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11月20日(土) 聖公会大学労働運動史研究所を訪問し記念講演をしてきた [旅]

 イヤー、運が良かったですねー。古代朝鮮の王宮での衛兵の交代式(王宮守門将交代儀式)を見せていただきました。景福宮前の光化門での出来事です。

 全くの偶然でした。このような儀式があることも知りませんでした。
 光化門はホテルから歩いて5分ほどのところにあります。散歩のついでに立ち寄ろうと近づいたところ、何か音が聞こえます。
 「何だろう」と思って近寄っていったら、韓国時代劇ドラマでおなじみの服装をした一団が列をなして行進しています。これが交代式だと知ったのは、その後に放送があったからです。良いものを見せてもらいました。

 その後、ホテルに戻り、旧知の友人である大仏大学の牟教授を待ちました。今日は、牟さんにエスコートしていただいて、聖公会大学労働運動研究所に行くことになっていたからです。
 午前中はフリーでしたので、近くを散歩してきたというわけです。ここはソウル中心部の少し北側になりますが、観光名所の仁寺洞や昌福宮、景福宮が近くにあります。
 空港へのリムジンバスの発着所を確認したり、これらの観光名所を外から眺めたりしてきました。その途中で、衛兵の交代式に遭遇したというわけです。

 ホテルのロビーで牟さんと落ち合い、昼食をすませてから景福宮へ。牟さんの教え子で李さんという大学院生の女性も一緒です。
 そこから地下鉄に乗って聖公会大学に向かいました。大学はソウルの西端で、仁川との間にあります。
 1時間弱で聖公会大学に到着しました。この大学はキリスト教系のミッション・スクールですが、プロテスタントでもカソリックでもなく、イギリス国教会の流れを汲み、進歩的な色彩の大学だというのが、牟さんの説明でした。

 聖公会大学労働運動史研究所で旧知の李鎮九所長にお会いして所員を紹介され、活動についてお話を伺った後、所内を案内していただきました。引っ越したばかりだということで、荷物はまだ片付いていないようです。
 専任の研究員は李所長だけで、他の方は皆、期限付きの研究員だそうです。身分は不安定で、プロジェクトが終わった後はどうなるか分からないということですから、大変、厳しい状況に置かれていると言えるでしょう。
 大原社会問題研究所も協力してきたオーラルヒストリーの記録を見せていただきました。五〇年代の韓国労働運動についての聞き取りを行った成果が冊子になっており、そのうちの一冊をお土産にいただきました。

 この後、記念講演ということで、15人ほどの方を相手に1時間半の話をしました。思いがけず、講演料までいただき、大いに恐縮したものです。
 講演終了後、近くの典型的な韓国料理店で夕食会を開いていただきました。「古いけれど美味しい店で、テレビでも紹介されたことがあるんですよ」と言われ、壁の方を見たら、私もインタビューを受けたSBSテレビのポスターが貼られていました。
 湯豆腐のような豆腐料理が専門で、店の名前を聞いたら「豆腐料理店」と言うのだそうです。そのままですね。

 李所長の車で駅まで送っていただき、3人で若者が沢山集まるというソウル市内の大学街に行きました。渋谷のような喧噪、浅草のような庶民性、歌舞伎町のような華やかさが入り交じった不思議な空間です。
 牟さんに連れられて、生演奏のお店に入って大音響のバンド演奏を聴いたり、「日式」の料理店でおでんをつまみながらお酒を飲んだりと、得難い体験をしました。1人では、とても来ることはできなかったでしょう。
 現代韓国の若者文化に触れた思いがしたものです。まことに貴重なソウル体験でした。

 さて、いよいよソウル滞在も今日が最終日になりました。明日には、東京に戻ります。

11月19日(金) 西大門刑務所歴史館と民主労総本部、ソウルタワーを訪問した [旅]

 昨日のソウルは、朝から青空が広がる良い天気でした。ソウル大学日本研究所の鄭さんの車で、李さんに案内していただいて西大門刑務所歴史館、民主労総本部、南山公園のソウルタワーを訪問しました。

 西大門刑務所歴史館とソウルタワーは、以前から訪問したいと思っていたところでした。しかし、なかなかチャンスがなく、訪韓5回目にしてようやく念願が叶ったというわけです。
 西大門刑務所は、1908年に京城監獄として新設され、1912年に西大門監獄、1923年に西大門刑務所、1945年にソウル刑務所、1961年にソウル教導所、1967年にソウル拘置所と名前を変えてきました。1945年までは民族独立を求める独立運動家を弾圧する中心機関であり、耐え難い植民地支配を行ってきた日本人の1人としては、是非、訪問すべき場所です。
 今回、訪問して驚いたのは、1987年まで現役の施設として機能し、民主化運動に関わった学生活動家なども投獄されていたということです。まさに、独立と民主主義を求めて戦い続けてきた苦難の歴史を象徴するような場所であると言うべきでしょうか。

