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4月20日(火) 歴科協第43回大会での萩原伸次郎報告・岡田知弘報告へのコメント [論攷]

〔以下の論攷は、2009年11月14日に早稲田大学で開催された歴史科学協議会第43回大会での第1日目のテーマ「グローバリズム・新自由主義と歴史学の課題Ⅲ」についてなされた萩原伸次郎報告・岡田知弘報告へのコメントです。歴史科学協議会編集『歴史評論』2010年5月号、No.721に掲載されました〕

萩原伸次郎報告・岡田知弘報告へのコメント

はじめに-両報告の違いと共通点

 本日の報告の共通のテーマは「グローバリズム・新自由主義と歴史学の課題Ⅲ」というもので、「グローバリズム・新自由主義」をキータームに、世界史と地域史の現段階をどう捉えるかを課題としている。
 しかし、今回の二つの報告は大きく異なっている。統一的に論評することはかなり難しい。
 まず、萩原報告だが、その対象は外国、なかでもアメリカであり、世界経済論の立場から金融・経済の領域に焦点を当てている。アメリカにおける第2次世界大戦後の恐慌を振り返りながら金融恐慌の特徴を摘出し、29年大恐慌と08年世界経済危機とを比較するという歴史的パースペクティブの広さを持っている。
 次の岡田報告は、その対象は日本、なかでも地方自治体であり、地域経済論の立場から80年代以降の地域行政と社会の再編を振り返りながらグローバル化への対応という特徴を明らかにし、それへの対抗力としての住民運動や社会運動も分析の対象にするという社会的パースペクティブの広さを持っている。
 もちろん、両者の報告には共通している点もある。それは、新自由主義との関わりにおいて、それぞれが研究対象としている領域や課題の歴史的位置を問うということである。ここに言う新自由主義とは、規制緩和、「官から民へ」あるいは民営化、構造改革、市場原理主義、自己責任論などのキータームによって示される経済思想や政策構想を意味している。この新自由主義に対して、批判的なスタンスを取っているという点でも、両報告には共通点がある。

一 新自由主義の世界的な展開と日本での具体化をどう見るか

 それでは、このような新自由主義の世界的な展開と日本での具体化をどう見るかということが、次の問題である。私の見方は、拙著『労働再規制』(ちくま新書、2008年)で明らかにしたとおり、三つの段階を経て今日に至っているというものである。したがって、新自由主義は1980年代の前半から四半世紀の歴史を持っていることになる。
 この三つの段階というのは、次のようなものである。いずれにおいても、新自由主義的な経済思想がや政策構想が全面に浮上している。
 その第一段階は、レーガノミックス、サッチャーリズム、中曽根首相による「臨調・行革」路線である。これが新自由主義の始まりだと理解している。とりわけ、日本においては財政再建のための民営化、なかでも国鉄、電電、専売という三公社の民営化が取り組まれた。
 第二段階は橋本首相による「六大改革」だが、これは96年秋に、行政、財政、社会保障、経済、金融システムの「五大改革」として提起され、翌97年に教育改革が加わって「六大改革」になるという経緯を辿った。ここでは、「五大改革」が打ち出される前年である1995年という年に注目したい。この年は、日経連による「新時代の『日本的経営』」が発表されたことで良く知られているが、同時に、経済審議会がその答申において「構造改革」を打ち出した年でもあり、小泉構造改革の「源流」はここに求められる。
 第三段階は、このような流れを受け継いだ小泉首相の下での構造改革である。構造改革のための政策構想は、景気対策を優先した小渕・森内閣の下で後景に退くが、これを復活させたのが小泉首相だった。郵政民営化を「本丸」とし、「官邸主導」の下にあった経済財政審議会による「骨太の方針」によって政策転換を図り、規制緩和や民営化、社会保障改革、平成の大合併、三位一体の改革などによって、新自由主義的な政策を全面開花させた。
 しかし、このような流れはその後、大きく転換したように見える。2006年に、「潮目」が変わったのである。これを私は新自由主義からの「反転」の開始として注目した。拙著『労働再規制』に対して、「反転の構図を読みとく」という副題を付けたのは、そのためである。このような新自由主義からの「反転」が始まっていなければ、今回のような総選挙における政権交代という結果にはならなかったと思われる。
 とりわけ、私が注目したのは労働政策だったが、それをめぐる規制緩和路線も2006年から「反転」した。象徴的なのは、ホワイトカラー・エグゼンプション導入の失敗である。これが断念されるのは07年1月のことだが、それは前年の運動の成果であった。
 そこには、アメリカ・モデルの失墜という国際的背景、小泉首相の退場という政治的背景、貧困の蓄積と格差の拡大という経済的背景、ホリエモンや村上ファンドなどによる金融犯罪の発覚という社会的背景があった。
 その変化をもたらした力は、構造改革の結果として生じた矛盾とそれに伴う社会的対抗関係の先鋭化であり、社会・労働問題に対する労働運動とマスコミの抵抗や告発であった。このような流れは、非正規労働者による個人加盟のユニオン運動や地域を舞台にした社会運動的労働運動の展開、反貧困運動という新しい社会運動の登場、このような生活をめぐる運動と労働組合運動の連携と結合の進展などの形で、今もなお続いていると言える。

