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10月8日(土) 秋まっ盛りの京都に来ている [旅]

 京都のホテルで、これを書いています。今日から、京都大学で開かれる社会政策学会に出席するために秋真っ盛りの京都に来ています。

 一昨日は国際労働問題シンポジウムで法政大学の市ヶ谷キャンパスに行きました。前日からの雨も上がり、ボアソナード・タワーの上からはスカイツリーがよく見えました。
 シンポジウムには、報告者の政労使代表始め110人の方に出席していただきました。この場を借りて、お礼申し上げます。
 ILO本部からは、社会保護総局の日本人スタッフである山端(やまばな)さんにお出で頂きましたが、10年前に私がジュネーブの本部を訪問したときに案内していただいた日本人スタッフの三宅さんをご存じでした。三宅さんは今もILO本部で元気に活躍されているということで、大変、懐かしく思ったものです。

 京都は、観光シーズンが始まっていて、どこも混雑しているようです。新幹線も一杯でした。
 でも、昨日訪れた東寺は訪れる人も少なく、静かなたたずまいでした。有名な五重塔は、周囲や背景にビルなどは全く見えず、青空に屹立する優美な姿を見せていました。
 その後訪れた西本願寺は、親鸞聖人750回大遠忌法要期間中とあって、多くの人が訪れています。本堂前の広場には、夜にコンサートがあるということで沢山の椅子が並べられ、本道の中も椅子で一杯でした。

ということで、今日はこれから社会政策学会の本番です。会員の皆さん、京都大学でお会いしましょう。

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9月19日(月) 東日本大震災の被災地に見る復旧・復興の現実 [旅]

 一昨日(17日)、昨日(18日)と、東日本大震災の被災地を訪問しました。いわゆる「視察ボランティア」というわけです。
 震災から半年以上経った現地の復旧・復興の現実を目にしてきました。といっても、広範囲に広がる被災地のほんの一部にすぎませんが……。

 18日の午前中に開催される労働組合のセミナーでの講演を頼まれました。場所は、仙台市郊外の秋保温泉だといいます。
 仙台を訪れる機会に、実際に被災地の様子を見てみたいと思いました。でも、闇雲に出かけていっても、迷惑になるだけかもしれません。
 そう思っていたところ、ある研究会で復旧・復興支援を行っている東北全労協事務局長の亀谷保夫さんの報告を聞きました。亀谷さんは、「是非、現地を訪問して実情を見て下さい。それは視察ボランティアなのです」と仰っていました。

 ということで、亀谷さんに案内をお願いして今回の訪問になったというわけです。お忙しいところ、2日に渡って車で案内していただいたわけで、感謝に堪えません。
 私が訪問したのは、観光地で有名な松島の奥の東松島市野蒜地区(1日目)と、名取市閖上地区(2日目)です。どちらも、大きな被害の出たところです。
 これらの被災地では、辺り一面を追いつくしていたというヘドロや瓦礫はほぼ片付けられていました。しかし、被災の跡は今も生々しく残っています。

 野蒜に行く途中、仙台東部道路を通りました。盛り土をしたこの道路が防波堤の役割をして津波を防いだそうで、道路の左側は普通ですが右側にあまり建物はなく、草原が広がっていました。
 2月にバス旅行で訪問した松島の被害は少なく、ほぼ通常に戻っていて観光客が歩き回っています。それでも建物の1階をやられたお店も多く、遊覧船前の酒屋はまだシャッターが下りたままでした。
 野蒜地区は海に突き出した半島で比較的平坦な場所が多く、住宅地が広がっていました。その場所は今、家が流され、地盤沈下のために水が引かず、まるで湖のようになっています。

 かろうじて家が流されずに残っている一角があり、沢山のボランティアが片づけ作業をやっていました。そこのディケアセンターであるNPO法人「すみちゃんの家」で、震災直後からの写真を見せていただき、お話を伺いました。
 津波で多くの避難所が水没し、そこに避難した人たちは助からなかったそうです。ここの入所者や職員は道路の高いところに逃げて助かったといいます。
 震災後も余震が続き、津波警報が出て3回も避難したが、その度にあの時の恐ろしさがトラウマとなって甦ってくるそうです。何とか住めるようになったけれど、病院もなければ店もない。何にもない。今後どうしたら良いのか分からず、見通しの立たない今が一番きつい、と仰っていました。

 この家も、1階の天井近くまで水がやってきたそうです。ボランティアの力を借りて、家の中に溜まったヘドロや瓦礫を取り除き、床や壁を剥がしている最中でした。
 丁度、私たちが訪問したとき、壁の中から野良猫2匹の干からびた死体が出てきました。水で流され、壁に挟まって逃げられなかったのでしょう。
 近くの仙石線は線路が流され、ホームの近くまで土に埋もれています。野蒜駅と隣の東名駅は、ホームが残っているために駅だったことが分かる程度です。

 2日目に訪れた仙台市宮城野区、名取市閖上、仙台空港周辺もすさまじい状況でした。住宅が流されてほとんど残っていません。
 家の基礎の跡しか残されていませんが、今では雑草に覆われて、それも良く見えなくなっています。「草で覆われて家の跡が見えないのが、かえって救いだ」という亀谷さんの言葉が悲しく響きます。
 このような荒涼とした風景が、福島県の相馬の辺りまで延々と続いているのだそうです。道路をダンプカーが行き交い、沢山のショベルカーなども作業をしていましたが、被災地域は広大で、復旧工事の手が回らない状況だといいます。

 野蒜では、中国の温家宝首相が5月に来日したときに視察したという小高い丘に登りました。ここには小さなお堂があったそうですが、津波に流されて残っていません。
 辺り一面、真っ平らで、近くに石を砕いて積み上げた丘ができています。津波警報が出たら、ここに作業員が避難するのだそうです。
 海の方にも小高い丘が見えましたが、それは最近発火した瓦礫の山でした。港は壊滅して建物は何もなく、岸壁の地盤は沈下して波打っていました。