 厳しい環境での狭い牢獄や拷問道具の数々、犠牲になった人々の写真を直視できませんでした。人間は、かくも残酷・非道になれるものなのかと思いました。
 同時に、このような感想は、中国のハルビン郊外の731部隊や重慶の白公館監獄、ドイツのベルリン郊外にあるブーヘンワルト強制収容所、カンボジアのプノンペンでのツールスレン収容所などを目にしたときに感じたことでもあります。これらの施設は、人類の罪業を象徴するものであり、二度と再び、そのような施設を必要とするような政治をもたらしてはならないと強く感じたものです。

 その後、昼食を摂り、民主労総の本部に向かいました。インタビューのお相手は、李政策局長です。
 民主労総には、政策室があり、その下に、集団的労使関係局、労働基準局、労働安全衛生局、経済社会政策局、国際担当、女性事業担当という6つの局があり、李局長は、集団的労使関係局の局長さんです。
 民主労総訪問は、15年ほど前、結成以前の全労協の時代に訪問したのが初めてですが、そのときの事務所は雑然としており、棚の上には布団などが積み重ねられていました。学生運動のような猥雑な雰囲気と同時に、活気と熱気を感じたものです。

 民主労総が結成された後にも、漢江の南に移転した事務所を訪問したことがあります。そのときは、民主労働党から立候補していた権栄吉大統領候補にお会いしました。
 今回の訪問は、3回目ということになります。そのたびにお話を伺い、ある種の定点観測を繰り返してきたというわけです。
 今回の事務所もソウルの中心部に移転しており、新聞社のビルの一角を借りたのだそうですが、新しくて整然としていました。青年のような活気はなくなった反面、成熟した大人の雰囲気が漂っていたと言うべきでしょうか。

 ここでの聞き取りの内容も大変興味深いものでしたが、詳しくは24日の研究所の月例研究会に譲りたいと思います。聞いてみなければ分からないことがたくさんあったということだけ、お伝えしておきましょう。
 外に出たら、太陽が傾きかけています。急いで南山公園に向かって車を走らせました。以前、宿泊したことのあるヒルトン・ホテルの前を過ぎ、ケーブルカーで山頂に登り、エレベーターでソウルタワーの展望台に向かいました。
 ソウルの町が一望できます。その町の西の彼方に沈んでいく真っ赤な夕日は、誠に印象深いものでした。

 なお、昨日の『朝日新聞』夕刊に、私の書いた論攷が、「三池争議から半世紀 風化しない『平和と雇用』」という記事になって掲載されたようです。労働関係のメーリングリストに、関連する投稿がありました。
 投稿されたのは、大原社会問題研究所のイヴェント「三池争議と向坂逸郎」の映像展でも上映させていただきました「荒木栄の歌が聞こえる」の港健二郎監督です。港監督は、拙稿を紹介し、「我が意を得たり!!!」「新たな決意を促す記事でもありました」と書いて下さりました。
 過分な評価をいただきまして、ありがとうございます。お礼申し上げます。今後とも、港監督のご活躍を期待しております。

 窓の外のビルが、朝日に輝いています。今日も、天気が良さそうです。

11月18日(木) ソウル大学日本研究所との研究協力に関する了解覚書きを締結した [旅]

 ソウルにいます。仁寺洞通りと日本大使館の間にあるサマーセットパレスホテルです。
 コンセント用のソケットを借り、インターネットに接続しました。持ってきたパソコンが使えます。

 成田から仁川国際空港まで2時間半、自宅から成田空港までが3時間。なんと、成田に着くまでの方が長い。
 飛行機は定刻に出発し、定刻に到着しました。空港には、横浜生まれでソウル大学に留学されている在日3世の女性院生が出迎えてくれました。
 リムジンバスで安国駅前まで行き、そこからホテルまでには5~6分。ホテルの部屋は二間続きのツインで、ダブルとシングルのベッドに、長期滞在用の台所がついているという豪華版です。

 昨日は、ソウル大学日本研究所の研究員の方に車で迎えに来ていただき、午前中に韓国労総を訪問しました。ユ政策局長からの聞き取りです。
 韓国の経済・雇用情勢、勤労法や労働組合法の改正問題、非正規労働者問題への取り組み、労働運動の状況などについて、お話を伺いました。1時間半ほどのインタビューです。
 非正規労働者保護法については、ないよりはましだが、労使政委員会で議論しているところで、再改正を求めるかどうかは分からない、複数組合の解禁については、原則的に支持しており、自主的自立的な団結を尊重したいが、事業所レベルでは混乱が生ずる可能性が高い、労組専従者に対する企業による賃金支払いの禁止については反対であり、タイムオフという制度を要求して一定程度、認めさせたというような回答でした。詳しい内容は、24日(水)の大原社研での月例研究会で報告します。

