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11月27日(水) 第2次安倍政権と子ども・教育のゆくえ-新自由主義と軍事大国化のたくらみのなかで私たちにもとめられていること(その4) [論攷]

〔以下の講演記録は、『第62回東北民教研「花巻集会」記録集』(主催:東北民教連、日教組東北ブロック)に掲載されたものです。4回に分けてアップします。〕

 Ⅳ 何が求められているのか-「地球市民」としての子どもの育成と教育

(1)日本に生きる「地球市民」の育成

 このような教育改革の動きに対して何を対置していくのか、が問われなければなりません。本来の教育のあり方として「何が求められているのか」という問題でもあります。それは「地球市民としての子どもの育成と教育」であり、「日本に生きる地球市民の育成」ということでなければなりません。現代社会では、政治への発言力を持った民主的な人格が求められています。ところが、安倍内閣の教育方針はこれに逆行している。

 自分の意見や主体性を持たず、政治への関わりを避けようとする消極的な人間がどんどん出てくるような教育を行うことによっては、このような現代社会の要請には答えられません。膨大なノンエリート、つまり上意下達で言われることをそのまま受け入れそれを聞くというような教育のあり方は、まさに現代社会の要請に真っ向から反するものになるでしょう。

 現代のビジネス社会でも、自主性を持ち、想像力豊かな問題解決能力を持った人間が求められています。しかし、今の教育改革では、自主性を持たず自分の頭で考えない使いやすい「指示待ち人間」を増大させることになっていくのではないでしょうか。上から一方的に注入され押し付けられる教育、なるべく自主性を削ぐような形で教育を管理し統制するようなことでは、ビジネス社会の要請にも答えられないということなんです。

 これはアベデュケーションの大きな矛盾です。自分の頭で考え、問題を設定し解決できるような人格を、今の教育再生実行会議が目指すような方向で育成できるのか。このことが大きな問題としてあるわけです。既に、今の学校社会でも、できるだけ枠からはみ出さないように「枝葉」を切って管理・統制し、「言うことを聞くようなおとなしい学生」を作っている。ところがいざ、就職するとなりますと、「今の学生はおとなしすぎる」「自分の意見を持たない」「もっと元気な方がいい」「多少規格を外れるような人間のほうが現在のビジネス社会には合っている」というように、全く反対のことを求められる。

 「だったら、そういう教育をちゃんとやってくださいよ!」と、言いたくなるでしょう。大学を卒業するまでに枠に入れ型にはめ、がんじがらめに縛り付けておいて、いわば「覇気」を抜いて社会に送り出そうとする。ところが、そこで「お前、覇気がないな」といわれる。そう言われる学生は、かわいそうじゃありませんか。今日既に、「国際社会で活躍できるようなグローバル人材」が身につけるべき資質を、きちんと育成できるような形になっていない。更に、それに輪をかけて増幅させようという。これでは、国際社会で活躍できるはずがありません。

 マイノリティーに共感して民族の共生を尊重するコスモポリタンが求められているのに、愛国心教育ですから。日本は悪くなかったということを教え込もうとしている。日本の戦争責任や植民地支配の過ちを認めず、周辺諸国を蔑み民族的差別に鈍感な「愛国者」がどんどん増えていく。それで良いんですか。今、東京の新大久保では「在日朝鮮人を殺せ」というようなヘイトスピーチ、ヘイトデモが起こっている。そこに若い人たちが参加し、共感を持つという。そのような人たちが、韓国や中国など、国際社会で活躍できるでしょうか。

 日本という国は国際的な水準から離れた、特異な、おかしな国になりつつあるのではないか。このような目で、今でも国際社会から見られています。麻生さんの発言がありましたが、ヒトラーやナチスを例に上げること自体、ヨーロッパ社会では許されない、考えられないことなのです。あの発言自体も問題だけれど、それに対してどのような責任も取らされないという処理の仕方も、国際社会から見れば極めて奇異でしょう。「日本という国はやはりおかしいのではないか」「ああいう重大な発言をしても責任を取らなくて良い国が日本なのか」というふうに、国際社会からは見られているでしょう。

