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9月10日(月) 3回の中国旅行でのほぼ全域網羅という意味は [旅]

 昨日のブログで、私は「これで、わたしの中国訪問は、ひと通り、中国全土を網羅することになりました」と書きました。これは、中部から南部、東北地域、そして西域の訪問を終えたからです。

 私の中国訪問は、今回で3回目になります。妻と2人で行くのは初めてで、カミさんにとっては初めての中国旅行でした。
 最初は、1989年の天安門事件の直後、7月末から9月末までの2ヵ月間、上海外語学院への短期留学です。中国語を全く介さない私がこの機会をどう生かすかを考えた末、「中国共産党と抗日戦争」というテーマを掲げ、中国各地の中国共産党に関わる史跡や抗日戦争の根拠地、八路軍の事務所や戦跡をめぐることにしました。
 そのためには、各地を旅しなければなりません。しかし、6月4日の天安門事件からまだ一月半しか経っていなかったため、当初、この計画は外語大の関係者に強く反対されました。

 しかし、結局、この時は4回、旅行に出かけています。最初の3回は、外語学院の教員で季林根先生、最後の旅行では大学院生の除衛良さんに案内していただきました。
 中国訪問での最初の旅は、上海外語学院の保養施設(寮)への1泊2日の旅でした。この寮は太湖の畔にあり、鹿頂山の上から「三山」と呼ばれる島が良く見え、「無錫旅情」を歌って訳してもらったものです。
 この時の旅では、無錫や蘇州も訪問しました。上海外語学院が持っているという車を手配してもらっての旅でしたが、運転手の朴さんが彼女だという石紅さんという可愛い女子学生を伴ってきたのには驚きました。

 2回目は、瑞金を包囲されて脱出した毛沢東が根拠地を構えて朱徳将軍らと合流した井崗山に行きました。途中、南昌にも滞在しましたが、ここは1927年8月1日、周恩来、賀竜、葉挺、朱徳、劉伯承らが武装蜂起「八一起義」を起した場所で、この日は人民解放軍の結成記念日になっています。
 3回目は、太湖での旅で知りあった石紅さんに招待され、その実家のある寧波に行きました。途中、西湖のある杭州、隣の紹興酒で有名、というより魯迅や周恩来の生まれ故郷である紹興に立ち寄り、寧波からは蒋介石の生まれ故郷で母親の大きなお墓のある奉化にも足を伸ばしました。

 このようにして、徐々に旅になれてきた私は、中国の中心部と南部を巡る1ヵ月間の大旅行に旅立ちます。季先生は天安門事件に関連する重要会議があるということで同行できず、一悶着の末、除さんを紹介してくれました。
 こうして、留学先の上海外語学院の宿舎「専家楼」を出発し、北京、西安、延安、成都、重慶、昆明、シーサンパンナ景洪、桂林、悟州、広州、武漢、九江、廬山、南京、黄山を巡って上海に戻りました。これもまた、危険かつ苛酷きわまりない旅で、良く無事に戻ってきたと思います。
 当時、私は38歳で、まだ若かったということです。いまなら、とてもこんな旅はできません。

 この旅の途中、西安に立ち寄りました。毛沢東らが抗日戦争の拠点を築く目的で井崗山からの長征を経て辿り着いた延安に行くためです。
 そのため、このときは時間がなく、西安市内の碑林博物館や大雁塔などには立ち寄っていません。今回、前者には行けましたが、後者はまたもお預けとなりました。
 この1回目の中国留学と旅行については、「海外通信 中国の旅の空から(1~13)」として『労働法律旬報』第1221~1235号(1989年8月~1990年3月)に連載しました。興味・関心のある方は、ご笑覧いただければ幸いです。

 さて、2回目の訪中は、8年くらい前になりましょうか。中国東北部(旧満州)を訪ねました。当時、大原社会問題研究所に客員研究員として来ていた劉全勝さんから中国訪問を強く勧められたからです。
 「それなら」ということで、以前から行きたいと思っていた旧満州地域に行くことにしました。このときは、研究所の同僚など3人で大連に飛び、そこで劉さんと合流し、「731部隊」の跡地などのあるハルビンから、長春、瀋陽、大連、旅順(203高地など)と、バスや列車を乗り継いで南下しました。
 このとき中国の広大さを実感しましたが、今回の旅はそれを上回るものでした。いずれにしても、この広大な大地を侵略し、傀儡国家を建設して支配しようとした旧日本帝国の愚かさ、罪の深さを再認識させられたものです。

 そして、今回の西域旅行で、蘭州、嘉峪関、敦煌を訪れることになったというわけです。これで、中国の主要都市はほとんど訪問したことになります。
 少なくとも地域としては、チベットや西域のさらに西の方を除いて、「ひと通り、中国全土を網羅することにな」ったと言えるでしょう。残念ながら、洛陽や開封などの都市、大理や香格里拉(シャングリラ)、石林、九寨溝・黄龍、張家界、莫高窟と並ぶ中国三大石窟の竜門石窟と雲崗石窟などの観光地には、まだ行っていません。これからの楽しみというところでしょうか。
 ところで、兵馬俑博物館で知り合った日本語を学ぶ女子大学生が、「出身地は河南省の省都である長沙です」と自己紹介したので、「私は中国のほとんどの都市に行ったけれど、毛沢東の出身地である長沙にはまだ行ったことがありません。これを調査漏れと言います」と洒落たんですが、隣で聞いていた日本人は大笑いしたものの彼女はポカンとしていました。ちょっと、学生には難しかったでしょうかね。

 これまでの訪中と今回とでは、若干の違いがありました。それを含めて感じたことがいくつかありますが、これについては、また明日……。

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9月9日(日) 中国・敦煌への旅から無事帰国した [旅]