 午後はソウル大学日本研究所を訪問しました。ここでの「学術及び研究交流に関する了解覚書の締結式と「特別専門家招聘セミナー」での講演が、今回の韓国訪問の主要な目的です。
 春に大原社会問題研究所でお目にかかった韓栄恵所長に出迎えられ、研究所の所員に紹介していただきました。専任研究員が11人だそうですから、わずか3人の大原社会問題研究所の3倍以上で、その規模や陣容はなかなかのものです。
 これから、韓国における日本研究のメッカになる重要な研究所であり、大原社会問題研究所としても大いに期待したいところです。

 研究所の壁に貼ってあったポスターに私の顔写真が印刷されていてビックリしました。これはお土産にいただきましたので、研究所のポスター・コレクションの一つに加えたいと思います。
 セミナーは同時通訳で、40人ほどの日本研究者が出席されました。1時間半ほどの講演と40分くらいの質疑応答です。大原社会問題研究所の歴史と所蔵資料についての皆さんの関心は高く、沢山の質問をいただきました。
 いずれ、研究所へのツアーを組んで、是非、資料探索のために訪問したいという声が寄せられました。蓄積されてきた資料を生かした歴史的な深まりと研究協力や連携による国際的な広がりをめざしている研究所にとって、大変、嬉しい申し出です。

 その後、大学近くのホテルで夕食会が開かれ、さらに、近くの一杯飲み屋のようなところで2次会です。蚕のサナギ、キムチ、チヂミ、韓国風のおでんなどをつまみに、マッコリをたらふくいただきました。
 このような庶民的なお店こそ、私の好みです。大いに、くつろぐことができました。
 やはり、本場のマッコリは美味しい。皆さんのお話も、楽しく興味深いものでした。

 ソウル大学日本研究所の皆さんに、大変、お世話になりました。多くの方に紹介され、持ってきた名詞がなくなりそうになって慌てるほどでした。
 おかげさまで、楽しいひとときを過ごすことができました。お世話になった皆さんに、深く感謝申し上げます。

11月6日(土) 盛会だった大原美術館創立80周年・大原孫三郎生誕130年記念行事 [旅]

 倉敷から東京に帰る新幹線の中で、これを書いています。昨日の大原美術館創立80周年・大原孫三郎生誕130年記念の祝賀行事に出席しての帰路です。

 記念行事は、大原美術館創立80周年記念特別展「大原BEST」、大原孫三郎生誕130年記念「大原孫三郎 日本美術への眼差し」展、倉敷市公民館で開かれたシンポジウム、記念式典、レセプションなどから成っていました。このうち、シンポジウムや記念式典などに出席するのが、今回の倉敷訪問の目的です。
 シンポジウムの会場は美術館のすぐ近くの公民館で、約300人入るそうですが、満席で入場を断った方もいたようです。シンポジウムは二部に分かれていて、第一部は「大原孫三郎 公益への眼差し」、第二部は「大原孫三郎 日本美術への眼差し」となっていました。
 私がパネリストとして報告したのは、この第一部の方です。案の定、時間が足りず、研究所の歴史や活動についてほとんど紹介することができませんでした。

 記念式典の会場は、なんと大原美術館の本館2階です。印象派を中心とした洋画が取り巻いている展示場の真ん中に椅子が並べられていました。
 私は、モネの「睡蓮」の絵の前の椅子に座りました。その横には、セガンティーヌの「アルプスの真昼」が掛かっています。
 この絵は、アルプスの明るい日差しの下、棒を持った羊飼いの少女が木の枝によりかかっている絵で、私の大好きなものです。180人が参加したという式典の間中、私はチラチラとこの絵を眺めていました。

 このときほど、大原社会問題研究所の所長をしていて良かったと思ったことはありません。それに、「大原ネット」を作ったことも……。
 「大原ネット」という形での連携がなければ、今回の行事に招待されることはなかったでしょう。招待されても、私が所長でなければ別の人が出席していたはずです。
 大原美術館の80周年に巡り合わせたことも幸いしました。区切りの年でなければ、このような催しはなかったでしょうから……。

 中学校、高校と美術部に入り、油絵を描いたり彫塑の粘土をこねたりしていた私にとって、大原美術館はあこがれの聖地でした。その聖地に再びやって来れただけでなく、大好きな名画に囲まれて座っているなんて、夢ではないかと思ったものです。
 いや、この「夢」はまだ序の口でした。続いて開かれたレセプションも、同じ大原美術館の1階が会場だったからです。
 シスレー、ピサロ、ゴーギャン、セザンヌ、モネ、ムンク、コロー、ミレー、クールベ、マネ、ロートレックなどの名作が並ぶ前で、ビールを飲み、ワインを口にしたのです。とりわけ、孫三郎の意を受けた満谷国四郎がルノワールを訪ねて制作を依頼したという「泉による女」という名画を赤ワインのグラスを手にして眺めたとき、体が震えるような幸福感を覚えました。

