SSブログ

4月10日(木) 大原社会問題研究所の歴史と意義(その2) [論攷]

〔以下の論攷は、科学的社会主義研究会『研究資料』第11号(2014年3月)、に掲載されたものです。3回に分けてアップします。〕

4 戦後の再出発

 戦争が終わって焼け出された研究所は御茶の水にあった政治経済研究所ビルの一室に入った。戦後になって、大原研究所の政治的・社会的環境は大きく変わった。戦中は逆風の下で青息吐息だったが、戦後になると「時代の風」が追い風になる。戦時中、当局に迎合せずにやってきたことが戦後は幸いした。閉鎖や追放の対象にならなかったからである。
 戦後の民主化のなかで、元所員の活躍の場も一挙に広がった。大内兵衞は東大経済学部に復職し、高野岩三郎は日本放送協会(NHK)会長に就任する。権田も常務理事になって高野を支えた。森戸辰男が衆院議員に当選し、憲法審議に参加した後、片山内閣で文部大臣になった。横浜事件で獄につながれた細川嘉六も出所して参院議員に当選し、共産党の初代国会議員団長になる。こういう形で、それぞれの所員が活躍しだすが、研究所そのものは財政難に陥り、運営が難しくなっていった。
 最近、この頃の高野や森戸の活躍が大きな注目を集めるようになった。「日本の青空」という映画で、憲法研究会と鈴木安蔵に焦点が当てられたからである、この憲法研究会を組織して鈴木をスカウトしたのが高野で、鈴木が作った憲法研究会案がその後のGHQの憲法草案の参考とされたと言われている。
 この憲法研究会案とは別に、高野は「改正憲法私案要綱」を作る。高野は自分の案を憲法研究会に押しつけず、研究会としての合意を尊重した。同時に、自分は憲法研究会の象徴天皇制よりさらに進んだ天皇制を廃止する共和制憲法案を考えており、それを別個に公表したわけだ。この高野私案による天皇制廃止構想は共産党の憲法草案よりも早かった。
 この後、森戸が国会議員となって憲法案の審議に参加する。そこでは、「健康で文化的な最低限度の生活」を保障した憲法第25条を新たに挿入するという非常に重要な役割を果たした。これはもともとGHQの草案にはなく、憲法審議の過程で挿入された条文としては唯一のものだった。

5 法政大学との合併

 戦後の混乱期に経営状態が悪化するなか、法政大学との合併の動きが始まる。これには、久留間所長はじめ大原研究所の研究員が多く法政大学の教員として採用されていたという背景があった。
 また、当時、法政大学の総長であった野上豊一郎(野上弥生子の夫)と高野家は縁戚で、高野岩三郎は法政大学の学事顧問をやっていて大内兵衞が理事だったという事情もあり、合併話はとんとん拍子に進んだ。その結果、1949年の合意を経て、51年に正式合併となる。その後、大原研究所は53年に新築された大学院棟5階の新事務所に移転した。その大学院棟を取り壊して造った建物が現在のボアソナード・タワーになる。
 こうして、上杉捨彦、宇佐美誠次郎、大島清、舟橋尚道らの新しい研究員を中心に活動が軌道に乗っていく。新しい事務所に移って、資料の整理が本格的に始まり、燃え残った柏木の土蔵から戦前の資料を書庫に移して整理を開始した。
 戦時下の10年間、『日本労働年鑑』は刊行されなかったが、この空白を埋めるため、1964年に『太平洋戦争下の労働者状態』、65年に『太平洋戦争下の労働運動』が刊行された。68年からは、久留間所長の手による『マルクス経済学レキシコン』(全15巻)の刊行も始まった。
 69年には、創立50周年記念事業として復刻シリーズ「日本社会運動資料」の刊行開始や「社会運動の半世紀展」(朝日新聞社と共催)の開催があった。79年には創立60周年・第50回メーデー記念『写真で見るメーデーの歴史』の刊行や記念事業として「秘蔵貴重書・書簡特別展示会」などがとり組まれた。連続公開講座を行ったり、研究所叢書を刊行したり、活発な活動が展開されている。
 この間に、一つの重要な出来事があった。それは協調会資料との統合である。戦前には、大原社会問題研究所のほかに労働問題を扱う協調会という半官半民の団体があった。この協調会は、名前にもあるように労使協調という看板を掲げ、争議調停や労働問題の調査、政策研究なども行う団体だった。これが戦後、解散を迫られ、最終的には法政大学に合流して社会学部の前身になる。
 したがって、協調会が持っていた資料や図書も法政大学のものとなり、大原社会問題研究所の資料や図書と合体した。この両者の資料や図書の利用を可能とするため、73年に社会労働研究センターが設立され、その後、大原社会問題研究所に統合される。研究所では両方の資料を閲覧・利用できるようになり、後には「協調会史料シリーズ」として協調会が収集した歴史史料の復刻も取り組まれた。

6 多摩キャンパスへの移転

 大原研究所は1981年に大学院棟から80年館に移転し、スペースが拡大する。しかし、この市ヶ谷キャンパスでは手狭で、書庫などの確保には限界があった。ちょうどその頃、法政大学の多摩キャンパスへの移転問題が持ち上がる。
 法政大学には市ヶ谷のほかに小金井にも工学部のキャンパスがあったが、その後、多摩に校地を取得して多摩キャンパスが誕生し、そこに経済学部と社会学部が移転することになった。この両学部とかかわりの深い大原研究所もそちらに移ってはどうかという話があり、結局、86年に多摩キャンパスに移転する。
 こうして、多摩キャンパス時代が始まった。現在の大原社会問題研究所はこの多摩キャンパスにある。研究所の総面積は2200平方メートルと大阪時代より広く、研究所の歴史の中で最大かつ最高の設備を獲得することになった。
 多摩キャンパスに移って以降、復刻シリーズ「戦後社会運動史料」の刊行開始、『大原社会問題研究所雑誌』の充実とウェブによる公開、「労働関係文献月録」のデータベース化、ポスターなど所蔵資料のウェブ上での公開など、多彩な活動が取り組まれた。なかでも二つの事業が、その後の研究所の拡充・充実において大きな意味を持った。
 その一つは、60周年記念事業であった『社会・労働運動大年表』の編集・刊行である。これは労働旬報社(旬報社)から出ている。これ自体、大きな意味のある事業だったが、それだけでなく編集担当の兼任研究員として若手の研究者を結集することになり、研究所の若返りや活性化に果たした役割は大きかった。
 その後、『日本の労働組合100年』『日本労働運動資料集成』『社会労働大事典』も旬報社から出すことになる。旬報社4部作と言っているが、特に『日本労働運動資料集成』は別巻を含めて全14巻という大部のもので、『社会・労働運動大年表』の刊行はこれらの大きな事業に引き継がれる契機にもなった。
 もう一つは、九州大学教授で社会主義協会を作った著名なマルクス経済学研究者である向坂逸郎の蔵書の寄贈を受けたことである。専門図書を中心に約7万冊の書籍を受け入れることになり、一気に研究所の蔵書内容が充実した。同時に、図書の整理のために臨時職員の増員やコンピューターの導入なども進められ、職員の拡充やコンピューター化の進展などにおいても大きな意味を持った。

nice!(1)  トラックバック(0) 

nice! 1

トラックバック 0