 自国の歩みや世界の動きに精通した国際感覚豊かな地球市民こそ、グローバル市民になれるわけです。そのような教育をやらなければならない時に、「日本は悪くなかった」「従軍慰安婦は『あの当時としては』必要だった」「侵略の定義がはっきりしないから、あの戦争は必ずしも侵略戦争とはいえない」「韓国は植民地時代に、かえって経済発展したのではないか」などと言い出す人も出てくる。

 植民地時代にインフラの整備が進んだかもしれません。だが、それは植民地として支配するために、豊かにして経済的に搾取し収奪しようという目的の下に、それに役立つ限りにおいてなされたことです。それをあたかも植民地のためになったかのように捉えてしまう。これも歴史的な文脈や全体構造を理解せず、部分しか見ていない典型例です。そういう歪んだ歴史観、世界の歩みをきちんと理解できない、国際感覚に欠けるような人間は、決してグローバル市民にはなれず、したがって「グローバルな人材」にもなれないでしょう。

(2)本当に求められている教育改革とは

 本当に求められている教育改革とは、憲法や子どもの権利条約などに基づくものでなければなりません。必要なのは、子どもが育つ家庭と学校を支えることです。今は特にそうです。生活苦がだんだんと拡大してきているからです。それは家庭の危機を生み出し、教育を歪める大きな原因になっています。

 かつての日本社会の特徴は「中間層がたくさんいる」ということでした。「中流社会」であると言われ、「あなたはどこに属しますか」と調査すると殆どの人が中間層、中流だと答えました。今はおそらく「中流」と答える人は減っているでしょう。現在、東京で問題となっているのは「脱法ハウス」です。一つの部屋を区切って、二段ベッドをおいたりして4~6人で住んでいる。窓もない。自分のスペースはベッドの上しかない。そういうところでなければ生活できないほど貧しい人たちが増えています。

 生活保護世帯は最高を更新し続けています。年収200万円以下の「ワーキングプア」と言われる働く人たちの数は1000万人を超えている。非正規労働者は働く人の38%。こういう状況が生まれている中で、貧しさのために教育を受けられない子どもたちも増えています。このような子どもたちの問題を解決するためには、その背景になっている「家庭の貧しさ」を解決しなければなりません。

 働き方を変えて貧困と格差を解消し、社会保障を充実するというようなことをやらなければならない。にもかかわらず、今は逆行しています。8月1日から生活保護費が削減され、社会保障についても全世代で負担を分担するという名目で、「聖域を認めず」にかたっぱしから削る方向性が出されている。貧しさのためにまともな教育を受ける余裕が失われています。生活苦によって、教育を受ける権利が損なわれているというのが現状です。

 とにかく、子どもが学校に来られるようにしなければならない。お金がなくて教育を受けられないというような状況を放置してはなりません。教育への国費の投入を増やす。「口を出さずに金を出せ」ということですけれども、日本の公的な教育への財政支出は、GDP比でも一般政府総支出に占める割合でも、他のOECD諸国と比べてかなり低い。ほとんどのOECD加盟国では2008~2009年にかけて教育支出が増加しましたが、日本の支出は低下しました。日本の教育を国際標準に近づけるというのであれば、ここをまず改善しなければならない。

 日本で公的な補助や奨学金を受ける学生は33%です。アメリカは76%、イギリスでは94%ですから、日本は大きく下回っています。高等教育に対する公的財政支出のGDP比がOECD加盟国中最も低い国の一つが日本です。こういう状況を改善する必要があります。公教育にもっと財政を支出しなければならない。せめてOECD諸国の平均ぐらいまでは回復しなければなりません。

(3)カギになるのは「先生の困難」の解決

 なかでもカギになるのは、先生の困難の解決です。皆さんの多くが先生であるとお聞きしていますが、その先生が、大変、困難な状況に置かれています。例えば、団結の砦としての労働組合ですが、日教組の組織率は去年の10月1日時点で25.8%です。ずっと下がり続け、過去最低になっています。全教の組織率が5.1%で教職員団体の全体の組織率も39.3%、37年連続で低下し続けている。

