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3月11日(水) 自衛隊とは「自衛」のための部隊ではなかったのか [自衛隊]

 鎮魂の日が続きました。昨日の3月10日は東京大空襲があった日で、今日の3月11日は東日本大震災から4年目に当たります。
 戦争と爆撃、大震災と原発事故によって、多くの人が亡くなったり、故郷を追われたりしました。東京大空襲では10万人が命を失い、東日本大震災では1万8500人近人が亡くなったり行方不明になっただけでなく震災関連死も3000人を突破し、いまだに避難生活を続ける人は23万人近く、原発事故でも12万人が避難生活を余儀なくされています。

 私の妻は墨田区の東向島で生まれ育ちました。妻の母親はすでに亡くなっていますが、関東大震災と東京大空襲の被災者です。
 もし、空襲で命を落としていたら、妻はこの世に生まれてくることができませんでした。義母も焼け出されたそうですが、かろうじて生き延びた僥倖は私にも及んでいるということになります。
 大空襲の被害は甚大で、民間人をも巻き込む無差別爆撃は許しがたいものですが、そのような無差別爆撃の最初の例が日本軍による重慶爆撃であったこと、東京大空襲の責任者であったカーチス・ルメイ少将に、戦後、航空自衛隊育成の功績を讃えて日本政府が勲一等旭日大綬章を送ったことを忘れないようにしたいものです。また、「イスラム国」(IS)などに対しては、民間人が巻き込まれる可能性のある爆撃が今も実行されているという事実も指摘しなければなりません。

 4年前の東日本大震災が勃発した日、私は法政大学多摩キャンパスにある研究所で、『日本労働年鑑』の編集作業を行っていました。ゆっくりとした大きな揺れが繰り返されたことを、今も鮮明に覚えています。
 交通機関であったバスは普通に動き、家族も在宅していたため我が家には全く被害がありませんでした。しかし、テレビに映った無残な映像には、言葉を失ったものです。
 その後、名取市の閖上地区や東松島市の野蒜地区などを訪れる機会がありました。実際の姿を見て、被害の大きさに茫然としたものです。

 戦争や震災、原発事故などはいずれも、繰り返される日常を一挙に破壊する「危機」の発生にほかなりません。当たり前の生活が「平和」であるとすれば、それを守ることが「自衛」ということの意味でしょう。
 自衛隊はそのためにあります。少なくとも、「人を殺す」ためではなく「人を生かす」ためにという限りにおいて、かろうじてこの部隊は国民から存在を認められてきたはずです。
 そうでなければ、「政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起ることのないやうにすることを決意し」(前文)、「国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄」したうえで、「海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない」 ことを宣言した憲法の下で、その存在は許されません。他国のための戦争に加われないことは自明のはずです。

 安倍政権は今、集団的自衛権の行使容認によって、このような自衛隊のあり方を根本的に転換しようとしています。「自衛」の概念を拡大し、「他衛」のためにも、いつでもどこでも、自衛隊を派遣できるようにしたいというわけです。
 こうして、自衛隊は「普通の国」の「普通の軍隊」として、「国際紛争を解決する手段」としても活用されることになります。そうなれば、もはや自衛隊は「自衛」のための部隊ではなくなり、「国防」軍でさえなくなってしまうでしょう。
 「政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起る」危険性が高まり、憲法上は認められていない「国の交戦権」が行使される可能性も生じます。自衛隊は軍隊となって戦争に巻き込まれます。

 多くの人々の死を悼む鎮魂の日に何を誓うのか、が問われているのではないでしょうか。このような日を、侵略戦争や原発推進などの過去の過ちを過ちとして直視し、それを繰り返さないためにはどうすべきなのか、国民一人一人が真剣に自問すべき機会としなければなりません。

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