SSブログ

11月29日(日) 菅首相は安倍前政権によるコロナ対策の無能・無策ぶりも継承したようだ [首相]

 昨日の時点で、新型コロナウイルスの国内感染者は新たに2685人が確認され、過去最多を更新しました。東京都が561人で最も多く、地域の一部が「Go To トラベル」事業の対象から外れた大阪府(463人)と北海道(252人)が続いています。
 大きな感染の波が来ていることは誰の目にも明らかでしょう。菅首相は安倍政権の継承を掲げて出発しましたが、前政権による新型コロナ対策の無能・無策ぶりも継承してしまったようです。

 このような事態になっても、相変わらずの「自助」最優先という無為・無策ぶりが際立っています。新自由主義的な自己責任論がコロナ対策でも貫徹されているということになります。
 「三密を避けて外出しないで欲しい」「食事中でも会話する時にはマスクを」などと、お願いするばかりではありませんか。国民がそうしてきたのに、それでも感染が拡大しているというのが現状です。
 必要なのは国民の側の「行動変容」ではなく、政府の側の「行動変容」ではありませんか。このような緊急事態に直面して、政府がどうするのかが問われているのです。

 それなのに、今になっても政府としてどうするのかが不明で、菅首相は「Go Toキャンペーン」の見直しに消極的です。「Go To トラベル」の見直しについては知事に任せ、小池都知事との間で責任をなすり付け合っています。
 「Go To トラベル」を見直したくないのは、「二階の縛り」があるからだと思われます。首相にしてもらった二階さんは全国旅行業協会の会長で、運輸・旅行族のドンですから。
 このキャンペーンを前倒しして、旗を振ってきたのは菅首相自身でした。その責任を認めたくないということが先に立って、国民の命は二の次ということなのでしょう。

 大体、一貫して菅首相の対応は異常です。安倍前首相ですら記者会見を開いて国民に説明していたのに、菅さんは首相に就任した時を除いて、一度も記者会見を開いていません。
 日本学術会議会員の任命拒否や安倍前首相による「桜を見る会」前夜祭の問題などについて、記者から質問されることを恐れているからでしょう。それでも一国を率いるトップリーダーと言えるのでしょうか。
 このような緊急事態には、直接、国民に語りかけて本気度を示すことが最も重要です。逃げ回ってばかりいたのでは、国を挙げてコロナウイルスの感染阻止に取り組むという決意が伝わらず、結局は後手後手に回って感染を拡大させてしまうことになります。

 国民の健康と命、暮らしを守ることを最優先にできないという点では、安倍前政権と同じ過ちを繰り返しています。経済の再生やオリンピックの開催など、政治的な思惑を優先させるから、本気になって拡大防止に取り組むことができず、後手後手に回ってしまうのです。
 菅首相からすれば、コロナ感染を抑えて経済を再生させ、オリンピック・パラリンピックを成功させたうえで、解散・総選挙に打って出たいと考えているのでしょう。口を開けば「人類がコロナに打ち勝った証としてオリンピックを開催したい」と言っていますが、その本心は「菅政権がコロナに打ち勝った証として解散したい」ということではないでしょうか。
 しかし、今のままでは経済再生は難しく、オリンピックも完全な形で開けるかどうか分かりません。自らの無能・無策によって「コロナに打ち勝てなかった証」を示すことになる可能性の方が高いのではないでしょうか。

nice!(0) 

11月26日(木) 安倍前首相による「桜を見る会」前夜祭をめぐる疑惑は事実だった [スキャンダル]

 「やっぱりそうだったのか」という衝撃が日本列島を覆ったというのは、大げさでしょうか。安倍前首相による「桜を見る会」の前夜祭をめぐる疑惑が裏付けられたからです。
 ホテルに支払われた経費は900万円以上も、安倍事務所によって補填されていたと言います。この報道が事実だとすれば、国民は安倍前首相によって完全に騙されていたことになります。

 昨日の予算委員会での集中審議でも、この問題が追及されました。多くの問題が孕まれているからです。
 有権者を買収したことになりますから公職選挙法違反、政治資金報告書に記載されていませんから政治資金規正法違反に当たります。安倍前首相は秘書に責任を擦り付けて逃げようとしていますが、勝手に事務所の経費を支出していたとすれば業務上横領であり、少なくとも監督責任は免れません。
 国会での答弁は真っ赤ない嘘だったわけで、安倍前首相と菅首相(前官房長官)はその責任をどう取るのでしょうか。国民と議会を騙してきたことへの結果責任、何故このようなことになったのかということへの説明責任をどう果たすつもりなのでしょうか。

 今後、検察がどう動くのか、安倍前首相の告訴や逮捕はあるのか、ということも注目されます。ホテル側が見積書や領収書を作成していたのに、何故今までそれが明らかにされてこなかったのかという謎もあります。
 謎といえば、このような事実が1年ほど経った今になって、何故明らかになったのかという問題もあります。密かに捜査を進めていた検察がリークしたのでしょうか。
 もしそうだとすれば、それは何故なのかという疑問も生じます。「官邸の守護神」と言われた黒川検事長が姿を消したからなのでしょうか。

 時あたかも、新型コロナウイルスの感染が拡大し、国民の健康と命が大きな脅威にさらされています。「安倍政治」を継承した菅政権は、後手後手に回った前政権のコロナ対策の無能さも継承したようです。
 コロナと「桜」の挟撃に会って、菅政権は右往左往するばかりになりました。菅首相は果たして政権を維持できるのでしょうか。

nice!(0) 

11月25日(水) 『日刊ゲンダイ』に掲載されたコメント [コメント]

〔以下のコメントは『日刊ゲンダイ』11月25日付に掲載されたものです。〕

*巻頭特集「犯罪を隠蔽し国会で大嘘 安倍前首相と共犯政権の今後」

 森友問題に関わった財務官僚は全員不起訴のうえ、お手盛り処分で、いまはみな出世。麻生はいまだ財務相にとどまり、何の責任も取っていない。加計学園の獣医学部新設に安倍政権が便宜を図った疑惑もウヤムヤのままだ。

 本当ならこうした疑惑を明らかにするのが新政権の責務なのに、アベ継承の菅は「終わったこと」と片付ける。それは、横浜の土地を巡ってタニマチがボロ儲けした疑惑が報じられるなど、菅自身もスネに傷があるからなのではないのか。

 法大名誉教授の五十嵐仁氏(政治学)が言う。

 「安倍首相のこれまでの発言については、多くの国民が『嘘をついているのではないか』と疑問や疑惑を抱いてきた。今回、桜の捜査でその疑いに裏付けが出てきたわけです。嘘をつかれていたという点では国会も被害者。与野党問わず、国政調査という国会議員の責務を果たすべきです」

nice!(0) 

11月20日(金) 『日刊ゲンダイ』に掲載されたコメント [コメント]

〔以下のコメントは『日刊ゲンダイ』11月20日付に掲載されたものです。〕

*巻頭特集「バブル株価に浮かれる銭ゲバたち 金持ちだけが得する政治」

 それにしても、バブルの株価であぶく銭を得た連中がGo To キャンペーンを利用して物見遊山に興じ、全国に移動して感染を拡大しているとしたら、何のための政治なのかと言いたくなる。

 組織も社会も弱いところからへたっていくものだ。一部の富裕層が恩恵を受けるだけの政策を強行して、感染拡大を放置し、その結果、経済が止まれば、コロナ不況が長引くだけではないのか。

 「不要不急の外出や移動を控えるようにと要請していた春先よりも今は感染者数が多い。それでも政府は『外食しろ、旅行しろ』と言って経済を優先し、コロナ対策にまったく取り組もうとしない。すべて国民の自己責任に押し付けています。株価だけが上がっても、市井の人々の生活を見捨てるようでは政府としての責任を放棄しているとしか思えません。菅首相は庶民生活がどうなってもかまわないのでしょう。この点で、株価だけを吊り上げて虚構の好景気を演出して支持率を維持してきた安倍政権をしっかり継承している。実体経済はどうでもよくて、国民の生活を守ることは二の次、三の次です。“今だけ、カネだけ、自分だけ”が安倍政治の本質でしたが、それがコロナ禍で増幅し、菅政権でロコツになってきたように感じます」(法大名誉教授の五十嵐仁氏=政治学)


nice!(0) 