 以下の統計は「図表で見る教育2012」というOECDの出したデータに基づくものですけれども、先生の勤務時間は合計で1876時間です。OECD平均(小学校1678時間、中学校1673時間、高校1676時間)と比べて大幅に長い。先生も働き過ぎになっているということです。

 収入の面では、勤続15年の教員の実質給与はほとんどの国で過去10年間、上昇している。低下したのは日本、フランス、スイスのみ。とりわけ日本は9%減と最大の下げ幅になっています。特に初任給が、日本の場合は少ない。それから、給与の中に各種手当が「込み」になっている。残業だとか休日出勤の負担というのも大きくなっているのに、割にあわない形になってきているということです。

 小学校の平均学級規模は、日本は28人で30人学級が一応実現されているということになっています。しかし、OECD平均では21人です。OECD加盟国ではチリの29人に次いで日本は2番目に多い。中学校の学級規模も33人で、OECD平均の23人を上回り、韓国の次に多くなっています。教員が子どもと接触する時間を充分に持てて、接触するべき子どもの数がもっと減るということでなければ、状況は改善されないでしょう。

 一昨年の『朝日新聞』11月8日付に「辞める新人教員の増加」という記事が出ています。「全国の公立学校に勤める新人教員のうち、1年以内に依願退職した人の数が2010年度までの10年間で8.7倍に増えたことがわかった。特に心の病による退職が急増している」と書かれています。

 心の病ということになりますと「メンタルヘルス不全」です。これは現在、企業全体の中でも大きな問題となっております。経団連の調査でも、企業の8割でこのような問題が発生しているという回答がある。うつ病が非常に増えている。競争が激しい、勤務が厳しい、労働時間が長い、給与はそれに見合った形でなかなか増えない。ということで、労働者が精神的に追い込まれているわけです。

 最近は雇用が不安定化し、いつクビにされるかわからない。「ロックアウト解雇」というとんでもない首切りがありまして、突然「明日からお前はもう来なくていいよ」と閉め出されてしまう。元の職場に入れず、私物なんかも取りにいけない。後で、箱に入れて送られてくる。退職も、会社都合ではなく自己都合の退職に追い込むために、「追い出し部屋」のような部署に置かれ、やる仕事は自分の再就職先を探すことだという。とんでもない話ですよ。

 これでは精神的におかしくならない方がおかしい、と言いたくなるような状況です。先生の世界でも、同じような問題が生まれてきている。雑用に時間と神経をすり減らされ、忙しさすぎる。相談したり助け合ったりする教師集団も弱体化している。非正規教職員がどんどん増えていく。2012年度の公立中学校の非正規教員は16%11万3000人です。学校の中でも非正規化が進んでいるということです。

 給与、労働条件が悪化し、若いうちの退職者が増加している。一般の企業でも、若年退職の増加が近年の特徴になっています。就職するのが大変で、大学を出ても就活、何社も何十社もまわる。なかなか面接まで行かない。面接まで行っても採用されない。だんだん精神的に追い込まれてしまう。やっと就職できても、非常に厳しい労働条件のもとで長時間働かされ、耐えられなくなって辞めるという。こういう形で若い人を大量に採用して大量に退職させる、新規採用の半分近くが三年以内にやめてしまう企業が増えています。

 こういう会社を「ブラック企業」というのです。ユニクロなんかはその典型です。あるいは過労死、過労自殺ということで労働時間が長い、過労で倒れてしまう。ワタミの渡邉美樹会長が参院選で自民党から立候補しましたけれども、このためにブラック企業問題が選挙の大きな争点となった。厚生労働省は最近ブラック企業に対する調査を始めると発表しました。こういう形で現在の若者の働く状況が注目を浴びるようになってきている。当然の事だと思います。非常に厳しいのですから。

 そういう厳しさが先生の世界にも入ってきている。残業、長時間労働、病休、メンタルヘルス不全などで精神を病んでしまう。しかも、学校行事があれば「君が代を歌ったかどうか」が追及される。どういう教育内容かを調査されるならまだしも、「君が代を歌ったかどうか」、口を開いて声を出していたかどうかが問題とされる。それが学校での教育といかなる関係があるのでしょうか。このような状況に先生が追い込まれている。おかしいじゃありませんか。

