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8月8日(水) 臨時国会の暑い夏 [国会]

8月1日の梅雨明け以降、毎日、暑い日が続いています。こう暑いとやる気がなえ、仕事をする元気もなくなってしまいます。
 ということで、昨日はブログをサボりました。参院選の期間中、かなり気を入れて長いものを書いた反動かもしれません。

 テレビのニュースを見ていたら、色々と見知った顔に出会うようになりました。「太田光の私が総理大臣になったら……秘書田中」という番組に出るようになったからです。
 この番組で同席し「共演」して、顔見知りになった方々がおられます。今回、参院で議長になられた江田五月議員も、そのお一人です。
 また、出納責任者が公職選挙法違反の疑いで逮捕され、連座制で失職寸前になっている小林温議員とも、前回の番組でご一緒しました。言葉を交わすチャンスはありませんでしたが……。

 いずれにしましても、参院選の結果がこうなって満足しています。自民党の惨敗は予想通りでしたが、公明党までこれほど議席を減らすとは予想していませんでした。ただし、神奈川選挙区で小林議員が失職すれば、次点で落選した松あきら候補が繰り上げ当選となって公明党の議席が1議席増えることになりますけど……。
 最近の政治情勢については、私なりの危機感がありました。しかし、このような自民・公明両党の敗北の結果、さし当たり、その危機は回避されたようです。
 今回の参院選は、日本国憲法の危機を救った選挙として、後世の人々に記憶されることになるでしょう。そのためにこのブログが一定の役割を果たせたとすれば、私も満足です。

 憲法の代わりに危機状況に陥ったのは、自民党でした。「安倍辞めろ」の大合唱が起きています。
 こうなったら、安倍さんにはとことん居座ってもらったほうが良いかもしれません。安倍さんが1日長く居座れば、それだけ国民の支持は低下し、自民党内の混乱と危機は深まっていくのですから……。
 通常、選挙でこれだけ負けますと、「お灸をすえすぎたかな?」という反省が生まれるものですが、安倍さんが居座ったために「これでもまだ足りないのか」という怒りが生まれています。有権者は、「それなら、この次はもっと強烈なお灸をすえなきゃ」という気分になるでしょう。次の選挙が楽しみです。

 心配なのは、民主党です。「有頂天になって、けつまずかなきゃ良いのだけれど」という気がします。与党になる前に与党的な気分に浸り、自民党と妥協してしまうというのが、これまでの民主党の欠点でした。
 もちろん、何でも反対すればよいというわけではありません。国会を混乱させて国民の顰蹙を買うというようなことは避けるべきでしょう。
 しかし、反対すべきことには最後まで反対を貫くというメリハリを付けた対応が望まれます。シーファー駐日米大使と会ってテロ対策特別措置法の期限延長を拒否した小沢さんはこの点を十分に理解しているように見えますが、イラク戦争やテロ特措法への反対を貫くことができるかどうか、今後の対応が注目されます。

 今度の選挙の結果、共産党と社民党は、ある意味でキャスチングボードを握ることになりました。民主党が与党との安易な妥協に走らないよう、監視し牽制する役割を果たしてもらいたいものです。
 さし当たりは、野党共闘の枠組みを維持することが大切でしょう。自民党や安倍首相に近いマスコミは、野党内での足並みの乱れを作り出そうと狙っているからです。
 『産経新聞』『読売新聞』『日経新聞』などは、野党内での不協和音や民主党内での異論の存在をことさら大きく報道するにちがいありません。そのような報道に惑わされないようにして欲しいものです。

 昨日から臨時国会が開かれています。様変わりした国会でも、安倍首相は茨の道を歩むことになるでしょう。
 前述のような小林議員の選挙違反事件、長勢法相の外国人研修生受け入れ団体の献金問題という内憂だけではありません。今日、韓国と北朝鮮の南北首脳会談が開催されることが発表され、さらに日本の国際的な孤立化が深まる可能性が強まっています。
 いつまで安倍首相は、このような茨の道に耐えられるのでしょうか。


原爆は「落ちた」のではない。「落とされた」のだ [社会]