11月18日(水) 大原社会問題研究所の思い出―『日本労働年鑑』の編集業務を中心に(その3) [論攷]

〔以下の論攷は『大原社会問題研究所雑誌』第745号、2020年11月号、に掲載されたものです。3回に分けてアップさせていただきます。なお、注は全て割愛させていただきます。〕

3、 大原社研でのその他の業務

(1) 戦後社会運動資料の復刻

 『雑誌』の編集担当を交代した時、早川先生から受け継いだのは『年鑑』の編集だけではなかった。もう一つ重要な業務があった。それは戦後社会運動資料の復刻作業である。これは戦後占領期の政党や社会運動団体などの機関紙誌を復刻するもので、兼任研究員の吉田健二さんが中心となって進めていた。私はこの業務を通じて吉田さんとコンビを組むことになる。
 私が担当を受け継いだ時、『民報・東京民報』の本体の刊行準備はほとんど済んでおり 、「別巻」の索引の作成から引き継いだ。この時点ではコンピュータによる索引づくりなどはまだ思いもよらず、印刷されたゲラを点検するのに苦労したものだ。しかも、吉田さんと違って戦争直後の政治や社会運動について専門的な知識などなかった私にとって、これに始まる復刻事業は大きな試練となった。
 この後、復刻事業は日本社会党の機関誌『社会思潮』全8巻、社会主義政治経済研究所の機関誌『社会主義』全3巻、同機関紙『政治経済通信』全1巻と続いた。その後も、民主評論社の雑誌『民主評論』全5巻を復刻することになる。日本共産党の機関誌『前衛』と新聞の『赤旗』を復刻する計画もあった。『前衛』の解題は増島宏先生、『赤旗』の解題は塩田庄兵衛・犬丸義一・梅田欽次の3先生にお願いしたが、結局、復刻には至らなかった。
 このような関係で戦後占領期のことは良く知らないなどとは言っていられなくなり、個人的にも研究を深めるようになっていった。次第に占領期の政治・社会運動に対する興味や知識が増え、やがてそれは戦後社会運動史研究会の発足と私が編集した2冊の研究所 叢書の刊行へと結びついていく 。
 占領期の政治・社会運動にまで私の研究分野が広がったのは、研究所業務における分担の変更があったからである。『年鑑』編集の業務とともに、戦後社会運動資料の復刻作業を業務として担当しなければ、このような形で研究分野が拡大することはなっただろう。このことも、結果的に私にとっては大きなプラスとなった。
 戦後社会運動史研究会は2冊目の叢書を刊行した2011年まで続き、その後は改組・再編されて社会党・総評史研究会に引き継がれた。その研究成果として刊行されたのが研究所叢書『日本社会党・総評の軌跡と内実』であった 。また、このような形で戦後の政治史についてそれなりに俯瞰することができるようになった成果の一つが、小学館から刊行した拙著『戦後政治の実像』である 。

(2)研究プロジェクトと大型出版

 戦後社会運動史研究会以外にも、多くの研究プロジェクトや出版活動に参加した。研究プロジェクトとして最初に取り組んだのは「ユニオンリーダー研究会」だった。ユニオンリーダーの属性や意識についての調査を行い、『大原雑誌』や『年鑑』の特集として発表し、労働省で記者会見を開き新聞でも報道された 。
 次に取り組んだのは、「労働組合の再編・統一に関する調査研究(連合研究会)」だった。これは当時の総評解散から連合と全労連の結成に至る労働戦線再編に焦点をあてた研究プロジェクトである。その成果は、研究所叢書『《連合時代》の労働運動』にまとめられた 。
 さらに、「人事評価と労働組合研究会」や「労働政策研究会」も力を入れて取り組んだプロジェクトだった 。高知短大の元学長代理で大原社研の客員研究員としてこられた芹澤 寿良先生の協力を得て経営者団体の関係者からの聴き取りを行い、高知県経営者協会専務理事の松本秀正さんや、旧経団連の常務理事・専務理事を歴任し日本年金機構の初代理事長となった紀陸孝さんなどの知己を得た。この研究プロジェクトの成果はワーキングペーパーにまとめられている 。
 これらの研究会は、いずれも私が責任者としてかかわったものである。それ以外にも、参加者として加わった研究会には、「現代労使関係・労働組合研究会」「労働運動の再活性化の国際比較研究会」「社会問題史研究会」などがある。
 前述のように、戦後社会運動史研究会を立ち上げて2冊の研究所叢書を編集したが、その後、この研究会は社会党・総評史研究会に受け継がれ、加藤宣幸さんなどの元社会党書記や富塚三夫元総評事務局長などからの聞き取りを行なった。これは嘱託研究員の木下真志さんの尽力によるもので、その成果は木下さんとの共編による研究所叢書となり、昨年刊行された。大原社研との関連で私が行った最後の仕事がこれである。
 このような研究プロジェクトとは別に、大原社研と旧労働旬報社とのコラボによる大型出版の企画にも取り組んで来た。その始まりは、すでに触れた『戦後社会・労働運動大年表』の刊行だった。これを皮切りに、『日本の労働組合100年 』『日本労働運動資料集成 』『社会労働大事典 』などが次々と刊行されていく。
 そのいずれもが、旬報社とのコンビを組んでの大型出版だった。編集を担当したのは『年鑑』編集でもコンビを組んでいた佐方信一さんで、こちらの方でも大いに助けられた。その後社長となった木内洋育さんとは編集者時代に私の著作 を担当していただいた縁もあり、長い付き合いになった。
 特に、最後の大型出版となった『社会労働大事典』は私の所長時代に出版されたために、最終的な文章の調整と編集を一手に引き受けることになり、2年ほどの間、寝る間も惜しんでの作業となった。左目に大きな負担がかかったようで、ある日の朝、目覚めると墨が流れているように見える。眼科の病院で診察してもらったら毛細血管が切れて血が出ているという。緊急にレーザーで手術してもらうということもあった。

(3)海外との交流と調査

 研究所業務との関連で、海外との交流と調査に関わったことも忘れがたい。大原社研に就職していなければ、以下に記すような外国旅行はほとんど実現しなかったに違いない。海外に目を開いて国際的なつながりを作ってもらえたのも、大原社研のお陰だったと言える。
 私の最初の海外旅行は、記述した都職労調査団の随員としての欧州5カ国訪問だった。この時知り合った2人とは、今も付き合いがある。これは大原社研の業務ではなかったが、公務員労働組合の調査という点では全く無関係というわけではなかった。
 次の外国訪問は韓国である。大原社研と仁川の仁荷大学との共同研究プロジェクトや講演、研究交流協定の締結などのために韓国訪問は7回を数えた 。これほど訪韓することになるとは夢にも思っていなかったが、盧武鉉政権で労働部長官(労働大臣)となる金大煥先生など多くの研究者と知り合い交流することができた。
 3番目の外国訪問は中国の上海外語学院への2カ月間の短期留学である。これは法政大学との相互交換留学制度によるもので、「抗日戦争と中国共産党」というテーマを掲げて約1カ月間かけて中国各地をめぐった。その調査旅行の詳細は『労働法律旬報』に連載している 。
 そして、私の海外経験のハイライトともいえるものがハーバード大学ライシャワー日本研究所への留学である。そのきっかけは大原社研に客員研究員として滞在していたアンドリュー・ゴードンさんと知り合ったことだった。「留学する時は頼みますよ」とお願いしていたところ、ゴードンさんがデューク大学からハーバード大学に移ったため、私の留学先もそれに連れて変わったのである。
 ハーバード大学には1年間在籍し、2001年8月31日にボストンのローガン空港からヨーロッパに向けて出発した。半年かけて世界の労働組合と労働資料館を調査するためである。その直後に、9.11同時多発テロが勃発するという偶然もあった。地球を一周して私が訪問したのはアメリカを含めて33ヵ国で、都市と場所は約90ヵ所に及んだ。この調査旅行については研究所叢書にまとめてあるので、詳しくはそちらをご覧いただきたい 。
 この他、個人的な外国訪問としては、ハワイへの1週間の旅、中国東北部(旧満州地域)への旅行、中国の西域(敦煌など)がある。このような形で数多くの国や都市を訪問できたのも、大原社研に在籍していたたまものだった。大原社研がIALHI(労働史研究機関国際協会、The International Association of Labour History Institutions)に加盟していなければ外国の資料館の訪問は実現できなかったにちがいない 。中国東北部への個人旅行も、中国からやって来た客員研究員に案内してもらってのものだった 。

