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10月12日(月) 自民党の変貌―ハトとタカの相克はなぜ終焉したか(その1) [論攷]

〔以下の論攷は、岩波書店発行の雑誌『世界』10月号に掲載されたものです。4回に分けてアップさせていただきます。〕

 「自民党がこれ以上『右』に行かないようにしてほしい。いま保守政治というより右翼政治のような気がする」
 元自民党総裁の河野洋平氏は二〇一五年二月二四日に名古屋市内で行われた講演で、こう述べた。
 元自民党副総裁の山崎拓氏も、八月八日のシンポジウムで「かつてのような活発な議論はなく、自民党は戦前の大政翼賛会的になっている」と批判した。総裁と副総裁という最高幹部の経験者が、ともに自民党が変わったと言っている。河野氏は「右翼政治」に、山崎氏は「大政翼賛会的」に……。
 幹事長経験者が現在の自民党を批判するのも珍しくない。古賀誠氏は三月二七日収録のテレビ番組で、安全保障法制について「とんでもない法制化が進められようとしている」と批判しつつ、「自民党の先生方、何か言ってくれよ。なんで黙っているんだ。ハト派じゃなくて、良質な保守派の人たちいっぱいいるはずなんだから」と苦言を呈した。野中広務氏や加藤紘一氏らも日本共産党の機関紙『しんぶん赤旗』に登場し、安倍首相を批判して注目された。
 六月一二日には、山崎拓氏、亀井静香氏、武村正義氏、藤井裕久氏というかつては自民党に籍を置いていた長老四人が日本記者クラブで緊急共同会見を行い、安全保障法案への危惧を訴えた。
 これら自民党OBの言動は自民党の変貌を示唆している。果たして、自民党は変わったのか。何が、どのように変わったのか。そこにはどのような論理や背景が存在しているのか。そして、変わったとすれば、その意味はどのようなものなのか。以下、これらについて検討することにしたい。

1 安保法制審議で明らかになった自民党の変質

 自民党の変化

 明らかに、自民党は変わった。その変貌ぶりは、安保法制の審議で明瞭になっている。たとえば、以下のような変化が生じた。
 第一に、憲法に対する態度の変化である。自民党は改憲を党是として結党されたが、それを実際の政治課題としたのは安倍政権が初めてであった。安倍首相のもとで、自民党は改憲を目標とする政党から、改憲を実行する政党へと変貌したのである。
 第二に、野党に対する態度も変化した。国会での「一強多弱」と言われるような勢力関係を背景に、強権的で独裁的な運営が目立つようになっている。自民党内でも異論が許されず、批判が表面化しない「執行部独裁」の傾向が強まった。山崎元副総裁が「大政翼賛会的」だと批判するゆえんである。
 第三に、民意への顧慮や恐れのようなものが姿を消した。かつて、竹下元首相が「国会は野党の言い分を聞くためにある」と言っていたのは、その背後に多様な民意が存在していることを知っていたからである。今日の「一強多弱」状況も選挙制度による「錯覚」にすぎない。その背後には衆院選で自民党に投票しなかった四分の三以上の有権者の民意が存在しているという事実を、安倍首相は忘れている。
 第四に、議員の質的な劣化が露呈した。この間、安倍首相や中谷防衛相、麻生副総理、高村自民党副総裁、岸田外相などの答弁や発言が批判されたり、顰蹙を買ったりすることが多かった。それだけでなく、自民党文化芸術懇話会で「マスコミを懲らしめるには、広告料収入がなくなるのが一番」などと発言した大西英男衆院議員はじめ井上貴博衆院議員や長尾敬衆院議員、「法的安定性は関係ない」と言い放った礒崎陽輔首相補佐官(参院議員)、安保法案に反対する学生たちを「極端な利己的考え」などと批判した武藤貴也衆院議員などの暴言も相次いだ。
 しかも、礒崎首相補佐官は東大法学部の出身であるにもかかわらず立憲主義について教わったことがないと吐露し、武藤議員はブログで憲法の三大原理(国民主権・基本的人権の尊重・平和主義)について「私はこの三つとも日本精神を破壊するものであり、大きな問題を孕んだ思想だと考えている」と述べ、その後、金銭トラブルが表面化して自民党を離党した。議員としての質の劣化は否定しようがない。

 安倍首相の転換

 同時に指摘しておくべきことは、安保法制審議に至る過程で、安倍首相のジレンマも明確になってきたことである。それは当初の主張の揺れ戻しや転換をもたらしている。
 その第一は、「対米自立」から「対米従属」への暗転である。第一次安倍政権が掲げていた「戦後レジームからの脱却」という目標は姿を消し、このスローガンが持っていた「反米的色彩」を払拭するために、集団的自衛権行使容認によってアメリカの要求を全面的に受け入れた。二〇一三年二月の初訪米時におけるオバマ大統領による冷遇から今年四月の訪米時の歓待への変化こそ、この間の安倍首相の屈服を如実に示すものだと言える。
 第二は、歴史修正主義路線の部分的修正である。安倍首相は、第二次政権発足当初、第一次政権で靖国神社を参拝できなかったのは痛恨の極みだとして、その実現に意欲を燃やした。しかし、それが実現したのは第二次政権発足一年後の二〇一三年一二月のことであり、この一回を除いて、以後、一度も参拝していない。安倍首相としては不本意であろうが、そのような国際環境を生み出したのも安倍首相本人の歴史修正主義的発言の数々であった。
 そして第三は、「戦後七〇年談話」での部分的な撤退である。当初、安倍首相は「村山談話」や「小泉談話」とは異なった新しい談話を出すことによって「上書き」し、この二つの談話の内容を実質的に修正しようとしていた。しかし、国内外からの批判や発言に押されて、このもくろみは失敗した。「キーターム」を散りばめた談話は本心を隠して表面を取り繕う欺瞞に満ちたものとなり、前の談話を根本的に覆すことはできなかった。
 以上の結果、安倍政権は安保法制に危機感を高める世論の支持を失っただけでなく、その歴史修正主義的言動に期待していた右翼的な支持者の一部をも失望させることになった。自民党の変貌は支持基盤の狭隘化をもたらし、安倍内閣は支持率を低下させ、自民党の支持率もそれに連動して低下する兆しを見せている。

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