SSブログ

11月10日(土) 核兵器禁止条約の交渉開始を求める決議に賛成しなかった被爆国日本の政府 [国際]

 日本が被爆国であることは、誰でも知っています。原爆の被害についても原発の被害についても、どの国よりも良く知っているのだから、核(原爆と原発)の廃絶に向けて真剣かつ熱心な努力を行うべき立場にあります。

 しかし、日本政府は必ずしもこのような立場に立っていません。原爆と原発をなくそうと真剣に努力してはいないのです。
 原発について、野田政権は「2030年代に原発ゼロ」という方針を閣議決定しませんでした。これが、脱原発方針を曖昧にするためのものであり、いずれ変更される可能性もあることは、既に指摘したとおりです。
 また、原爆についても、その廃絶に向けての確固とした姿勢を示していません。その一つの現れが、第67回国連総会の第1委員会(軍縮・国際安全保障問題)でマレーシアなどが提出した核兵器禁止条約の交渉開始を求めた決議に対する棄権です。

 この決議は賛成123、反対24、棄権24で採択されました。この棄権24の中に日本政府が入っています。
 また、化学兵器禁止条約、生物兵器禁止条約に続いて、「核兵器禁止条約を確立するよう決意する」と表明した、ミャンマーなど38カ国が提出した決議「核軍縮」も、賛成111、反対43、棄権20で採択されました。この決議でも、日本は棄権20の中に入っています。
 つまり、日本政府は核兵器禁止条約の交渉開始を求めることにも、核兵器禁止条約を確立することにも賛成しなかったということになります。そしてそれは、国際社会の中では圧倒的な少数派なのです。

 どうして、日本はこのような立場を取ったのでしょうか。それは、原爆と原発の被爆国でありなら、今日においてもなお、核兵器の開発と保有という野望を完全には捨てていないからです。
 すでに、12月17日のブログ「戦後のエネルギー・原子力行政と政治の責任(その4)」http://igajin.blog.so-net.ne.jp/2011-12-17で指摘したように、原発を推進してきた背景の一つには、「核保有の潜在的能力を維持したいという思惑」がありました。それは、「このような潜在的能力の保持がある種、周辺諸国への抑止力になるという考え方」に基づくものです。
 そして、「核兵器の独自開発能力の潜在的保持という点では、原料になるプルトニウムの抽出と保有が前提になります」が、「国際的な取り決めによって、日本はプルトニウムを純粋なかたちで大量にもつことはでき」ず、そのために「日本政府は成功の見通しのない核燃料サイクルに固執し続け」てきました。「また、プルトニウムとウランとの混合燃料(MOX)を用いたプルサーマルを強引に推進しようとするのもこのため」で、「いずれも、使用済み核燃料から取り出されたプロトニウムを、一定量以上保有しないための苦肉の策」だったのです。

 このような背景があるために、これまで原発を推進してきた自民党首脳による核保有発言がやまず、政権としても核兵器廃絶や原発即時ゼロに向けてきっぱりとした態度を取ることができないのです。
 現自民党総裁の安倍晋三さんは2006年11月14日、安倍内閣時代に「政府としては、非核三原則の見直しを議論することは考えていない」としながらも、「核兵器であっても、自衛のための必要最小限度にとどまれば、保有は必ずしも憲法の禁止するところではない」との答弁書を出しています。幹事長の石破さんも、核武装に反対する立場を示しつつも、「核の潜在的抑止力を持ち続けるためにも、原発を止めるべき」ではないと『SAPIO』10月5日号に書いています。
 また、4月16日に米ワシントンのヘリテージ財団での講演で石原慎太郎都知事は日本は核武装すべきだとして、核兵器のシミュレーションを行っただけでも世界は大慌てになるのだからやるべきだと主張していました。この時、アメリカの保守系シンクタンクのシンポジウムで、石原さんが都による尖閣諸島の購入を表明して一連の騒動の「引き金」を引いただけでなく、併せて核武装論をも主張していたことの意味を考えるべきです。

 被爆国とは、核による恐ろしい被害を被り、その悲惨さをどこよりも熟知し、その廃絶に向けて真剣に取り組むべき人類的な使命を帯びた国であると言って良いでしょう。そのような国の政府や政党、政治家である以上、原爆と原発に対して曖昧であやふやな態度を取ることは許されません。
 核なき世界に向けて、どのようなイニシアチブを取ることができるのか。日本に向けて注がれている世界の目を意識できなければ、被爆国日本において政治に関わる資格はないと言うべきでしょう。
nice!(0)  トラックバック(0) 

nice! 0

トラックバック 0