 この後、レセプションの会場をそっと抜け出しました。1人で2階に上がったのです。
 記念式典で使った椅子はすっかり片付けられ、真ん中にピアノが置かれていました。私の他には誰もいません。まさに、至福の時でした。
 名画の独り占めです。心ゆくまで、鑑賞することができました。

 しかも、祝宴は、これで終わりではなかったのです。近くの飲み屋さんを借り切って、大原美術館の関係者50人ほどでの打ち上げがありました。
 誘われて、そこにも顔を出しました。大原美術館によって支援されている若いアーティストも30人ほど出席していて、若々しいエネルギーがただよっていました。
 そのうちの1人、児島虎次郎が使っていたアトリエで作品を製作しているという津上みゆきさんを、大原謙一郎理事長から紹介されました。もう1人、鯉江真紀子さんという方も……。

 お二人とも、若手の中でも有望な新人だそうです。今日の午前中、「大原BEST」展を見たとき、この2人の作品も目にしました。
 津上さんの作品は2点あり、一点は黒を中心にした大胆な構図で、もう一点はピンクの色合いが美しいハーモニーを奏でているようでした。鯉江さんの作品は絵というよりも写真で、それを加工してあります。
 鯉江さんの作品は、東京でも見ることができます。ブリジストン美術館の横の「ツアイト・フォト・サロン」で、11月12日から12月22日まで個展をやり、12月上旬には写真集『Aura』(青幻社刊)も刊行されます。

 ということで、津上さん、鯉江さん、お約束通り、ブログで宣伝しておきましたよ。

11月5日(金) 大原美術館も創立80周年を迎えた [旅]

倉敷に向かう新幹線の中で、これを書いています。ビルの間から昇る朝日が、まぶしく輝いています。
 これで、今年何度目になるでしょうか。東海道新幹線を往復するのは。

 倉敷に行くのは、大原美術館の創立80周年に関連するイヴェントに出席するためです。シンポジウムで、大原社会問題研究所について報告することになっています。
 とはいっても、予定されている時間はわずか10分しかありません。その間に、大原社研の91年の歴史と活動を語ることはとてもできないでしょう。
 ほんのさわりを紹介するにとどまると思います。このシンポジウム以外にも、美術館での展覧会や別会場での音楽会なども予定されているようです。

 午前11時までに、大原美術館に来てほしいという要請でした。それには、西八王子駅5時45分発の電車に乗らなければなりません。
 朝、起きたのは4時15分です。私は朝型ですから、4時半頃に起きることはよくありますが、それでも早い時間です。
 支度を調えて家を出た時は真っ暗でした。朝日が顔を出してきたのは、町田駅をすぎた頃だったでしょうか。

 ということで、その続きを書こうと思ったのですが、それは明日にします。すべての行事を終えて、楽しく酔っぱらって帰ってきました。
 「楽しかった」ということだけを、お伝えします。その内容については、明日のブログのアップをごらん下さい。

 ところで、昨日、嬉しい荷物を二つ、受け取りました。一つは、山原健二郎資料館からのものです。
 資料館を訪問したとき、山原さんの書かれた著書や資料など何点かの寄贈を受けました。量がありましたので、一定のカンパとともに料金を渡して、宅急便での発送をお願いしてきました。
 昨日、その荷物が研究所に届いたわけですが、開けてみてビックリ。本などとともに、高知名物のお菓子「芋けんぴ」が出てきました。その心遣いが嬉しいじゃありませんか。

 もう一つの荷物は全く思いがけないもので、自宅に届きました。中には、鰹のなまり節とメヒカリが入っていました。
 送ってくださったのは、高知での2日目の夜に行ったスナック・バーのママさんです。お土産に渡すつもりだったけど忘れてしまったので、芹沢先生に預けたのだそうです。
 実は、その日の夜にも、「宿に帰ってから、一杯やって」と、ご馳走していただいた吟醸酒の残りと皮を剥いた柿を、お土産にいただいていました。そのうえのお土産です。

 私は東京の人間で地元にいませんから、おいそれとは行けません。その私にこのようなサービスをしてもメリットはほとんどないと思われるのですが、そのような「計算」を超えたご厚意を寄せていただいたというわけです。
 このブログで大いに宣伝する以外、このご厚意にお応えする道はありません。ということで、このお店のPRをさせていただきます。

 お店の名前は「マーヴェラス」と言います。高知市オビヤ町にある「ABCビル」の1階です。
 ママさんとは初対面でしたが、気さくで料理の上手な方とお見受けしました。何しろ、予約していたこともあって、その夜のテーブルの上には、鰹と鯵の刺身、鯖の押し寿司、コリコリした鯨の煮物、だし巻き卵、特製の牛肉コロッケ、里芋とずいきの煮物、小さなイカの佃煮、小鯵のマリネなどの料理が所狭しと並び、球磨焼酎の「もっこす」が飲み放題でした。
 もちろん、カラオケ・セットもあり、私は歌いまくりました。皆さんも、ぜひ、お出でください。五十嵐のブログを読んだと言えば、サービスしてもらえるかもしれませんよ。