 今日、8月6日は人類史上初の原爆投下から62年目の「広島原爆の日」です。平和記念公園では「原爆死没者慰霊式・平和祈念式」(平和記念式典)が行われました。

 1945年8月6日午前8時15分、米軍爆撃機エノラ・ゲイが人類史上初めて原子爆弾「リトルボーイ」を広島市に投下しました。上空約600メートルで爆発し、熱線や爆風、大量の放射線のため市中心部は壊滅し、45年末までに約14万人が死亡しています。
 この原爆は、「落ちた」のではありません。それは、「落とされた」のです。それは自然現象ではなく、人間の行為によって生じた人為的な現象です。原爆は「落とす」人がいたから、「落ちた」のです。
 原爆投下のスイッチを入れた人がおり、そうすることを命じた指揮官がおり、それを了承した政治家がおり、それを開発した科学者や技術者がいました。人間の集合的行為の結果として原爆が投下され、一瞬にして多くの人が命を落とし、今もなお後遺症で苦しむ人々を生み出しました。そのプロセスにおいて、「これは人間のやることではない」と思った人は、誰もいなかったのでしょうか。

 安倍首相は昨日の夕、広島市を訪れて市内のホテルで原爆の被爆者団体代表らと面会しました。この席で首相は、原爆症の認定基準について、緩和を前提に見直しを検討する考えを表明しました。
 参院選で負けなければ、安倍首相はこのようなことをしなかったでしょう。もともと、「被爆者代表から要望を聞く会」への出席要請を断っており、欠席の意向を伝えていました。
 この予定を変更させた力は、参院選での自民党の敗北です。人気の回復を図るために、急遽、被爆者の声を聞き、その要望に応える姿勢を示そうとしたのです。

 それでも、やはり安倍さんです。付け焼き刃の人気取りの悲しさでしょうか。
 被爆者団体の代表をホテルに呼びつけるという形で、面会することになりました。被爆者の心に寄り添い、自ら足を運ぶという「気配り」すらできなかったというわけです。
 「首相側が、被爆者や市側の反発を受けあらためて日程を調整。ようやく、宿泊先ホテルでの前日の面会となったが、正式な会に出席せず、被爆者側を呼びつける形となったことに『正常ではない』と不満をあらわにする被爆者代表もいた」(『東京新聞』8月6日付)そうです。

 しかし、たとえそれが「人気取り」であったにしても、このような形で被爆者の声を聞いたことは、それなりに評価できるでしょう。被爆者対策を少しでも前進させ、可能な限り救済するべきです。
 次の段階では、言葉だけでなく具体的な行動が望まれます。国が原爆症の認定申請を却下した処分の取り消しなどを求める集団訴訟では連戦連敗ですから、先ず、この控訴を取り下げることが必要でしょう。
 安倍首相の発言を受けて、柳沢厚生労働相も専門家による検討会を設置して1年以内で見直し作業を進める方針を明らかにしました。見直しにあたっては被爆者の声を反映させていく考えを示したそうですが、できるだけ被爆者の要望に添う形で、早急に対応することが望まれます。

 今回の安倍首相の行動は、選挙の結果が政治を動かすことの一例だと言えるでしょう。これからも、このような例が多く見られるにちがいありません。
 政治は選挙の結果によって動き、選挙結果は民意によって産み出されたものです。つまり、民意によって政治は動かされるのです。
 民意が望めば、核廃絶を外交政策の主要な課題とする「非核の政府」も作れるかもしれません。原爆が人間の過ちによって「落とされた」ものである限り、二度と再び「落とさせない」こともまた、人間の行動によって可能になるはずです。


8月5日(日) 団塊よ、今一度闘いに立ち上がろう [社会]

 昨日の午後、法政大学文学部同窓生有志の「9条の会」に呼ばれ、都心で話をしてきました。与えられたテーマは「団塊よ、今一度闘いに立ち上がろう!―70年代大学民主化闘争から学ぶこと」というもので、30人ほどの方が出席されました。

 その会場で、久しぶりに懐かしい顔に出会いました。高校時代からの友人であるT君です。
 ふる里の高校を卒業してから、一緒に東京に出てきた仲間です。法政大学の経済学部出身ですが、サークルが一緒だったということで、文学部の友人に誘われて顔を出したのだそうです。
 十数年前、高校時代の友人が小淵沢に集まったときに顔を合わせて以来の再会です。事情があって、なかなか故郷に帰れないとぼやいていました。

 それにしても、羨ましいような気がします。大学時代のOBやOGが、このようなテーマでこれだけ集まるのですから……。
 私が卒業した都立大学にも、自治会活動などを通じて知り合った仲間がたくさんいます。でも、このような形で集まることはほとんどありません。
 大学を卒業してから、すでに30年以上経ち、職場をリタイアする人も出てこようとしています。その時に、「今一度闘いに立ち上がろう!」と呼びかけ、それに応えて集まってくる仲間がいる。素晴らしいことではありませんか。

