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4月9日(水) 大原社会問題研究所の歴史と意義(その1) [論攷]

〔以下の論攷は、科学的社会主義研究会『研究資料』第11号(2014年3月)、に掲載されたものです。3回に分けてアップします。〕

はじめに

 大原社会問題研究所は1919年(大正8)年に岡山県倉敷の紡績実業家・大原孫三郎によって設立され、2014年2月9日に創立95周年を迎えた。社会科学分野での民間の研究所としては、日本で最も古い歴史を持っている。研究する研究所は数多くあるが、研究される研究所は大原社会問題研究所くらいではないだろうか。
 大阪の天王寺で産声を上げた研究所は1937年に東京に移転し、戦前・戦中の厳しい時代を経て1951年には法政大学の付置研究所となり市ヶ谷キャンパスに移った。1986年、多摩キャンパスの開設に伴って研究所は図書館・研究所等に移転し、今日に至っている。
 大原社会問題研究所は、①社会・労働問題に関する調査・研究を行う機関、②専門図書館・資料館、③社会・労働問題の資料・文献情報センターという機能を兼ね備えている。これも他の研究所にはない特色だといえる。とりわけ、労働組合運動関係原資料の保存という点では他の追随を許さず、所蔵している図書は17万冊、機関紙誌は約8000タイトル、原資料は総棚延長900メートルに及ぶ。
 この大原社会問題研究所はどのような歴史を経て今日のような姿になったのだろうか。以下、研究所の歩みを振り返り、その意義を明らかにすることにしたい。

1 大原社会問題研究所の設立と高野所長の就任

 1919年2月9日、財団法人石井記念愛染園という社会福祉や医療関係の施設を運営するための団体に研究所が設立された。社会問題の解決にはその根本的な調査・研究が必要だということで、大原孫三郎は研究所の設立を意図したと言われている。それ以前に大原救済事業研究所があったが、これと合併して大原社会問題研究所になった。
 初代所長には高野岩三郎前東京帝国大学経済学部教授が就任した。この就任のいきさつと高野の所長就任が、その後の研究所のあり方に大きな意味を持ったと思われる。
 研究所の設立について大原孫三郎は河上肇などに相談し、「社会問題研究所」という名前も河上が出していた『社会問題研究』という雑誌から取ったと言われている。大原は河上など京都大学の教員を中心に研究所のスタッフやメンバーを考えていたのではないか。愛染園の所在地は大阪市天王寺だったから、京都大学の教員をあてにするというのは自然な流れであった。
 しかし、ちょうどこの頃、「ILO労働代表問題」が起きた。1919年のILO第1回総会に向けて日本の労働側代表として高野を選任することを政府が決め、高野は労働組合のためになるならということで、これを引き受けた。ところが、労働側代表は労働組合が選ぶべきであると、当時の労働組合ナショナルセンターだった「友愛会」が異議を申し立てた。
 組合のために良かれと思って引き受けた労働代表が、その組合の反対によって紛糾の材料になったというわけである。高野は板挟みになって悩んだすえ労働代表を辞退し、混乱の責任を取る形で東京帝国大学の教授を辞任した。このとき、高野の弟子であった大内兵衞と森戸辰男の2人も一緒に辞めようとしたそうだが、高野はそれを押しとどめて2人は大学に残った。
 ところが、翌年の1920年、今度は「森戸事件」が起きる。森戸辰男が『経済学研究』という雑誌にロシアの無政府主義者であるクロポトキンを取り上げた論文を書いたことが問題になった。『経済学研究』の発行責任者であった大内兵衞も責任を問われ、この両助教授は辞職する。これに抗議するかたちで櫛田民蔵と権田保之助、細川嘉六などの助手も辞職することになった。
 結局、この一連の「ILO労働代表問題」と「森戸事件」によって、高野岩三郎、森戸辰男、大内兵衞、櫛田民蔵、権田保之助、細川嘉六らが東大を辞めてしまった。このとき声をかけたのが大原孫三郎である。そういうことなら大原社会問題研究所の所長としてどうかということだったのだろう。こうして、高野は所長に就任し、弟子たちも研究所の所員として続々と入ってくることになった。
 このような経緯で、京都大学関係ではなく東大経済学部を中心とするスタッフが大原研究所の中核メンバーになった。この「ILO労働代表問題」と「森戸事件」がなければ、そうはならなかったかもしれない。歴史の偶然だが、これがその後の大原社会問題研究所にとって持った意味は大変大きかったと思われる。