 むすび

 私は32歳で兼任研究員として採用され、63歳で早期退職するまでの31年間、大原社研に在職した。そのうちの大半は『年鑑』の執筆と編集に従事していたことになる。この私の半生を改めて振り返ってみて、「何と恵まれていたことか」との思いを強くしている。
 第1に、大原社研という場ないしは器の有難さである。歴史と伝統があり、研究所としての実績は十分で、海外でも知名度抜群だった。外国の資料館への訪問では、相手がアーキビストだということもあって、法政大学は知らなくても大原社研の名前は知っていた。原資料を含む研究環境の素晴らしさは言うまでもない。ただし、私自身はこれらの資料を充分に活用できず、「宝の山」にいながら、その「宝」を充分に生かすことができなかったのは悔やまれる。
 それだけではない。多摩キャンパスへの移転に伴う研究所施設の充実、組織改編による若手の登用、二村・早川元所長はじめ嶺学・相田利雄・原伸子の歴代所長による上下関係のない自由で民主的な研究所運営、女性も臨時職員も分け隔てなく処遇する公平さなどは特筆される。懇親会も活発で、私にとってはまことに居心地の良い労働環境だったというほかない。
 第2に、研究所での業務ないしは仕事に恵まれた点である。『大原雑誌』編集の担当に始まり、『年鑑』編集と戦後社会運動資料の復刻、研究プロジェクトや大型出版企画への参加などをはじめ、個人的な著作の刊行や講演活動など大変充実した仕事をさせていただいた 。
 これらについては、すでに書いたので詳しくは触れない。やるべき仕事が、やって面白く身に付き、さらにやりたくなるような性格のものだった。そのためにいささか無理をしたきらいもなかったわけではない。椅子に座り続けた不健康な生活がたたってギックリ腰や腰痛になったり、左目の出血があったり何度も痛風の発作に襲われたりするなど、不健康で過労とも言える勤務実態であったことは否めない。
 同時に、それによって自己の限界を超え、大きく成長できたように思える。早期退職して以降は意識的に体力と健康の回復につとめ、ウォーキングとダイエットによって現役時代の最大時から25キロの減量に成功し、体調も大いに改善された。
 第3に、研究所内を中心とする先輩・同僚・後輩など、人とのつながりにも恵まれたことである。『年鑑』編集をはじめとして過酷ともいえる勤務を苦にしなかったのは、それを支え励ましてくれる仲間がいたからだ。仕事や研究活動を通じて得られた人間的なつながりは、私にとって一生の「宝物」である。
 ここで、今まで挙げていない恩人の名前を追加しておきたい。都立大学で塩田先生が大学を去った後、ゼミ生としてお世話になった金子ハルオ先生、大学院で中林先生とともに面倒を見ていただいた田沼肇 先生、最初の単著出版で助けていただいた畑田重夫先生 、退職後の研究会でお世話になり、私が立候補した八王子市長選挙で応援演説に来て下さった下山房雄先生などである。
 大原社研で過ごした日々をふりかえれば、懐かしい思い出の数々が走馬灯のように浮かんでは消えていく。「大原ファミリー」の一員として充実した毎日だった。研究所というより切磋琢磨する道場のような試練の場であったが、今となってはただ感謝しかない。

nice!(0) 

11月18日(水) 大原社会問題研究所の思い出―『日本労働年鑑』の編集業務を中心に(その3) [論攷]

〔以下の論攷は『大原社会問題研究所雑誌』第745号、2020年11月号、に掲載されたものです。3回に分けてアップさせていただきます。なお、注は全て割愛させていただきます。〕

3、 大原社研でのその他の業務

(1) 戦後社会運動資料の復刻

 『雑誌』の編集担当を交代した時、早川先生から受け継いだのは『年鑑』の編集だけではなかった。もう一つ重要な業務があった。それは戦後社会運動資料の復刻作業である。これは戦後占領期の政党や社会運動団体などの機関紙誌を復刻するもので、兼任研究員の吉田健二さんが中心となって進めていた。私はこの業務を通じて吉田さんとコンビを組むことになる。
 私が担当を受け継いだ時、『民報・東京民報』の本体の刊行準備はほとんど済んでおり 、「別巻」の索引の作成から引き継いだ。この時点ではコンピュータによる索引づくりなどはまだ思いもよらず、印刷されたゲラを点検するのに苦労したものだ。しかも、吉田さんと違って戦争直後の政治や社会運動について専門的な知識などなかった私にとって、これに始まる復刻事業は大きな試練となった。
 この後、復刻事業は日本社会党の機関誌『社会思潮』全8巻、社会主義政治経済研究所の機関誌『社会主義』全3巻、同機関紙『政治経済通信』全1巻と続いた。その後も、民主評論社の雑誌『民主評論』全5巻を復刻することになる。日本共産党の機関誌『前衛』と新聞の『赤旗』を復刻する計画もあった。『前衛』の解題は増島宏先生、『赤旗』の解題は塩田庄兵衛・犬丸義一・梅田欽次の3先生にお願いしたが、結局、復刻には至らなかった。
 このような関係で戦後占領期のことは良く知らないなどとは言っていられなくなり、個人的にも研究を深めるようになっていった。次第に占領期の政治・社会運動に対する興味や知識が増え、やがてそれは戦後社会運動史研究会の発足と私が編集した2冊の研究所 叢書の刊行へと結びついていく 。
 占領期の政治・社会運動にまで私の研究分野が広がったのは、研究所業務における分担の変更があったからである。『年鑑』編集の業務とともに、戦後社会運動資料の復刻作業を業務として担当しなければ、このような形で研究分野が拡大することはなっただろう。このことも、結果的に私にとっては大きなプラスとなった。
 戦後社会運動史研究会は2冊目の叢書を刊行した2011年まで続き、その後は改組・再編されて社会党・総評史研究会に引き継がれた。その研究成果として刊行されたのが研究所叢書『日本社会党・総評の軌跡と内実』であった 。また、このような形で戦後の政治史についてそれなりに俯瞰することができるようになった成果の一つが、小学館から刊行した拙著『戦後政治の実像』である 。