 その後、仙台空港に向かいました。周辺の宅地跡は一面の草原になり、所々に船や車などが放置されています。
 道路周辺の畑も地盤沈下してしまい、水が溜まって湿地帯のようになっています。遠くにポツンポツンと残った防砂林の松が見えますが、みな茶色に変色しています。
 田んぼも緑になっているところと、除草剤を撒いたように茶色になっているところに分かれています。茶色の部分は、海水が流れ込んで塩害の被害が残り、雑草すら生えない場所だそうです。

 私が想像していた以上に、深刻で悲惨な状況に言葉もありません。元のような状況に戻るのに、いったい何年かかるのでしょうか。
 人間は自然の力を見くびりすぎていたのではないかと、大いに反省させられました。復旧・復興は、この反省を踏まえ、厳しい現実を直視するところから始めるしかないでしょう。
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9月1日(木) 山古志・長岡・魚沼の旅-その2 [旅]

昨日の続きです。シンポジウム当日の午前中と終了後、翌日の訪問について書くことにします。

 山古志の民宿「たなか」で宿泊した翌朝、少し早起きして散歩しました。近くには氏神様だと思われる「白髯神社」があります。
 階段を上った神社の前には、目通り幹囲5mくらいの見事な杉の巨木がありました。良く倒れなかったものです。
 宿に戻って女将さんに聞いたら、中越地震の被害は、この神社から上の方にはあまり及ばなかったそうです。

 朝食を摂った後、村上君の車で長岡に向かいました。途中、小千谷市と長岡市を結ぶ信濃川沿いの県道を通りました。
 中越地震の時、崖崩れが発生して生き埋めになったワゴン車に乗ったままの母子3人が発見された場所です。東京消防庁などのハイパーレスキュー隊が子供を助け出しました。
 山側に新しい道が通っていて、崖崩れが発生した道は立ち入り禁止になっていました。あの時助け出された子供も、今では大きくなったことでしょう。

 その後、信濃川を渡って上越線の小千谷駅前を通過。山本山山頂の展望台に行きましたが、ここからの眺めも絶景です。
 昨日上った金倉山が、向こう側に見えました。その間には、色づき始めた水田の平野が横たわっています。
 山を下り、高速道路を走って長岡に向かいました。まだ時間がありましたので、立ち寄ったのが丘陵地帯に建つ新潟県立歴史博物館です。

 これは大変立派な施設で、以前から来たいと思っていたところです。「越後の大名」という夏季企画の特別展をやっていました。
 江戸時代の越後は、小さな大名が割拠する状況だったようですが、この時代の状況についてはあまり知りませんでした。火炎土器などの常設展示も見ましたが、なかでも興味深かったのは、1644年(正保元年)に幕府が諸大名に作らせた地図です。
 そのうちの34巻目が越後で、高田藩がまとめて幕府に提出したものを見ましたが、そこには、米岡、松橋、榎井など、今も残る故郷の集落の地名が載っています。私が生まれ育ったのは「下米岡」ですが、江戸時代の「米岡」に、その後どうして「下」が付いたのか、新たな謎が生まれました。

 博物館の中で昼食を摂った後、シンポジウムが開かれる長岡商工会議所に向かいました。入り口には書籍販売や山古志の物産を販売する店なども並んでいます。
 このシンポジウムには約300人が参加して盛況だったことはすでに書いたとおりです。そのほぼ全ての様子が放映されるということで、地元のケーブルテレビが準備をしていました。長岡周辺の方は、私の報告や質疑の様子などを、テレビでご覧いただくことができるでしょう。
 残念ながら、放送されるのは地元だけのようです。収録したDVDなどを送ってくれるよう頼んでおけば良かったのですが、忘れてしまいました。

 シンポジウムが終わってから、一旦ホテルに戻って荷物を置き、再び市内に出ました。まだ、時間がありましたので、長岡戦災資料館に行こうと思ったからです。
 公共の施設は、たいてい月曜日が休みになります。日曜日に仕事があって宿泊する場合、これが困ります。
 何とかならないものでしょうか。この日午前に訪問した新潟県立歴史博物館も、長岡戦災資料館も、月曜日は休みになっていました。

 戦災資料館は長岡駅前の一等地にあり、市の施設だそうです。運営などはボランティアの手によるということで、2人の方がおられました。
 長岡での空襲は、終戦間近の1945年8月1日夜10時半から翌2日の零時10分までの間になされました。この空襲で1476人が犠牲となり、1万1986棟の家屋が焼失したそうです。
 この日の空襲は、長岡だけでなく、水戸、富山、八王子でも実施されたといいます。私が住む八王子が空襲されたことは知っていましたが、その同じ日に長岡も空襲されたことは全く知りませんでした。

 この日の空襲は、とりわけ大規模なものだったそうです。というのも、8月1日は米陸軍航空軍の創立記念日で、その司令官だったカーチス・ルメイ少将の栄転を祝う意味もあったのだそうです。
 このルメイ少将は、それまでの高々度から軍需工場などを爆撃するやり方を変え、低高度から市街地の民家を絨毯爆撃する新しい方法を導入し、木造家屋向けに燃焼力を増したM69ナパーム型焼夷弾を開発したとんでもない人物で、東京大空襲の責任者でもありました。それなのに、戦後、航空自衛隊の発足と育成に功績があったということで、勲一等旭日章を授与されています。何と言うことでしょうか。
 敗戦の翌年に、この8月1日の空襲による犠牲者を慰霊するため、戦災復興祭が開催されました。これが、山下清の貼り絵で知られ、尺玉という大きな花火が打ち上げられることでも有名な長岡まつりの始まりだといいます。