 昨晩、中国の敦煌への旅から、無事、自宅に帰ってきました。これで中国訪問は3回目になりますが、今回は法政大学教職員・OB訪中団29人の1員としての中国の旅でした。
 尖閣諸島問題で対日感情が悪化していると見られているときの訪中でしたが、そのような懸念はありませんでした。中国側スタッフや現地のガイドを含めて、親切に応対していただきました。

 まず、今回の旅の概略を示しておきましょう。旅程は次のようになっています。

○1日目(9月1日)
 朝4時起床。高尾駅で成田エキスプレスに乗車。成田空港から上海を経て蘭州へ。

○2日目(9月2日)
黄河に100年位上前に架けられた鉄橋「中山橋」や蘭州水車園の「黄河水車」などの市内観光の後、モーターボートで1時間ほど黄河を渡って「炳霊寺石窟」へ。甘粛省永靖県の西約50km、黄河上流の小積石山にある紅砂岩の仏教石窟で、周囲の奇岩はこの世のものとは思われぬほどの絶景。

○3日目(9月3日)
 5時起床、7時40分発の列車で「嘉峪関」へ。祁連山脈とゴビ砂漠の間にある河西街道を約7時間かけて走破。祁連山脈の山の頂には白い雪が見えた。万里の長城の西端にある嘉峪関は軍事要塞を兼ねた関所だが、現在は鉄鋼の町。郊外の周囲10kmにわたる墳墓群(円墳)の壁画(「魏晋壁画」)のうちの一つを鑑賞。宿泊は、地元の鉄鋼会社が経営する嘉峪関賓館。

○4日目(9月4日)
 バスで敦煌へ。途中、敦煌・莫高窟の姉妹窟といわれている「楡林窟」を訪問。祁連山脈の渓谷にあり、唐から元代までの間に造られた上下二層構造の42の石窟が残る。途中、通過した山並みは草木の1本も見あたらない不毛の岩山。

○5日目(9月5日)
 バスで、「陽関」、「玉門関」、「漢長城遺跡」、「敦煌古城」などを見学。シルクロードの南ルートが陽関で北ルートが玉門関。インドから仏教の経典を持ち帰った僧の玄奘(三蔵法師)は前者から出て、後者から帰った。夕方には「鳴砂山」、「月牙泉」を訪問し、ラクダに乗る。夜は、ゴビ砂漠の上にテーブルと椅子を並べて「お月見会」。東の地平線から赤い月が昇り、見上げれば漆黒の闇に満天の星。地球は丸かった。

○6日目(9月6日)
 シルクロードの大画廊にして世界遺産の「莫高窟」を訪問。石窟数は735窟といわれ、 石窟群の中心部にある「九層楼」には大仏が安置されている。今から約100年ほど前、第17窟(「蔵経洞」)が発見され、仏教経典、古文書など約5万点が出土した。日中合作映画「敦煌」はこれを題材にしており、「敦煌古城」はこの映画のセット。午後、飛行機で西安へ。私にとっては23年ぶりの訪問。宿は西安交通大学が経営する南洋大酒店。

○7日目(9月7日)
 西安交通大学のキャンパスを通って記念館を訪問した後、「碑林博物館」。午後は世界遺産である「兵馬俑」を訪問。ここに来るのも23年ぶりだが、観光地化していて大きく変容。23年前には登れた「秦の始皇帝陵」は今は立ち入り禁止。時間がなくて華清池への再訪はかなわず。夜、西安交通大学の鄭南寧学長や秘書役の金春陽准教授らと会見。大学の概要について説明を受け、日中の大学の違い、西部大開発との関わり、日中関係などについて1時間ほど意見交換。

○8日目(9月8日)
 朝4時半に起床し、6時半に西安空港着。8時発の飛行機で上海へ。そこで出国手続きを行った後、飛行機を乗り換えて午後4時過ぎに成田空港着。

 ということで、大変、充実した、というか、ある面では苛酷な、中国旅行となりました。この旅行を企画したスタッフや関係者には、心から感謝したいと思います。
 とりわけ、陳さん、馬さん、巨さん、董さんなどの現地ガイドの皆さんには、大いに助けられました。ありがとうございました。

 しかし、何といっても、この旅行団の最大の功労者は田中義教さんでしょう。田中さんは法政大学の元職員で理事もやられ、今は日中友好協会の理事長です。
 今回の訪中は、法政大学教職員・OB訪中団としては13回目になるそうです。これほど長い間、年に1回の中国旅行が続いてきたのは、何といっても、田中さんの企画力、人脈、統率力、それに中国語の会話力と明るさによるところが大きいでしょう。
 西安交通大学の鄭学長との会見並びに懇談が実現したのも、鄭学長が慶應大学大学院に留学されていた頃から、田中さんと友人だったからです。お二人は、大変、親しげに言葉を交わされていました。

 この訪中団の存在と活動について、私は以前から知っていました。でも、大原社会問題研究所の所長在任中、この時期の長期不在は難しく、これまでは断念してきました。
 しかし、所長は辞めましたし、来年度末には退職する予定です。しかも、訪問先が敦煌などの西域だと聞いては我慢がならず、今回、初めてメンバーの一角に加えていただいたという次第です。

 これで、わたしの中国訪問は、ひと通り、中国全土を網羅することになりました。それはどういう意味なのか。これについては、また明日……。

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5月29日(火) 米どころ新潟でTPPへの参加阻止を訴えてきた [旅]

 昨夜遅く、米どころ新潟から帰ってきました。TPPをめぐるシンポジウムで、参加阻止を訴えてきたからです。

 と、書きたいところですが、夜遅くなってしまったのは、このシンポジウムとは関係ありません。新潟からの帰り、カミさんと待ち合わせて初台で途中下車し、東京オペラシティコンサートホールに立ち寄ったからです。
 ここで行われたモスクワ・ソロイスツ創立20周年記念コンサート「バシュメット&モスクワ・ソロイスツ」を聴くためです。これにはソプラノ歌手の森麻季さんとトランペット奏者の高橋敦さんも共演していました。
 開会直前、拍手が起きて、皆さん後の方を振り返っています。2階席の正面に、皇太子も聴きに来ていたからです。