11月4日(木) 松山から高知へ、そして明日からは倉敷へ [旅]

 旅から帰ってきて、自分のブログを見て驚きました。次のような書き込みがあったからです。

10月31日に70年入学法政Ⅱ社の同級生旅行で行った雨の高知駅のバス乗り場で五十嵐先生によく似た二人連れの男性とすれ違いました。
友人に「土佐にも五十嵐先生によく似た人もいるもんだね。」と話すと「あら、さっき偶然S先生とお会いして、今は法政の研究所とかにおられるれるとおっしゃっていたけど。松山のことをおっしゃっていたね。」というので、「土佐の五十嵐先生によく似た方」でなく御本人だったとわかりました。

 そうです。それは私です。
 10月29日に松山に向かい、椿の湯と道後温泉で疲れを癒し、愛媛大学での社会政策学会に出席したのち、高速バスで高知に向かい、駅前のバス停に降り立ったとき、目撃されたのだと思います。「S先生」と書かれているのは元高知短大学長の芹沢寿良先生で、今回の高知の旅の同行者でした。
 芹沢先生は、昨年末になくなったKさんのお墓参りを広島で済ませ、高知に「先乗り」していたのです。共通の知人であるMさんの奨めもあって、学会に出席するついでに足を伸ばしたというわけです。

 学会前日の29日の朝、何とか『社会労働大事典』の入稿を完了させることができました。ホッとする間もなく、旅装を整えて羽田空港に向かい、飛行機で松山に向かいました。
 松山行きは、これで4回目になりましょうか。最初に行ったのも社会政策学会のときで、足慣らしに新品の登山靴を履いていきました。
 たまたまフライトアテンダントの方と向き合うように座る席で、足もとの登山靴に目をやったとき、「松山に行くと聞いたものですから」といいましたら、「え、松山は山じゃありませんよ」と言って、笑い出したことを思い出します。飛行機の窓から、富士山が綺麗に見えたことも……。

 松山で宿泊したホテルは、道後温泉本館から道路一本隔てた横にありました。部屋には、雪駄があり、これを履いて浴衣がけで温泉に入ることができます。
 その日の夕方は、少し離れた椿の湯に入りました。翌日の早朝、道後温泉に行ったら、もう一杯です。
 ここから学会の会場までは、歩いて行けるくらいの距離でした。学会での報告の合間に愛媛大学博物館に入りましたが、立派な施設でビックリしました。これほどの博物館が法政大学にもあったなら、今回の展示ももっと充実したものにできたのに、と思ったものです。

 高知を訪問するのも、今回で3回目くらいになりましょうか。前回も芹沢先生と一緒で、町中を歩いていて「芹沢先生」と声をかけられる方がおられ、驚いたものです。
 宿泊したのは、高知市から少し離れた「かんぽの宿 伊野」で、仁淀川の畔にあります。以前、仁淀川にも一度来たことがありますが、伊野は私の都立大学時代の恩師・塩田庄兵衛先生の生まれ故郷です。
 高台に立つホテルの9階の部屋からは、仁淀川越しに先生のふる里が一望できました。その町並みを眺めながら、昨年なくなられた先生ご夫妻を偲んだものです。

 高知では、五台山から竹林寺を経て牧野植物園を訪問しました。前日の雨も上がってからりと晴れ、展望台からの高知市の眺めは素晴らしいものでしたが、牧野植物園も、本館の展示も大変充実していました。
 展示といえば、このあと山原健二郎資料室の展示を見せていただき、翌日は自由民権博物館にも行きました。ちょうど、「龍馬の遺志を継ぐもの 第4弾 中江兆民展 ―自由・平等・平和を求めて」と「平成22年度特別展 幸徳秋水展 ―その生涯と思想」が開催中で、この二つの展示を見ることが今回の高知訪問の大きな目的でした。
 すでに、常設展は以前に訪問したときに見ていました。今回の展示も良くできたものでしたが、とりわけ幸徳秋水については、塩田先生が生涯をかけて研究された対象でもあり、その展示を見ることができたのは幸いでした。

 今回の高知訪問には、実は、もう一つの目的がありました。それは、安芸にある市営球場を訪れることです。
 ここは、言わずとしれた阪神タイガースの練習場のある場所です。今回、芹沢先生の知り合いの方から車で案内していただくことになっていました。
 グラウンドでは2軍選手の秋季練習が行われており、その横には立派な室内練習場もあります。横にはテントが出ていて、タイガース・グッズを売っていましたので、記念にマートンとブラゼルの顔が印刷されたタオルを買ってきました。

 この近くには、岩崎弥太郎の生家もあります。テレビのドラマ「龍馬伝」では、すぐに高知に行けるように見えましたが、かなりの距離があります。
 それに、生家はそれほど貧しかったようには見えません。テレビ・ドラマはやはりドラマにすぎず、実際の姿とは異なっているということでしょうか。
 帰りに、琴ヶ浜に案内していただきました。素晴らしい砂浜で太平洋が一望でき、地球の丸さを実感できます。

