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12月19日(土) 棚橋小虎のご遺族宅訪問とワーキング・ペーパー『棚橋小虎日記(昭和二十年)』の刊行 [日常]

 昨日、棚橋小虎のご遺族である牛山敬二北海道大学名誉教授のお宅を訪問しました。この度、研究所のワーキング・ペーパーとして、『棚橋小虎日記(昭和二十年)』を刊行したご挨拶とお礼のためです。
 というのは、2003年5月に、棚橋小虎の日記など関係資料を寄贈していただいたからです。今回刊行されたワーキング・ペーパーは、この日記の一部を翻刻したものです。

 牛山先生は農業経済学を専攻され、東京教育大学を卒業されています。その時の恩師が暉峻衆三先生だったとうかがい、大原社会問題研究所との浅からぬ縁を感じました。
 というのは、暉峻衆三先生は暉峻義等のお子さんで、その暉峻義等は大原孫三郎が創立した労働科学研究所の初代所長にあたります。そして、この労働科学研究所は大原社会問題研究所から分かれて設立されたもので、暉峻義等も労研の創立までは大原社研の所員だったのです。
 また、暉峻衆三先生の奥様は『豊かさとは何か』という岩波新書で一斉を風靡した暉峻淑子先生ですが、この方は法政大学の大学院を修了されています。つまり、法政大学大原社会問題研究所は暉峻衆三先生とも、その奥様とも浅からぬつながりがあるという関係になるわけです。

 しかも、棚橋小虎の縁戚には、毎日新聞記者の岸井成格さんとともに、米谷匡史東京外語大準教授もおられます。その米谷さんは、10月から大原社会問題研究所の客員研究員として研究所に来られています。
 3日前の水曜日、研究所の忘年会でご一緒し、二次会にまでお付き合いいただきました。この話を牛山先生にしましたら、大変驚き、また喜んでおられました。
 これは全くの偶然ですが、何となく「ご縁があったんだなー」という気がしております。泉下の棚橋の引き合わせなのかもしれません。

 なお、今回刊行されたワーキング・ペーパー『棚橋小虎日記(昭和二十年)』は一般にも販売しておりますので、購入ご希望の方は大原社会問題研究所 oharains@s-adm.hosei.ac.jpまでお申し込み下さい。これ以外の各種ワーキング・ペーパーhttp://oohara.mt.tama.hosei.ac.jp/wp/index.htmlも購入可能ですので、研究所までお問い合わせいただければ幸いです。
 この『棚橋小虎日記(昭和二十年)』に、所長としての「はしがき」を書きました。資料の内容や受贈の経緯、ワーキング・ペーパー刊行の背景などについて書いていますので、以下に紹介させていただきます。

『棚橋小虎日記(昭和二十年)』はしがき

 このワーキング・ペーパーは、棚橋小虎の膨大な日記の一年分を翻刻し、解説を付したものである。棚橋小虎は、1889(明治22)年1月14日に長野県松本町(現松本市)に生まれ、1973(昭和48)年2月20日に死去した。享年84歳である。
 棚橋は、三高、東京帝国大学を卒業し、戦前は、新人会などの学生運動、友愛会、日本労働総同盟などの労働運動にかかわり、日本労農党の結成にも参加した。戦後は日本社会党の結成に関与し、その後、民社党に移っている。1946(昭和21)年、社会党から衆議院議員に当選し、のち参議院議員となった。戦前から戦後にかけて、労働運動や政治運動に関与した大正~昭和時代の社会運動家であり、政治家である。
 大原社会問題研究所は、この棚橋小虎に関連する多くの資料をご遺族から寄贈され、所蔵している。その全容は、研究所ウェッブ・サイト「大原デジタルアーカイブス」の「棚橋小虎関係文書」http://oohara.mt.tama.hosei.ac.jp/own/tanahashi.htmlで知ることができる。この所蔵資料の中には、明治55年1月1日に始まり昭和48年2月19日までの日記69冊をはじめ、自筆原稿や印刷物、ノート類などが含まれている。なかには、各種の辞令やベルリン大学学生証などの珍しいものもあり、467通に上る書簡や46葉の写真もある。
 今回翻刻されたのは、このうちの日記であり、それも1945(昭和20)年一年という限られた期間のものである。この年が選ばれたのは、いうまでもなく敗戦の年だからであり、この激動の時代を、社会運動家としての棚橋がどのように生きたのかを明らかにするためであった。戦中から戦後にかけての庶民の記録としても、社会運動家の記録としても稀有であり、極めて興味深い歴史資料となっている。
 この日記の翻刻は、法政大学文学部の長井純一教授が担当された日本近代史演習の成果であり、この作業に加わったのは渡辺穣氏ら大学院生4人と学部生23人であったという。判読困難な自筆の日記を解読し、このような読みやすい形で翻刻するのは大変な作業であり、その労に感謝したい。また、当研究所の資料が、このような形で紹介され、研究の発展に寄与することができるようになったことを喜びたい。日記を残した泉下の棚橋小虎も、その資料を研究所に寄贈されたご遺族も、さぞかし満足されているにちがいない。