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4月2日(火) 新元号「令和」が予感させる「零和(ゼロ・サム)社会」の到来 [元号]

 決めた人は気がつかなかったのでしょうか。新しい元号として発表された「令和」の読みが「零和」を連想させ、それは英語で言えば「ゼロ・サム」のことだということに。

 最終的に、この元号を決めたのは安倍首相でした。安倍首相からすれば、「命令に従って仲良くせよ」という思いを込めて、この元号を選んだのかもしれません。
 元号候補の選定過程は極秘とされ、官邸で開催された「元号に関する懇談会」で意見を聞いたのち臨時閣議での議論を踏まえて最終的には安倍首相に一任されたそうです。ここでは、「令和」だけでなく、英弘、広至、万和、万保など6つの案が示され、令和の人気が最も高く「国書」から選ぶべきだという意見も多かったといいます。
 それぞれの元号候補には出典も記載されていたそうですが、令和以外にも「国書」から引用された候補があったのか、初めから安倍首相の本命は令和で、それへと誘導するような仕掛けが無かったのかという点が気になります。国民の代表の意見を聞き、集団的な討論や民主主的な手続きを経て新しい元号が決まったというのは形式的な外見だけで、その実、安倍首相の意向を忖度した「できレース」だったのではないでしょうか。

 今日の『朝日新聞』には「初の国書 首相のこだわり」という記事があり、「日本の国柄をしっかりと次の時代へと引き継いでいくべきだ」という安倍首相の言葉が引用されています。この嫌中意識を背景とした国粋主義的なこだわりによって、万葉集という「国書」を典拠とする初めての元号が制定されたというわけです。
 しかし、専門家によると、出典となった序文は中国の有名な文章を踏まえて書かれたというのが定説だといいます。王義之の「蘭亭序」を下敷きにしているという説があり、張衡の「帰田賦」には「仲春令月、時和気清」という一節があるそうです。
 これらの漢籍を典拠にしなかったのは、「国書」にこだわる安倍首相に遠慮したからではないでしょうか。結局、今回の新元号「令和」も、その根源を辿れば中国の古典に行き着くことになり、安倍首相の思いやこだわりとは逆に日中間の歴史的な結びつきの深さや中国からの文化的な影響の強さを裏付けるものとなっています。

 マスメディアは相変わらず「元号ファッショ」とも言うべきから騒ぎを続けています。今朝のNHKニュースでは、「『令和』一色になった日本列島」「時代の変わり目」という言葉が繰り返されていました。
 まさに、特定の意図によって多様な意識や言論が「一色」に染め上げられてしまった日本列島を、私たちは目にしたわけです。毎日の生活には何の変化もないのに、あたかも「時代」が変わったかのように受け取ってしまうところに「時間を支配する」元号というものの持つ本来的な魔力と危険性が示されています。
 現天皇の退位と新天皇の即位をめぐる一連の行事について、今後もこのようなから騒ぎが続くのかと思うとウンザリしてしまいます。同時に、国民主権や多様な民意への顧慮が全く感じられない報道姿勢や社会の「空気」に対する警戒や批判、異論の提示や異議申し立てがますます重要になることでしょう。

 このようにして国民は一色に染まり、一つの方向へと誘導されていくのかもしれません。これがファシズムであり、異論の存在を無視し排除するような不寛容なファシズム社会は、こうして作られていくのです。
 安倍首相はこのような社会の雰囲気づくりを扇動しただけでなく、その結果出来上がった空気を政治的に利用しています。それが首相自ら行った談話の発表であり、元号と天皇の政治利用の頂点が昨日の記者会見でした。
 今日の『東京新聞』の「こちら特報部」は、「違和感あり 首相記者会見」という記事を掲載して「なぜ、その説明で首相の思いを聞かねばならないのか」と批判しています。元号を私物化し天皇の権威を利用して、このような形で自分勝手な思いをアピールすることこそ、改元騒動を演出した安倍首相の真の狙いだったのではないでしょうか。

 令和(=零和)は英語で言えば「ゼロ・サム」です。ゼロ・サム社会(zero-sum society)というのは、経済成長が停まって資源や富の総量が一定になり、ある者が利益を得れば誰かがその分だけ不利益をこうむる社会のことで、アメリカの経済学者サローが用いた用語です。
 実は、4月1日には新元号とともにもう一つ重要な事実が発表されました。大企業の景況感が大幅に悪化したというのです。
 10月1日には消費税の増税が予定されており、中国経済の減速やイギリスのEU離脱など世界経済の不透明感も強まってきています。まさに「ゼロ・サム社会」ともいうべき状況が始まろうとしているのかもしれません。