 皆さんのお話を伺っていて、学生時代の「魂」は今も生き続けているという感を深くしました。年は取っても、気は若い。生きることに意欲的であり、政治や社会のあり方について深い関心を持ち続け、何らかの形で運動に関わっておられます。
 法政大学における「70年代大学民主化闘争」とは、端的に言って、暴力学生の学園支配に反対し、まともに勉強できるような大学をつくる運動でした。そして、今日、このような運動の教訓を学びながら、「9条の会」を作って平和憲法を守ろうとしています。
 この両者に共通するのは、反暴力です。かつて、暴力支配に反対して大学の自由と民主主義を守ろうとした人々は、今、最大の暴力である戦争に反対して日本の平和と民主主義を守ろうとしているわけです。

 以前、私は「法政大学学生運動の歴史」編集委員会に招かれて、この日と似たような話をしたことがあります。その内容は、『団塊よ、死ぬ前に闘え―60、70年代、青春をともにした友へのメッセージ』というパンフレットになりました。
 この「死ぬ前に闘え」という言葉は、この日も話題になりました。これはいささか挑発的かもしれませんが、「このような日本を残して、あの世に行っても良いんですか」というのが、私の問いかけです。
 闘わなければ、普通に生きるのさえ難しくなっているという意味でもあります。普通の人が普通に生きて、普通の幸せを手にれるためにも、闘わなければならなくなっているのではないでしょうか。

 しかし、先の参院選の結果、これまでとは違った明日があるというかすかな希望が出てきたように思います。ということで、懇親会が終わる頃、私は皆さんにこう呼びかけました。
 「死ぬ前に闘え」ではなく、「長生きをして、戦い続けましょう。皆さん、是非、長生きをしてください」と……。


8月4日(土) 消えたものには「福」がある [社会]

 昨日、4チャンネルで「太田光の私が総理大臣になったら……秘書田中」が放映されました。残念ながら、私の発言はほんの一部しか放映されませんでした。でも、本当はこの3倍くらい発言していたんですよ。

 そこで私が強調したのは、自民党の敗北は宇野内閣のときの36議席に匹敵する37議席であり、国民の批判や不満がいかに大きいかがここに示されているということ、その原因は、あれかこれかという部分的なものではなく、安倍首相の政策理念、政治手法、政治姿勢の全てが拒否された結果であるということ、「政権選択」の選挙ではなかったかもしれないが「首相選択」の選挙であったことは確かであり、「政権」が変わらないからこそ、「首相」を変えて欲しいと自民党支持者の4分の1ほどが他党に投票したということです。この発言の最初の部分だけが放映され、後半部分がカットされてしまいました。まあ、編集権は向こうにありますからやむを得ませんが……。
 お気の毒なのは、私の隣にいた政治評論家の有馬晴海さんです。ちゃんと発言したのにカットされ、ほとんど放映されませんでした。

 ところで、安倍首相の続投に至る経過が明らかになってきました。今日の『毎日新聞』一面に「消えた『福田暫定内閣』構想 3氏会談の内幕」という暴露記事が掲載されています。
 これによれば、参院選投票日の29日夕、国会に近いグランドプリンスホテル赤坂の一室に、森喜朗元首相、青木幹雄参院議員会長、中川秀直幹事長の3人が顔をそろえ、安倍首相の退陣を想定して、福田康夫元官房長官を後継首相に擁立する構想を具体的に話し合っていたそうです。
 席上、中川さんは「私の不徳の致すところです。申しわけございません」と頭を下げ、青木さんは「森さん、私もこれで楽になります。高みの見物でもして過ごしましょう」と乾いた声で笑ったといいます。「責任をとって幹事長を辞めます」と中川さんは言い、青木さんも「私も同じだよ」と同調したそうです。

 当然、安倍さんの進退も話題になりました。その前日の夜、安倍さんは森さんの携帯電話に「今後も続けるつもりです」と伝えていたからです。
 記事は、この後、次のように続いています。

 3人は自民党の獲得議席を「40台中盤」「40台前半」「30台」と三つのケースに分け、「30台なら退陣は避けられない」との結論で一致した。青木は「安倍君はまだ若い。今、辞めれば次のチャンスが生まれるかもしれない」と言った。
 「じゃあ、それなら誰がいいのかなあ」。3人が異口同音に口にしたのは、「福田首相」による次期衆院選までの選挙管理内閣構想だった。「彼なら落ち着いているし、安定感がある」。ただし、福田は71歳。福田を評価する森らも、あくまで「暫定的な緊急避難措置」と考えていた。
 「アルツハイマー」発言でミソをつけたものの、外相・麻生太郎だけは、党内に「ポスト安倍」の人材が枯渇するなか、温存しておかなければならない--。それが3人の共通意見だった。