 青く輝く太平洋に沈み行く夕日を眺めながら、慌ただしかった旅の思い出に浸りました。でも、それはまだ始まりにすぎません。
 明日は、大原美術館創立80周年記念行事のシンポジウムに出席するために、岡山県の倉敷に向かいます。そして、16日から21日までは、調査も兼ねて、ソウル大学日本研究所との交流のために韓国に行くことになっています。

8月29日(日) 大阪で「民法協」のエネルギーに圧倒された [旅]

 昨日、大阪に来ました。地下鉄・南森町駅近くの「ドーミーイン梅田東」というビジネス・ホテルに泊まっています。
 驚きましたね。ここは、「堂島川温泉天神の湯」という天然温泉です。単純泉ですが、かすかな香りとツルツルとした肌触りがいかにも温泉らしく、思いがけず得した気分になりました。

 昨日は、「民主法律協会」(民法協)での記念講演が終わった後、そのまま協会の総会に参加しました。この総会は第55回ですから、創立は1956年になります。総評弁護団結成の1年前だそうです。
 当初、私は日本民主法律家協会と間違えていました、その総会が大阪で開かれるものと勘違いしていたのです。しかし、これは大阪の団体で、名称も「民主法律協会」と「家」が入りません。
 どうして「家」が入らないのかというと、「法律家」の団体ではないからです。ここには、弁護士などの法律家だけでなく、学者・研究者、労働組合や労働運動家も参加しており、この点に「民法協」のユニークさと強みがあります。

 総会での報告や討論時間での発言などを通じて、関西での労働運動と労働事件をめぐる状況がよく分かりました。私にとっては、格好の「参与観察」の機会となったわけで、大いに勉強させていただきました。
 とりわけ、懇親会では40人ほどの出席者全員が発言し、それぞれの方の問題意識や民法協に寄せる思いがよく分かりました。2時間ほどかかりましたが、これも貴重な「聞き取り」の機会です。
 昨年の11月に「働き方ネット大阪」の講演に招かれ、そのときも若い人が多いと感じましたが、今回も若い弁護士さんが沢山参加されていました。その中の一人が、「労働事件はやりたい事件というよりも、やらなければならない事件だ」と発言されたのが、印象に残っています。

 懇親会終了後、この若手弁護士の皆さんなど15人ほどと一緒に、2次会に行きました。なんと、カラオケ・ボックスです。
 その元気の良いこと。歌って踊れる弁護士さん達ばかりです。
 やっぱり、大阪は乗りがいい。私の方が励まされ、エネルギーを注入してもらったような一夜になりました。

8月25日(水) 稲穂波打つ新潟平野の旅 [旅]

 まだ、夏休みは続いていたということでしょうか。「事実上、休みは終わり」などと書きましたが、そうでもなかったようです。

 昨日と今日、稲穂が波打つ新潟平野を旅し、今夕、帰ってきたところです。講演旅行ですから「仕事」ではありますが、それが終わった後は楽しい旅になりました。
 新潟県商工連合会の全県事務局員交流会での記念講演が、今回の私の「仕事」です。場所は五泉市の阿賀野川河畔にある咲花温泉一水荘で、失礼ながら、今回初めてこの温泉を知りました。
 18日に新潟から戻ったばかりでしたが、一週間でまたトンボ返りです。せっかくの温泉でしたが、講演が終わってからすぐに引き上げましたので、入ることができませんでした。

 というのは、近くにある旧友の別荘に泊めてもらったからです。昨年のゴールデン・ウィークにお邪魔した村上雲雄君の「花と緑の古民家風ギャラリー・木り香」で、五頭連峰の麓にあります。
 白鳥で有名な瓢湖のある水原町から5つの山頂が頭のように見える「五頭連峰」に向けて車を走らせ、「出湯温泉」の手前の十字路を左に曲がり、「五頭山麓いこいの森」の少し手前、左側にあります。
 「木り香」に向かう途中、瓢湖に立ち寄りましたが、一面、蓮の花が咲いていました。もう盛りを過ぎていたものの、なかなか見事なものです。

 「木り香」は「古民家風」ですが、「古民家」ではなく、木の香り漂う新築の別荘で、写真や絵画を展示する「貸しギャラリー」を兼ねています。9月5日まで「瞬間の投影 五十嵐功次デッサン展」を開催していて、作品が周囲の壁に飾られていました。
 コーヒーやジュースなど、軽い飲み物も出しています。9月からは、フランスで修行をしたシェフによる本格的な料理を出すそうですから、是非、皆さんもお出で下さい。
 良い香り漂う檜造りのお風呂に入り、絵画に囲まれて旧交を温めました。気がついたら、地ビールの小瓶が6本も空いていましたが、そのほとんどを飲んだのは私です。

