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5月10日(金) 「戦後保守政治の転換」点としての中曽根内閣   [内閣]

 1週間ほど後に刊行される新著『追撃 自民党大軍拡・腐敗政治―政権交代のために』(学習の友社)の執筆に際して、私が37年前に出した処女作『戦後保守政治の転換―「86年体制」とは何か』(ゆぴてる社、1987年)を読み返してみました。その結果、再確認したことがあります。やはり、「戦後政治の総決算」をめざした中曽根内閣こそが「戦後保守政治の転換」点だったということです。

 本書の序章は「戦後保守政治の現段階」の分析に与えられています。その「むすび」の部分を以下に引用しておきましょう。

 <中曽根首相のめざす「戦後政治の総決算」とは、第1に戦後政治の基本的枠組みの打破であり、第2にその枠組みを前提とした「保守本流路線」の克服である。その主な内容は、(!)従属的対米協調路線からより「対等」なNATO型同盟路線へ、(2)経済主義路線から政治主義路線へ、(3)解釈改憲路線から明文改憲路線へ、(4)合意漸進路線から独断急進路線へ、という形での、戦後保守政治の基本的政策内容と政治スタイルの転換にほかならなかった。戦後保守政治の枠組みを形成する主体となり、その後の情勢変化にもかかわらず、それを「タブー視」して後生大事に守ってきた「保守本流」に、この転換は実行しえない。「保守路線」の行き詰まりを救うことができるのは、「傍流」として独自の政策構想と政治スタイルを持つ中曽根政治以外にない……。中曽根首相の胸中には、このような思いが渦巻いていることだろう。
 それが「戦後政治の総決算」である。タテマエとしての憲法、タテマエとしての非核、タテマエとしての軽武装、タテマエとしての議会制民主主義、タテマエとしての国民主権、タテマエとしての世論の尊重、そして、タテマエとしての政治倫理……。
 タテマエはもうたくさんだ。今こそホンネの政治を。そして、中曽根首相はこのホンネを堂堂と披瀝する。
 「私の究極の目的は、日本国民固有の堂々とした理想を具体的に盛り込んだ憲法である」(「私の政治生活」)。
 「総決算」されようとしているのは、憲法によって支えられた戦後民主主義そのものなのである。
 これはまだ緒についたばかりだ。中曽根政治の全体像は、ようやくぼんやりとその姿を現してきているにすぎない。戦後保守政治の基本路線をしいた「吉田政治」に代わる「中曽根政治」を確立し得るか否か。そして、それによって動揺期にある保守支配の反動的再興に成功するかどうか。ま近に迫った「ロッキード事件」田中判決をめぐる政治的攻防と、それを前後して実施されるであろう解散・総選挙を通じて、答えが出されるのはまさにこれからである。
 鈴木首相の退陣表明によって激しく揺れ動いた82年秋から1年。中曽根政治による戦後民主主義の「総決算」を許容するか、それとも、田中角栄に体現された金権化体質と中曽根康弘に象徴される右傾化体質を二大宿痾とする自民党政治そのものの「総決算」をもたらすか、83年秋は、戦後政治の重大な分岐点になろうとしている。(1983年9月)>

 最後に1983年9月とありますから、41年前に書かれた文章です。私が32歳の時で、若さにありがちな気負いが感じられますが、基本的に修正する必要はありません。「ここに書いたことは間違っていなかったよ」と、41年前の私に言いたい気持ちです。
 これを書いた直後の10月に東京地裁が田中角栄被告に懲役4年・追徴金5億円の実刑判決を出し、その2カ月後に解散・総選挙(田中判決選挙)となり、自民党は250議席と過半数を割りますが、保守系無所属の追加公認で過半数を回復しています。さらに3年後の1986年に「死んだふり解散」と言われる衆参同日選挙によって300議席と大勝し、総裁任期の1年延長に成功します。その背後で、統一協会が60億円をかけて中曽根支援に暗躍していました。
 結局、中曽根首相は「賭けに勝った」ことになります。「戦後保守政治の基本路線をしいた『吉田政治』に代わる『中曽根政治』を確立し得るか否か。そして、それによって動揺期にある保守支配の反動的再興に成功するかどうか」という問いには、イエスと答えざるを得ません。こうして「保守支配の反動的再興」の流れが始まり、それは第2次安倍政権で最高潮に達し、今日の岸田政権へと受け継がれてきました。 

 岸田首相は保守本流であった宏池会(旧池田派)の末裔ですが、すでにその面影はなく、保守傍流右派路線に屈服し吞み込まれた無様な姿をさらしています。それは安倍元首相によって完成された保守傍流右派路線の拡大再生産にすぎません。その源流は中曽根元首相による反憲法政治と明文改憲志向、戦後政治の総決算、国際国家論と軍事安保路線、軍事費のGNP比1%枠突破、臨調・行革路線と国鉄分割・民営化、スパイ防止法案、ブレーンを多用した審議会政治による国会軽視などにあり、これらの点でまさに中曽根内閣こそ戦後保守政治の転換点だったのです。

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