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12月14日(木) 総選挙の結果と安倍9条改憲をめぐる新たな攻防(その2) [論攷]

〔以下の論攷は、憲法会議発行の『月刊 憲法運動』通巻466号、2017年12月号、に掲載されたものです。3回に分けて、アップさせていただきます。〕

2、憲法をめぐる激突の新段階

 (1)総仕上げとしての9条改憲

 総選挙の結果、安倍首相は再び改憲に向けての意欲を高めたように見えます。しかし、自民党は選挙公約で改憲を重点項目としたにもかかわらず、安倍首相は選挙中の街頭演説で憲法問題にはほとんど触れませんでした。与野党対立を引き起こすような政治的に微妙なテーマは隠しながら、アベノミクスなどの経済政策を前面に出して支持を訴えるというこれまでのやり方を踏襲したわけです。
 このような安倍首相のやり方からすれば、選挙で得た多数議席を背景に国民の「信任を得た」と強弁して9条改憲をスピードアップすることは目に見えています。憲法をめぐる激突の新段階が、こうして始まることになりました。
 この安倍9条改憲論については、これまで安倍首相が実施してきた一連の違憲立法との関連で、「戦争できる国」作りの一環として理解しなければなりません。自衛隊を海外に派兵してアメリカとともに「戦争できる国」とするために、安倍首相は一連のストーリーを描いてきたからです。
 それは、起(特定秘密保護法)、承(安保法制)、転(共謀罪法)という形ですでに具体化されました。いよいよこの物語は「結」の段階、すなわち「むすび」という形での総仕上げを迎えようとしているのです。
 戦争できる国を作るためには、システム、ハード、ソフトの各レベルにおける整備が必要です。システムというのは戦争準備と遂行のための法律や制度であり、一連の違憲立法とともに日本版NSC(国家安全保障会議)や安全保障局の設置などによっても実施されてきました。9条改憲はこのシステム整備の中核をなし、総仕上げの意味を持つものです。
 ちなみに、ハードとは戦争遂行のための軍事力の整備であり、軍事基地、兵器、弾薬、兵員の確保などがその内容です。ソフトとは戦争できる国を支える人材の育成と社会意識の形成を指しています。教育改革実行会議による道徳の教科化や教育内容への介入、マスメデイアの懐柔や統制による情報の操作などが具体的な内容になります。
 このような戦争できる国作りへの動きに対して、憲法はこれまで抵抗の拠点であり、異議申し立てのための武器となってきました。しかし、自衛隊が9条に明記され、その存在が正当化され憲法上の位置づけが与えられれば、その意味は大きく変容するでしょう。抵抗のため武器から支配のための手段へと変わるのです。
 
 (2)改憲の自己目的化

 これまで、憲法が変えられることはありませんでした。1947年の施行以来、70年にわたって一度も変えられずに維持されてきました。これほど長い間、変えられなかったことを問題視する意見もあります。だから、変えるべきだと。
 しかし、70年にもわたる期間、変えられずに来たのは変える必要がなかったからです。変える必要がなかったのは、これといって不都合がなかったからです。誰にでも了解されるような不都合があれば、国民の間から「ここを変えるべきだ」という声が上がってきたにちがいありません。しかし、具体的な条文や記述を示して国民の間から改憲要求が高まることは、これまでありませんでした。
 「押し付け憲法論」にしても、「占領軍によって押し付けられたものだから」というだけの理由です。これが改憲の根拠として主張されてきたのは、端的に指摘できる不都合がなく変えるべき条文などを具体的に明示することができなかったからです。
 今回の安倍9条改憲論も国民の間からではなく、突然、安倍首相が提起したものです。しかも、これまでの安倍首相も自民党も、このような改憲論を示すことはありませんでした。2012年に自民党は改憲草案を発表していますが、それは安倍首相の提案とは異なったものでした。だから、石破茂元防衛相は安倍9条改憲論に反対しているのです。
 今回、安倍首相がこのような改憲論を提案したのは、改憲自体を目的としているからです。変えやすい条項について、変えやすい方法で、とにかく変えたいというにすぎません。東日本大震災などでの災害救助の実績もあって自衛隊は国民に受け入れられるようになってきているから、憲法に書き込むという提案なら通るかもしれないと考えたのでしょう。
 しかし、書き加えられる自衛隊は、215年9月の安保法の成立によって集団的自衛権の行使が一部容認された自衛隊です。いつでも、どこでも、どのような形でも、日本の安全と存立が脅かされると判断されれば、米軍とともに国際紛争に武力介入することができるようになっています。
 しかも、法律には「後法優位の原則」があります。条文の内容が矛盾する場合には、後から制定された条文が優先されます。9条2項の戦力不保持の規定と自衛隊の存在の明記が矛盾する場合、2項が空文化されることになるでしょう。裁判などで争われれば、はっきりさせようということで9条2項の削除論が提起されるにちがいありません。
 しかし、このような形で憲法の平和主義原理を放棄するのは誤りです。というのは、国際紛争を武力の行使や武力による威嚇によって解決しないという9条の理念はますます重要な意味を持ってきているからです。北朝鮮危機は武力の行使によって解決してはならず、テロの脅威も武力を行使することによって根本的には解決できません。
 もし、北朝鮮危機に対して武力を行使すれば、報復攻撃によって甚大な被害が生じ、核戦争の危機に発展する恐れさえあります。テロの脅威は武力によって一時的に防止することができても、結局は憎しみの連鎖を生み、貧困や格差、憎悪などの原因を除去しなければ、最終的かつ根本的に解決することはできません。