 翌朝、鳥の声で目が覚めました。木々の隙間から朝の光が見えます。
 外に出てしばらく周りを散策し、新しく作ったというベランダに椅子を出して、ボンヤリと杉の木立を眺めていました。涼しい朝の風が吹き渡っていきます。
 貴重な、無為の時間でした。突然に訪れた、つかの間の休息です。

 午前中時間が取れたので、車で近くを案内してくれると言います。「それは、有り難い」ということで、ドライブに出発です。
 まず最初に向かったのは、月岡温泉近くの豪農の邸宅で新潟県指定文化財の市島邸です。ところが、残念ながら、水曜日はお休みで通過。
 次は、「環境と人間のふれあい館-新潟水俣病資料館」に向かいました。この施設は、「1995(平成7)年12月の新潟水俣病被害者の会・共闘会議と昭和電工との解決協定締結を契機に建設」されたそうです。

 新潟水俣病は「第二水俣病」とも言われ、阿賀野川上流にあった昭和電工鹿瀬工場でアセトアルデヒド生産中に生成された廃液を未処理のまま垂れ流したため、流域の住民に発生した有機水銀中毒でした。確認されたのが1965年で、第1次訴訟が始まったのが1967年ですから、ちょうど私が高校生の時です。
 当時、私は弁論部に属していましたから、この問題についても関心がありました。弁論大会のテーマとしても、取り上げられていたように思います。
 その新潟水俣病の実態や裁判の経過を、ここでの展示で知ることができました。来年は、水俣病が発生した熊本県の水俣市に行くことになりそうですが、思いがけず、その「予習」をしたわけです。

 その後は、近くの福島潟の畔にある「水の駅・ビュー福島潟」に立ち寄り、城下町の名残を残す新発田市に向かい、回遊式の大名庭園である「清水園」と新発田川を挟んだ向かい側にある「足軽屋敷」を見学しました。「清水園」の書院が工事中だったのは、ちょっと残念でしたが……。
 さらに、挿絵画家として著名な「蕗谷虹児記念館」にも立ち寄りました。蕗谷は新発田市出身で「花嫁人形」の歌で良く知られています。
 蕗谷が竹久夢二と親交があったことを知って「やっぱり」と思ったり、中国で蕗谷の絵を広めるために尽力したのが魯迅だったということを知ってちょっとビックリしたり。絵も素晴らしかったですが、その生涯や交友を初めて知り、大いに勉強になりました。

 ということで、新潟市の北側を走り回りました。同じ新潟といっても、私の出身地は南の方になりますので、全くの未知の世界です。
 黄色く実り始めた稲穂が波打つ姿は、故郷の頸城平野と変わりありませんが、走っても走っても延々と続く新潟平野の広さは別格です。広大な穀倉地帯を実感した旅でした。

 お世話になった新商連の皆さん、私を歓待し案内してくれた村上君、お世話になりました。
 ありがとう。君の友情に、感謝。

6月14日(月) 博多から京都へ、そして東京へ [旅]

 昨晩遅く、宇宙から帰ってきた「ハヤブサ」と共に、西八王子の自宅に帰って来ました。惑星探査衛星「ハヤブサ」が地球を飛び立ったのは7年前のことです。
 当時の首相は小泉さんでした。それから、安倍、福田、麻生、鳩山、菅と5人も首相が替わっています。「ハヤブサもビックリ」というところでしょうか。

 宇宙の旅に比べればたいしたことはありませんが、それでも長旅で疲れました。一日で、博多から西八王子まで、新幹線を乗り継いで帰ってきたのですから……。
 日曜日の京都駅は、観光客でごった返していました。そこから、タクシーで「みやこめっせ」に向かいます。
 控え室では、私の前に「沖縄からの報告」をされた伊波洋一宜野湾市長にお目にかかりました。息子さんが、法政大学におられるそうです。

 講演の会場は広い体育館のようなところで、参加者は500人弱だそうです。声が響いて、講演の会場としては、あまり良い環境ではありません。
 講演が終わってから、旧知のBさんに案内されて、河原町のお店で一杯ご馳走になりました。京都らしい料理を、ということで、出てきたのが湯葉のお刺身です。
 「本日の地酒」ということで、「醴泉」の純米酒をいただきました。岐阜県養老町にある玉泉堂酒造のお酒で、「奈良時代に元正天皇が養老の地を訪れ、滝の水が甘く、健康に良いという中国の泉の名前をこの地の泉に名付け」ていった故事にちなむ命名のようです。

 この日に帰りますので、酒宴を早々に切り上げて京都駅に着いたのが6時50分。案内表示を見ると7時2分発の「のぞみ」があります。
 切符は買ってありましたので、急いで土産を買い込みました。京都駅に来るのは、今年になってからでも4回になりますから、どこでどのようなお土産が売られているか、すっかり覚えてしまいました。
 ホームに駆け上がったら、発車のベルが鳴っています。すぐに車両に飛び込んで、何とか間に合いました。