 翌日の午前中、河合継之助記念館、山本五十六記念館、小林虎次郎の「米百俵の碑」を見学した後、再びホテルで村上君と待ち合わせて、魚沼市の旧守門村に案内してもらいました。ここには、共通の知人で高校時代にお世話になった大塚中さんがおられたからです。
 スキーが大好きでスポーツマンだった大塚さんは、守門村の自然を気に入り、ここに移住されました。雄大な守門岳を望む、須原スキー場の近くに大塚山荘があり、その横には絵本の家「ゆきぼうし」があります。
 奥さんも元学校の先生で、「ゆきぼうし」にある9700冊を超える絵本を子供たちに貸し出したり、読み聞かせの会を開いたり、コンサートを開いたりしているそうです。山荘の裏には「フーの木の森」と名付けられた雑木林が広がり、薄紫色のギボウシが群生していました。

 この大塚さんが高田におられた頃、高校3年の夏休みに大いにお世話になりました。頭髪自由化運動をやっていて学校に睨まれ、家から逃げ出したときのことです。
 1週間ほど牧村の下宿にやっかいになって、毎日、大学受験のための勉強をしていました。その時の猛勉強の甲斐あって、東大の入試中止という異常事態にもかかわらず現役で都立大学に合格できたのだと、私は勝手にそう思っています。
 それ以来の再会ですから、42年ぶりということになります。でも、お会いして、すぐに分かりました。髪は白く薄くなっていたものの、相変わらず若々しかったからです。

 これは、実は驚異的なことなのです。というのは、20年ほど前に重病を発病され、医者からは10年で寝たきりになると言われていたそうですから……。
 大塚さんは『フーのきの森から』という著書もあり、病気のことはこの本に書かれています。本を読んでそのことを知っていた私は、お会いしても話ができるのだろうかと心配していました。
 しかし、話ができたのはもとより、杖を片手にスタスタと歩き回ってアップダウンのある「フーの木の森」を案内してくださるではありませんか。「こうして毎日リハビリしているんだよ」と大塚さんは仰っていましたが、しっかりとした足どりはその言葉を裏付けていました。 

 「絵本の家」の入り口にある切り株の椅子に腰かけ、お茶を飲みながら昔話に花を咲かせました。見上げれば、先日の豪雨で崩落したというスキー場のゲレンデの茶色い地肌が目に入ります。
 時折、涼しい爽やかな風が吹き渡っていきます。目の前の藤棚の葉が、ユラユラと揺れていました。
 冬には4メートル以上もの雪が積もるそうです。「ここで生活するのは大変だよ」と仰りながらも、その目は優しく笑っていました。

 楽しい時間でした。お互い若かったあの頃が、一瞬、よみがえってきたかのように感じた時間でした。
 お暇を告げて帰るとき、お土産に地酒「越乃雪蔵」の純米吟醸酒をいただきました。私が酒好きであることを、誰かから聞いたのでしょうか。
 上越新幹線の浦佐の駅までは40分くらいです。幸運にも、大宮から再び「むさしの号」に乗ることができました。約1時間で八王子到着です。

 今回も、中身の濃い充実した旅になりました。全ては、「木り香」主人の村上君のお陰です。
 長岡の皆さんにも、お世話になりました。この場を借りて、厚く御礼申し上げます。
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8月31日(水) 山古志・長岡・魚沼の旅-その1 [旅]

 8月27日(土)から29日(月)の3日間、新潟県の山古志・長岡・魚沼をめぐってきました。今回もまた、「木り香」のご主人で旧友の村上雲雄君に私の面倒を見ていただいたというわけです。

 今回の旅の主たる目的は、長岡市で開かれる原発問題を考えるシンポジウムでの講演でした。これは6月に開かれた新潟でのシンポジウムの続編として企画されたものです。
 この企画自体、村上君の尽力によるものでしたが、この機会に旧山古志村に案内するから、中越地震からの復興の様子を見たらどうかと提案されました。私に異存あろうはずがありません。
 山古志は棚田でも有名で、日本の原風景と言われている景色の美しいところです。喜び勇んで、前日からの新潟入りとなりました。

 ところが、出発直後、早くもヒヤッとする体験をしました。路線情報で調べたら、都合の良いことに八王子から大宮直通の「むさしの号」が出るようです。
 西八王子から電車に乗り、八王子で乗り換えます。でも、出発するホームが分かりません。
 下りたホームで、阪神勝利のニュースを伝えるスポーツ新聞『デイリー』を読んでいて、ヒョッと顔を上げたら、「大宮行き」という表示が目に入りました。線路の向かい側のホームに止まっている電車ではありませんか。

 あわてて腕時計を見たら発車2分前です。大急ぎで階段を駆け上がり、駆け下りて電車に飛び込みました。
 もう少しで、危うく乗り遅れるところでした。これに乗れなかったら、大宮での新幹線に間に合いません。
 村上君とは長岡駅で待ち合わせていました。もう少しで、全ての予定が大きく狂うところです。危ない危ない。

 昼食は、山古志の田舎料理の「多菜田」というお店に案内されました。中越地震の復興資金で開店した食堂で、近所のおばさん達がやっているそうです。
 隣の直売所ではピーマンに似た地場野菜の「かぐらなんばん」も売られていました。民宿での夕食にも出ましたが、後からピリッと来ました。
 土曜日の午後でしたのでかなり込んでいて、注文したのは早くできるという定食の煮物のコースと天ぷらです。大きな麩やゼンマイの煮物などにはざかけの地元産コシヒカリのご飯を美味しくいただきました。

