かう東北新幹線の車中で、何気なく電光掲示のニュースを見ていたら、「東北本線は豪雨のため一関-盛岡間で運休」と出ました。その後、「秋田新幹線は前面運休」とも。
 驚きました。これから向かおうとしている場所は、豪雨に見舞われているようです。花巻は、運休している東北本線の中間にあります。
 外を見たら、どんより曇ってはいますが、雨は降っていないようです。不安な気持ちを抱えたまま、新花巻の駅に降り立ちました。

 幸いなことに、花巻温泉周辺の雨はもう止んでおり、ほとんど被害はなかったようです。私も時間通り到着することができました。
 しかし、鉄道の在来線や高速道路などが交通止めとなったりしたため、参加者の到着が遅れています。集会は予定より30分遅れて始まり、講演の後の質疑は取りやめとなりました。
 秋田や盛岡周辺では大きな被害が出たようです。被災された皆さんに、お見舞い申し上げます。

 東北民教研には学校の先生など250人ほどの方が参加されたようです。このような集会が62年間も続いてきたことに感心しました。
 講演で私は、参院選の結果、教育改革など安倍首相の攻勢が強まり、民意とのねじれが拡大せざるを得ないこと、安倍教育改革には愛国心教育の強化とグローバル人材の育成という二つの目的があるが、これは相互に矛盾していること、「人材」という捉え方がすでに教育観の誤りを示していること、教育とは国家や産業のためではなく、子ども自身のために行われるべきものであり、真の子どものための教育とはどのようなものでなければならないか、というような話をしました。
 講演の内容は録音され、いずれ活字になるようです、このブログにもアップしますので、いずれ読んでいただけるようになるでしょう。

 それにしても、最近の雨は「降れば土砂降り」で、大きな被害を引き起こします。東北大震災といい豪雨災害といい、自然による大災害こそ「今、そこにある危機」ではないでしょうか。
 「自衛隊」というのであれば、何よりも「自衛」すべき対象は実際に毎年繰り返されている自然災害でしょう。現実的な根拠が薄弱な「侵略」に対してではありません。
 軍事ではなく災害救助を本来的任務とする部隊へと、自衛隊を改組・再編すべきです。周辺諸国の自然災害に対しても出動可能な国際緊急救助隊とすれば、国際的な関係改善にも大いに役だつのではないでしょうか。

 「集団的自衛」もまた、戦争に対してというより自然災害に対してこそ、求められているように思います。このような意味からいっても、安倍首相が画策している解釈改憲+実質改憲(国家安全保障基本法の制定)による「集団的自衛」権の行使容認は完全な逆行であり、戦争準備の愚行であるといわなければなりません。

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