 協議を踏まえ、森は「じゃあ、今晩中におれが福田さんに会おうか」と言った。ただ、その前に首相が当日夜のテレビ出演で、進退についてどう語るか確認しておくことも必要だった。
 森と青木は、中川に首相公邸に出向いて、安倍の意思を聞いてくるように求めたが、中川は「いや、記者もいっぱいいますし」と尻込みした。森は「幹事長が総理に会うのは、誰も不思議に思わないよ」と中川の背中を強く押した。その場から首相公邸にアポイントメントの電話を入れた中川は、電話を切った後「総理は麻生さんと会っているようです」と、森と青木に告げた。
 午後6時前、麻生と入れ替わるように首相公邸に入った中川に、安倍は「結果がいかなるケースであろうと、解散のない参院選で、政権選択が行われることはあるべきではない」と続投への強い意思を伝えた。「ポスト安倍」は安倍という強烈な意思表示だった。

 「続けるのも地獄、引くのも地獄、いばらの道ですね」と中川。会談後、中川は森に「我々が考えていたのとは全然違う雰囲気です。総理は続けるつもりです」と伝えた。安倍も森に電話し「辞めません。続けるつもりです」と通告。森も「わかった」とのむしかなかった。安倍は周囲に「こんな状況で続けるのはきつい。でもどんな結果になってもやる」と漏らした。この瞬間、「福田選挙管理内閣」構想は幻に終わった。

 消えた次期政権構想には、福田さんがいたというわけです。それを蹴飛ばしたのは、安倍首相でした。
 安倍さんは、選挙結果が分かる以前、投票日の前日の時点で、すでに森さんに「今後も続けるつもりです」と伝えていました。安倍首相は、もともと選挙結果など問題にしていなかったということになります。
 最初から、民意に従う気はなかったのです。選挙カーの上や討論会で、「私と小沢さんとどちらが首相に相応しいか、国民の考えを聞いてみたい」などと発言していましたが、腹の中では、「国民の考え」に従う気など、はなからなかったというわけです。

 なんという傲岸不遜。国民を馬鹿にするのも、いい加減にして欲しいものです。
 選挙の舞台裏がはっきりするにつれて、安倍首相の続投がいかに正当性のないものかが明瞭になってきました。それでもなお、安倍さんは首相の椅子にしがみつこうというのでしょうか。


“赤城おろし”の冷たい風に耐えられなかったのか? [内閣]

 “赤城おろし”の冷たい風に耐えられなかったからでしょうか。とうとう、赤城農水相が辞任しました。
 これで、安倍内閣での閣僚の交代は4人目になります。参院選敗北の全責任を取らされた形での辞任でした。

 赤城辞任は、「辞任」ではありますが、自らの意思で辞めたものではありません。安倍首相に強いられ、詰め腹を切らされたのです。
 辞任する直前、赤城さんは赤坂の議員宿舎を出るとき、記者団に対し「任期の間は全力でやっていきたい」「進退は首相の判断次第」として、自ら辞任することについては否定していました。ところが、安倍さんに官邸に呼び出されて、「あなたはまだ若いんだから、事務所を立て直し、一から出直してほしい」と辞任を求められました。
 赤城さんは「わかりました」と応じ、その場で便せんに辞表をしたためたそうです。辞表を持参していなかったというところに、自分から辞めるつもりはなかったということがはっきりと示されています。

 それでは、どうして安倍首相はこの時点で赤城さんの首を切ったのでしょうか。あれほど赤城さんをかばっていたのに……。
 「どうせ辞めさせるのなら、何故もっと早く辞めさせなかったのか」という声があります。この時点での「更迭」は、最悪のタイミングだという声もあります。
 それなのに、どうしてこの時点なのでしょうか。

 一つの理由は、新たな問題が持ち上がったことです。さすがの安倍さんも、「もうこれまで」と思ったのでしょう。
 いや、「これがチャンス」と考えたのかもしれません。新たな問題を口実に、赤城さんんを閣外に追い出すことができるからです。
 新たな問題というのは、赤城さんが代表の「自民党茨城県第1選挙区支部」が、後援会あての請求書を収支報告書に添付し、経費を計上していたことが分かったことです。また、政党支部の04年分の政治資金収支報告書で記載されていた「印刷物発送費」約12万円分の支出先の郵便局名と、添付されていた領収書の発行元の郵便局名が異なっていることも明らかになりました。