 (3)9条を活かす将来ビジョンこそ

 憲法9条について、かつては理想論にすぎないし現実の問題解決には役立たないという批判がありました。しかし、パワーポリティクスや抑止力論による力の政策が間違っていることは、ベトナム戦争やイラク戦争、アフガニスタンへの武力介入の失敗などを通じて明らかになっています。
 戦後国際政治の現実は、武力などの力に頼らない地道で粘り強い交渉こそが真に問題を解決する手段であることを示してきました。9条の理念と平和主義は決して理想論ではなく、時代遅れでもなかったのです。
 それは国際政治を律するものとして国際連合の精神にも合致する基本原則であり、国家間の対立や地域紛争、民族紛争やテロを解決するための現実的で有効な方法なのです。だからこそ、9条は国際的な威信と説得力を高め、ノーベル平和賞の候補としてノミネートされるようになってきました。
 こうして、平和的生存権と戦争の放棄、戦力不保持と交戦権の否認を憲法に定めている日本は、「平和国家」としての「ブランド」を確立することに成功しました。それは、日本という国の「弱み」ではなく「強み」なのです。
 この「平和ブランド」という「強み」を生かして国際政治に関与し、武力によらない平和創出のビジョンを掲げ、そのイニシアチブをとることこそが、日本の外交・安全保障の基本でなければなりません。そうすることではじめて、「国際社会において、名誉ある地位を占め」(前文)ることができるでしょう。
 ここで問題になるのが、自衛隊という軍事力の存在と安保条約に基づく日米軍事同盟です。その存在を容認し、それを前提に平和と安全を確保することが現実的な安全保障政策であると、多くの人は「勘違い」してきました。実際には、現実的であるのではなく現実追随的な思考停止に陥っているにすぎません。
 憲法9条の規定からすれば自衛隊は違憲の存在ですが、直ぐに廃止して解散するというわけにはいかないでしょう。自衛隊違憲論に立つ共産党も、即時廃止を主張しているわけではありません。災害救助などでも大きな力を発揮していますから、当面存続させながら徐々に国境警備隊や災害救助隊などに改組・再編する条件を整備していくということになります。
 このような方針は軍事力に頼らない安全保障の確立という将来ビジョンを掲げるということであり、そのための国際環境づくりに努力するということでもあります。その達成にどれほどの時間がかかるかは分かりませんが、このようなビジョンを掲げて周辺諸国との関係改善と友好親善に努めることこそ、アジアの平和と日本の安全確保にとって有効かつ現実的な方策なのです。
 安保条約についても同様です。いずれは軍事同盟に頼らない平和の実現をめざすというビジョンを掲げなければなりません。アメリカとの軍事同盟ではなく平和友好条約への転換を図ることが前提です。それ以前であっても、対米隷属外交の是正、日米地位協定の改正、日米合同委員会の運用改善、在日米軍基地の負担軽減などを実現できるような条件整備に努めることが必要です。
 いずれにしても、カギになるのは世論と国際環境です。アメリカとの従属的な軍事同盟から抜け出すとともに、韓国・中国・ロシア・北朝鮮など周辺諸国との関係を改善し、外交や文化交流などの非軍事的な手段を通じて安全が確保されるようにすることが必要です。これこそが憲法の指し示す道であり、平和主義原理の具体化にほかなりません。必要なことは、9条を変えるのではなく、現実を変えて9条に近づけることです。

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