 この後、今は長岡市役所山古志支所となっている旧山古志村役場に行き、中越地震と復興への道のりを記録したDVDを鑑賞させていただきました。「山古志に帰ろう」という言葉が強く印象に残ったものです。
 東日本大震災の被害を受け、故郷を離れて仮設住宅での避難生活を余儀なくされている東北の人々も、「故郷に帰ろう」という強い思いを抱いて、復旧・復興に取り組まれていることでしょう。でも、放射能の被害に遭われた人々は、どうなるのでしょうか。
 汚染が除去されれば、帰ることもできるでしょう。しかし、原発から近い汚染度の高い地域では地震からの復興もままならず、ふる里に帰りたくても帰れないのではないでしょうか。

 山古志では錦鯉も有名です。かつては冬の間、農閑期の副業だったようですが、今では夏も鯉を飼っているようです。
 稲が植えられず、水が張られている棚田を、所々で目にしました。一軒の養鯉場で錦鯉を見せていただきましたが、白地に赤や黒、金色のような模様が浮き上がって美事なものです。
 今では、日本国内はもとより、外国からの引き合いも多いといいます。ドイツなどヨーロッパからの注文が多く、最近では中国も増えていると仰っていました。

 棚田の絶景がよく見える場所にも案内されました。ここから見える景色が気に入って移住し、個人の写真館を開いたというお宅があります。
 残念ながら、住人が不在で入れず、展示されているという棚田の写真も見ることができませんでした。しかし、ここからの景色は流石に素晴らしいものです。
 吹き渡って来る風も爽やかで、秋の終わりを告げているようです。切り株のベンチに腰を下ろそうとしたら、15センチくらいのトカゲが日向ぼっこをしていました。

 この後、金倉山山頂に行きましたが、展望台からの眺めも素晴らしいものでした。360度の展望が開け、西に魚沼の平野が見えます。
 黄色に色づき始めた平野の中心を、大きく蛇行しながら信濃川が悠然と流れています。澄み渡っていれば、遠く、八海山や妙高、米山、日本海に佐渡まで見えるそうですが、残念ながら霞がかかっていました。
 それでも弥彦や角田山、東側の山古志の山々は良く見え、そのわずかな窪みに集落が点在し、山の上の方まで開墾されています。恐らく何百年にもわたったにちがいありません。

 牛の角付きで知られている山古志闘牛場を覗いた後、地震の被害が大きかった木篭(こごも)地区に案内されました。土砂崩れで芋川がせき止められて集落が完全に水没したそうです。
 他の場所では地震被害の跡は目に付きませんでしたが、ここでは何軒かの家が土砂に埋もれたまま傾いています。その脇には新しい橋が架けられ、傍らには碑が建てられていました。
 東竹沢のせき止め湖も、この近くにあります。地震の被害は今もなお、このような形で痕跡をとどめているのです。

 そこから東に行ったところにあるのが、住民の手堀りによって開通した中山隧道です。全長は875mで、手掘りの道路トンネルとしては日本最長です。
 1933年から49年にかけて小松倉集落の住民によって掘られたもので、横には新しいトンネルが通っていました。この隧道堀りの記録は、ドキュメンタリー映画『掘るまいか-手掘り中山隧道の記録』になっています。
 トンネルの中に入るとヒンヤリとしました。壁には、ツルハシの跡のようなものがそのまま残っています。

 山古志から山をひとつ隔てたところにある小千谷市塩谷地区にも行きました。中越地震で、3人の子供が亡くなった所です。
 この子ども達の死を悼んで慰霊碑が立てられていました。聖観音菩薩像が1人の子どもを抱き、その足下には2人の子どもの像があります。
 近くには、災害救助と復興ボランテイアの拠点になったという家も残されていました。今では、集落の集会所などとして利用されているそうです。

 ということで、盛りだくさんの日程をこなして、ようやく今宵の宿である民宿「たなか」に到着しました。とにかく、村上君はこの辺の状況について詳しく、くまなく案内してくれたものですから宿に到着した時には薄暗くなっていました。
 この民宿も地震被害で半壊し、新たに立て直したものだそうです。避難所から帰ってきて家に入ったとき、屋根が壊れて雨漏りがしたためか畳に大きなキノコが生えていて、それを目にしたときの気持ちは今も忘れられないと、女将さんは話していました。
 夕食でお酒を頼んだら、何と「雪中梅」が出てきました。ふる里に近い三和村のお酒で私が愛飲しているものですが、サービスしてもらいましたので余計に美味しく感じたものです。

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7月4日(月) 武蔵嵐山から明治公園、そして福岡へ [旅]

 ホテル・ニューオータニ博多でこれを書いています。11階にある広いツインの部屋で、朝刊のサービスもありました。
 私なら予約することのない高級ホテルですが、昨日の福岡県商工団体連合会(福岡民商)の創立50周年記念講演会と祝賀会が開かれた会場です。そこに、宿をとっていただきました。

 7月1日(金)には、労働科学研究所(労研)創立90周年の特別企画に出席するために武蔵嵐山に向かいました。久しぶりに八高線に乗り、川越から東武東上線で武蔵嵐山(むさしらんざん)です。
 ここに独立行政法人国立女性教育会館があるのは以前から知っていましたが、来るのは初めてです。広い敷地に、宿泊棟や講義棟、テニス・コートなどが、ゆったりと配置されています。
 1977年の開館だといいますから、30年以上の歴史があることになります。でも、今年の3月にリニューアル・オープンしたばかりで、施設はそれほど古さを感じさせません。