 新潟でのシンポジウムと講演は、大成功に終わったと言って良いでしょう。各界から120人の方が参加されました。
 シンポジウムの様子と私の講演の内容について、昨日(5月28日付)の『しんぶん赤旗』の4面に記事が掲載されています。「TPPは断固阻止を 新潟県革新懇がシンポ 県農協中央会・県保険医会役員ら初参加」という見出しで、写真も出ていました。
 TPPの問題での講演は今回が初めてです。私にも大変勉強になり、このような機会を与えて下さった新潟県革新懇の皆さんに感謝申し上げたいと思います。

 シンポジウムが終わってから、マイクロバスに乗って会場を移動し、交流会が開かれました。場所は「魚国屋」という料理屋の2階で、広々とした座敷に座卓が並んでいます。
 民商の会員さんのお店だそうです。こちらにも、各界から30人ほどの方が参加されました。
 さすがに米どころ、酒どころの新潟です。皆さんお酒が強く、自己紹介を兼ねた挨拶が一巡しない間に、テーブルの上にはお銚子の山ができていました。

 私も魚沼の銘酒「鶴齢」を冷やでご馳走になりました。肴はもちろん日本海の珍味ですが、特に、一匹丸ごと出された鯛の塩焼きは絶品でした。
 二次会はホテル近くの「日本海庄屋」です。経営者は佐渡出身だということで、魚介類のつまみが充実しています。
 こちらでも、佐渡のスルメ、栃尾の油揚げ、ワラビのお浸しなどを肴に、佐渡の酒の「白雪」や「八海山」をいただきました。ただ、村上の銘酒「〆張鶴」の吟醸純米が売り切れだったのは残念でしたが……。

 翌28日(月)、月曜日の悩みは、博物館などが休館だという点にあります。仕方がないので、新潟駅の南側を歩くことにして、アルビレックス新潟の本拠であるサッカー競技場「ビッグ・スワン」に向かいました。
 ここから鳥屋野潟の南側に広がる公園を抜け、黒崎にある「新潟ふるさと村」に行こうというわけです。途中、タクシーの運転手さんに教えてもらった新潟市営の中国式庭園「天寿園」や「新潟市食育・花育センター」に立ち寄ろうとしましたが、どちらも休みで入れませんでした。
 鳥屋野潟公園を出て、向かいから来た小母さんに道を聞いたら、「ここからは遠くて歩いていくのは無理」「市民病院からバスにでも乗ったら」と言われ、「丁度、そこに行く途中だから一緒に行きましょう」。というわけで、小母さんと世間話をしながら、立派な市民病院まで行き、前に駐車していたタクシーで「新潟ふるさと村」に向かいました。

 ここは「道の駅」ですが、広い敷地に、アピール館、バザール館、ふるさと庭園などが揃っています。例によって、タクシーに乗ったら雨が降り出してきたので、外を回れなかったのは残念でした。
 アピール館で、映画や展示を見て、バザール館で食事をして土産ものを買い、信濃川の水上バス「ウオーターシャトル」で万代シティまで戻って来ました。水上バスでは、小学生の一団と一緒になりました。
 話を聞くと、土曜日の運動会の代休だそうで、学童保育の仲間と一緒に水上バスに乗って朱鷺メッセまで行くといいます。万代シティで船から降りるとき、「小父さん、さようなら」と言って、船の上から手を振ってくれました。

 思いがけず、地元の皆さんと触れあう旅になりました。新潟市民病院まで案内してくださった小母さん、船中で話しかけてきた荻川小の子供たち、楽しかったですよ。
 帰りの新幹線に乗る頃には、日が照りだし、うっすらと緑色がかった一面の水田に青空が映っていました。2週間後には、また新発田市でのシンポジウムと講演にやって来る予定ですので、この同じ景色を眺めることになります。


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5月15日(火) ふる里・上越市での9条の会で講演してきた [旅]

 12日からふる里の新潟県上越市に行き、昨日帰ってきました。5月の連休に続いての帰省ですが、今回は上越市9条の会7周年記念の講演という仕事です。

 天気はまずまずでしたが、初日は予想以上に寒かったです。講演当日は暖かくなりましたが。
 2週間ぶりの実家では、姉が山菜づくしのご馳走で迎えてくれました。タケノコと自生椎茸の煮物、タケノコ汁、ワラビのお浸し、ウドのみそ漬けに地魚の煮付け、白バイやタイ、マグロなどの刺身、それにベビーホタテ貝の入ったサラダ、ブロッコリーとウインナーの炒め物など、食べきれないほどのご馳走です。
 姪や姉の孫なども集まって、賑やかな夕食となりました。これが楽しみで、この仕事を引き受けたようなものです。

 講演会当日は絶好の好天になりました。でも、主催者は浮かない顔をしています。
 今、田舎は田植えの真っ盛りで、天気が良すぎると集まりが悪くなると言うのです。心配していたとおり人出は今ひとつのようですが、それでも80人くらいは集まってくださったでしょうか。
 講演では、昨年の東日本大震災や原発事故を契機に参事便乗型改憲論とでも言うべき危険な動きが強まっていること、このようななかで憲法審査会や各党の改憲論などの動きも活発化し、9条の会の活動もあって一時は低下した改憲世論が再び強まりつつあること、このような改憲の動きの芽を摘むための「不断の努力」を行うことが憲法の要請であり、そのような理念や精神を現実の政治や日常の生活に活かすことこそ「活憲」であるということをお話ししました。
 7月には同じ新潟県の阿賀野市9条の会でも講演を頼まれています。おそらく、似たような話しをさせていただくことになるでしょう。