(2)研究プロジェクトと大型出版

 戦後社会運動史研究会以外にも、多くの研究プロジェクトや出版活動に参加した。研究プロジェクトとして最初に取り組んだのは「ユニオンリーダー研究会」だった。ユニオンリーダーの属性や意識についての調査を行い、『大原雑誌』や『年鑑』の特集として発表し、労働省で記者会見を開き新聞でも報道された 。
 次に取り組んだのは、「労働組合の再編・統一に関する調査研究(連合研究会)」だった。これは当時の総評解散から連合と全労連の結成に至る労働戦線再編に焦点をあてた研究プロジェクトである。その成果は、研究所叢書『《連合時代》の労働運動』にまとめられた 。
 さらに、「人事評価と労働組合研究会」や「労働政策研究会」も力を入れて取り組んだプロジェクトだった 。高知短大の元学長代理で大原社研の客員研究員としてこられた芹澤 寿良先生の協力を得て経営者団体の関係者からの聴き取りを行い、高知県経営者協会専務理事の松本秀正さんや、旧経団連の常務理事・専務理事を歴任し日本年金機構の初代理事長となった紀陸孝さんなどの知己を得た。この研究プロジェクトの成果はワーキングペーパーにまとめられている 。
 これらの研究会は、いずれも私が責任者としてかかわったものである。それ以外にも、参加者として加わった研究会には、「現代労使関係・労働組合研究会」「労働運動の再活性化の国際比較研究会」「社会問題史研究会」などがある。
 前述のように、戦後社会運動史研究会を立ち上げて2冊の研究所叢書を編集したが、その後、この研究会は社会党・総評史研究会に受け継がれ、加藤宣幸さんなどの元社会党書記や富塚三夫元総評事務局長などからの聞き取りを行なった。これは嘱託研究員の木下真志さんの尽力によるもので、その成果は木下さんとの共編による研究所叢書となり、昨年刊行された。大原社研との関連で私が行った最後の仕事がこれである。
 このような研究プロジェクトとは別に、大原社研と旧労働旬報社とのコラボによる大型出版の企画にも取り組んで来た。その始まりは、すでに触れた『戦後社会・労働運動大年表』の刊行だった。これを皮切りに、『日本の労働組合100年 』『日本労働運動資料集成 』『社会労働大事典 』などが次々と刊行されていく。
 そのいずれもが、旬報社とのコンビを組んでの大型出版だった。編集を担当したのは『年鑑』編集でもコンビを組んでいた佐方信一さんで、こちらの方でも大いに助けられた。その後社長となった木内洋育さんとは編集者時代に私の著作 を担当していただいた縁もあり、長い付き合いになった。
 特に、最後の大型出版となった『社会労働大事典』は私の所長時代に出版されたために、最終的な文章の調整と編集を一手に引き受けることになり、2年ほどの間、寝る間も惜しんでの作業となった。左目に大きな負担がかかったようで、ある日の朝、目覚めると墨が流れているように見える。眼科の病院で診察してもらったら毛細血管が切れて血が出ているという。緊急にレーザーで手術してもらうということもあった。

(3)海外との交流と調査

 研究所業務との関連で、海外との交流と調査に関わったことも忘れがたい。大原社研に就職していなければ、以下に記すような外国旅行はほとんど実現しなかったに違いない。海外に目を開いて国際的なつながりを作ってもらえたのも、大原社研のお陰だったと言える。
 私の最初の海外旅行は、記述した都職労調査団の随員としての欧州5カ国訪問だった。この時知り合った2人とは、今も付き合いがある。これは大原社研の業務ではなかったが、公務員労働組合の調査という点では全く無関係というわけではなかった。
 次の外国訪問は韓国である。大原社研と仁川の仁荷大学との共同研究プロジェクトや講演、研究交流協定の締結などのために韓国訪問は7回を数えた 。これほど訪韓することになるとは夢にも思っていなかったが、盧武鉉政権で労働部長官(労働大臣)となる金大煥先生など多くの研究者と知り合い交流することができた。
 3番目の外国訪問は中国の上海外語学院への2カ月間の短期留学である。これは法政大学との相互交換留学制度によるもので、「抗日戦争と中国共産党」というテーマを掲げて約1カ月間かけて中国各地をめぐった。その調査旅行の詳細は『労働法律旬報』に連載している 。
 そして、私の海外経験のハイライトともいえるものがハーバード大学ライシャワー日本研究所への留学である。そのきっかけは大原社研に客員研究員として滞在していたアンドリュー・ゴードンさんと知り合ったことだった。「留学する時は頼みますよ」とお願いしていたところ、ゴードンさんがデューク大学からハーバード大学に移ったため、私の留学先もそれに連れて変わったのである。
 ハーバード大学には1年間在籍し、2001年8月31日にボストンのローガン空港からヨーロッパに向けて出発した。半年かけて世界の労働組合と労働資料館を調査するためである。その直後に、9.11同時多発テロが勃発するという偶然もあった。地球を一周して私が訪問したのはアメリカを含めて33ヵ国で、都市と場所は約90ヵ所に及んだ。この調査旅行については研究所叢書にまとめてあるので、詳しくはそちらをご覧いただきたい 。
 この他、個人的な外国訪問としては、ハワイへの1週間の旅、中国東北部(旧満州地域)への旅行、中国の西域(敦煌など)がある。このような形で数多くの国や都市を訪問できたのも、大原社研に在籍していたたまものだった。大原社研がIALHI(労働史研究機関国際協会、The International Association of Labour History Institutions)に加盟していなければ外国の資料館の訪問は実現できなかったにちがいない 。中国東北部への個人旅行も、中国からやって来た客員研究員に案内してもらってのものだった 。

 むすび

 私は32歳で兼任研究員として採用され、63歳で早期退職するまでの31年間、大原社研に在職した。そのうちの大半は『年鑑』の執筆と編集に従事していたことになる。この私の半生を改めて振り返ってみて、「何と恵まれていたことか」との思いを強くしている。
 第1に、大原社研という場ないしは器の有難さである。歴史と伝統があり、研究所としての実績は十分で、海外でも知名度抜群だった。外国の資料館への訪問では、相手がアーキビストだということもあって、法政大学は知らなくても大原社研の名前は知っていた。原資料を含む研究環境の素晴らしさは言うまでもない。ただし、私自身はこれらの資料を充分に活用できず、「宝の山」にいながら、その「宝」を充分に生かすことができなかったのは悔やまれる。
 それだけではない。多摩キャンパスへの移転に伴う研究所施設の充実、組織改編による若手の登用、二村・早川元所長はじめ嶺学・相田利雄・原伸子の歴代所長による上下関係のない自由で民主的な研究所運営、女性も臨時職員も分け隔てなく処遇する公平さなどは特筆される。懇親会も活発で、私にとってはまことに居心地の良い労働環境だったというほかない。
 第2に、研究所での業務ないしは仕事に恵まれた点である。『大原雑誌』編集の担当に始まり、『年鑑』編集と戦後社会運動資料の復刻、研究プロジェクトや大型出版企画への参加などをはじめ、個人的な著作の刊行や講演活動など大変充実した仕事をさせていただいた 。
 これらについては、すでに書いたので詳しくは触れない。やるべき仕事が、やって面白く身に付き、さらにやりたくなるような性格のものだった。そのためにいささか無理をしたきらいもなかったわけではない。椅子に座り続けた不健康な生活がたたってギックリ腰や腰痛になったり、左目の出血があったり何度も痛風の発作に襲われたりするなど、不健康で過労とも言える勤務実態であったことは否めない。
 同時に、それによって自己の限界を超え、大きく成長できたように思える。早期退職して以降は意識的に体力と健康の回復につとめ、ウォーキングとダイエットによって現役時代の最大時から25キロの減量に成功し、体調も大いに改善された。
 第3に、研究所内を中心とする先輩・同僚・後輩など、人とのつながりにも恵まれたことである。『年鑑』編集をはじめとして過酷ともいえる勤務を苦にしなかったのは、それを支え励ましてくれる仲間がいたからだ。仕事や研究活動を通じて得られた人間的なつながりは、私にとって一生の「宝物」である。
 ここで、今まで挙げていない恩人の名前を追加しておきたい。都立大学で塩田先生が大学を去った後、ゼミ生としてお世話になった金子ハルオ先生、大学院で中林先生とともに面倒を見ていただいた田沼肇 先生、最初の単著出版で助けていただいた畑田重夫先生 、退職後の研究会でお世話になり、私が立候補した八王子市長選挙で応援演説に来て下さった下山房雄先生などである。
 大原社研で過ごした日々をふりかえれば、懐かしい思い出の数々が走馬灯のように浮かんでは消えていく。「大原ファミリー」の一員として充実した毎日だった。研究所というより切磋琢磨する道場のような試練の場であったが、今となってはただ感謝しかない。

nice!(0) 

11月17日(火) 大原社会問題研究所の思い出―『日本労働年鑑』の編集業務を中心に(その2) [論攷]