 安倍さんは、選挙が終わった時点から、“赤城切り”を考えていたに違いありません。首を切るチャンスを待ちかまえていたのです。たまたま、新たな問題が判明し、「待っていました」とばかりに、「辞任」を強要したのでしょう。
 それは、何としても臨時国会が始まる前に、赤城さんを内閣から追い出したいと思っていたからです。これが、もう一つの理由です。
 臨時国会が始まれば、今回の選挙で苦戦しつつも当選した自民党の新しい参院議員やその応援で全国を走り回った衆院議員が国会にやってきます。正面の閣僚席に座った赤城さんを見て、これらの人はどう思うでしょうか。

 赤城さんの姿を見て、自民党の議員たちは改めて怒りを燃やすかもしれません。自民党と共に批判を浴びた公明党の議員も、選挙戦の苦労を思い出すことでしょう。
 そうなると、参院選の敗北に対する責任論が再燃する可能性があります。当然、最高指揮官であった安倍首相への批判も強まるでしょう。
 一度は葬った辞任論が、再び首をもたげるおそれがあります。それを避けるための“赤城切り”だったのです。それが「この時点」になったのは、選挙敗北に対する責任論の再燃を避けたいという安倍首相の個人的な思惑からでした。

 目的は自らの地位を守ることにあります。自らの政治プログラムや政策構想、政治理念が拒絶されたと思っていない安倍首相は、居座ることが“善”だと考えているのです。世論無視の「確信犯」だという点では、国民多数の反対を押し切って安保条約の改定を強行した岸首相と同じです。
 このとき、岸首相は「声ある声」を無視し、「声なき声」に従うことが“善”だと考えました。今、安倍首相も、本当は自分を支持しているはずの「声なき声」に従っているつもりなのでしょう。
 しかし、「声ある声」は現実ですが「声なき声」は幻想にすぎません。幻の「声」を信じた岸首相は、世論の批判に逆らえず辞任します。同様に、幻の「声」を信じている安倍首相もまた、やがては辞任せざるを得なくなるでしょう。それが、民主政治というものです。

 安倍首相は、一刻も早くその地位を去るべきです。首相の地位を失ったからといって、がっかりすることはありません。
 安倍さん。「あなたはまだ若いんだから」、「一から出直」せば、「再チャレンジ」の道も残されているでしょう。民意に従うことこそ、「美しい国」におけるトップリーダーの出処進退ではありませんか。


7月31日(火) 「太田総理……」の収録に行ってきました [参院選]

 久しぶりに麹町の町を歩きました。日本テレビの番組「太田光の私が総理大臣になったら……秘書田中」の収録があったからです。

 市ヶ谷の駅から、麹町の日本テレビまで歩きました。この辺は、法政大学の大学院に通っていた私にすれば、昔の「シマ」です。
 そのころに入った飲み屋などがあり、懐かしく感じました。とはいえ、そのうちの何軒かは今でも時々顔を出していますが……。
 選挙の後ということで、収録が月曜日から火曜日へと1日遅れ、時間も7時半からと遅くなりました。帰宅したら、11時を過ぎていました。

 今回のマニフェストは「選挙で過半数を得られなかった内閣は総辞職を義務化します」というものです。要するに、選挙で負けた安倍さんは首相を辞めるべきかどうかということです。
 もちろん、私は辞めるべきだという意見ですから、このマニフェストに賛成です。出席した政治家も、民主党、国民新党、共産党、社民党は賛成、自民党と公明党は反対と、きれいに分かれました。
 選挙結果を反映して、賛成側に勢いがあります。収録の終わりの方では、相手方がちょっと気の毒になってしまいました。

 控え室は、ケビン・クローンさんや有馬晴海さんと一緒です。だんだんと顔なじみになり、いろいろと面白いお話をうかがうことができました。
 評論家の宮崎哲弥さんにもお会いしました。名詞を差し上げたら、このブログを読んでいると仰います。
 旧知の有田芳生さんとも、久しぶりにお会いすることができました。選挙は残念な結果に終わりましたが、面白い経験をしたと仰っていました。詳しくはブログで公開されるそうです。

 今回収録された番組は、8月3日(金)午後8時から日本テレビ(4チャンネル)系列で放映される予定です。よろしかったら、ご覧になって下さい。
 それにしても、このマニフェストが送られてきたのは、選挙結果が出る前でした。自民党の大敗はある程度予想できましたが、安倍さんの去就が不明だったときです。
 選挙惨敗の責任を取って、安倍さんがスンナリ辞めていたらどうするつもりだったのでしょうか。「負けたって、どうせ、辞めるはずはないさ」と見切っていたとすれば、たいしたものですけれど……。

 なお、明日から2日間、東京を留守にします。したがって、このブログもお休みにしますので、悪しからず……。