 講演の始まりに、開会の挨拶と講師の紹介ということで、私を紹介してくださったのは上越市9条の会の呼びかけ人の1人であった大金辰三先生でした。大金先生は私の中学時代の恩師で、3年生の時の生徒会の顧問です。
 中学校卒業以来、ずっと個人的にもお付き合いがあります。大金先生は私の人生を変えた大恩ある方で、この先生と出合うことがなければ、おそらく私が政治や社会に関心を持つことも、故郷を離れて研究者の道にはいることもなく、新潟の専業農家の長男として家を継いでいたことでしょう。
 先生はすでに84歳だそうですが、矍鑠とされていて、17年間もの長きにわたって市民向けの歴史講座を主宰されています。この先生に、今回、このような形でお世話になることに大きな感慨を覚えました。

会場では、高校時代の恩師である井浦信作先生にもお目にかかりました。高校時代の弁論部の顧問だった先生です。
 この先生にも色々な形でお世話になり、また大きな影響を受けました。塩浜町の下宿や結婚されてからの糸魚川の新居、五智のお宅などに伺ったことがあります。
 数年前に脳梗塞で倒れられ、今はリハビリ中だということで車いす姿でしたが、お話はできました。私の話を聞きたいと、奥様に車いすを押してもらってわざわざに来てくださったそうです。

 講演会の後には、簡単な打ち上げ(懇親会)がありましたが、その会場は、「ラ・ソネ」でした。ここは、本来は洋菓子屋というかケーキ屋なのに、蕎麦屋というかレストランもやっていて、そこのご主人は先輩の曽根一郎さんです。
 曽根さんとは、直江津高校の美術部で出会いました。彼が3年で、私が1年生の時です。東京の四谷三栄町で1年ほど一緒に暮らしたこともあり、私の兄貴のような存在です。奥さんとも、中学生の時からの知り合いで、毎回、帰省する度に顔を出し、コーヒーをご馳走になってきました。
 そこでも昔話に花が咲きましたが、意外な方が私の過去と結びついていたことが分かりました。途中からは友人達も加わり、場所を変えて2次会でも愉しい時間を過ごすことができました。

 大金先生と出会ったのは14歳の時ですから、それから47年。その翌年に曽根さんと知り合いましたから、46年ということになりましょうか。
 半世紀近いおつきあいのお2人に、今回、このような形でお世話になりました。ありがたいことです。
 講演という形で、長い付き合いのある先生や先輩にご恩返しできました。このような日が巡ってくるとは思いもよりませんでしたが、私としては感慨深く、本当に嬉しく思ったものです。

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1月29日(日) 韓国への駆け足の旅と3回の講演 [旅]

 昨晩、無事、韓国の旅から帰ってきました。忙しい3日間でしたが、大きな支障もなく、順調に3回の講演をこなしてきました。

 今回の旅の目的は、韓国の仁荷大学校産業経済研究所と法政大学大原社会問題研究所との研究交流協定についての覚え書きを交換することでした。いわば公務出張ということになります。
 研究所はすでに、聖公会大学校労働運動史研究所、ソウル大学校日本研究所と同様の覚え書きを交換しています。今回は3番目ということになりますが、いずれも韓国の大学の付置研究所とのものであり、これらによって韓国の大学や研究所との研究交流が一段と促進されることを願っています。
 大原社研がこのような形で韓国の研究機関などとの交流を始めたのは、今から17年前の1995年からの日韓労使関係研究プロジェクトがきっかけでした。この時の経緯については、すでに昨年11月8日付のブログ「韓国から古い友人の尹辰浩仁荷大学校経商大学学長がやってきた」に書いています。

 この年の1月に法政大学多摩キャンパスで最初のシンポジウムが行われ、その時初めて今回の覚え書き締結の相手であった尹辰浩先生にお会いしました。それ以降も日本と韓国でお会いする機会がありましたので、尹先生とは17年来のお付き合いということになります。
 また、尹先生は私のブログの熱心な読者で、今回も私が書いて忘れていたようなことまで、ちゃんと覚えておられました。私以上に、私のことについて詳しいというわけです。
 このような韓国との交流のきっかけを作ってくださった仁荷大学校の皆さん、金大煥先生や丁栄泰先生にもお会いすることができ、17年ぶりに仁荷大学校のキャンパスを訪問することもできました。当時の私には思いもかけなかったことであり、こうして再訪することができて誠に感慨無量でした。

 今回の旅で、実は、途中で一度だけヒヤッとしたことがありました。迎えに来ているはずの方と会えなかったからです。
 26日の朝、成田空港から大韓航空機に乗り込みましたが、「機体整備のため」1時間ほども出発が遅れ、到着も予定時間から大幅にズレてしまいました。心配して出口から出ましたが、それらしい人は見あたりません。
 結局、20分ほど待ちましたが会うことができず、途方に暮れて考えあぐねた末、インフォメーション・デスクまで行って館内放送をお願いしました。仁川国際空港の到着ロビーに「ジン・イガラシ」の名前が響き渡り、しばらくして迎えの方が駆けつけてきて事なきを得たというわけです。

 その後は順調で、ホテルにチェックインした後、近くの韓国式レストランで仁荷大学校の関係者の皆さんと会食。2次会で尹先生からカラオケに誘われましたが、前日の研究所の新年会(というより、その後の2次会)で飲み過ぎましたので辞退し、ホテルのバーで軽く一杯やって引き上げました。
 翌日は朝から予定がびっしりです。ホテルに泊まった尹先生と一緒に朝食を摂り、その場で通訳の方と合流して講演について打ち合わせ、ホテルを出て仁荷大学に向かい、本部棟で仁荷大学校の学長を表敬訪問してご挨拶しました。
 講演会場は隣の図書館棟ですが、本部棟よりも大きく立派な建物です。会議室には30ほどの椅子が並び、前の机にはそれぞれマイクとディスプレイが設置され、正面には「慶祝 学術・研究交流協定締結」という横断幕まで掲げられています(この幕は、経商大学校(学部)の前の路上にも掲げられていました)。