〔以下の論攷は『大原社会問題研究所雑誌』第745号、2020年11月号、に掲載されたものです。3回に分けてアップさせていただきます。なお、注は全て割愛させていただきます。〕

2、 専任研究員としての採用と『日本労働年鑑』の編集

(1)『大原社会問題研究所雑誌』の編集業務

 『大年表』刊行の大事業が終了した1987年、私は経済学部に移った佐藤博樹さんの後任として専任研究員の助教授に採用された。当初の業務は『大原雑誌』の編集であった。それまでの『研究資料月報』を『大原雑誌』として市販される「商品」とするために 、まずイメージチェンジを図ろうということで表紙をピンクに変えた。私と三宅さんの提案を二村所長が採用したのである。
 その後もいくつかの改善が図られた。体裁をきちんとするために専門の割付担当者を採用すること 、一般の雑誌のように発行時期を一カ月早めること、誤植などをなくすために所外に専門の校正者を依頼すること 、原稿料の支払いと雑誌の購読料を相殺するような仕組みを作ることなどである。
 この時期に作られた雑誌編集の枠組みはその後も継承され、今日に至っている。そのうちのどれが私の編集担当の時代に実現したのかは、今となってはよく覚えていない。少なくとも、私が雑誌編集を早川先生に引き継ぐころまでには、このような枠組みは基本的にできあがっていたように思う。その後、専門的な学術研究誌としての評価を高め定着することになるのは早川編集長時代だが、その基礎はこの時代にはできていたように思う。
 ただし,月刊雑誌の編集は、積んでは崩す「賽の河原の石積み」のようなところがある。毎月、原稿を集めて編集し、初校・再校と手を入れて刊行したと思ったら、すぐ次の号の編集が待っている。特集の企画も考えなければならず、原稿の依頼や点検、校正などの作業は並行して進められ、息を抜くことができない。『大原雑誌』の編集担当から『年鑑』担当に業務が変わったとき、何となくホッとしたことを覚えている。

(2)『日本労働年鑑』の編集を担当

 私が前任の早川先生と交代する形で『年鑑』編集の担当になったのは1990年秋のことだったと思う。以来、91年版から退職する年の2013年版までの22年間にわたって『年鑑』の編集に携わった。私の研究所での仕事の大半は、この『年鑑』の編集作業を中心に回っていたことになる。
 『年鑑』は1987年刊行の第57集から、①労働経済と労働者の生活、②経営労務と労使関係、③労働組合の組織と運動、④労働組合と政治・社会運動、⑤労働・社会政策という5部構成となった。この5部構成と特集という基本的な枠組みは今も維持されている。
 特集と章別の編成、執筆者についてはその都度検討され、修正や変更の必要があれば対応しなければならない。留学などで執筆できないという連絡が入ることもある。特集のテーマや章別の編成を確定し、適当な執筆者を探して依頼が完了するのは師走に入ってからのことになる。
 年が明けてからの最初の作業は、各執筆者に対して改めて執筆に向けてのお願いをすることだった。『年鑑』は毎年刊行されるので、はっきりとした期限がある。6月の刊行を遅らせるわけにはいかない。かといって、その年が終わらないことにはデータがそろわない。年が明けてから、できるだけ早く執筆をはじめ、2月から3月にかけての締め切りに間に合わせてもらう必要がある。
 各章の締め切りは同じではない。内容や資料が発表される時期、筆者などによって多少の差をつけた。第1次の締め切りは2月中旬、2次は下旬、3次は3月上旬という具合だった 。いっぺんに集まってきても原稿の点検や編集が間に合わないからで、その後は第2次までになった。
 執筆する対象によっては資料の収集が難しかったり、データの発表が遅かったりするものもある。筆者による執筆の遅速の差もあり、原稿集めには大変苦労した。それでも、ワープロやパソコンで入力し、メール添付で送ってもらい、直接手を入れられるようになってからは、編集作業も入稿のスピードも格段に改善された。

(3)『年鑑』編集のスケジュールと具体的作業

 『年鑑』編集のための会議は、原稿が集まってくる2月中旬頃から始まり、4月上旬にかけてほぼ毎週水曜日に開催された。出席するのは専任研究員全員と編集担当の兼任研究員2人、それに発行元である労働旬報社(後、旬報社)の編集担当である。編集会議での議題は、原稿の集まりや進行状況の確認、集まった原稿を読む分担、原稿読みと編集作業を進めてきて生じた問題点の解決などである。
 以上に加えて、二つの大きな作業がある。その一つは「序章」の検討で、もう一つは「年表」の作成だった。この二つについては、それぞれの担当者を決めたうえで集団的に検討し、それを踏まえて完成させたものを最終的に調整して仕上げる 。年表の原案は外部の作成者にお願いしたが、各欄の重複や欠落の補充などはこちらで行わなければならない。6つの欄の重なりなどは、最終的に並べてみなければ分からないことも多かった。
 『年鑑』には、冒頭にグラビアのページがあり、その作成は編集委員会の仕事になる。また、各章の扉には内容を簡潔に示すキャッチ・コピーとグラフや写真などの図版が付いている。基本的にはこれらの原案も原稿筆者に依頼するが、記載されていなければこちらで作成しなければならない。キャッチ・コピーには字数と行数に制限があり、毎度、苦労したものだ。
 この一連の過程における私の役割は、編集スケジュールの作成、編集会議の招集と進行、原稿の発注と集まってきた原稿の素読み、各担当者への原稿読みの割り振り、戻ってきた原稿の点検と入稿、序章と年表の完成と入稿などである。遅れている原稿があれば催促し、記述すべき内容で足りない部分があれば筆者に補充してもらい、それが間に合わないようなら編集委員に補充執筆をお願いしなければならない。これらは今も繰り返されていると思うが、気苦労の多い大変な作業であった。
 4月初め頃には一通り入稿が終わり、順番に初校ゲラが出てくる。これについては筆者、編集担当者、私が目を通し、赤を入れたものを転記して出版社に返す。大型連休明けにはこの作業もほぼ終了し、その後、再校ゲラが出てくる。この段階でも多くの赤が入るのが普通で、研究所に待機して出版社の担当者からの問い合わせに答えなければならない。
 こうしてほぼ完成原稿がそろった段階で、最後の作業が待っている。それは索引語の指定と、関連する記述があるページの「年表」欄へ記入である。いずれの作業も、ページ数が確定しなければできない。ページ数を入れたために年表欄の字数が増え、再度の調整が必要になるなどということもあった。索引語を統一するという面倒な作業もあるが、これについては編集担当者に任せた。
 こうして、前年の9月頃から始まった『年鑑』編集の作業は大団円を迎える。最終的に校了となって研究所の手を離れるのは5月末で、それから3週間ほどして『年鑑』が刷り上がってくる。刊行は6月下旬で反省会は7月の初めだからほぼ10ヵ月が費やされ、夏休みを除く通年の作業ということになる。この間、原稿やゲラ読みを始めとした編集作業の多くは研究所の勤務時間内だけでは不可能で、自宅に持ち帰っての仕事は当たり前だった。
 特に、編集作業にワープロやパソコンを使うようになってからは、研究所と自宅での作業に大きな差はなくなったように思う。まさに、「フロッピー残業」の典型のような働き方だった。毎年、5月が過ぎると腰痛に悩まされたのは、パソコン画面をのぞき込んでいたせいかもしれない。退職してからは、腰の痛みに悩まされるようなこともなくなった。
 『年鑑』編集の始まりから終わりまで、細かな字を読み続ける過酷な作業が続いた。学生時代に右目を失明し、左目しか見えない私には大変つらい仕事でもあった。残された左目を守るためにも、できるだけ早い時期に研究所を退職した方が良いのではないかと思うようになった。これが、63歳という年齢で早期退職を選択した理由の一つだったのである。