 このような「ゼロ・サム社会」になってしまうのではないかという予感を込めて、「令和(零和)」という元号を決めたのでしょうか。もし、そうだとすれば時代を先取りした「慧眼」だということになります。
 しかし、そうではないでしょう。反知性主義の「権化」たる安倍首相のことですから、ここで私が書いたようなことについては露ほどの予備知識もなかったにちがいありません。
 
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4月1日(月) 「安倍失政」を隠ぺいするために最大限利用されている「改元ファッショ」のから騒ぎ [元号]

 新しい元号が発表されました。「令和」というのだそうです。
 4月中はまだ「平成」という古い元号が使われますが、5月1日からは「令和」という新しい元号が用いられることになります。
 「平成最後の」という枕詞に代わって、これからは「令和最初の」という言い回しが慣用句になることでしょう。耳障りなわずらわしさが、まだしばらく続きそうです。

 今日の『毎日新聞』の「風知草」に、山田孝男特別編集委員の「『乱政』改めざれば…」というコラムが掲載され、「年号(元号)毎日改むと雖も、乱世が改めざれば何の益かあらん」という藤原定家の言葉が紹介されています。山田さんは「たとえ元号を毎日変えたところで、乱れた政治を改めねばどうにもならん、というわけである」と解説しています。
 続けて、「改めるべき課題」として、子どもの虐待や中高年の引きこもりを挙げ、「長い間に形成された社会のひずみであり、社会全体で改めねばなるまい」と指摘されています。また、「近代以降、改元後の日本は不安定だった」とし、「『平成後』も胸騒ぎがする、新元号に浮かれてばかりはいられない」と警告しています。
 「改元ファッショ」のから騒ぎに「浮かれてばかり」いる人々にとっては、聴くべき言葉ではないでしょうか。ただし、「改めるべき」は「乱世」であるというよりも「失政」であり、それを改めるのは「社会全体」というよりも政治の役割にほかならないのですが。

 藤原定家に倣って言えば、たとえ元号を変えたところで安倍政権による乱れた政治を改めねなければどうにもなりません。逆に、安倍政権はこの改元を最大限利用して、天皇制イデオロギーを強化し積年の失政を隠ぺいしようとしています。
 元号に対する国民の意識は多様で、「使わない」という人も増えてきています。日常の生活にとっては不便なだけで、次第に「無用の長物」になってきていました。
 今回の改元の機会を最大限活用して、安倍首相と保守派はこのような国民意識を逆転させ、関心を高めて元号の定着と使用拡大を図り、同時に天皇の権威を強めようとしてきました。自民党改憲草案にある天皇元首化への思惑や失政の現実を覆い隠して政権批判を和らげようとする狙いもあるでしょう。

 このような安倍首相の狙いを全面的にバックアップしているのが「改元キャンペーン」をくり広げているマスメディアです。とりわけ、NHKの放送内容は著しく公平性に欠け、公共放送としてのあり方を大きく逸脱し「元号ファッショ」とも言うべき世論工作を展開しています。
 今朝の7時のNHKニュースで前半16分も報道したのを始め、8時15分から午後6時まで生放送による特別番組が続いています。まさに、新元号をめぐるから騒ぎによる「テレビジャック」ではありませんか。
 国民の中には、元号そのものの存在に批判的な人、このような改元のし方に違和感を持つ人、天皇自身が語っていたようにもっと粛々とやるべきだと考える人、自分には関係ないという人、新元号などどうでも良いという無関心な人もいるでしょう。このように多様な意識があるにもかかわらず、あたかも高い関心を持ち歓迎している人ばかりであるかのように一色に染め上げてしまっている点で、まさに「ファッショ的」と言わざるを得ません。

 かつて日本が戦争に突入した時も、マスメディアは戦争反対の意見を無視して戦意高揚一色に染め上げられてしまったのではないでしょうか。多様な国民の意識をそのまま報ずるのではなく、批判的な意見を封じ込めて特定の方向に誘導するかのような報道の仕方に、大きな違和感と懸念を感ずるのは私だけでしょうか。
 ここにも、民主主義の危機があります。意識的にこのような「元号ファッショ」ともいうべき異常な状況をつくり出した安倍首相の罪は極めて大きい。
 こんなから騒ぎにはうんざりしていますが、せめて次のような声が国民の中から沸き上がることを期待したいと思います。元号も天皇も変わるのだから、この際、首相も変わるべきではないかという声が…。


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