 ここで研究交流協定の覚書にサインし、交換するというセレモニーを行いました。その後、私の記念講演というわけです。
 講演のテーマは「大原社会問題研究所の歴史と現状」というものでした。パワーポイントを使いましたが、正面のスクリーンに映し出されたものは各自の前のディスプレイにも表示されます。
 午後に行った韓国労働研究院の会議室にもほぼ同様の施設がありました。お会いした人のほとんどがスマートフォンを使っていたことと併せて、情報機器の活用と普及では韓国の方が日本より進んでいるという印象です。

 昼食は近くのショッピング・モールの一角にあるレストランに行きましたが、このショッピング・モールがまた巨大です。しかも、バイキング形式で料理は豊富、そのうえ日本円なら1000円もしないという安さでした。
 食事を終え、経商大学校(学部)の学部長を兼ねている尹先生に経商学部の学部長室に案内していただいた後、通訳の方と分かれてソウルに向かいました。尹先生の車で、およそ1時間ほどです。
 韓国労働研究院は、政府や産業の中枢機関が集まっているヨイド島のビルの中にありました。大原社会問題研究所は何回か労働研究院の方の訪問を受けたことがありますので、旧知の方にもお会いできました。

 ここでも新たな通訳の方が現れ、打ち合わの後、「日本における労働再規制の経過と現状」というテーマで約1時間半、講演しました。講演の後、思いもかけず沢山の質問が出され、さすがにプロの集団だと感心したものです。
 その後、同じビルの一階にあるレストランに席を移して会食です。美味しい韓国料理とマッコリをご馳走していただきました。
 食事中にも質問が続き、私も韓国の政治・社会情勢についてお聞きし、色々と教えてもらいました。大変、有意義な時間を過ごすことができたという次第です。

 翌朝、5時半に起床して帰国の支度をし、チェックアウトの後、タクシーで仁川国際空港に向かいました。午前の大韓航空機で帰国し、途中、時間がありましたので巣鴨の刺抜き地蔵と地蔵通り商店街に立ち寄りました。
 午後の講演が予定されている会場は文京区民会館で、巣鴨が乗り換え駅だったからです。刺抜き地蔵はまだ正月気分が残っており、お年寄りだけでなく、若い人の姿もあって混雑していました。
 商店街の入り口で、年金問題についての演説が聞こえます。年金者組合の方が宣伝・署名活動をしていたのです。

 その後、三田線で春日に向かい、東京革新懇総会に参加。その後の記念講演として「野田政権の悪政を斬る-民主党政治の暴走と政治の劣化を食い止めるために」というテーマで、1時間ほど話をしました。
 夜の「新春の集い」にも顔を出して美味しい弁当をご馳走になりました。また、震災復興支援として宮城の銘酒「浦霞」をいただきました。
 こうして、ほろ酔い機嫌で帰宅の途についたというわけです。ご馳走様でした。

 3日間という駆け足での訪韓でした。密度の濃い、忙しいスケジュールでもありました。
 その間に、異なったテーマで3回講演するというのは、私にとっても初めての経験です。その準備も含めて、大変な思いもしました。
 それだけに、やりがいのある充実した3日間であったと思います。何とか、無事に役目を果たすことができたようで、今はホッとしています。

 日本はもちろん、韓国にもこのブログの読者がおられます。仁荷大学校、韓国労働研究院、東京革新懇の関係者の皆さん、大変、お世話になりました。
 この場を借りてお礼申し上げます。ありがとうございました。
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11月27日(日) ふる里の上越市で講演してきた [旅]

 「俺は、なんて運のいいやつなんだ」と、思いましたね。ふる里での講演を終えた時に。いわば、「故郷に錦を飾る」機会を、このような形で与えてもらったのですから……。
 昨日のシンポジウムが終わってから、近郊の割烹で交流会が開かれ、かなり酔っぱらってしまいました。20人以上も参加した会は楽しく、コップ酒をあおったからです。

 新潟県上越市のワークパルで開かれた「原発問題と自然エネルギーの今と未来を考えるシンポジウム」には、200人ほどの人が参加したそうです。用意した椅子が足りなくなり、途中で出しているのが壇上からも見えました。
 「予想していた人の倍は来ましたね」と、準備した方が喜んでいました。友人や知人、近所の方などが沢山、足を運んでくださったようです。
 中には、懐かしい人の顔もありました。高校を出て以来、42年ぶりに再会した人もいます。

 私の講演は1時間で、その後のシンポジウムでは3人の方が報告されました。終わってから、「こんなにギャグを言う人だとは思わなかった」と言われました。
 それなりに楽しんでいただけたようです。シンポジストのうちの1人の方が、「おまんの父ちゃん、よく知ってるでね」と仰います。
 この方は実家がある集落の隣の集落で畜産会社を経営されており、かなり前になくなった父の農業仲間だったそうです。このような出会いがあるのも、ふる里でのシンポジウムならでは、というところでしょうか。

 同じようなテーマでの講演は、7月に新潟市、8月に長岡市で行いました。今回の上越市でのシンポジウムで、新潟県の主な都市での講演を終えたことになります。
 これも全て畏友・村上君の尽力のおかげです。村上君をはじめ、このような機会を与えてくださった全ての関係者に、この場を借りて厚くお礼申し上げます。

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11月25日(金) ふる里の上越市頸城区に帰ってきた [旅]