 この日は宿泊棟に泊まり、翌日は午前中のシンポジウムでの報告を聞き、女性アーカイブを覗いて、早めに引き上げました。明治公園で開かれる「原発ゼロ緊急集会」に参加するためです。
 会場の正面にある日本青年館の白い文字を見て、いささかの感慨を覚えました。学生時代、この公園でこの白い文字を何度見たことでしょうか。
 この年になって、また集会に出ることになるとは、それも「原発ゼロ」を求める集会が開かれるとは、思いもよらないことでした。反原発・脱原発が切実な運動の課題とされるに至ったのは福島第一原発の深刻な事故が発生したためですが、それは果たして歴史の進歩につながるのでしょうか。しかし、事故が起きてしまった以上、それを前進的な変化に結びつけなければ、故郷を追われて犠牲になった10万人もの人々の苦労は報われません。

 そして昨日の朝、自宅を出て羽田空港に向かい、福岡空港に降り立ったというわけです。午後1時過ぎからの講演の演題は「誰もが希望を持って生きられる新しい日本の道-東日本大震災からの復興と中小業者」というもので、お陰様で好評でした。
 記念祝賀会は、16人もの人が乱打する「綾杉太鼓」で始まりましたが、一番前の来賓席でしたので、すごい迫力でした。関係者の方に「立派な会場で開くんですね」と言いましたら、「色々探したんですが、これだけの人数が入る場所はここくらいしかなかったんです」と答えられました。
 広いレセプション会場に丸いテーブルが並び、200人位の方がおられたでしょうか。私も多くの方々にご挨拶したため、持ってきた名詞がなくなってしまいました。

 記念祝賀会が終わっても、まだ5時をすぎた頃です。「この後、時間ありますか?」と聞かれましたが、時間ならたっぷりあります。
 この前に講演で福岡に来たときは、締め切り間近の原稿を抱えてやってきたために余裕はなかったのですが、それでも夜はおつきあいし、翌朝早めに起きてホテルで原稿を書きまくりました。今回は、そのような必要はありません。

 ということで、全商連の国分会長と共に、民商の会員さんの縁者がやっている「大名へて」というお店に案内していただきました。地元の料理をアレンジしたような創作料理も美味しく、お酒をたっぷりご馳走になりました。
 本場の焼酎「金霧島」に「白金の露」、10年古酒の「首里」、それに滅多にお目にかかれない銘酒「村尾」などもいただきました。日本酒では「越の白鳥」という純米大吟醸が出されましたが、ラベルを見たら「上越市浦川原区」とありました。
 私のふる里「頸城区」の隣のお酒です。ここで上越のお酒に出会うなんて、嬉しかったですね。

 というわけで、楽しい夜を過ごさせていただきました。福岡民商の皆さん、ご馳走になりました。大変、お世話になり、ありがとうございました。

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6月13日(火) ふる里・新潟での脱原発シンポジウム [旅]

 一昨日から、新潟に来ています。「雨男」の私としては珍しく、晴れたり曇ったりの天候でした。
 新潟駅前のビジネス・ホテルに泊まりました。そこで、これを書いています。

 五頭温泉近くにある古民家風ギャラリー兼レストイランの「木り香」は、緑に囲まれていました。入り口のグミの木は赤く色づき、口に入れると懐かしい味がします。
 昔、実家の庭にも池があり、そのほとりのグミの実を食べたことを思い出しました。「木り香」の近くには自生の桑の木も沢山生えていて、実が赤黒く色づいています。
 「木り香」が、雑誌に写真付きで紹介されたということもあって、先客万来の様子です。そのために宿泊するのが難しくなり、近くにある別の別荘に泊めてもらいました。

 昨日の午前中は、白鳥の餌付けで有名な瓢湖の周辺のアヤメ園に行きました。まだ少し早いようですが、1週間もすれば周辺一帯はアヤメの花で埋まるでしょう。
 夏になれば、湖は一面の蓮の花で覆われます。そう言えば、昨年の9月に来たときは、まだ蓮の花が咲き残っていました。
 近くには水原代官所があり、そこも訪問しました。また、その近くには「越後桜」という酒の蔵元もあり、一昨日に見学しました。

 ということで、いったん「木り香」に戻って「セラピー・ランチ」と名付けられた洒落た昼食をご馳走になった後、シンポジウムの会場である「万代市民会館」まで送ってもらいました。会場は新潟駅の近くで、泊まっているホテルもすぐ近くです。
 シンポジウムには120~30人ほどの人が参加したということです。原発問題には関心が高く、皆さん熱心に聞いて下さいました。
 中には、福島から避難されている方もおられたということで、質疑の時にも沢山の質問が出されました。節電のためにホールの空調が止められており、暑かったのは参りましたが。

 私は、再生可能な自然エネルギーへの転換について話をしました。しかし、「原発の停止によって電気が足りなくなるから」ということで、この問題を強調したのではありません。
 原発がすべて停止しても、水力と火力による発電で十分にまかなえるという見方もあるからです。現在、火力発電所の稼働率は50~60%にすぎず、LNG(液化天然ガス)なら石油よりもCO2の排出量はずっと少なくてすみます。
 地産地消をめざした小規模分散型の自然エネルギーへの転換は、新しい地場産業の形成に役立ち、新たな雇用を生み、地域興しにもなるという点を、特に強調しました。このような新しいエネルギー技術が開発されれば、それを輸出して「環境技術立国」を目指すこともできるようになります。

 再生可能な新エネルギーへの転換は「守り」ではなく「攻め」の国家戦略なのです。それによって、先進工業国でありながら「非核」の道を選択した日本は、エネルギー政策の点でも「非核」の道を切り開くことができるでしょう。
 ヒロシマ、ナガサキ、ビキニ、そしてフクシマと、4度にわたって核の被害を受け、その悲惨さを実証することになった日本国民こそ、「アンチ・ニュークリア国家」としてのあり方を世界に示す人類的役割を帯びることになりました。ここ新潟では、巻原発を阻止するという大きな成果を上げた経験を持っていますが、これに続いて柏崎・刈羽原発を是非ストップしていただきたい。
 日本は1995年の阪神・淡路大震災以降、地殻変動が活発化する地震の活動期に入っています。いつまた巨大地震が起きるか分からない現状にあり、原発の早急な停止は目下の急務である、というのが私の話のアウトラインです。