二 萩原報告に対する質問

 さて、以上のような視点から、萩原・岡田両報告に質問することにしたい。まず、萩原報告に対して質問する。
 第一に、世界的な金融・経済の流れにおいても、私の解釈する新自由主義政策の三段階のような見方は成り立つのかどうか。ケインズ的景気循環過程から新自由主義的景気循環過程への変容以降、アメリカでもレーガン政権からブッシュ(父)、クリントン、ブッシュ(子)というような形で大統領が替わっただけでなく、それを担う政党も共和党から民主党へ、また共和党へと変化している。このような政治の担い手の交代に対応した形での段階的変化のようなものはなかったのだろうか。また、レーガン大統領の下での八一-八二年恐慌は金融恐慌ではないとされているが、新自由主義的なレーガノミクスとは関係なかったのだろうか。
 第二に、新自由主義は金融・経済政策においても「反転」したのか。「リーマン・ショック」以降に顕在化したG8からG20へのリーダーシップの移行は、このような「反転」の現れであるように思われるが、そう理解して良いのだろうか。アメリカ国内においても「反転」は生じているのか。また、このような国際的なレベルにおける転換だけでなく、国内においても政策転換はあったのか。現在の鳩山新政権が打ち出している経済政策のどの点に、そのような転換をみとめることができるのか。
 第三に、二九年大恐慌との類似性と違いについての説明があったが、最終的な帰結が第二次世界大戦へと結びついていった二九年大恐慌のようにはならないというのが、その結論なのだろうか。もしそうなら、その理由は何か。オバマ大統領はアフガンへの軍事介入を拡大しようとしているが、これは恐慌からの脱出路として戦争を求めているということではないのか。アフガンでの戦争の拡大によって戦時需要を喚起し、景気浮揚を図るというようなことは考えられていないのだろうか。
 第四に、このような経済危機をもたらしたものが「新自由主義的景気循環」であるとすれば、それは通常の「資本主義的景気循環」とはどう異なっているのか。今回のような金融危機の発生は「金融資本主義」の失敗なのか、それとも、「資本主義」的な経済システムそのものの失敗なのか。危機の発生は、資本主義システムの「正常な」機能によって不可避的に生ずるということなのか、それとも、そこからの「不正常な」逸脱によって生ずるということなのか。
 第五に、今回の金融危機によって、経済思想としての新古典派経済学は破綻したと言えるのか。もしそうなら、その次に来るものは新ケインズ主義経済学なのか。このような流れとは異なるマルクス主義経済学は代替経済思想とはなり得ないのか。今回のような危機を回避し、市場経済の矛盾を克服するためには、どのような経済思想が必要とされているのだろうか。

三 岡田報告に対する質問

 次に、岡田報告に対して質問させていただく。これも五問ある。
 第一に、1980年代半ば以降強まり、「平成の大合併」へと至る自治体再編の動きは、新自由主義的な経済思想や政策構想とどのように関連しているのか。自治体再編の動きもまた、新自由主義の具体化と言えるのか。それはどのような点に現れているのか。
 第二に、地方自治体や地域の再編という流れから見た場合、私の解釈する新自由主義政策の三段階のような段階的な変化を認めることができるのか。報告では、グローバル化の段階として区分されているが、第三段階までの区分は、私の三つの段階区分に照応するものとして理解して良いのか。最後の07年以降に始まるとされている第四段階は「矛盾顕在化の段階」とされているが、この時に局面の転換ないし「反転」があったと理解して良いのだろうか。
 第三に、現在もなお進められようとしている道州制構想と地方分権改革推進委員会の第四次勧告を受けた分権推進計画の策定をどう見たらよいのか。鳩山政権以前からの流れはそのまま続いているのか、それとも変化しているのか。地方自治体政策における継続と断絶をどう考えたらよいのだろうか。
 第四に、平成の大合併によって再編された自治体の下でも、自治の発展は可能なのか。それを可能とするための具体的な動きは生じているのか。それとも、鳩山新政権の下で、復元をめざすような再編があり得るのか。地方自治運動の発展はそのような力を持っているのか。
 第五に、地方自治が戦後最大の「危機的局面に立ち至っている」とすれば、そこからの脱出路はいかなるものなのか。反構造改革的社会運動はそのような力になりうるのか。それはどのような可能性を持っているのか。

四 歴史学への期待

 最後に、お二人に対して現状認識と今後の展望についてお伺いしたい。「反転」が始まったとはいえ、それは跛行的に進んでおり、政策分野ごとでは「まだら模様」だと言える。とりわけ大学関係では、構造改革的大学政策の転換はまだ始まってもいない。とはいえ、「リーマン・ショック」と政権交代は、ある種の転換を明示するものだと言えよう。これは、新自由主義の「終わり」の始まりとして理解できる。
 このような時代において、新自由主義の「終わり」を終わらせるために、歴史学はどのような課題を担うべきだと考えておられるのか。私としては、大きな役割を果たして欲しいとの期待を抱いている。このような期待を表明して、コメントを終わらせていただきたい。

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iPhone 4 ケース

賛成です。
by iPhone 4 ケース (2011-09-23 17:22) 

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