 今、上越市頸城区の実家でこれを書いています。ふる里で明日開かれる脱原発シンポジウムで講演するために、時季はずれの帰省になりました。

 抜けるような青空の下、八王子から特急「あずさ」に乗り込みます。そこから中央線で松本まで、その後、篠ノ井線で長野、信越線で直江津というお気に入りのコースをたどってきました。
 途中、姨捨からの眺めは絶景で、ホームに展望スペースがあるのも頷けます。車両の行き違いのため、しばらくの間停車しましたが、各駅停車ではスイッチバックになっていることに初めて気がつきました。
 スイッチバックと言えば、信越線の二本木の駅もそうです。このようなことに気づかされるのも、各駅停車の旅の良さでしょうか。

 紅葉を楽しみにしていたのですが、山全体が茶色がかって発色が良くありません。今年は紅葉の不作の年のようです。
 それでも、時たまハッとするように鮮やかな黄色の銀杏や真っ赤なモミジが窓をかすめていきます。遠くの山には、頂き近くに白いものがありました。
 車窓から眺める景色には、晩秋の風情が感じられます。収穫が終わり、厳しい冬がやってくる前のちょっとノンビリしたような空気が漂っていました。

 おおむね天気は良く、黒姫の辺りまでは太陽が出ていました。しかし、その後は雲に隠れるようになり、妙高山は見えません。
 しばらくすると雨が降り出してきました。おなじみの新潟の冬がお出迎えというわけです。
 北陸新幹線の工事が進む脇野田からは横殴りの雨になりました。「これは困った」と思いましたが、春日山近くで小降りになり、直江津に着いたときには降っていませんでした。

 ところで、「就活」についての記事「『就活ぶっこわせデモ』で激昂する学生を実況中継!出口が見えぬ就職氷河期の“真の責任”は誰にあるか」が『ダイヤモンド』誌のウェッブ版に掲載されました。私も22日(火)にインタビューを受け、http://diamond.jp/articles/-/15022?page=3以降に若干の発言が引用されています。
 就職のあり方やデモの有効性について話しています。ご笑覧いただければ幸いです。
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10月25日(火) 博多・水俣・鹿児島・奄美大島をめぐってきた [旅]

 10月20日(木)と21日(金)に、熊本学園大学水俣学現地研究センターで労働資料協の総会が開かれました。この機会に、東海道と山陽新幹線で博多に行き、そこから九州新幹線で水俣、さらに車で鹿児島、飛行機で奄美大島とめぐり、昨日の夕方に自宅に戻ってきました。
 この間、メールのチェックはしましたが、ブログに書き込む余裕がありませんでした。しばらくお休みさせていただくことになり、申し訳ありません。

 博多へ行く途中、京都駅で途中下車。松茸ご飯などの昼食を摂って博多へ。
 博多では、イカの活き作りや鯖の刺身などの夕食後、カミさんとともに中洲の屋台でおでんに焼き鳥で一杯。もちろん、豚骨ラーメンも味わいました。
 翌朝、開通したばかりの九州新幹線で新水俣へ。広くゆったりとした車内は、落ち着いた色調でシックな雰囲気でした。

 水俣では、総会が始まる前に時間があったので、徳富蘇峰と蘆花兄弟の生家や記念館を訪問。兄弟の背後には、横井小楠門下の漢学者・教育者である父親・徳富一敬(淇水)の教育と影響があったことを知りました。
 総会前の役員会では、大阪産業労働資料館「エル・ライブラリー」の谷合さんにお会いし、先日のブログに書いた『日経新聞』の記事が話題に。谷合さんは大阪マラソンで着て走るというピンクのTシャツ姿でした。
 「何とか、完走を目指して頑張りたい」という谷合さん。皆さんも応援してください。

 総会後は、熊本学園大学水俣学研究センターが整理している新日本窒素労組資料の見学・説明を受けた後、熊本学園大のマイクロバスに乗って、百間排水口、水俣市立水俣病資料館、窒素の専用港である梅戸港、八幡残渣プールなどを見学しました。水俣湾は、遠くに天草半島や恋路島などが見え、大きな湖のようです。
 この美しい海の底に水銀のヘドロが貯まり、多くの人が水俣病に苦しんだなんて、信じられません。皆さんの話を聞いていて、今回の福島原発の事故と似ているように思いました。
 水俣病の原因について、チッソを守るためにでたらめを言っていた学者が奉られ、真実を語った研究者が乾されていたこと、水俣病の被害が広く長期にわたったこと、行政や会社側が責任逃れのために事態を過小評価し、そのために対策が後手に回ってしまったことなど、今回の原発事故とそっくりではありませんか。その教訓が生かされず、今また同じような「人災」が繰り返されようとしていることに、大きな怒りを感じました。

 宿泊は水俣の市街から車で30分ほど山に入った湯の鶴温泉です。ひなびた温泉宿の喜久屋旅館は川沿いにあり、石組みの露天風呂のお湯はツルツルしていました。
 翌日も、マイクロバスに乗っての水俣ツアーです。水俣病原因企業であるチッソの後身・JNN水俣工場を見学した後、坪段、茂道という水俣病患者の多発地域を訪問しました。
 水俣工場では、説明していただいた際、「会社は水俣病をどう総括しているのですか」と、単刀直入に聞きました。患者確認後の対応の遅れなどの問題があったことは認めていましたが、まだ患者が残り裁判も続いている現状では、総括するのは早すぎるということなのかもしれません。

 新水俣駅で皆さんと別れ、迎えに来てくれた大学院時代の先輩の車に乗って、鹿児島に向かいました。雨が降り出した中でのドライブです。
 途中、出水の武家屋敷などを見物し、「雨に煙る武家屋敷も良いものですね」などと呑気なことを言っていましたが、鹿児島に近づくにつれて雷が鳴り始め、土砂降りになってしまいました。この頃、市内は大雨で大渋滞だったそうです。
 何とか、この日の宿「マリンパレス」にたどり着きましたが、錦江湾越しに見えるという桜島は見えません。翌朝、幸いにも雨は上がって晴れましたが、桜島の上の方には雲がかかっていました。