 シンポジウムが終わってから、近くのお店でご馳走になりました。日本海の魚のお刺身は大変美味でしたが、なかでもタラバガニの酒蒸しとアワビの踊り焼きは豪華このうえなく、地酒も大いに堪能させていただきました。
 新潟の皆さん、お世話になりました。ありがとうございました。


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3月10日(木) 「親戚」米沢への12時間余の旅 [旅]

 朝8時に家を出て、夜8時過ぎに帰ってきました。ふる里の上越市と同じ上杉領だった「親戚」のような米沢への12時間余の旅でした。

 朝起きてテレビのニュースを見たら、東北の太平洋沖で地震があったと報じていました。山形新幹線の福島-米沢間で「つばさ」が徐行運転をしていると言います。
 「えっ!! 地震で徐行運転?」
 この時だけは何も起きないでくれという、そのときに限って何かが起きる「雨男」の本領が、また、発揮されてしまったのか? 心配しながら、西八王子駅から西国分寺駅へと向かいました。

 すると、「武蔵野号」という「大宮行き」の電車が来るではありませんか。大宮まで直通だといいます。
 知りませんでした。このような電車が走っていたなんて。
 これはラッキーです。乗り換えなしで、直接、新幹線に連絡する大宮まで行けるわけですから。

 実は、帰りも、「武蔵野号」に乗りました。これは、大宮から八王子までの直通運転です。
 こんな電車が走っていたことも、知りませんでした。埼京線から武蔵野線に乗り入れ、そこから中央線で八王子まで、乗り換えなしで帰ってきました。
 新小平からは立川、そして、終点の八王子です。日野や豊田には止まりませんから、早い、はずだったのですが、武蔵野線に乗り入れるときに徐行し、中央線に乗り入れるときには止まってしまいました。
 結局、予定時間より20分遅れで、乗り換えたときとあまり変わりません。とはいえ、それでもずっと座っていたわけですから楽でした。

 大宮から米沢まで、ほとんど太陽が出ていました。福島を過ぎて、山岳部にさしかかった頃から雪が見え始めてきます。
 列車は米沢に8分遅れで到着し、1メートルくらい雪が積もっていましたが、空は晴れていました。駅を出ると「龍」や「毘」という文字が書かれた旗が翻っていて、何だかふる里に帰ってきたような気がしたものです。
 午前中は吹雪いていたということですが、私が着いた頃には穏やかに晴れ上がり、帰るときまで好天が続きました。駅前の食堂で米沢牛の牛丼を食べ、タクシーに乗って伝国の杜会館の置賜ホールに向かいました。

 米沢民主商工会と農民連の共催による重税反対集会に集まった200人位の方を前に、「菅政権の行き詰まりと日本の進路」というテーマで1時間ほど講演し、その後、同じ会館内にある展示を見学しました。国宝の「上杉文書」の特別展示です。
 続いて、常設展の方も覗いてみました。こちらは、上杉鷹山(治憲)が中心です。
 そもそも、「伝国の杜」というのは、鷹山の「伝国の辞」に由来しています。鷹山が35歳で家督を譲るときに申し渡した藩主としての心得のことです。

 「国家は先祖より子孫へ伝へ候、国家にして我私すべき物にはこれ無く候」など、3箇条からなっています。国家や人民は先祖から子孫へと伝えてゆくべきものであり、私物化してはならないとの諫めで、菅首相に聞かせたいような内容です。
 鷹山は17歳で藩主となり、35歳という若さで隠居していますが、それは若き藩主を支えて藩政改革に専念するためだったようです。たいしたものですね。
 この展示を見て、高校の頃に覚えた鷹山の有名な句を思いだしました。「為せば成る、為さねば成らぬ、何事も。成らぬは人の為さぬなりけり」という句を。

 この後、近くの上杉神社にも参拝しました。ただし、残念ながら、宝物館は冬期休業中ということで入れません。
 楽しみにしていたのですが、やむを得ません。予定を切り上げて、早めに駅に向かいました。
 ということで、予定していたものより一本早い列車に乗り込んで、帰ってきたというわけです。今度は、宝物館が開いているときに、もう一度、ゆっくりと訪れたいものです。

 なお、「東光」という地酒と焼酎の詰め合わせをお土産にいただきました。お招きいただいたうえに、お土産までいただくなんて、感謝に堪えません。
 米沢民商の皆さん、お世話になりました。ありがとうございました。

2月21日(月) 博多でのつかの間の休日 [旅]

 福岡での講演を終えて、昨夕、自宅に戻ってきました。私にとっては、つかの間の休日になりました。
 エフコープ生協労組の皆さん、お世話になりました。ありがとうございました。

 講演会には、約40人ほどの方が参加されました。若い人が多いようで、女性の姿も少なくありません。
 委員長は私と同い年で、1学年下だといいます。「団塊の世代」は第一線を去りつつあり、世代交代が進んでいるということのようです。
 三役クラスは私と同世代のように見えましたが、分会長クラスになると、どんどん若者に交代しているということでしょう。これからは、どこの労働組合でも、このような状況になっていくにちがいありません。

 懇親会の後、二次会で中州に案内していただきました。土曜日の夜で、なかなかの賑わいのように見えましたが、「昔はこんなものではなかった。すっかり寂れてしまった」そうです。
 案内されたのは、「万潮」というお店でした。イカの活造りの専門店です。新鮮な鯖の刺身もいただきました。
 出てきたイカは透き通っていて、まだ生きています。多少小振りで、「こんな小さいのは初めて見た」と仰っていました。これも、「寒すぎる冬」の影響でしょうか。

