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8月7日(火) 福島大学副学長に会って松川資料室の存続を要請してきた [日常]

 一昨日(5日)と昨日(6日)、福島に行ってきました。福島大学にある松川資料室の存続について、副学長と会見するためです。

 松川事件というのは、機関車などが脱線転覆し、乗務員3人が死亡した事件のことです。これは、1949(昭和24)年8月17日午前3時9分(現在の2時9分)ごろ、東北本線金谷川~松川間(現在の下り線)の上り右カーブ地点で、外側(左側)のレールが外されたために発生しました。
 事件の被疑者として、国鉄労組福島支部10人、東芝松川(北芝)工場の関係者10人が逮捕・起訴されました。裁判では、第一審・第二審で死刑・無期懲役を含む判決が出されましたが、第1次最高裁で差戻し、仙台高裁で全員無罪となった後、第2次最高裁で無罪が確定しました。
 この事件は同時期に発生した下山事件や三鷹事件と同様に謀略色が濃く、被告たちが書いた『真実は壁を透して』(1951)を読んで無実を確信した作家の広津和郎を中心に松川事件対策協議会(松対協)が結成され、冤罪裁判を批判して被告を救済するための「松川運動」が幅広く展開されました。この運動には私の都立大学時代の恩師である塩田庄兵衛先生も深く関わり、『松川運動全史』などを書かれています。

 この3月まで私が所長をしていた大原社会問題研究所には、この事件の裁判資料が大量に保存されています。これと補い合う形で、松川事件や裁判と被告、松川運動などに関する様々な分野の資料、関連する周辺事件や時代背景に関連する資料など約10万点を集積し、保存、公開しているのが、福島大学松川資料室http://www.matsukawajiken.com/です。
 2009年10月17日(土)~18日(日)には、福島大学で「松川事件60周年記念全国集会」が開かれましたが、これには私も参加して挨拶しました。その時の様子については、10月19日(月)付のブログ「松川事件60周年全国集会、POSSE3周年シンポジウムに参加してきた」http://igajin.blog.so-net.ne.jp/2009-10-19に書いています。
 ということで、私も松川事件やその資料とは浅からぬ縁があります。この度、その資料保存のために一肌脱ごうと考えたわけです。

 松川資料室を支援する市民の依頼を受けて福島に向かったのは、私と雨宮昭一獨協大学教授です。雨宮教授は『占領と改革』(岩波新書、2008年)などの著作がある近現代政治史の専門家で、政治学会などで私も旧知の方です。
 私も、「雨宮さんとなら」ということで、今回の依頼を引き受けました。奥土湯の川上温泉で同宿しましたが、思った通り、楽しい旅になりました。
 8月5日の午後1時過ぎに東京駅で落ち合いましたが、噂の駅ナカのお店を覗いてビックリしました。沢山の人でごった返しており、レストランの前には長い行列ができていたからです。

 しかし、新幹線はそれほど混んでいませんでした。郡山で下車し、東北本線で松川駅に向かいます。
 そこで待っていたのが、日本国民救援会福島県本部の石川信事務局長でした。石川さんに案内していただいて、松川事件が起きた現場に向かいました。
 途中、東芝北芝(松川)工場の横を通り、犯人とされた人々が歩いたとされる線路の脇を走って、事故の現場に到着しました。現場の線路脇には殉職した3人を悼む国鉄当局が立てた碑と慰霊の碑が並んでいます。

 現場近くの小高い丘の上は松川記念公園として整備されています。そこに立っているのが、西常雄の設計による松川の塔です。
 塔には、広津和郎の「人民が力を結集すると如何に強力になるかということ、これは人民勝利の記念塔である」という碑文が刻まれていました。今、原発事故と放射能の災禍に苦しめられている福島の人々や脱原発運動にとって、誠に教訓的な言葉ではないでしょうか。
 碑の前にいた石川さんが、なにやら機械のようなものを取り出しました。ガイガーカウンターです。計ったら、0.65マイクロシーベルトあります。ピピピピという音が早いリズムを刻んでいました。この音を、子供を持つ親はどのような気持ちで聞くのでしょうか。

 6日の午前中、福島大学の副学長室で小沢喜仁副学長にお会いしました。小沢副学長は、福島大学の地域連携担当で地域創造支援センターのセンター長です。
 松川資料室の活動は地域連携の一環として位置づけられ、地域創造支援センターの下にありますから、その最高責任者とお会いすることができたというわけです。福島大学は市の中心部から現在地に移転しましたが、その住所は金谷川で、松川事件の現場からは車で10分位の近さにあります。
 事件に関連するとされた「現場」も、周辺に多くあります。このような位置関係からしても、福島大学に松川関連の資料が集積され、保存されるのは必然であったと言えるでしょう。

 小沢副学長は、今後の方針として松川資料の維持と保存を明言されました。そして、新たに資料館を建設し、常磐炭鉱関連の資料などと共に保管・展示すること、現在、そのための準備を進めていることを明らかにされました。
 福島大学は、現在、うつくしまふくしま未来支援センター(FURE)を立ち上げ、原発事故関連の資料収集も始めているそうです。常磐炭鉱、松川、原発事故関連の資料などがきちんと収集・保管され、展示・公開されれば、福島大学にとって貴重な資産となり、歴史と地域に対する大きな貢献となることでしょう。
 松川資料室が継続されるだけでなく、冤罪裁判や再審問題、被告支援の大衆運動や地域連携のあり方を含む新たな「松川学」の研究拠点として、大きく発展することを望みたいものです。今回の私たちの訪問と要請が、そのためにいささかでも役立ったとすれば嬉しいのですが……。

 松川記念塔公園の入り口にある銘板には、松川運動について「歴史に残る世界に類例をみない大衆闘争であった。権力犯罪責任追及の国家賠償裁判にも勝利した。この闘いの記録は、福島大学内松川資料室に保存されている」と記されていました。この言葉が裏切られることのないように、との思いを抱きながら、福島を後にしたものです。

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