(4)「特集」テーマ・筆者の決定と痛恨の失敗

 私が担当した時期の特集のテーマ

1991年版(第61集) 労働組合組織化の新たな動向
1992年版(第62集) ユニオンリーダーの属性と意識
1993年版(第63集) 現代日本の女性労働
1994年版(第64集) 日本における外国人労働者の現状
1995年版(第65集) ILOと日本
1996年版(第66集) データ・ファイル=戦後50年の労働問題
1997年版(第67集) 高齢者就業・雇用の現状と課題
1998年版(第68集) 現代日本の社会福祉労働
1999年版(第69集) 国際労働組合運動の50年
2000年版(第70集) 現代日本の雇用変動と雇用・失業問題
2001年版(第71集) 人事評価と労働組合
2002年版(第72集) 労働時間の法制の改編と運用の実態
2003年版(第73集) メンタルヘルス問題と職場の健康
2004年版(第74集) 若年労働者の就業をめぐる諸問題
2005年版(第75集) プロ野球選手会のストライキ/介護保険制度の現状と改革課題
2006年版(第76集) JR福知山線脱線事故とJRの労使関係/日経連「新時代の日本的経営」から10年
2007年版(第77集) 業務請負と労働問題/アスベスト(石綿)問題の過去と現在
2008年版(第78集) 介護労働と介護問題/国際労働組合総連合(ITUC)の結成
2009年版(第79集) 今日のワーキングプアと非正規雇用問題/M&Aと労働問題
2010年版(第80集) ユニオン運動の形成と現状/構造改革と社会保障改革
2011年版(第81集) JR不採用問題の和解と今後の課題/外国人技能実習生問題の現状と課題
2012年版(第82集) 東日本大震災と労働組合/原子力問題と労働運動・政党
2013年版(第83集) 変貌する正社員の雇用と労働/東日本大震災と公務労働
2014年版(第84集) 非正規労働をめぐる政策と運動/社会保障制度改革の現状と課題

 『年鑑』は1991年刊行の第51集から「特集」を掲載している。『年鑑』がカバーする単年度の記録としてではなく、中・長期的な視野からそのときどきの重要なテーマについて整理、分析するためである。私が担当した1991年から2014年までの「特集」は別表のとおりである。それを見れば、そのときどきにおいて何が重視され焦点となっていたかを知ることができる。 
 特集は、2004年版の第74集までは一本だったが、翌年からは2本になっている。『年鑑』の魅力を高めて販売部数の低下に歯止めをかけようとしたためである。しかし、顕著な効果はなく、販売部数は増減を繰り返しながら緩やかに減少していった。
 「特集」テーマの検討は、『年鑑』刊行後の7月初めの反省会から始まる。夏休み明けの9月から10月にかけての研究員会議や運営委員会でも意見を聞いた。執筆者についても知恵を出してもらった。私一人では、手に負えないことも多かったからだ。
 私は原案を出したが、それは参考程度で全く違ったテーマに決まることもある。最終的な決定は10月の社会政策学会の研究大会前になされることが多かった。学会で筆者の候補を探したり、直接交渉したりするためであった。
 何を特集のテーマとするかも難しかったが、それ以上に誰に書いてもらうかが重要だった。『年鑑』の通常の章はほぼ筆者が決まっており、内容も見当がついたが、特集は毎回テーマも筆者も異なっている。どんなに良いテーマでも書いてもらえる筆者を見つけなければならず、引き受けてもらえなければ掲載できない。1本でも大変なのに、毎年2本となると苦労は倍加する。今でも2本の「特集」を維持するのは大変なのではないかと思う。
 この「特集」について、あまり書きたくはないが、今も反省すべき痛恨の失敗があった。筆者名を間違えてしまったのである。『年鑑』は客観的記述を旨とし集団的に検討してかなり手を入れることもあって、各章の筆者を明らかにしていない。しかし、「特集」については個人的な見解や評価も記述され、研究業績として扱われることもあり、希望者については文末に筆者名を入れることにした。その筆者名を間違えてしまったのである。
 問題は2006年版の第76集「JR福知山線脱線事故とJRの労使関係」で生じた。この前半の筆者は「安田浩一」であったのを、「安田和也」としてしまったのである。姓が同じ「安田」であったために、巻末の「社会・労働運動年表」の社会運動欄の作成者と取り違えてしまった。
 翌年の『年鑑』では「旬報社編集部」名で「訂正とお詫び」の紙片を挟んで配本することになった。安田浩一さんにもお目にかかってお詫びしたが、このような失敗は、後にも先にもこれ一回きりのことである。安田さんはその後フリージャーナリストとして大活躍されておられる 。全く不注意の極みであり、この場を借りて改めてお詫び申し上げたい。
 
(5)『年鑑』章別編成の変遷

 『年鑑』の5部構成という枠組みに変化はなかったが、各部を構成する章やその中の節については、労働・社会問題の変化に応じて変わってきた。その変遷の後を辿れば、おのずと各時代の変化を知ることもできる。以下、章や節の変化を振り返ってみることにしたい。
 91年版では、第2部第5章の「産業動向と合理化」の節として、新たに「金融」と「建設」が加えられた。また、第4部第2章の「労働者福祉運動」から労働者住宅を除き、新たに労働者生産協同組合運動が加えられている。
 92年版では、第1部第2章「労働者生活の実態」で家計を主とする消費生活だけでなく単身赴任問題やセクシュアル・ハラスメント(セクハラ)などの職場の状況や労働のあり方も視野に入れるようにした。それまで第2部に収めていた「労働災害・職業病」は第1部に移し、第2部の「労使交渉と労働争議」も第3部に入れて表題を「労働組合の組織現状と労働争議」と改めた。第3部第3章の「賃金要求と賃金闘争」を「賃金・時短闘争」として労働時間短縮(時短)闘争も加え、第3部第5章の「合理化と労働組合」も、合理化だけでなく新たな取り組みを幅広くフォローできるように「単産・単組の運動事例」と改めている。
 私は91年版から編集を引き継いだが、その時、すでに次年度の章別編成の大枠は決まっていた。計画段階から編集に関わったのは92年版からであった。この時の編成替えが大幅なものになったのは、私が担当者になって、その考えが反映されたという面もあったように思う。もちろん、それは私だけでなく編集会議での集団的な検討によるもので、当時の二村所長のリーダーシップが大きかったように思う。
 翌93年版では大きな変更は加えられていないが、94年版にはいくつかの変更があった。前年版で特集として扱った「女性労働」を新たに第1部第3章とし、「労働災害・職業病」を第4章とした。また、第1部第2章「労働者生活の実態」を「労働者の生活と意識」とし、意識調査の結果も紹介することとした。
 95年版でも大きな変化はなく???、96年版では第2部第1章「労働経済の動向」で、家内労働従事者と外国人労働者についての記述を新設した。97年版と98年版では変更はなかった。
 99年版では、第2部第3章「主要産業の動向」で新たに「医療・福祉」「公務」「教育」の節を新設し、一段と広く産業の動向をカバーできるようにした。「主要産業」としては、これ以外にも触れるべきものがあったように思うが、全体の分量などの関係もあって、その後も増やされていない。
 2000年版は変更なく、01年版で第1部第4章として「外国人労働者」を新設し、「労働災害・職業病」を第5章とした??のが、章別編成としての大きな変更だった。その後、これらの章はそのまま引き継がれ、02年版から14年版まで大きな変更が加えられることはなかった。