 ということで、長駆、博多から西八王子までの列車の旅を終えて、無事、帰還したというわけです。「ハヤブサ」のような事故もなければドラマもない、平穏無事な旅でした。
 でも、私にとっては大きな収穫のあった旅でした。もちろん、大牟田と京都でご馳走になったお酒も、この「収穫」の一部ではありますが……。

6月13日(日) 長崎から列車に乗って博多に着いた [旅]

 大牟田から長崎へ。そこで1時間半の講演と20分の質疑を終え、すぐにとって返して、長崎から特急「かもめ」に乗って、博多にやってきました。駅前のホテルでインターネットが接続できましたので、書いたブログをアップしました。

 朝起きて外を見たら、薄曇りで青空がのぞいています。雨は降っていないようです。
 すぐにチェック・アウトして、タクシーで三池の産業遺構を巡ることにしました。列車に乗るまでには、まだ1時間半ぽどあったからです。
 当初の計画では昨日のうちに行くつもりだったのですが、予定が変わりました。せっかくOさんが案内してくださるというのですから、そのご好意を無にするわけにはいきません。
 ということで、炭鉱労働者のアフターファイブを体験することになったわけです。大変、充実した楽しい一夜でした。

 タクシーでまず向かったのは、宮浦坑跡です。ここは宮浦石炭公園として整備されていて、自由に中にはいることができます。
 ここには、国登録の文化財として赤煉瓦の煙突と斜坑のプラットホームが残っています。坑内への入り口には斜坑と立て坑とがありますが、前者は斜めになっていてトロッコのような人車で、後者は垂直になっていてエレベーターのようなもので入ります。
 宮浦抗は長さ1㎞という大斜坑で、実際に使われていた人車とそれに乗り降りするためのプラットホームが残っていました。三川坑大炭塵爆発事故の時の遺体はここから上げられたそうです。ここには、ドリルジャンボなどの坑内で使われていた機械も展示されていました。

 次に向かったのは、宮原(みやのはら)坑跡です。ここは立て坑の跡で、巻き上げ機室と立て坑櫓が残っています。
 元々は第一立て坑と第二立て坑があったそうですが、今残っているのは第二立て坑だけです。国の重要文化財に指定されており、中には市の許可がなければ入れません。
 近づいてみたら、入り口の扉が開いています。「中に入れるかもしれませんよ」と、運転手さんが言いますので、中に入ったら、係の人がいます。やはり、許可がなければ駄目だということで、外に追い出されてしまいました。残念。

 ここから、三池港の方に向かいました。三池港改修の際、水位を調節するために建設された大きな水門があるというのです。
 途中、高い石積みの塀の脇を通りました。炭坑労働に使った囚人を収監していた施設の名残だそうです。今は三池工業高校のキャンパスの一部になっています。ここでは、かつて巨人の原監督のお父さんが野球部の監督をしていて、初めて甲子園に出場したそうです。
 このように、運転手さんはいろいろと興味深い話をしてくれます。昨日、10円焼き鳥の「元禄」に行ったと話したら、「ああ、あそこですか。昔は5円でしたよ。2倍になっても安いですけどね」と、仰います。

 港近くの開けた場所には、三池鉱の入り口の門がありました。「ここが三池争議の舞台です。広いでしょう」
 確かに広い。労働組合員2万人、警官隊1万人が対峙した場所にふさわしく、広々とした空間が広がっていました。今は、中に入れないようです。
 その近くに、昔の炭住(炭鉱住宅)が一棟だけ残っていました。今も、人が住んでいるそうです。昔は、平屋の炭住が軒を連ねていたことでしょう。
 水門を見て、三井の迎賓館の横を通って駅に向かいました。タクシーで案内してもらったおかげもあり、大牟田で“見るべきものは見つ”という気がします。

 この後、大牟田駅から特急列車に乗って鳥栖まで戻り、そこで乗り換えて長崎に行きました。講演会場は高台のホテルで、すばらしい眺めです。
 70~80人の方がおられたでしょうか。講演が終わって、「ここに泊まってもらって、卓袱料理でも味わっていただきたかったのに、すぐにお帰りとは残念です」という声を背中に聞きながら、タクシーに乗り込んで長崎駅に向かいました。「ここからの夜景は素晴らしいだろうなー」と思いながら、目いっぱい後ろ髪を引かれる思いでホテルを後にしましたが、それもやむを得ません。
 長崎駅から、またも特急「かもめ」に乗り込んで、来た道を逆戻り。2時間ほどで、博多駅に到着したというわけです。

 珍しいことに、雨には降られませんでした。夜には降り出したようですが……。
 九州北部は梅雨入りしたそうです。「雨男」の私が来たのですから、それは当然でしょう。これから西日本を通って関西に行きますから、この地方も、まもなく梅雨入りとなるに違いありません。