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12月12日(月) 川﨑さんの思い出 [論攷]

〔以下の論攷は、追悼集『回想の川﨑忠文』http://e-kyodo.sakura.ne.jp/candc/111126kawasaki.pdfに掲載されたものです。〕

 「先駆けのジンだね」
 折に触れて、川﨑さんはこう言いながら私をからかったものです。気が短くてせっかちなところと、比較的早く仕事をこなしていたことを、このひと言で表現していたのだと思います。
 でも、川﨑さんは、私以上にせっかちだったといわざるを得ません。こんなに早く、この世からいなくなってしまったのですから。
 今もなお、川﨑さんを失った衝撃から立ち直れずにいます。あれからもう二年近くも経つというのに、人なつこい笑顔とお喋りが忘れられません。

 私と川﨑さんが出会ったのは、二五年ほど前になるでしょうか。恐らく、大原社会問題研究所が多摩に移転した一九八六年の時だったのではないかと思います。一緒に高水三山に登った八六年の写真が残っていますから。
 深い付き合いが始まったのは、私が専任になって『大原社会問題研究所雑誌』の編集を担当し、川﨑さんに割付をお願いするようになってからでした。一緒に仕事をするようになり、私たちは急速に親しくなりました。どちらもお酒とカラオケが好きだったからです。ただし、お喋りは、数段、川﨑さんの方が上でしたが。
 月に一度、割付の仕事が終わると、必ず一緒に飲みに行きました。これは、私が雑誌編集から『日本労働年鑑』の仕事に移ってからも続きました。それだけではありません。八方尾根から蓮華温泉、棒ノ折山に日ノ出山、高尾山などに一緒に登ったり、ほったらかし温泉や富士五湖巡りのバス・ハイクをしたり。楽しかった思い出は尽きません。
 その川﨑さんがこんなに早く他界されるとは、思いもよらないことでした。悔やまれるのは、もっと早く異変に気づくべきだったということです。必ず出ていた研究所の忘年会に欠席されたとき、何かあったと気づくべきでした。そうすれば、もっと早く発見されたはずです。
 それまで、無断欠席はもとより、約束を破ったことは一度もありませんでした。その川﨑さんが連絡もなしに欠席されたことの重大性にどうして気づかなかったのか、今でも悔やまれます。このとき、すでに川﨑さんはこの世の人ではありませんでした。青梅のマンションで、一人冷たくなっていたのです。
 急を聞いて駆けつけた青梅警察署の霊安室でお目にかかった川﨑さんは、穏やかな顔をしていました。青梅の自宅には、几帳面だった川﨑さんらしく一二月一三日までのウオーキングの記録が残されており、一四日夕刊以降の新聞が散乱していたそうです。亡くなられたのは恐らく一二月一四日の朝。習慣になっていた朝風呂から出て、着替えをしている最中のことだったと思われます。

 遺品などで、研究者・教育者としての川﨑さんを見直しました。研究を続けておられ、授業の準備も完璧だったからです。『日本労働運動資料集成』の仕事をご一緒し、労働運動の現場を知る研究者としての知識と見識に感心しましたが、それでも私の認識は不十分でした。
 まだまだ、教えていただくことが沢山あったはずです。一緒に飲み、歌い、歩き、語り合うことも。今となっては、かなわぬこととなってしまいました。一七歳年下だった私は「必ず、骨を拾ってやるからね」などと軽口を叩いていましたが、こんなに早く現実になってしまうなんて。本当に、残念です。


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