翌日は、大濠公園と隣接する福岡城跡の舞鶴公園に行きました。これまで何回か博多に来ていますが、訪問するチャンスがなかったからです。
 大濠公園には、福岡城の外濠だった大きな池があります。真ん中に遊歩道が通り、白い石の橋が架かっていて、途中に「浮見堂」という朱色に塗られた展望台がありました。
 池を眺めていたら、1羽の白鳥が滑るように進んでいくのが見えます。中国で訪問した杭州の西湖を思い出しました。

 その後、近くの日本庭園を経て、福岡市美術館に行きました。それほどの期待はしていなかったのですが、思いの外、収穫がありました。
 とくに、近現代の絵画では、ダリの「ポルト・リガトの聖母」という素晴らしい作品や私の好きなユトリロの作品があったのには驚きました。日本人の画家では、藤田嗣治、佐伯祐三、青木繁、坂本繁二郎などの作品がありました。
 なかでも目を惹いたのが、インク、コンテ、鉛筆を使って描かれた池田龍雄の「地熱-三池の構図」という1960年の絵です。地元ということもあるでしょうが、このような形で三池闘争は絵画にまで影響を及ぼしていたというわけです。

 「舞鶴城」とも呼ばれる福岡城は、黒田長政によって築城されたお城です。基部の石垣などは残っていますが、建物は一部を除いてほとんどありません。
 途中に梅園があり、梅の花が3~4分咲きになっていました。白梅よりも紅梅の方が多いような印象で、辺りに馥郁たる香りが漂っています。
 昨年は太宰府天満宮の梅を見て、今年は福岡城のある舞鶴公園の梅を見ることができました。2年続きで早春の眼福を体験させていただいたというわけです。

 今回は、行きも帰りも飛行機は日航を利用しました。経営再建とリストラ攻撃で大変でしょうが、せめて利用することで、ここに働く人たちを応援したいと思ったからです。

12月6日(月) またまた、九州の博多に来てしまった [旅]

 皆様、お久しぶりです。今、九州は博多駅前のみやこホテルで、これを書いています。

 昨年は、一年間で3回も北海道の札幌に行きました。今年は、一年間に3回目の九州、博多訪問になります。
 それまでは、ほとんど来たことのなかった博多ですが、今年は、すっかりおなじみになりました。来年も講演を頼まれましたので、2月に来ることになりそうです。

 ここに来ているのは、福岡での春闘学習会の講師として招かれたからです。昨日、こちらの春闘共闘の主催で開かれ、80人ほどの方が参加されました。
 一昨日は、ひの懇話会の学習会の講師に招かれ、「近代日本100年の歴史から何を学ぶか」という話をしました。昨日は、「激動の時代と労働組合の役割」という話です。
 『大事典』のゲラ読みと並行しての、この準備もありまして、目の回るような忙しさでした。実際、睡眠不足で、多少、ふらつくこともありました。

 2日連続の講演で、しかも、テーマは全く異なっている話をするというのは、なかなか大変です。レジュメも作らなければなりませんし。
 しかし、これも仕事のうちと、観念しております。どんなに忙しくても、スケジュールが合う限り、できるだけ引き受けたいと思っています。
 しかも、今は、拙著『18歳から考える日本の政治』(法律文化社)が出たばかりですので、その営業や販売を兼ねての講演です。おかげさまで評判が良く、一昨日や昨日の講演会でも良く売れたようです。

 折角の博多訪問ですが、実は、今週締め切りの原稿を2本抱えております。昨晩から、そのうちの1本を書き始め、ホテルに缶詰となって書き続けていました。
 ようやく、目途がついたので、休憩代わりに、このブログを書いているというわけです。これから福岡空港に向かい、自宅に帰って、もう1本書かなければなりません。

 旬報社から刊行予定の『社会労働大事典』の初稿ゲラ読みも続いています。それが終われば、再校が出てくるでしょう。
 実は、書き続けている論攷がもう一本あります。こちらの方は、なかなか進みません。

 ということで、まさに「師走」状態になっています。引き続き繁忙期まっただ中でして、息を継ぐ暇もありません。
 何とか、年内の仕事を片付けて、年を越せるようになりたいものだと、そればかりを念じております。さて、これから空港まで走らなくっちゃ。

11月21日(日) 6日間の滞在を終えてソウルから帰ってきた [旅]

 11月16日から6日間の滞在を終え、ソウルから無事に帰ってきました。ソウル滞在中にお世話になったすべての方に、厚くお礼申し上げます。

 おかげさまで、楽しく、かつ、大変有益なソウル滞在となりました。この成果を、今後どのように生かしていくか、ただいま思案中です。思案のまま、終わってしまうかもしれませんが…。
 とりわけ、ソウル滞在最終日となった昨日の収穫は大きかったと言えます。最後に、一番美味しいものを頂いたという気分になりました。それは、もちろん、大原社会問題研究所にとって、という意味でもありますが…。
 私は全く知りませんでした。思いもよらなかったのです。今回の訪問で、韓国における大原社会問題研究所とも言うべき団体に遭遇することになるとは…。

 昨日は、前日と同じく、ホテルのロビーで待ち合わせです。案内していただくのは、この夏まで大原社会問題研究所の客員研究員だった宋さんです。
 出かける支度をしていると、机の横の電話が鳴りました。久しぶりに聞く宋さんの声で、「先生、今、ホテルに着きました」と仰います。
 予定の時間より30分ほど早かったため、慌てて支度を終えてロビーに向かいました。待っていたのは、宋さんとご主人のお2人です。