(6) 『年鑑』編集に関するいくつかのエピソード

 『年鑑』編集に関連しては、数多くのエピソードが思い出される。その全てに触れるわけにはいかない。主なものをいくつか紹介しておくことにしよう。
 第1に、『年鑑』の改革についての論議である。年々、出版物全体の販売数が低下傾向にあり、『年鑑』も例外ではなかった。刊行部数の一応の目安は1000部で、これを割るたびにテコ入れ策が検討され実施された。全国の図書館や大学などに『年鑑』の所蔵状態のアンケートを送ったり、継続しての購入のお願いを出したりした。
 『年鑑』そのものについても、抜本的な改善策が検討された。その一つは版型を変えるというものだった。現在よりも大きな判にして読みやすくしたらどうかというものだったが、途中から大きさが変われば本棚に収納するのに困るのではないか、継続性が薄れるのではないかなどの意見が出され、沙汰止みとなった。
 また、現在の縦組みを横組みとした方が良いという意見もあった。『年鑑』に多くの数字が記載されるが、漢数字よりも算用数字の方が読みやすいというのである。これは版型を大きくすることと併せて実施しなければ、かえって読みにくくなる可能性があり、上記の案が消えた段階で横組み案も消えることになった。
 さらには、電子情報と結合するという案もあった。『年鑑』の付録としてCDを付け、豊富なデータを入手できるようにしようというものだ。しかし、文字版の編集だけでもやっとの思いで間に合わせているのに、それ以上のことは無理ではないか、技術的にも難しいのではないかということで、これも実現されなかった。
 結局、特集などを紹介する帯を付けたくらいで、版型や内容の点では大きな変更なしに現在に至っている。世界でも稀な継続性を特徴とする『年鑑』である以上、基本的に変わらないことにも一定の価値があると言えるかもしれない。
 第2に、『年鑑』編集と研究所のコンピュータ化との関連である。1983年に私が兼任研究員となって『年鑑』編集を手伝った時は、まだ手書きの原稿を集めて編集していた。このころには手書きで文章に手を入れたり校正したりしていたが、コンピュータの画面で行う時代に比べれば、ずっと困難で手間がかかった。
 1984年7月にパソコンが導入され、それ以降、研究所のコンピュータ化は急速に進む。資料の整理や索引の作成のために積極的な導入が図られていったからである。それに引きずられるようにして、私もワープロやパソコンの操作に慣れていった。それが『年鑑』編集の上で大きな威力を発揮したことは、すでに書いたとおりである。
 そのことは、私自身の研究活動にとっても大きな意味をもった。この面で一歩先んじておられた二村所長の強い勧めと技術指導によって、個人のホームページを立ち上げたからだ。米ハーバード大学への留学と世界をめぐっての労働組合・労働資料館の調査旅行の間も発信を続け、一冊の本にまとめることができた 。1998年から書いて発信し始めたホームページは、これまでの累計で1000万アクセスを遥かに越えている 。
 第3に、『年鑑』の編集作業を担当することによって得られたメリットについても触れておきたい。『年鑑』の編集は苦労が多く辛い仕事だったが、同時にそれは私にとって日本の労働問題の教科書であった。これによって労働問題や労働運動だけでなく、日本の政治と社会への理解を深めることができたからである。
 毎年、原稿を受け取ったとき、入稿するとき、初校ゲラを点検するときと、最低3回は原稿を読む。出来上がってからもざっと目を通す。依頼した字数を越えている時は削り、間違っているデータは修正し、文章表現についても手を入れた。受け取った原稿をそのまま入稿するのではなく、正確で読みやすくするための作業を行う。厚くなりすぎないよう、毎年のページ数が大きく変動しないよう、特に注意を払った。こうして、所定の字数内に収める技術が身についていった。
 これらの作業が終わるころ、前年の日本の政治と社会、労働の現場がどうであったかというイメージができあがる。「序章」の執筆では、前述のように国際政治の動向と国内政治の動向を担当し、経済や労働についても編集会議で議論する。「年表」の作成では、日付や集会の名称、参加人数、場所、人名などにも気を配る。自然に、前年の世界と日本についての「土地勘」のようなものが身に付いたように思う。
 これは私にとって大きな財産となった。それぞれの年の政治・経済・労働の全体像が自然に浮かび上がってくるのである。無理やり叩き込まれたような形で記録され記憶しているイメージを手掛かりに『年鑑』で調べれば、さらに詳しく知りたい事実やデータに行き当たる。
 すべてを網羅しているのが『年鑑』の強みである。それはそのまま私自身の強みとなり、大きな自信となった。私は『年鑑』の編集を担当し、毎年の大半を費やして悪戦苦闘するなかで、研究者として鍛えられ成長させてもらったと思っている。『年鑑』の編集担当という業務に従事していなければ、今日の私はない 。

nice!(0) 

11月16日(月) 大原社会問題研究所の思い出―『日本労働年鑑』の編集業務を中心に(その1) [論攷]

〔以下の論攷は『大原社会問題研究所雑誌』第745号、2020年11月号に掲載されたものです。3回に分けてアップさせていただきます。なお、注は全て割愛させていただきます。〕

 はじめに

 大原社会問題研究所(以下、大原社研)が毎年刊行している『日本労働年鑑』(以下、『年鑑』)が、2020年度に第90集を数えた。この「第90集刊行記念として、歴代の編集責任者に、これまでの歴史や編集記録として残すべきと考えることをご執筆いただき掲載したい」とのお誘いを、『大原社会問題研究所雑誌』(以下、『大原雑誌』)の編集担当からいただいた。これを喜んで引き受けることにしたい。
 『大原雑誌』の紙上を借りて、私のささやかな経験と思い出を語ることができるのは幸せなことだと思う。そもそも大原社研に職を得ることができたのは生涯の喜びであり、現在の伴侶を得られたのも大原社研に就職できたお陰だった。研究所には「足を向けて寝られない」ほどの大恩がある。
 2019年で創立から100年を越えた歴史 を持ち錚々たる研究員によって数多くの業績を積み重ねてきた伝統ある研究所の活動に、どれほどの貢献ができたかは心もとない限りである。とはいえ、私のつたない経験も、後に続く人々にとって何らかの参考になるかもしれない。そう思い、この機会に『年鑑』の編集業務を中心としながら、私の大原社研での活動についての思い出を記すことにしたい 。

1、 前史―大原社研の所員としての採用

(1) 大原社研との出会い

 私が、大原社研の名を知ったのは、東京都立大学に学んでいた学生時代のことになる。経済学部に在籍していたが、ほとんど「自治会学部タテカン学科」で、1年生で自治会副委員長、2年生で委員長となるなど学生運動に明け暮れていた。そのような中で、先輩の一人が「大原社研に就職したいなあ」とつぶやくのを耳にしたのが最初だった。「おおはらしゃけん」て何だろうと思ったが、記憶には残った。
 ほどなくして、その正体はゼミの指導教員だった塩田庄兵衛先生を通じて知ることになる。その後、塩田先生の友人で大原社研の所員でもあった中林賢二郎 先生を頼って法政大学の大学院に進学したため、大原社研と私との縁は急速に深まっていった。直接的なつながりは、中林先生の紹介で資料整理のアルバイトに採用されたことに始まる。当時、麻布にあった分室に通い、日本農民組合(日農)の原資料を分類してファイルに整理する仕事に従事したからである 。
 その後、中林先生の指導でコミンテルン(共産主義インターナショナル)の統一戦線政策を研究テーマにするに至り、大原社研との研究者としてのつながりが生まれる。研究所所蔵のコミンテルン関係資料や定期刊行物がなければ、私の研究は不可能だった。修士論文「コミンテルン初期における統一戦線政策の研究」は一定の評価を受け、日本武道館で開かれた卒業式で社会科学研究科修士課程代表として中村哲総長から学位記を授与された。論文は手を加えて縮小した後、社会学部の学会誌『社会労働研究』に掲載されている 。
 中林先生には、ゼミ指導のほかにも公私にわたって大変お世話になった。資料整理のほかにも、都職労・都労連の第3次ヨーロッパ調査団の随員としてイギリス・フランス・ドイツ・スイス・イタリア5カ国の公務労働の調査に同行して報告書を作成する仕事や、当時の日本共産党の野坂参三名誉議長の回顧録執筆のための資料調査 なども、中林先生の紹介だった。先生が突然亡くなられた後、2年ほどの間、奥様のご厚意でお宅に下宿させていただいたこともある。

