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11月13日(水) 「五日市憲法」を「しきりに思い出」すと振り返った美智子皇后の述懐 [憲法]

 少し前になりますが、安倍首相のめざす改憲をめぐる論議との関連で、注目すべき発言がありました。「5月の憲法記念日をはさみ、今年は憲法をめぐり、例年に増して盛んな論議が取り交わされていたように感じます。主に新聞紙上でこうした論議に触れながら、かつて、あきる野市の五日市を訪れた時、郷土館で見せて頂いた『五日市憲法草案』のことをしきりに思い出しておりました」という美智子皇后の述懐です。

 これは、10月に79歳の誕生日を迎えた美智子皇后が、宮内庁記者会の質問に寄せた回答文書の一節です。先の文章には、次のような言葉が続いています。

 明治憲法の公布(明治22年)に先立ち、地域の小学校の教員、地主や農民が、寄り合い、討議を重ねて書き上げた民間の憲法草案で、基本的人権の尊重や教育の自由の保障及び教育を受ける義務、法の下の平等、更に言論の自由、信教の自由など、204条が書かれており、地方自治権等についても記されています。当時これに類する民間の憲法草案が、日本各地の少なくとも40数か所で作られていたと聞きましたが、近代日本の黎明期に生きた人々の、政治参加への強い意欲や、自国の未来にかけた熱い願いに触れ、深い感銘を覚えたことでした。長い鎖国を経た19世紀末の日本で、市井の人々の間に既に育っていた民権意識を記録するものとして、世界でも珍しい文化遺産ではないかと思います。

 この「五日市憲法草案」には、「基本的人権の尊重や教育の自由の保障及び教育を受ける義務、法の下の平等、更に言論の自由、信教の自由など」が謳われており、民権運動期に作成された憲法草案の中でも、とりわけ民主的で先進的な内容を持つものでした。これは、植木枝盛の「東洋大日本国国憲按(案)」とともに日本国憲法の源流として位置づけられるものです。
 これらの民権運動期の憲法を研究していたのが、憲法学者の鈴木安蔵でした。その鈴木を誘って日本国憲法の草案を作成させたのが高野岩三郎です。
 高野は戦後すぐに憲法研究会を組織して憲法草案の作成に取りかかりますが、その中心になったのが鈴木安蔵でした。五日市憲法草案や植木枝盛の憲法私案などに盛り込まれていた民主的で先進的な内容は、鈴木を介して憲法研究会案に反映されます(この間の経緯は、映画「日本の青空」で詳しく描かれています)。

 この憲法研究会案はGHQによる憲法原案の作成に際しても参考にされました。その内容の多くが、現行憲法に生かされていることは言うまでもありません。
 つまり、五日市憲法草案や植木枝盛私案などとなって民権運動期に流れ出した民主憲法の思想は戦前期に伏流水となって流れ続け、戦後になって鈴木安蔵や憲法研究会などを介して地表に現れたのです。それは、現行憲法を形作る参考資料の一つとなり、そこに盛られていた民主的な条項は現行憲法のものとなりました。
 その源流となった「五日市憲法草案」について、美智子皇后は「しきりに思い出しておりました」と述懐したのです。そして、「市井の人々の間に既に育っていた民権意識を記録するものとして、世界でも珍しい文化遺産ではないかと思います」と評価しています。

 美智子皇后は「五日市憲法草案」に言及することによって、現行憲法に対する評価を示したかったのではないでしょうか。この述懐と評価から、改憲への危惧と現行憲法の民主的条項を変えてはならないとのメッセージが読み取れるのではないかと思われるのですが、それは私の深読みに過ぎるでしょうか。

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