 近くの地下鉄「安国駅」から向かったのは、全国不安定労働撤廃連帯という団体です。漢江の南側で、昔、民主労総の事務所があったあたりのような気がしました。
 中小企業や工場のある下町地域で、ビルの4階の一室が連帯の事務所でした。隣が会議室で、それほど大きくありません。
 ここで、キム・ヘジン代表からお話をうかがいました。キム代表のお名前は日本にいたときから知っていましたが、女性の方だったとは知りませんでした。

 98年のIMF危機以降、特に2000年以降、派遣労働者の解雇が増え、当初、この団体は派遣撤廃行動対策委員会として出発しました。その後、対象を非正規労働全体に拡大して、2002年に不安定労働撤廃連帯になったそうです。
 個人加盟で、支援会員を含めて約700人。正規労働者や一般市民、研究者なども入っていて、うち非正規労働者は3割ほどです。一応、専従者は6人ということですが、ボランテイアのようなものだと苦笑していました。
 非正規労働問題についての広報・啓発や教育、政策研究や提言、非正規労働者の闘争支援、労働組合の結成や組織化への支援などを行っていますが、団大自体は労働組合ではなく民衆団体で、市民団体とも違うと言います。韓国の市民団体は労働問題には無関心だから、一緒にしないでくれということのようです。

 内部の組織としては、非正規労働問題に関連する立法状況への対応を行うための法律委員会、組織としての運動方針や教育についての政策を検討する政策委員会、全国を5つに分けての地域組織があるそうです。ただし、地域組織の活動はそれほど活発ではないということでした。
 非正規労働者保護法についての意見を聞いたところ、当初から反対しており、成立後も、それほどの効果は上がっていないという評価でした。この辺は、韓国労総との違いでしょうか。そもそも非正規労働は「保護」されるものではなく、「撤廃」されるべきものだというのが、この団体の基本的スタンスですから、「保護法」に対しても批判的なのは当然でしょう。
 インタビューの終わり頃になって、「ところで、横におられるヤンさんは、元全労協の委員長で前の連帯の代表だそうですが、連帯の会長さんということなのでしょうか」と聞きました。ここからです。思いがけない展開が生じたのは…。

 「いや、この団体ではありません。労働組合の資料館の代表ということです」
 「エッ? 資料館。そのようなものがあるんですか」「はい、あります」
 「それなら、是非、見せてください」
 ということで、ヤン代表の車に乗せていただいて向かったのが、「韓国労働史記録センター『大河』(Korean Labor-History Data Center [KLDC] HNNAE)」という労働アーカイブスです。
 行ってみて、驚きました。ほとんど大原社会問題研究所と同じような施設と活動を行っていたのですから…。

 韓国にもこのような労働アーカイブズが誕生し、活動していたとは、全く知りませんでした。ここを知り、訪問することができたのは、今回のソウル滞在の最大の成果であったと言いたいほどです(そう言い切ってしまえば、招待してくださったソウル大学日本研究所に悪いような気もしますが)。
 ここは民主労総の前身である全労協の歴史をまとめるために集めた資料を保存する事を目的に、民主労総系の労働組合がお金を出しあって、2年前に設立された資料館です。ビルの1フロアー3部屋に、全労協の看板などの資料をはじめ、民主労総の傘下組合の大会資料や定期刊行物、かつて発禁になった文献、組合運動で使用された旗やゼッケン、鉢巻き、バッジなどの「現物資料」、写真などもあります。
 資料は「大河」という名前の入った特注の段ボール箱に入れて整理し、6人の専任職員が目録を作成するだけでなく現物を電子化し、ウェブで公開したり、それを元にして労働組合史の編集・出版したりしています。一般公開はしていませんが、資料を見たいと言って訪ねてくる研究者や労働組合の活動家などは閲覧することができ、私も良く知っている金元重千葉商科大学教授は、訪韓したときには必ずやって来るということでした。

 知りませんでした。金先生は来年4月から大原社会問題研究所の客員研究員になりますが、そのお名前をここで聞くとは思いませんでした。
 案内してくださった宋さんにそう言ったら、ここを訪問することはあらかじめ話をしていたのだそうです。センターを案内してくださった2人の方は、土曜日で休みなのに、事前に連絡してわざわざ出てきていただいたのだと知って、大変、恐縮したものです。
 「でも先生、ここよりも、聖公会大学の民主主義資料館の方が労働運動関係の資料は多いですよ。聖公会大学に行かれたそうですが、そこは訪問されなかったのですか?」
 牟さんは、その事をご存じなかったようです。もし知っていたら、景福宮ではなく、そちらの資料館に案内してくださったにちがいありませんから…。

 この後、近くの食堂で遅い昼食をご馳走になり、昌福宮に向かいました。現在、NHKの衛星で放送中の韓国歴史ドラマ「イ・サン」のロケをしたところだそうです。
 以前、徳寿宮に行き、今回は景福宮と昌福宮を訪問しました。これで、ソウルにある宮殿3つを訪問したことになります。
 このように古い歴史の遺産にふれることができるのも、韓国旅行の楽しみだと言えるでしょう。予定していた故宮博物館に行くことはできませんでしたが、それはこの次の楽しみに取っておくことにします。

 ということで、ソウル訪問を終えて、自宅に帰り着いたというわけです。さすがに、ちょっと疲れました。
 沢山の韓国料理を食べ、マッコリなどの韓国のお酒を飲み、多くの場所を訪問しました。すべて、今回の訪問を企画していただいたソウル大学の関係者や、韓国の友人・知人の皆さんのご厚意やエスコートのおかげです。
 沢山の方にお会いしました。30枚ほど持っていった名詞がなくなって渡すことができなかった方もおられたほどです。申し訳ありません。

 帰ってきたら、仕事の山が待っているようです。韓国訪問は無事終了しましたが、この仕事の山では遭難してしまうかもしれません。