(2) 所員としての採用

 博士課程に進学した後も、中林ゼミでのコミンテルンと統一戦線政策の研究は続いたが、このころから高橋彦博先生の誘いを受けて増島宏先生を中心とする政治研究会に加わり、私の関心は政治学や日本政治の研究へと傾斜していった 。学部で経済学部に在籍し、大学院では社会学専攻であったのに、大原社研に就職した後は政治学者 を名乗ることになった背景はここにある。
 法政大学大学院には1974年に入学し、修士課程4年、博士課程5年の9年間在学した。1983年3月に満期退学した後、翌4月に三宅明正さんと2人で所員待遇の兼任研究員に採用された。これも中林先生の紹介だったように思う。このころはまだ半専任扱いだったため日本育英会の免除職に該当し、学部時代に貸与されていた特別奨学金の返還が免除されたのは大いに助かった。
  大学院棟の5階にあった研究所は新しくできた80年館に移っており、研究所の研究員会議もその一室で開かれていた。週に一度開催される研究員会議に出席して驚いたのは、休憩時間に職員が紅茶を入れて現れ、本棚から取り出したブック型のビンからウィスキーを垂らして呑んだことである。馥郁たる芳醇な香りが漂うなか、舟橋尚道所長、中林賢二郎、岡本秀昭、二村一夫、早川征一郎、佐藤博樹などの諸先生の陰で、新参者の私と三宅さんは小さくなっていた。
 
(3)『大年表』第3巻を担当
 私が研究員会議に参加したころ、研究所は市ヶ谷から多摩キャンパスに移転する準備を進めていた。これを機に財団法人を解散して大学の付置研究所に改める方針は、「研究員会議を中心に慎重な検討が重ねられた 」たと『100年史』に記されている。この研究員会議での議論についてはほとんど記憶がない。
 新たに採用された私と三宅さんの主たる業務は、研究所創立60周年記念事業として計画された『社会・労働運動大年表』(以下、『大年表』)の執筆・編集作業であった。これは1858年以降約130年間の歴史を、労働運動と社会運動を中心に、政治・法律、経済・経営、社会・文化、国際の6欄構成で記録した年表で、全項目に出典を明記し、重要項目には簡潔な解説を付していた 。
 編集委員会には、二村・早川・高橋・佐藤先生に明治大学の栗田健先生が加わっていた。毎月一回開かれていた編集会議が終わってから、担当編集者だった労働旬報社の佐方信一 さんも交えて食べた「うな重」の美味さは忘れられない。
 86年に付置研究所になるとともに組織替えが行われた。新たに有給で非常勤の兼任研究員が拡充され、私と三宅さんのほかに、荒川章二、梅田俊英、大野節子、佐伯哲郎、相馬保夫、平井陽一、吉田健二の各氏が加わった。研究所の理事会は、専任研究員と学部教員の兼担研究員とで構成される運営委員会となった。
 兼任研究員の大量採用は『大年表』の執筆・編集のためであり、これは研究所の総力を挙げての取り組みとなった 。私は1965年以降をカバーする第3巻を担当し、多摩キャンパスに移ってからは仮泊研修施設の「百周年記念館」にしばしば泊まり込んだ。ほとんど時間管理なしの過酷ともいえるような勤務状態で、報酬の引き上げを求めて二村所長に掛け合うなど緊迫した一幕もあった。同時に、編集実務を担った若手研究者の間には、「戦友」とも言える濃密な仲間意識も生じた。今となっては懐かしい思い出である。

nice!(0) 

11月13日(金) 『日刊ゲンダイ』に掲載されたコメント [コメント]

〔以下のコメントは『日刊ゲンダイ』11月13日付に掲載されたものです。〕

*巻頭特集「加速する異論排除政権の横暴 この国は「分断」がそのまま」

 「個別の人事についてはコメントを差し控える」

 菅が繰り返したこのセリフも、黒川弘務・元東京高検検事長の定年延長問題の国会質疑で何度も出てきた。要するに政府が政治的な意図を持って恣意的に人事介入し、それがバレそうになった時に使うゴマカシの常套句。ハナから答える気などないのは明らかだ。

 菅は「前例踏襲の打破」とか言っていたが、いやいや、安倍前政権の「悪しき前例」をしっかり踏襲し、さらにエスカレートさせているのではないか。法大名誉教授の五十嵐仁氏(政治学)がこう言う。

 「野党の後ろには国民がいるのです。国会議員として国民に説明をしないのは言語道断であり、役割の責任放棄です。政府・与党ともに、しばらくゴマカし続けていればどうにかなると思っている。まさに政治の劣化の極み。議会制民主主義を壊しているのはもちろん、日本の政治体制が世界中の笑いものになります」


nice!(0) 

11月12日(木) 日本学術会議人事介入事件の本質 [論攷]

〔以下の論攷は、『東京革新懇ニュース』第457号、2020年11月5日号、に掲載されたものです。〕

 日本学術会議人事への政治介入が大きな怒りを呼び起こしました。それは自民党や安倍政治の問題点が象徴的に示されているからです。いわば、〝悪政の結節点〟でこの問題が発生したことになります。
 6人の任命拒否は憲法23条が公的な学術機関の政治からの自立を保障する学問の自由と、法律によって定められている「学術会議の推薦に基づいて首相が任命する」という規定に反する違憲で違法なファッショ的暴挙にほかなりません。6人を誰が勝手に除外し、元のリストは「見ていない」という今回のやり方は、「任命は形式的」で「首相が任命する」といういずれの規定にも反しています。拒否の理由を説明し、直ちに撤回して6人を任命するべきです。

 教育と大学、学術への攻撃

 今回のような介入がなぜ日本学術会議に対してなされたのでしょうか。以前から自民党は学術会議を何とかしたいと考え、目の敵にしていたからです。戦争への反省や自律的な活動を行うというあり方を変質させ、政府の御用機関に変えたいという目論見は設立当初から一貫していました。自民党による学術会議についてのプロジェクトチームの設置は、この狙いをよく示しています。
 それがなぜ6人の排除という形になったのでしょうか。安保法(戦争法)や「共謀罪」などに批判的な方だったからです。憲法解釈の変更や安保法の制定などによって戦争できる国づくりが進む一方で、学者・研究者が反対運動において大きな役割を果たすようになってきました。これを快く思わない政権側が「一罰百戒」を意図して介入したと思われます。
 それがなぜ学術の分野に対してなされたのでしょうか。教育と大学の管理・統制強化の一環だからです。自民党による日教組敵視や教科書記述への介入、安倍前首相による教育改革や教育再生会議などによる道徳の教科化や愛国心教育の強化、国立大学の法人化や全大学人自治への攻撃などによって教育は変質し、大学の自治と学問の自由は掘り崩されてきました。今回の人事介入も、この流れを引き継いでいます。
 これらの目的達成のためになぜ人事介入という方法が取られたのでしょうか。安倍前政権の下で常套手段として多用されてきたからです。日銀総裁や最高裁長官、NHK会長と経営委員、内閣法制局長官、内閣人事局の設置、検察庁人事、メディア関与など、不都合な人を追い出して都合の良い人に変えるやり方は一般化してきました。今回は杉田和博官房副長官などが「忖度」して事前にチェックし、6人の名前を外した可能性が濃厚です。このようなやり方に慣れきってしまったために、それが持つ問題の重大性に気がつかなかったのではないでしょうか。

 民主主義と学術の危機

 今回の人事介入は戦争する国づくりと軍事研究への加担という点で平和を脅かし、異論の排除という点で民主主義に反し、学問の自由を阻害して学術研究の発展を脅かすことになります。恐るべき言論弾圧事件であり、菅首相は意に沿わないものを理由無く切る冷酷な地金を露わにしました。
 菅政権はやりすぎたのではないでしょうか。民主主義社会であってはならない暴挙によって「虎の尾」を踏んだことを思い知らさなければなりません。このような権力の関与を許せば、言論や表現、教育や大学への介入はさらに露骨となり、民主主義と学術研究は息の根を止められてしまうでしょうから。


nice!(0)