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9月10日(月) 3回の中国旅行でのほぼ全域網羅という意味は [旅]

 昨日のブログで、私は「これで、わたしの中国訪問は、ひと通り、中国全土を網羅することになりました」と書きました。これは、中部から南部、東北地域、そして西域の訪問を終えたからです。

 私の中国訪問は、今回で3回目になります。妻と2人で行くのは初めてで、カミさんにとっては初めての中国旅行でした。
 最初は、1989年の天安門事件の直後、7月末から9月末までの2ヵ月間、上海外語学院への短期留学です。中国語を全く介さない私がこの機会をどう生かすかを考えた末、「中国共産党と抗日戦争」というテーマを掲げ、中国各地の中国共産党に関わる史跡や抗日戦争の根拠地、八路軍の事務所や戦跡をめぐることにしました。
 そのためには、各地を旅しなければなりません。しかし、6月4日の天安門事件からまだ一月半しか経っていなかったため、当初、この計画は外語大の関係者に強く反対されました。

 しかし、結局、この時は4回、旅行に出かけています。最初の3回は、外語学院の教員で季林根先生、最後の旅行では大学院生の除衛良さんに案内していただきました。
 中国訪問での最初の旅は、上海外語学院の保養施設(寮)への1泊2日の旅でした。この寮は太湖の畔にあり、鹿頂山の上から「三山」と呼ばれる島が良く見え、「無錫旅情」を歌って訳してもらったものです。
 この時の旅では、無錫や蘇州も訪問しました。上海外語学院が持っているという車を手配してもらっての旅でしたが、運転手の朴さんが彼女だという石紅さんという可愛い女子学生を伴ってきたのには驚きました。

 2回目は、瑞金を包囲されて脱出した毛沢東が根拠地を構えて朱徳将軍らと合流した井崗山に行きました。途中、南昌にも滞在しましたが、ここは1927年8月1日、周恩来、賀竜、葉挺、朱徳、劉伯承らが武装蜂起「八一起義」を起した場所で、この日は人民解放軍の結成記念日になっています。
 3回目は、太湖での旅で知りあった石紅さんに招待され、その実家のある寧波に行きました。途中、西湖のある杭州、隣の紹興酒で有名、というより魯迅や周恩来の生まれ故郷である紹興に立ち寄り、寧波からは蒋介石の生まれ故郷で母親の大きなお墓のある奉化にも足を伸ばしました。

 このようにして、徐々に旅になれてきた私は、中国の中心部と南部を巡る1ヵ月間の大旅行に旅立ちます。季先生は天安門事件に関連する重要会議があるということで同行できず、一悶着の末、除さんを紹介してくれました。
 こうして、留学先の上海外語学院の宿舎「専家楼」を出発し、北京、西安、延安、成都、重慶、昆明、シーサンパンナ景洪、桂林、悟州、広州、武漢、九江、廬山、南京、黄山を巡って上海に戻りました。これもまた、危険かつ苛酷きわまりない旅で、良く無事に戻ってきたと思います。
 当時、私は38歳で、まだ若かったということです。いまなら、とてもこんな旅はできません。

 この旅の途中、西安に立ち寄りました。毛沢東らが抗日戦争の拠点を築く目的で井崗山からの長征を経て辿り着いた延安に行くためです。
 そのため、このときは時間がなく、西安市内の碑林博物館や大雁塔などには立ち寄っていません。今回、前者には行けましたが、後者はまたもお預けとなりました。
 この1回目の中国留学と旅行については、「海外通信 中国の旅の空から(1~13)」として『労働法律旬報』第1221~1235号(1989年8月~1990年3月)に連載しました。興味・関心のある方は、ご笑覧いただければ幸いです。

 さて、2回目の訪中は、8年くらい前になりましょうか。中国東北部(旧満州)を訪ねました。当時、大原社会問題研究所に客員研究員として来ていた劉全勝さんから中国訪問を強く勧められたからです。
 「それなら」ということで、以前から行きたいと思っていた旧満州地域に行くことにしました。このときは、研究所の同僚など3人で大連に飛び、そこで劉さんと合流し、「731部隊」の跡地などのあるハルビンから、長春、瀋陽、大連、旅順(203高地など)と、バスや列車を乗り継いで南下しました。
 このとき中国の広大さを実感しましたが、今回の旅はそれを上回るものでした。いずれにしても、この広大な大地を侵略し、傀儡国家を建設して支配しようとした旧日本帝国の愚かさ、罪の深さを再認識させられたものです。

 そして、今回の西域旅行で、蘭州、嘉峪関、敦煌を訪れることになったというわけです。これで、中国の主要都市はほとんど訪問したことになります。
 少なくとも地域としては、チベットや西域のさらに西の方を除いて、「ひと通り、中国全土を網羅することにな」ったと言えるでしょう。残念ながら、洛陽や開封などの都市、大理や香格里拉(シャングリラ)、石林、九寨溝・黄龍、張家界、莫高窟と並ぶ中国三大石窟の竜門石窟と雲崗石窟などの観光地には、まだ行っていません。これからの楽しみというところでしょうか。
 ところで、兵馬俑博物館で知り合った日本語を学ぶ女子大学生が、「出身地は河南省の省都である長沙です」と自己紹介したので、「私は中国のほとんどの都市に行ったけれど、毛沢東の出身地である長沙にはまだ行ったことがありません。これを調査漏れと言います」と洒落たんですが、隣で聞いていた日本人は大笑いしたものの彼女はポカンとしていました。ちょっと、学生には難しかったでしょうかね。

 これまでの訪中と今回とでは、若干の違いがありました。それを含めて感じたことがいくつかありますが、これについては、また明日……。

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