2 研究所の新築と大阪時代の活動

 その後、大原研究所は天王寺区伶人町に新しい研究所を新築する。立派な建物ができ、東京にも事務所を設置した。創立直後から『日本労働年鑑』『日本社会事業年鑑』『日本社会衛生年鑑』の編集・刊行をはじめ、櫛田、久留間、森戸、大内などの研究員をドイツ、フランス、イギリス、ソ連など海外に派遣し、文献・資料を購入する。第一次世界大戦後の1922~1923年の頃、大インフレーションで貴重な書籍などが二束三文で売りに出されていたドイツに行き、これを片っ端から買い集めて日本に持ち帰ったという。
 その後、施設が充実し、久留間鮫造、宇野弘蔵、笠信太郎らの新たな研究員を迎え、活発な活動が行われる。創立から10年余りは、いわば大原社研の発展期で、その成果は『大原社会問題研究所雑誌』や『大原社会問題研究所叢書』(11冊)、『大原社会問題研究所パンフレット』(29冊)などに発表された。ところが、28年ころから研究所の存廃問題が発生することになる。
 その直接的な背景は、大原の本業であった倉敷紡績の業績が悪化し、資金援助が苦しくなってきたことだった。同時に、大原孫三郎の意図とは異なった方向に研究所が進んでいったという事情もあったかもしれない。大原としては、労働問題や社会問題についての実際的な解決策を示すような、ある種の政策科学的な研究を望んでいたようだが、実際には、基礎的な学術研究に重点が置かれていた。
 これは東大経済学部のスタッフが入ったことと関係していたのではないかと思われる。政策科学的な現状調査もやってはいた。ユニークなところでは権田保之助の娯楽研究、あるいは月島調査や森戸辰男の婦人論の研究などもあった。しかし、全体としては学術的な色彩が強まり、櫛田民蔵や宇野弘蔵はマルクス経済学の原論的な研究を行っていた。そういう点では、大原が期待していたものとは違った方向に逸れていたと言えるかもしれない。
 しかし、何より大きかったのは、労働問題や社会問題の研究が難しくなっていったという時代背景にある。時局が悪化し、1930年代に入ると『昆虫社会』という本を持っていても捕まるぐらいの状況になった。このようななかで、「社会問題」を看板に掲げた研究所はどうしても当局ににらまれる。何回か官憲の捜索を受けるということもあって、しだいに大原孫三郎は研究所を支えきれなくなる。こうして、1935年に東京移転が決まった。
 翌1936年には「2・26事件」が勃発するが、その後の37年に大原研究所は大阪から東京に移る。このとき、大原孫三郎と大原社会問題研究所は決してけんか別れをしたわけではない。
 1937年2月15日、新大阪ホテルで「感謝告別晩餐会」を開催し、研究所は大原に肖像画を贈呈した。大原も土地建物と約8万冊の図書を大阪府に譲渡し、そのお金を研究所に渡した。こうして、大原社会問題研究所は発足の地、大阪を去ることになった。

3 東京への移転

 大原研究所は、37年に現在の東京西新宿の柏木にあった山内画伯の邸宅に移転した。しかし、経営的にはだんだん難しくなってきたため、所蔵している図書・資料を売却してお金に換えたり、『統計学古典選集』(12巻)の翻訳・刊行などを行ったりした。
 また、満州重工業開発会社総裁の鮎川義介が作っていた義済会という団体から、寄付金を無条件で年3万円、46年まで受け取っていた。この資金援助のきっかけになったのは、大内兵衞の人脈であったという。
 終戦間際の45年5月24日から25日にかけて、山の手の銀座から四谷、新宿にかけて大規模な空襲があった。このとき大原研究所も被災し、東京の事務所だった山内画伯の邸宅は全焼してしまう。
 しかし、幸いだったのは、ここには頑丈で大きな土蔵があったということだ。この中に戦前の原資料やポスター、機関紙誌、外国から買い集めてきた貴重な原書などが入っており、それが全て焼け残った。
 大原研究所の大きな財産になっているのが、このとき焼けなかった図書・資料類で、一番よく知られているのはマルクス『資本論』の初版本である。初版本は世界で100冊ほど残っているが、親友のクーゲルマンに対して献辞とサインが書かれている初版本はこれ1冊しかない。大変貴重なものである。
 色々な戦前のポスターもある。これは本当によく集めたものだと思う。戦前の大原研究所は図書以外に、思想裁判の予審尋問調書、労働組合の大会資料やビラ類、パンフレット、ポスターなど、当時それほど貴重だとは考えられていなかったものも集めた。
 これは資料係が偉かったわけだが、資料係を研究員として遇したことも大きい。きちんと処遇して研究所内の地位も高かった。こうして集められたポスターなどは需要が高く、各地の展覧会や展示会などで今も活用されている。

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