 朝、薄日が射す中、ホテルを出発。本坊酒造の「薩摩郷中倉(ごじゅうぐら)」という焼酎工場の見学と試飲でほろ酔いになりながら、飛行機で一路、奄美大島に向かいます。
 奄美大島では、名瀬の「奄美サンプラザホテル」と空港に近い「ティダムーン」に宿泊。車で西郷隆盛が愛加那と共に隠れ住んだという住居跡、奄美海洋展示館、日本のゴーギャンと呼ばれる日本画家・田中一村の記念美術館、あやまる岬などのポイントを観光しながら、ほぼ一日半で島を一周しました。
 市街地はまばらで信号もほとんどなく、シーズンオフで車も少なく、運転していたカミさんは喜んでいました。2泊3日の滞在でしたが、好天に恵まれ、夏のように輝く太陽、青い空にコバルトブルーの海、ソテツやシュロなど南国らしい植生に覆われた深い森、マングローブが生える南部の川、道路脇の赤やピンクのハイビスカスの花――どれをとっても素晴らしいものでした。

 奄美空港に到着後、すぐに「鶏飯ひさ倉」に向かい、昼食に名物の鶏飯を食べました。一緒に食べた焼き鳥や豚骨の塩焼きなども、なかなかの美味です。
 夜には、名瀬の屋仁川(やんご)通りで素晴らしいお店を見つけました。古仁屋漁港の漁師直営の「脇田丸」という居酒屋で、一品390円という安さです。
 通りの角にあって、右側が魚屋さんで左側がお店になっています。レンタカーのお店で手に入れたガイドブックに載っており、途中で「グループ全員に生ビール一杯サービス」と書かれているのに気づき、「これ、今からでも大丈夫ですか」と聞いてサービスしてもらいました。魚料理の種類も多く、安くて大満足のお店です。

 2日目の宿である「ティダムーン」に着いたら、何か準備をしています。地元の人が歌ったり踊ったりするのだそうです。
 翌日、奄美パークの「奄美の郷」の展示を見たら、秋には伝統行事の「十五夜豊年祭」があると書かれていました。島が「六調(という踊り)に酔いしれる」とあります。
 夕食後、途中から踊りの輪を見物していた私たちも黒糖焼酎をご馳走してもらい、若者に話しかけられました。この若者は「八王子から島に帰ってきた」のだそうで、「私たちも八王子から来たんです」と言ったら、大いに喜ばれました。

 この方は、地元集落の壮年団の団長さんをしているのだそうです。「奄美のことを大いに宣伝してください」と言われましたので、ぜひ、皆さんもお出かけ下さい。
 祭りの輪には子ども達も混じっています。こうやって文化や伝統が引き継がれていくんですね。
 奄美大島の人々の人情に触れた思いがしたものです。美しい自然と素朴な人情に触れることができ、忘れられない思い出が残りました。

 というわけで、長い旅を終え、今日から研究所に出勤して貯まった仕事に追われているというわけです。旅先では、水俣病関連の場所を案内していただいた熊本学園大学水俣学現地研究センターのスタッフや新日本窒素労働組合OBの山下さんなど、多くの方にお世話になりました。
 この場を借りて、厚くお礼申し上げます。ありがとうございました。
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10月11日(火) 風光明媚な「原発銀座」で「敦賀原子力館」と「美浜原子力PRセンター」を見学してきた [旅]

 昨日、「原発銀座」の一角である敦賀半島での見学から帰ってきました。敦賀湾は深い入り江となっており、風光明媚な海岸沿いの道を縫うようにして、日本原電敦賀発電所、美浜原発、高速増殖原型炉「もんじゅ」の3カ所を巡りました。

 一昨日、京都駅から特急「サンダーバード」に乗り込み、約50分で敦賀着です。途中の停車駅はなく、1時間もかかりません。これは近い。
 駅前のビジネス・ホテルに宿を取りましたが、1階に大浴場がありました。温泉ではありませんが、ゆったりと湯船に横たわることができ、体が休まりました。
 近くの寿司屋で地元の魚をいただきながら、地酒の冷酒「一本義」を飲みました。横にいた夫婦連れらしいお客さんと言葉を交わし、濁り酒を一杯ご馳走してもらいました。

 店を出ると、前の歩道に松本零士の「銀河鉄道999」に出てくる車掌の像があります。その先にはメーテル、反対側の歩道には「宇宙戦艦ヤマト」の古代進と森雪の像が。
 「ここは松本零士と何か関係があるのかな」と思いましたが、実は何も関係はないんだそうです。翌日、案内していただいたタクシーの運転手さんの話では、昔、ここからナホトカ行きの船が出ていたからだといいます。
 昔、ナチス・ドイツを脱出して、リトアニアで杉原千畝さんからビザをもらったユダヤ人はシベリア鉄道に乗り、ナホトカ経由でここ敦賀に上陸したそうです。鉄道から海に出るということで、「銀河鉄道999」をイメージしたのでしょう。

 この話をしてくれたタクシーの運転手さんは、大変、親切な人でした。駅前に停まっていたタクシーの1台ですが、それをつかまえて「敦賀半島の原発を巡りたいのですが、3時間1万5000円で貸し切りできますか?」と聞きました。
 その近くに、「観光タクシー小型車3時間1万5400円」と出ていたからです。原発を巡るだけなら、もう少し安くできるだろうと思って交渉したわけです。
 中型車だったこともあり、運転手さんは少し渋っていましたが、結局、引き受けてくれました。実際には、3時間もかかりませんでしたが。

