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7月6日(土) 『週刊新潮』の記事「中国『嫌日ジャーナリズム』の研究」に見る「嫌中ジャーナリズム」の問題点 [マスコミ]

 先日取材された『週刊新潮』の記事が出ました。7月11日号に掲載された「中国『嫌日ジャーナリズム』の研究」というもので、私の発言も2ヵ所引用されています。

 6月22日のブログ「『週刊新潮』の記者の取材を受けた」で、「この『週刊新潮』による取材がどのような記事になるのか、楽しみにしています。私は、どう扱われるのでしょうか。中国に利用された左翼知識人としてピエロにされるのでしょうか。それとも、中国メディアを利用した左翼知識人として、悪者にされるのでしょうか」と書きました。しかし、そのどちらでもなかったようです。
 「中国の“嫌日ジャーナリズム”には典型的な手法がある。……日本の『識者』に批判させるというものだ」ということで、私の6月18日付の人民日報に掲載された記事とそれについての発言が紹介されています。私は、鳩山由紀夫元首相、田中均元外務審議官、大西広慶應大学教授、纐纈厚山口大学副学長らの「識者」と並ぶ「安倍政権に批判的な“論客”」の一人として紹介されました。
 「左翼知識人」ではなく、「識者」にして「論客」とされたわけです。誠に光栄なことです。

 私の発言は、6月18日付の人民日報に掲載された記事を「勝手に掲載したものらしい」ということで引用されていますが、これについては説明が必要でしょう。というのは、中味出しが「取材された覚えはない」となっているからです。
 そして、「どうやら勝手に掲載したものらしいが、かの国の新聞はジャーナリズムなんてものではなく、“共産主義の広告塔”だと思えば、こんなやり方も驚くにあたらない」と書いています。これを読むと、『人民日報』が取材もせずに勝手に記事をねつ造したかのように受け取られるでしょう。
 しかし、ここでも引用されているように、「人民日報はこれまで3回取材がありました」と、はっきりと答えています。ですから、「取材された覚えはない」という中味出しは、完全な間違いで、こちらの方がねつ造です。

 私が見せられた6月18日付の記事は「人民網日本語版」でした。私はインタビューが2月19日付『人民日報』の国際欄に掲載されたことを知っていましたから、この「人民網日本語版」については「知りません」と言ったのです。「最初のインタビューを中国語に訳し、それをまた日本語に直したのかも知れない」と答えたのは、そういう意味でした。
 したがって、『人民日報』からの取材を受けたのは明らかで、その経緯については『週刊新潮』の記者からの取材を受けた直後に、以下のようなメールを送って再度このことを明らかにしておいたはずです。

 人民日報東京支局からの最初のメールが見つかりました。研究所に送られてきたもので、私に転送されてきました。そこには、私のブログを見て興味があるので取材させて欲しいこと、具体的には、自衛隊の国防軍化と佐瀬昌盛氏の「看板の掛け替え論」について取材したいと書いてあります。『産経新聞』のインタビュー記事をアップしたブログを見ての申し入れです。

 これに答えたインタビュー記事と、既にお渡ししたコメント2本の3本が、『人民日報』に掲載されています。その記事が中国政府の反日宣伝に利用されているのではないかとのお尋ねですが、その可能性はあると思います。しかし、どのような取材源であっても基本的に応ずるというのが、私の立場です。そうしなければ、マスメディアの自由な取材活動は有名無実となり、知る権利も空洞化すると考えるからです。

 したがって、「取材された覚えはない」と答えた覚えはありません。この6月18日付の記事が日本語版に掲載されていたことについては知らなかったので、「知りません」と答えただけです。
 少なくとも、取材を3回受けていたことははっきりしていますから、「取材された覚えはない」という中味出しはミスリーディングです。極めて意図的な曲解であると言わざるを得ません。
 いかにも『週刊新潮』らしいやり方だと言うべきでしょう。「この国の週刊誌はジャーナリズムなんてものではなく、“商業主義の広告塔”だと思えば、こんなやり方も驚くにあたらない」というところでしょうか。

 ジャーナリストの富坂聡氏は、「中国メディアが反日記事で日本人識者を起用するのは2つの意味合いがあります」として、一つは「自分たちの主張が正しいと示すため」、もう一つは「日本に対する中国人の敵意を和らげるため」だと指摘しています。すると、私などの発言が紹介されるのは、「反日感情を和らげる」ために役に立っているということになります。
 私は、取材記者に送ったメールで「私の談話やコメントが、日中双方の対立を煽る形で利用されたのであれば、それは不本意であり、誠に残念なことです。しかし、そのようなリスクやデメリットがあり得たとしても、取材に応じて安倍政権批判を展開したことは、日本の国民はみな安倍さんのように考えているわけではないということを示し、侵略戦争を反省していないのではないかという誤解を解き、また戦争を仕掛けてくるのではないかとの不安を解消する点で、メリットの方が大きかったと考えています」と書きましたが、そのようなメリットがあることは、私の独りよがりではなかったということになります。
 それなら、このような形で『週刊新潮』が中国の「嫌日ジャーナリズム」を研究することにどのような「意味合い」があるのでしょうか。そこには何かメリットのようなものがあるのでしょうか。ただ単に、日本国内の「反中感情」を強めるだけではないのでしょうか。

 再三紹介しているメールで、私は「マスメディアも、売り上げ部数を増やしたり視聴率を上げたいという誘惑に負けて、日中双方の対立や緊張を煽ったり、センセーショナルな報道で国民の敵対感情を焚きつけたりするようなことは、厳に慎んでいただきたいものです」と書きました。残念ながら、というより思った通り、今回の『週刊新潮』の記事は部数を増やしたいという「誘惑に負けて、日中双方の対立や緊張を煽ったり、センセーショナルな報道で国民の敵対感情を焚きつけたりするようなこと」になっています。
 このようなことを避けるためにも、今度はぜひ、日本における「『嫌中ジャーナリズム』の研究」を行っていただきたいものです。そして、そのような「ジャーナリズム」がはたしてジャーナリズムという名に値するものであるのか、日中関係を改善し、両国の友好を発展させるうえでどのような「意味合い」があるのか、明らかにしていただきたいものです。
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