 何よりも、子どもに対して接触する時間が多く、考える時間も多いというような状況に先生が置かれることが大切でしょう。それ以外の余計な心労をかけない。余計な心配をかけない。雑用から解放し、安心して、全身全霊で子どもに相対することができるような条件を確保する事こそ、教育行政の最大の役割だと言っていいんじゃないかと思います。

 そのことが、今の教育改革に最も欠けている。逆に、真面目な先生ほど苦悩し、萎縮し、精神を病んだりし、やる気を失っている。皆さんの周りでも、そのような先生が少なくないという状況になっているのではないかと思います。これでどうして、十分な時間をかけ、情熱を持って子どもたちに接することができるのでしょうか。

 むすび

 現代の民主社会にふさわしい真にグローバルな地球市民に向けての人格の陶冶こそ、教育の課題でなければならない。これが結びということになるわけです。しかし、教育問題だけでなく、今の重要課題のどれをとっても、問題の解決に向かうのではなく逆行している。間違った政策方向が選択され、間違った対処方針が取られようとしています。

 このような間違った政策、方針は必ず、間違った結果を生み出すことになるでしょう。誤った政策は、現実によって大きなしっぺ返しを受けます。原発を推進するという間違った政策が、過酷事故によって大きなしっぺ返しを受けたように。それをさらに再稼働すれば、いずれまた同じような形で大きな事故や問題を引き起こすでしょう。戦前の間違った教育は侵略戦争を引き起こし、その戦争で日本国民310万人、周辺諸国1000万人の命を奪うという大きな災厄を生み出してしまった。間違った教育は悲惨な結末によって大きなしっぺ返しを受けたわけです。

 しかし、われわれ人間は、事実によってしっぺ返しを受ける前に、その結果を予測し、そのような悲惨な未来を事前に、未然に避ける事ができる知恵も持っているのではないでしょうか。悲惨な結果を避けるために、今どうすることが必要なのかを考え、政策を転換させるだけの主体的な行動を起こす力があるはずです。違った未来を選択できる能力も私たちにはあるはずではありませんか。

 そのような間違った結果が起きないようにすること、「もう一つの道」を選択することができるような賢い主権者を育てることも、教育の重要な役割です。しかし、いま目指されている安倍教育改革によっては、真の学力も国際性も、そして賢い主権者としての資質も、全く身につかないであろうと思います。そうなった場合、最大の被害者は子どもたちです。

 総選挙や参院選のとき、最後の日に秋葉原で安倍首相と麻生副総理が選挙カーの上で演説しました。多くの若者が周りを取り囲み、日の丸の旗を打ち振って安倍さんや麻生さんの演説に歓呼の声で答えていた。その映像を見て私は暗澹たる気持ちになりました。これはまるで、「肉屋の演説に熱狂する豚の群れ」ではないか、と。演説を終えた安倍さんは、選挙カーの上から降りてきて、シュッシュ、シュッシュと包丁を研いでいたのではないでしょうか。

 そのことを知らないで、若者たちは歓呼の声を上げている。いずれこの人たちは、安い労働力として安あがりの兵士として、過酷な労働現場や戦場へと送られてしまうかもしれない。「肉屋の演説に熱狂する豚の群れ」は、いずれ「肉の塊」となって肉屋の店頭に並べられることになるのではないか。子どもたちや若者を、断じてそういう状態に追い込んではなりません。

 今の安倍教育改革をストップさせることができる力を、ぜひ、みなさんの中から生み出していっていただきたい。都(みやこ)から「征夷」のために差し向けられた坂上田村麻呂に敢然と立ち向かった阿弖流為(アテルイ)のように、ここ東北の地から、安倍教育改革に敢然と立ち向かう大きな狼煙(のろし)を上げてもらいたい。そのことを強く期待いたしまして、私の話を終わらせていただきます。どうもありがとうございました。(拍手)

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