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12月17日(木) 天皇の「公的行為」の曖昧さ自体が問題 [天皇]

 中国の習近平国家副主席と天皇との会見が問題になっています。「1ヶ月ルール」を破ってムリに会見を実現したのは、天皇の政治利用ではないのか、というわけです。

 自民党の谷垣総裁や安倍元首相がかみつき、これに民主党の小沢幹事長が恫喝的な反論を行いました。皆さんもご存じのように、マスコミでも様々な論評がなされています。
 そこに、「元首相、自民党の方から要請が首相官邸に届いた」という前原国交相の証言が飛び出し、問題は新しい展開を見せました。というのは、この「元首相」というのは中曽根康弘元首相のことだという憶測が流れているからで、もし、そうだとすれば、自民党は振り上げた拳の落としどころに迷うことになるでしょう。

 問題はどこにあるのでしょうか。まず、確認する必要があるのは、外国要人との会見は天皇の国事行為には含まれていないということです。
 天皇の国事行為は憲法第6条と第7条で定められていて、「外国の大使及び公使を接受すること」などはありますが、要人との会見は含まれていません。この点で、民主党の小沢幹事長の発言は過っています。
 天皇には、この国事行為と純粋な私的行為との間に、「公的行為」という範疇があります。これについて、宮内庁は「公的な性格を持つ行為。国政の権能にわたらないよう、国事行為に準じて内閣の助言と承認を受ける」と定義していて、今回の習近平国家副主席との会見は、この「公的行為」にあたります。
 実は、これら「国事行為」「私的行為」「公的行為」の関係について、私はずっと以前に私見を明らかにしています。拙著『概説・現代政治〔第三版〕』(法律文化社)23~24頁で、私は次のように書いています。

 天皇の行為には、「国事行為」と純然たる「私的行為」のほかに、憲法第1条の「象徴」規定から必然的に生ずる「公的行為」があるというのである。しかし、この「公的行為」の内容は何か、その限界はどこにあるのか、などについては明らかではない。それは、政府の解釈にまかされており、時の政府が必要とする限りで、天皇の「公的行為」の範囲は伸び縮みする。

 というわけで、今回もまた、「時の政府が必要とする限りで」天皇の「公的行為」の範囲が伸び縮みしたわけです。このようなことは許されず、「公的行為」の範囲は可能な限り限定されるべきだと、私は考えています。
 それは、天皇制と天皇の存在自体、政治的な性格を帯びざるを得ず、「公的行為」は、常に、政府による政治利用の可能性を孕んでいるからです。今回の会見も「天皇の政治利用」としての性格がありますが、政府を攻撃する材料としてそれを利用することもまた、別の意味での「天皇の政治利用」だということになるのではないでしょうか。

 なお、この問題に関連して、ブログの「コメント」欄に執拗に記事を貼り付けた方がおられます。私が書いている内容と無関係な記事を勝手に貼り付けたりすることは止めていただきたいものです。