 というわけで、この車をチャーターして、3つの原発を巡ったわけです。途中、いろいろと教えていただき、大変、参考になりましたが、とりわけ地元の人の原発に対する思いがよく分かりました。
 原発さんが来なければこの舗装道路もできなかったし、夏の海水浴客も不便していたもんだ。今更反対できないし、これまでの恩義もある。関西の人は、原発反対と息巻いているけれど、停まって困るのはあんた方じゃないのかと、みんな言っているよ。まあ、博打のようなもんだね。何かあるかもしれないけど、安全だと信じるしかない。国がやっていることだから、とやかく言っても無駄だろう。というような趣旨でした。
 漠然とした不安は感じるけれど、反対はできないし、今さら反対しても無駄なだけだという諦めでしょうか。これが、地元の人の率直な心情なのでしょう。

 3カ所の原発を見ただけでなく、日本原電敦賀発電所に付属している「敦賀原子力館」と、美浜原発の隣にある「美浜原子力PRセンター」にも立ち寄り、中を見学しました。原型炉だった「ふげん」が廃炉になったためでしょうか、前者の方は展示がおざなりで、ビデオも見られないものばかりでした。
 これに比べて、美浜のPRセンターの方の展示は充実しています。ペレット、被覆菅、原子炉容器、原子炉格納容器、遮蔽壁という5つの「多重防護」の実物大の模型や大がかりな展示があり、ビデオも豊富でした。
 施設の一角には、土産物スペースや軽食が食べられるレストランまであります。メニューの中で一番高いのが450円のカレーですから、ここにも原発マネーの一部が注ぎ込まれているのかもしれません。

 そもそも、このようなPR館そのものが、原発マネーのおこぼれによる施設です。その建設費や維持費は関西電力のコストに計上され、電気代として利用者から徴収されているわけです。
 大体、電力会社は地域独占ですから、「競争相手」と言えるものはガス会社くらいしかありません。それなのに、バスがほとんど来ないような不便な場所で、一体、何を「PR」しているのでしょうか。
 それを確かめたいというのが訪問の目的だったと言いたいところですが、その目的は分かっています。原発の安全性を「PR」するためです。このような形で大金をかけて売り込まなければ安心してもらえないような危険で不安に満ちた施設だということを、電力会社は良く分かっているからでしょう。

 受付のお嬢さんに、「最近の入場者はどうですか?」と聞きましたら、「原発事故などで関心が高まったせいか、増えています」という答えでした。関心の中には、不安の高まりという要素もあるにちがいありません。
 そのような不安に答える意味もあるのでしょうが、「地下深くへ処分する高レベル放射性廃棄物」というパネルが展示されていました。発電で使用済みとなった核燃料廃棄物(死の灰)は、硝子固化体で固められ、その周りを金属容器(オーバーバック)で覆い、さらに粘土で包むから心配ないという内容です。
 しかし、どこにそれを埋めるのか、場所が書かれていません。まだ、使用済み核燃料の最終処分場が決まっていないからです。

 美浜のPR館2階の展示場の周囲は回廊になっていて、地域の人の「一言展」という展示がありました。色紙に一言、書かれています。
 その最初に掲示されていた色紙の言葉は「ちょっと不便がちょうどいい」というもので、最後の色紙には「あかんもんはあかん」と書かれていました。私には、原発をめぐる現状を暗示するような一言に思えたものです。


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10月10日(月) 京都の学会を終えて福井の「原発銀座」にやってきた [旅]

 「京大らしくないなー」 一緒に歩いていた大阪の先生が、そう仰っていました。綺麗すぎて、イメージに合わないというのです。
 それでも、正門前の一角には「全学連」の看板があり、中核派らしき学生?がたむろしていました。

 京都大学での社会政策学会の合間を縫って、学内を散策しました。京都大学に来るのは、多分これが2度目になると思いますが、前回のことは良く覚えていません。
 キャンパスの一角に京大総合博物館がありました。京大探検隊や文化人類学で大きな足跡を残した今西錦司教授の研究などが紹介されていました。
 ところが、まもなくエジプト展が始まるということで、その準備のために入れない場所が多くありました。時期が悪かったということでしょうか。ノーベル賞学者を輩出している京大にしては展示が貧弱だという印象で、ちょっと残念でした。

 京大には、大原社研の創立者である大原孫三郎も訪れたことがあります。大原は所長に河上肇を考えていたようで、「社会問題」研究所と名付けたのは河上が出していた『社会問題研究』からとったのではないかという見方もあります。
 しかし、結局、河上からは所長就任を断られ、紆余曲折の末、初代所長は高野岩三郎に落ち着きます。もし、このとき、河上所長が実現していれば、大原社会問題研究所が戦後まで存続することができたどうかは疑問です。
 戦時中、「社会問題研究所」という看板を掲げて生き延びることができたのは何故かということは、一つの謎だとも言えるでしょう。大原孫三郎の期待を裏切る形で、現実から一定の距離を取り、政策研究ではなく理論研究に転じたことが結果的に幸いしたのではないかというのが私の解釈ですが……。

 学会では、私が座長をした分科会で、以前からお世話になっている京都総評の馬場隆雄副議長と佐々木眞成副議長に報告していただきました。この場を借りて、お礼申し上げます。
 また、共通論題で報告された川人博弁護士も、都立大学時代からの知人です。以前、駒澤大学の学会でもお目にかかりましたが、久しぶりに顔を合わせて話す機会がありました。

 その学会を終えて、今は敦賀に来ています。「原発銀座」と呼ばれているように、原子力発電所が林立している場所です。
 今日は、その状況をこの目で見てみたいと思っています。とはいっても、交通不便な所ばかりですので、どれだけ見学できるかは分かりませんが……。

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